すぐ戻るからちょっと留守番を頼むねと、
保健委員長の善法寺伊作が医務室から出て行ったのはほんのわずかばかり前のことだ。
後に残された猪名寺乱太郎は、はいわかりましたといいお返事をしたそのとおりに、
乾燥させた薬草の仕分け作業の続きに当たっていた。
新野医師も今はこの場にはいない。
急に訪れた静寂と、ひとり分広くなった空間が引き換えにひやりと冷えた気がすることとに、
乱太郎はどことなく心許ない思いでため息をついた。
実のところ、医務室には乱太郎ひとり、ではなかった。
衝立でさえぎられた向こう側に、くの一教室六年生のが眠っている。
浅い呼吸がいったり、きたり、それがいやに耳につく。
五年生のくのたまへと依頼されたはずのとある任務は、
その学年に与えられるものにしてはやたらと難度が高かった。
後輩をかばって強引にその役を奪ったは任務の最中敵方に捕らえられ、
六年生忍たまたちに救い出されたそのときすでに瀕死の重傷を負っていて、
もうゆび一本も上がらないというほどに衰弱していた。
の特徴としてまず目につく、美しい長い黒髪には血がべっとりとこびり付いてかたまっており、
輝くばかりだった肌はあざだらけ、ところどころ・切り傷ややけどまで負っていた。
目を覆いたくなるような状態のを発見したのは、
六年い組の潮江文次郎と立花仙蔵だった。
敵方の屋敷の地下牢に放り込まれて放置されていたを見つけたとき、
ふたりは一瞬がすでに事切れているのではないかと疑わずにはおれなかったという。
かすかに繰り返される呼吸が、血まみれの着物の胸元を上下させているのを見て取ってやっと、
ふたりはを抱え上げるとすぐに屋敷の外に待機していた善法寺伊作の元へ運んだ。
さすがの伊作もの様子に顔色を失った。
彼の脳裏をかすめたのは恐らく、の恋人の食満留三郎の心配である。
恋人が敵方に捕らえられたと聞いて以降の彼は不気味なほど静かだった。
冷静に振る舞う彼の内心にどれほどの怒りが渦巻いていたかは想像に難くない。
それを裏付けるかのように、彼らの背後ですさまじい煙と轟音をあげて屋敷が派手に吹き飛んだ。
ややあって、屋敷内を巡り敵の殲滅をはかっていた六年ろ組の中在家長次と七松小平太、
少し遅れて留三郎も戻ってきた。
派手にやったな、と仙蔵がやや呆れ混じりに言う。
その口調の軽やかなことは、どうにかしてこの場の深刻さをかき混ぜてしまおうという、
保身に近い感情の手伝ってのことだったかもしれない。
お前の役はもっぱら直すほうばかりと思っていたが。
言われて留三郎はなんでもないことのように、
ああ、別にいいんじゃないか、もう誰もいないしな、と答えた。
その様子のあまりに落ち着いていることに、見ている彼らは戦慄した。
留三郎はほぼ全身血まみれといってよい状態だった。
それが彼自身の怪我によるものでないことは、彼の足取りの冴えからも一目瞭然である。
長次も小平太も、の様子を目にするや、息を呑み言葉を失った。
これは留三郎に見せてはいけないのではないかと、彼らが振り返ったときにはすでに遅く、
留三郎は今にも呼吸の止まりそうなを凝視していた。
彼らのあいだで一瞬、空気が凍りついた。
留三郎はしかし、眉ひとつ動かすことなく、変わらぬ足取りでさくさくとに歩み寄って来、
、と名を呼んだ。
のまつげがそれでぴくと動いたが、彼女は恋人を見つめ返すことができなかった。
彼らから言葉もなにも奪ってしまったのは、のまぶたの上に走る幾重もの傷であった。
細いひも状のもの──鞭の役割を果たしそうななにか──で打たれたあとだということは
確かめなくてもわかる。
が震える唇で、恋人を呼んだ。
「ごめん、なさい、目が、あか、なくて、見えない、の、どこに、いるの……?」
に触れてやろうと留三郎は手をのばしかけたが、思いとどまった。
彼が見下ろしたその両の手のひらは、どす黒く血に濡れていた。
しばらく彼はそのまま考え込んでいたが、やがてその身ごと屈みこんで、
の唇のそばに自身の唇で口付けるように触れ、ここ、と答えた。
口元に留三郎の言葉の紡がれる動きを感じて、すぐ耳元にその声を聞いて、
安心したのか──はふと、微笑んだ。
わ る い な 、 て が よ ご れ て る か ら 。
は微笑んだまま、ん、と答えた。
か え る ぞ 、 つ か れ た ろ 。
その言葉には反応を返すことができなかった。
もう呼吸を繰り返すのがやっとといった様子で、
それでもはぎこちなくいびつな笑みを改めて浮かべた、それが返事の代わりであった。
意識を失ってしまったを運ぶのに慎重になっているうちに時間は過ぎ、
学園に帰り着いた頃には朝を迎えていた。
今年度のくの一教室において、六年間を生き残った唯一の生徒という稀少価値を持っているは、
学園内でも目立つ存在に違いなかった。
その彼女が瀕死の状態で帰り着いたところを、自然・多くの生徒たちが目にする羽目になる。
騒然とし・混乱が広がっていく生徒たちのあいだをいつもなら鎮める役目の六年生の委員長たちも、
今度ばかりはその騒ぎの要因の一端である。
疲弊しぼろぼろになった姿を目撃されては致し方もない。
特に、ほとんど装束も血染めの状態の留三郎には、
委員会の後輩たちも一言すら声をかけられず、一歩すら近づくことができなかった。
教員たちが泡を食っての手当てにあたり、六年生たちの世話にあたった。
とても授業どころではない混乱のなか、五年生たちが下級生をまとめ始め、
忍たまたちの騒ぎは比較的すぐに収束を見たが、
を慕うくの一教室の後輩たちの戸惑いときたら尋常なことではなかった。
泣き喚く者あり、血の気を失って倒れる者あり。
その日一日、学園は日常の巡りを取り戻すことができなかった。
今乱太郎を取り巻いている静寂は、がどうにか一命を取り留めた、
それが学園中に知らされた、だからこそ得られたものなのだ。
うん、と、衝立の向こうでうめく声が聞こえた。
乱太郎ははっとして腰を浮かせた。
先輩……?」
「だれ……?」
乱太郎はあたふたと衝立の奥へ顔をのぞかせた。
のまぶたの上には厚く包帯が巻かれており、その下の傷はそう簡単に癒えるものではないのは明らかだった。
今彼女がいちばん頼りとしている感覚は聴覚と触覚である。
よく心得て、乱太郎は一語一語をはっきりと、言った。
「一年は組、保健委員の、猪名寺乱太郎です!
 先輩、……あの、いま、善法寺伊作先輩が、用事で外に出ていまして」
「あなた、ひとりなの、乱太郎くん」
「はい」
「そう。ご苦労、様、ね」
言い終わるごとには、苦しそうにほっと息をついた。
「先輩、あんまりしゃべっちゃだめです」
「だい、じょう、ぶ」
口元に弱々しい笑みを浮かべてみせる。
の仕草のひとつひとつが乱太郎には痛ましく思えて仕方がなかった。
以前、伊作と留三郎がについて言っていた言葉を思い出す。
卑怯な真似に出ようが嘘八百を並べ立てようが平気な顔をしている、後輩をかばうためだったら。
は、乱太郎をかばって無理をしているのだろう。
大丈夫だからと、安心させたいがために……唇を笑みの形にわずかにゆがめる、精一杯の無理を。
「せんぱい、……だめです」
「ええ、だい、じょう、ぶ、やすむわ、」
息をつく。
「保健委員の、言うことねえ」
板についてきたこと、などと言いたげである。
乱太郎は口をつぐむよりほかになかった。
「ね、」
に呼ばれ、乱太郎はか細い声で、はい、と答えた。
「身体の、どこでもいいわ、触れてくれない、かしら」
「え……」
「目が、見えないから、触れてもらうのが、いちばんはっきりわかる方法……なの」
乱太郎は少し迷ってから、おずおず、の肩のあたりにゆびさきを触れた。
はささやき声で、ありがとう、と呟いた。
いいえ、と乱太郎。
しばらく言葉が途切れて、乱太郎は気まずそうにもじもじとした。
なにか言うことができればと思い巡らせていると、がのどの奥でクス、と笑ったのが聞こえた。
「……今、にも死にそうな、人のそばに、ひとりでいなけ、れば、ならないのは、
 怖、いわよね……」
ごめんなさいね。
の言うのは終始、弱々しい小声ながらも冗談めいた声色ではあった。
しかし乱太郎はなんと答えることもできるわけもなく、それで会話はぷつりと途絶えてしまった。
再び重く降りてきた沈黙のなか、の浅い呼吸の音だけが聞こえてくる。
長い黒髪からは血のかたまりが拭われたが、
かつてのように美しくなびいて人の目をひきつけるわけでもない、
ただ布団の白い上にぺたりと散っているだけである。
それからずっと、が眠りに落ちたことがわかってからも、
乱太郎はそうしての肩口にゆびさきを触れたままでじっとその場に座り込んでいた。
医務室の外からは掃除をしているらしい生徒の話し声が聞こえてきたり、
鳥の鳴いているのが聞こえてきたり、
まるで時間の止まっているような医務室の中を置いてきぼりにして巡っているようである。
ぐす、と乱太郎は洟を啜った。
涙があふれてきて、乱太郎の頬を流れ落ち、井桁模様の制服の袴を濡らした。
そのまま彼はひくひくと泣き止むことができないまま、途方にくれて座り込んでいた。
ややしばらくして、廊下を早足でやってくる人の気配がした。
複数人であるが、恐らくそのうちひとりは保健委員長の善法寺伊作であろう。
はたして、医務室の戸が引き開けられた。
「ごめんよ乱太郎、遅くなって!」
伊作に続いて入ってきたのは食満留三郎と潮江文次郎である。
留三郎は毎日何度もを見舞いに医務室を訪れるし、それはほかの六年生たちも同様ではあるが、
彼らのひと悶着あったあとらしい様子を見れば、
いま伊作についてきたのはそればかりが理由ではないことがうかがえた。
伊作の戻りが遅くなったのも、彼らのけんかを見つけて仲裁に入ったがために違いない。
「おや、についていてくれたの」
ありがとう、と伊作はまだ振り返らない乱太郎に歩み寄ったが、
彼がひくひくと泣いていることにやっと気がついてはっとした。
「乱太郎、」
「せ、せんぱ……」
それ以上言葉にすることができず、乱太郎はわっと伊作に抱きついて声をあげて泣き出した。
伊作は状況の飲み込めないまま、
もしや留守のあいだにの身になにか異変があったのではとさっとその様子をうかがったが、
先程彼が医務室を出たときと変わらない様子で眠っていることを認めてほっと安堵の息をつく。
「……悪かったね、乱太郎、ひとりにして」
よしよしと、彼は後輩の頭を撫でた。
乱太郎はまだ泣き止まない。
のどが激しくしゃくりあげ、堪えようとしても嗚咽は止まりそうもなかった。
伊作はとりあえず乱太郎をよいしょと抱き上げて、衝立のこちら側へと戻ってきた。
何事かと見守っていた留三郎と文次郎とが、伊作の説明を待って彼をひたと見つめた。
うん、と伊作は苦く笑う。
のそばについていてくれたんだ」
「そうか」
留三郎は頷くと、伊作に抱きかかえられたままの乱太郎の頭をぽんと撫で、
代わってのそばに座り込んだ。
「よく寝てる」
いつも寝入るとちょっとやそっとじゃ起きやしねえ、そう言って留三郎は笑う。
そしてそっと、の髪を撫でた。
その優しげな仕草を見るにつけ、
同じ手と殴り合いを繰り広げる日常に・文次郎は疑問やら理不尽やらを感じずにはいられない。
少し間をおいて、医務室には仙蔵も顔を出した。
伊作に抱きかかえられて泣いている乱太郎をまず見つけ、おやどうしたと眉を上げた。
あのね、と伊作が説明しようとするのを弱々しくさえぎり、乱太郎が口を開いた。
「せんぱい、途中で、目を覚まして。
 言ったんです、死にそうな人のそばにひとりでいるの、怖いでしょって、ごめんなさいって」
わたし、と言いかけて、乱太郎はまたわっと泣き出した。
聞いていた六年生たちは言葉もなかった。
呆れた息をついて留三郎は、眠る恋人を見下ろした。
「ばか」
は返事をしない。
「後輩脅かすなっていつも言うだろうが……」
彼の声も語尾に近づくにつれて弱々しく震えた。
とりあえず一命は取り留めたとはいえ、容態がまた悪化してもおかしくないように見える。
時間をかければじょじょに回復はするだろうが、
傷つけられたまぶたの下で、その目が視力を保っているかどうかはわからない。
もう二度と会うことができなくなるのではと思えば、留三郎も決して平静ではいられないのである。
伊作は乱太郎を抱き上げている腕に力をこめた。
「まったく、悪い先輩だね、は。くの一はこわいな、なあ、乱太郎……」
文次郎と仙蔵も、ちらと目を見交わして、眠るの横顔を苦々しげに見つめた。
まぶたを塞ぐように走る傷跡を隠す、包帯の白がやたらと目についた。
「とんでもねぇことを言いやがる、女狐め」
「誰も考えたくもないような縁起の悪いことを自ら言うとは、空気の読めない女だ、制裁が必要だぞ、留三郎」
「あー、好きにしろ、治ったらな。また寝込むような派手な仕返しは勘弁な」
起こすのにマジで苦労するから、こいつ、と留三郎は言って息をついた。
乱太郎がやっと泣きやみ、疲れて伊作の膝にうとうととまどろみ始めた頃に、
はまた眠りから覚めたようだった。
呼吸の乱れとうめく声とでそれに気がついた留三郎は、起きたか、と声をかけた。
「……食満くん?」
「ああ。ここ」
彼はまたかがみこんで、の額に口付けながらそう言った。
はくすぐったそうに笑う。
「もう、手は、きれいでしょう、なのに」
「したいからするだけ」
普段ならまぶたにも落としてやる口付けを、傷を思いやって彼はとどまった。
にそうして触れようというときは、日常ならば人目は一応憚るよう心がけているが、
の目が傷に塞がれているあいだは彼はそれを気にしないことにした。
おい、と文次郎が寄ってくる。
「乱太郎が泣いていたぞ、ばかなことを口走るな、怪我人の分際で。
 大人しく養生していやがれ」
「あら……悪いことをしたわ、ね……」
「当たり前だ、普通言うか、あんなことを」
「……そうね……」
はほっと大きく息をついた。
「だって……私だって、怖いの……」
皆がなにかを言おうとして、なにも言えなくなってしまった。
は苦しげにまたうめいた。
「……苦しいわ、少し、……右側を向きたいのだけど」
「向きを変わるかい、?」
伊作が乱太郎を座布団に寝かせてから立ち上がった。
「ずっと同じ姿勢で寝ていると疲れるからね。
 身体の左側下に毛布を入れて、少し右に重心を移そうか」
向きを変わる作業の様子を眺めながら、ふと仙蔵が気がついたように言った。
……髪を梳いてやろうか? 食満が許せばだが」
「なんで俺の許しがいる」
「お前、以前髪結いの四年がの髪に触れたと言って切れただろうが」
八つ当たりを目撃していた文次郎が、留三郎に白い目を向けた。
「髪結いが髪に触れるのは当たり前のことだろうに、それに妬くくらいだからな、
 聞いておかねば私の身が危ないだろう」
はくすくすと笑った。
「そんなことも、あったわね」
素敵な提案だわと、は言った。
「もうそれくらいで妬いたりしねえよ」
身体の中まで俺のもんだと、留三郎はさらりと言い放った。
途端、文次郎はぶっと吹き出し、伊作はおろおろと乱太郎が聞いていたらどうしようと、
眠っている後輩のほうをかえりみた。
は少々困った様子で、それはセクハラになるのじゃないかしらと呟いて唇を尖らせる。
仙蔵はそれぞれの反応にくくと笑った。
「許しは出たか。では」
「作法委員長、直々になんて、贅沢だわ」
「斉藤のほうがよければ呼んでもいいぞ」
「いいえ、ありがとう、」



ここまで
宵のみぞ知る  突発ズタボロ編