嫉妬
いつもどおりの食堂のすみの席。
それで耐えられるのかと問われ、そう聞いてきた相手に留三郎は涼しげな視線を返した。
恋人のいない身にはたぶん実感としてはわからないのだろう。
けれどそれでも、恐らく相手の想像の通りだと、留三郎は思った。
「いいや」
「……けどよ」
「耐えられなかったからといって、じゃあどうなる。が困るだけだ」
言われて、聞き手──潮江文次郎は目を丸くしたが、やがて納得した顔で、ああ、そうだなと呟いた。
留三郎は口元で少し笑い、でも、と続けた。
「妬いた顔なんかして見せたほうが、には楽しいのかもしれないけどな」
卒業試験の序盤戦を控え、はその試験には関係のない最後の任務に向かうところだった。
この任務さえ無事に済んでしまえば、あとは卒業試験と就職活動とだけに集中することができる。
今年度にこの学園から卒業する権利を持っているのは、くの一ではだけだった。
恐らくはスカウトやオファーが殺到することだろう。
加えてフリーランスで活動していくという道もあり、にはその道でやっていくだけの素養がちゃんとある。
の進路について、留三郎は特に心配をしてはいなかった。
むしろ、冷静に状況を判断するならば、己のことに集中しておくべきである。
が抱えている今の任務の内容を、留三郎は知らなかった。
任務の中身を聞かずにおくのはいつものことである。
どうせまた下種な男を相手にしなければならないのだろうと考えるところで想像するのもやめてしまう。
考えすぎてしまうと頭からそのことが離れなくなり、も話題にしたくないだろうに問いつめたくなってしまう。
この手の任務でいちばんつらい思いをするのは、本当は自身だと留三郎は一応の理解を持っている。
だから、が望まない限りは踏み込んだことを聞かず、知らないままでいる。
彼がに対して持ち続けている距離感覚は、恋人同士になれる以前も今も変わりがなかった。
本当はそんな任務にを向かわせるのは耐え難いことだが、それを顔や態度に出せばが困るから。
だから彼はわかったふりをして、自分を誤魔化して耐え続けているのである。
そのまましばらくぼんやりとしていると、噂のあるじが食堂へ姿を現した。
お、と文次郎がなにか不思議なものを見たような顔をし、入口に背を向けていた留三郎はなにげなくつられて振り返った。
「あ……?」
思わず目を奪われる。
文次郎の反応の理由はすぐに知れた。
「食満くん、潮江くん」
は妖艶に笑い、彼らの席へ歩み寄ってきた。
そのうしろ、に続いて食堂へ入ってきた人があった。
先輩、とその人に呼ばれて彼女は振り返った。
「また髪結わせてね。今日もめちゃくちゃ美人だよ」
「ふふ、ありがとう」
あまり頻繁に見かける顔ではないが、編入早々ひと騒動を巻き起こした有名人であるから、
それが誰かは留三郎も知っていた。
至近距離でに手を振ると、その人……噂の髪結いは、一年は組の数人を見つけてその席のほうへ歩いていった。
留三郎のそばで立ち止まり、は彼を見下ろしながらちいさく首を傾げてみせる。
はなにも言わないが、これは留三郎の反応を待っているという顔だ。
「……切ったのか」
「ええ」
少し軽くなったわと、は髪の裾を指先で払ってにっこり笑った。
「似合う?」
「ああ」
留三郎は素っ気なくそう答え、から目をそらすと立ち上がる。
とすれ違いざま、呟いた。
「“今日もめちゃくちゃ美人だよ”」
「……まぁ」
はつまらなさそうに冷めた目を恋人の背に向けた。
やがてため息をつくと、文次郎に小さく苦笑してみせてから、食堂を出ていってしまった留三郎を追いかけた。
端で口も出せず、ほんのわずかばかりのあいだの攻防に席を立つこともままならなかった文次郎は、
彼らしくなくひとり縮こまり、気まずい思いをかき混ぜるかの如く冷めかけた茶をずずずと音を立ててすするのだった。
「ねぇ、食満くん」
留三郎は答えなかった。
いつもならの歩調を気遣ってゆっくり歩いてやるところを、構いもせずにずんずんと先を急いだ。
忍たま長屋までやってきたが、は臆せず着いてくる。
男ばかりの環境に女ひとりで混じっているという程度のことに、この女は躊躇などしない。
留三郎はそれを思って、少しばかり苛々とさせられた。
「ねぇ。怒っているの」
「別に」
「不機嫌」
「だから、別にどうでもない」
「私がそう感じるのだからそうなのよ。あなた自身がそう思っていなくても関係ないわ」
自室の前に辿り着いたところ、のあまりな物言いにさすがに留三郎は少し呆れ、
ぴたりと立ち止まると追いかけてきたを振り返った。
はまた小首を傾げ、きょとんとした目で彼を見上げた。
その髪は留三郎が見慣れた長さよりも少々短く切りそろえられている。
軽くなったと満足そうにしていたは、つまるところこの結果を気に入っているのだろう。
気に食わない、と留三郎は思った。
「ふふ。単純な人」
は愉快そうに微笑んだ。
その笑みには妖艶だとかもの言いたげだとかいう表現はまったく似合わない。
こんなふうに素直に微笑むを見られるようになったのは、ごく最近のことだった。
「……うるさいな。普段黙っていてやっているんだ」
「そうね。なにも聞かないでくれるものね。居心地がよくてつい甘えてしまうわ」
あなたはつらいのかしらと、はほんの少し、申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「だからますます不機嫌なのね? 任務期間と重なったから」
「任務はいい、仕方がないし気にしていてもきりがない……」
「でも気にしてくれているのよね?」
の問い方は明らかに肯定の答えを期待したアクセントを持っていた。
留三郎は留三郎なりにと駆け引きをしているつもりだったが、こういう成りゆきの場合はほとんど彼の負けで終わる。
留三郎は諦めて、はぁとこれ見よがしにため息をひとつついた。
「ああ、当たり前だ。惚れた女が一夜だけでも他の男に好き勝手されるなんて、想像して平然としていられるか」
「……でもあなた、ふりでも平然としているじゃないの」
「ふりだっつーの」
「取り乱してみたら?」
「……あのなぁ」
苛々が募り始める。
ほど勘の鋭い女なら、わかっていてわざと煽っているのではないかと邪推もしたくなる。
留三郎は内側にわき起こる獰猛な衝動を押さえつけながら、の身勝手な言い分に耳を傾けた。
「あなたっていつもそうなんだもの。
確かにとっても居心地がいいしやりやすいし、理解があることには感謝しているのよ。
でもときどきそれだって不満に思うことがあるわ、だって……」
まだが言いかけている最中で、留三郎の我慢がとうとうきかなくなった。
減らず口をたたき続けるの襟元を乱暴に鷲掴むと、ばんと思いきり自室の戸を引き開け、
力ずくでを中に引きずり入れた。
八つ当たり混じりに戸を叩きつけるように閉めると、またばしんとひどい音が響く。
の襟首を掴んだまま、彼はその身体を壁に押し付けた。
はさすがに口を噤み、引き結ばれた唇は今はなにも言おうとしていない。
「……勝手ばかり言いやがって、お前は……少しでも俺の気持ちを考えたことがあるのか」
「……あなたこそ」
さすがには、こうまで乱暴にされても怯まなかった。
まっすぐに見上げてくる視線は射るようで、
迫っているのは己のほうだというのに喉元に刃物を突きつけられているような気に留三郎は陥った。
「俺のほうこそ、なんだ? くの一の任務の話なんざ当人にとってがいちばん話しづらいに決まっているだろうが。
俺だって平気な顔をして聞いてやれる自信がないから黙ってるというのに、なにが不満なんだよ。
言ってみろ、言えるもんなら、得意の減らず口叩いてみせろよ」
途端、の視線が背筋が凍るかと思うほど鋭く冷たく様変わりした。
「疑いたくもなるっていうのよ。
私を好きだと何度も何度も何度も何度も、毎夜繰り返し言うくせに、
ちっとも嫌な顔なんかしないで気をつけて行って来いなんて送り出して。
行って来いですって、冗談じゃないわ!
どこかの俗物に好き勝手ヤられて来いなんて、よくも笑顔で送り出せるものね!
私を好きなんでしょう! 一度くらいなりふり構わないで取り乱して嫌だと言う度胸もないの!
それとも本当に私が誰に抱かれても誰と寝ていても平気な顔をし続けていられるっていうの!
わかったふりなんて優しさじゃないわ! 違う!? どうなの!!」
予想以上にまくし立てられて、留三郎はとりあえずなにも言い返すことができなかった。
が怒鳴り立てるその前の一連のセリフで、留三郎は言いたいことを大半発散してしまっており、
すでに言い返すネタがないのである。
情けないの一言に尽きる。
の視線に気圧されて、早くも彼は白旗を上げた。
「……わかった」
「張り合いのない男ね! もう少し言い返したらどう」
「……いや、無理だ。口でお前と渡り合えると思うほうがどうかしてる」
に合わせる顔もなく、留三郎はずっと掴みかかっていた襟を離し、の肩に突っ伏した。
その身体を抱きしめる。
「……行かせたく、ない、……本当は」
「なに。聞こえないわ」
くそ、この女王様気質めがと思いながら、それでも負けた立場の彼には抗うすべがない。
力無くまた口を開く。
「本当は、どんな任務でも、行かせたくない……考えたくもない。考えないようにしていた……」
「それで?」
「今度の任務も、できるなら行かないでほしい……」
「無理よ」
「わかってるよ。だから最初から言わないんだろう」
「わかってても言って頂戴」
「……このアマ……」
むちゃくちゃを言いやがる、と思いながらも、留三郎はなんだか可笑しくて少し笑ってしまった。
何がおかしいのとのまだ怒り混じりの声が言う。
留三郎はまたため息をついた。
「行くな。ここにいろ」
「無理よ」
「……無駄なやりとりだろ、どう考えても……」
「でも、そう言われたら、私は満足するわ。
あなたが私のことを、どうなってもいい女だと思っているわけじゃないと、わかるから」
毎夜繰り返し想いを告げることで、留三郎は充分それを伝え続けてきたつもりだった。
けれどには足りないのだという。
わがままな女だと思うが、がここまで素直に感情を吐き出すようになったのも、ここ最近のことだった。
少しずつが変わり始めていることを、留三郎は初めて実感した。
「どうなってもいいなんて、思ってない……毎晩毎晩好きだと言わせてるのはどこの誰だ」
「私」
「……わかっててやってんだろ、お前」
「半分くらいはね」
なんでこんな悪女に引っかかったんだろうと、ふざけ半分彼は思った。
けれどどう考えても後悔の感情はこれっぽっちも彼の中にありはしない。
「……でも、今日、機嫌が悪くなったのは、任務のせいじゃないわね?」
抱きしめてくるのに素直に身体を預けながら、は可笑しそうに問うた。
留三郎が途端にぎくりと身を固くしたのがわかって、はくすくすと笑いを漏らす。
「違うのよね? 白状なさい」
「……ああ、もう……」
今日の勝負は完璧に負け通しである。
言わなくてもわかっているんだろう、それならと抗議をするべく顔を上げたが、
視線がかち合うとたちまちの意図が読めてしまって途方に暮れる。
先程言われたばかりである。
すでに答えの予想がついている無駄なやりとりだとしても、はそれを聞きたいと思っていて、
留三郎がわざわざ口に出してそれを言うことで満足を得ているのだと。
「……わかってんだろ。他の野郎に髪なんか弄らすな。相手の顔がわかっている分タチが悪い。
二度とやったら悪意だと思うからな。血ィ見ることになるぞ」
「ふふ。やっぱり。妬いてくれたのよね」
が任務期間を控えていることが、そのちいさなやきもちを更に焦がすことになった。
留三郎のセリフが功を奏したのだろう。
は満足そうに微笑んで、彼の肩に甘えるように頭を預けた。
「言ってくれてもいいのに。俺のものになれよって」
「……お前が、奔放なのは、見ていて小気味いいんだ。
お前自身は変わり者だけどな……プロになるんだって話をしてるときは、至極まともだ」
「変人みたいな言い方しないで頂戴」
「こんな学園にいる奴は多かれ少なかれ変人だ」
少しずつ話が核心からそれてきたことに、留三郎はほんの少し、安心を覚えた。
自身にとって切実な話をしているときに、自身がつらいのは勿論であるが、
留三郎もまた痛々しい思いを抱かずにはおられない。
それに対する己の無力を思い知らずにはいられない。
本当は、に嫌な思いをさせるからという言い訳の裏で、自分が嫌な思いをするのを回避したがっていたのかもしれない。
勝利に気をよくしたのか、は追い打ちをかけるように言った。
「まだ言うことがあるわよね?」
「……まだか……なんだよ。もう勘弁してくれ」
「あんなに乱暴にされて、私、とっても恐かったわ……」
「大嘘ぶっこけ、お前!」
「ええ、半分くらいは嘘かしら。ちょっとだけ恐かったわ。あなたにもあんなに力があるなんて」
「……お前、俺をナメてるだろ」
「まさか。ただ、私には甘いということ、よく知っているだけよ」
はそれでも、彼の腕の中で嬉しそうに笑った。
花が咲いたような──そんな形容を、留三郎はぼんやりと思い出した。
「恐かったのはともかく、痛かったし、苦しかったわ。ごめんなさいは?」
「……お前は謝る気、ないんだろ」
「交換条件?」
「いや、別に。乱暴にしたのは、悪かった」
「私を好きよね?」
「……まだ言わすか、このうえ……」
「好きよね?」
留三郎は答えるのに逡巡した。
明らかには留三郎の反応を楽しんでいる。
ときどきは自分が裏をかいてやりたいものだと思うが──いつもなにも思いつかない。
彼が見出した唯一の逃げ道は、話を誤魔化すことだった。
さも愉快そうに留三郎の動向を見守っているに、彼は何の前触れもなく、口付けた。
コレが答えだ、それで、納得してくれるような女じゃあ……ないんだけどな。
離れると、少し気まずさを感じて、彼はまたをぎゅぅと抱きしめた。
は言葉で畳みかけることも忘れて、身じろぎひとつもせずじっとされるままになっている。
誤魔化しだけは成功したようだった。
しばらく黙ってそうしていたあと、はぽつりと呟くように、言った。
「……今度の任務ね……」
聞きたくない? と、は一応留三郎を気遣うようなことを言ってみた。
「いや、……気には、なってる」
「……ある身分ある女性に、限られた期間のあいだだけ付き従う、ていう仕事なの」
「……は」
「男絡みじゃないの。色は使わないわ」
それ以上をは言わなかった。
任務の内容を秘密にしておくことは忍としては基本であるが、
学園内で成績に関与する任務である場合は少しその制約が薄れる傾向にあった。
学園内で見知った級友の中には間者はいないのが大抵である。
最低限のラインを越えない情報量であったが、彼には充分だった。
「……心配しなくて、大丈夫よ。本当は危険度もとても低いの。あなたが気にするようなこと、なんにもないわ」
たった一瞬で、大きな安心が彼の内心を埋め尽くした。
を案じている彼のことを、本当はもずっと気遣っていたらしいことがその口調から伺えて、
留三郎は言葉を失ってしまった。
「……ごめんなさいね。でも、あなたに甘えるの、私、すごく好きなのよ」
だから調子に乗ってしまうの、気を悪くしないで頂戴ね──
予想もしていなかった言葉をの口から聞いて、留三郎を明るい動揺が襲っていた。
自分の想いが初めて報われて返ってきたような気分になった。
言葉で答えるかわりに、彼はを抱きしめる腕に力を込めた。
他の男が触れたと思うだけで相当癪だが、の髪が淡く香る。
めまいを起こしそうだ──彼はきつく目を閉じた。
「……それでも、……気をつけて行けよ。
お前が危険な場所に出向くことも、変態親父の相手をしに行くのも、
俺は平気で見送っているわけじゃないんだからな……」
「ええ、わかってるわ」
の声は切なそうだったが、しばらくしてから思い出したかのようにクスリと笑いを漏らした。
「……なんだよ」
「でも、ちょっと、嬉しかったわ。妬いてくれて」
くすくすと笑うは無邪気と例える以外にどう表していいかもわからないような顔をしている。
よかったと呟くに、二度とごめんだ、本当はと、彼は精一杯不機嫌そうな声を装って返すのだった。
宵のみぞ知る 嫉妬
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