迷い
どう始めようか……
なんと書こうか……
(あああああああ)
留三郎は目の前に広げていた紙をぐしゃりと握りつぶして、背後にポイと捨てた。
先程から何度目になるか知れない。
久しぶりに、柄にもなく、手紙を書いているところだ。
誰に宛ててかと言われれば実家に宛ててであるので、別に色めき立った話題ではない。
柄でもない、ああまったくと彼はいったん諦めてごろりと横になった。
隣室の伊作が、廊下からやってくればいいのにときどき天井づたいに来ることがある──
そのときの出入りでゆるみにゆるんだ天井板が彼の目に入る。
最近あまり天井を見上げることがなくなったなと思う。
毎夜訪れるひとがあり、そのひとばかりを見つめ見おろしているから。
ひとりで思い出してなんとなく恥ずかしくなる。
誤魔化すように留三郎はまたむくりと起きあがり、改めて白紙という敵に立ち向かう。
墨をすり直し、筆先に黒を絡め取ってみるも、やはりなんと書いたものか……迷う。
他愛のない用件である。
あとひと月もすれば冬の長期休暇が始まる。
年末には帰宅して、正月は家で過ごすからと、それだけである。
それだけなのだが……
彼の脳裏に浮かぶのはのことだった。
先日、冬期休暇をどう過ごすのかという話題が、彼と友人達のあいだにのぼったのである。
その話題の場にはもいて、皆の話に耳を傾けていた。
いよいよ卒業試験も本番といった時期である。
プレ試験は皆が皆それなりの成績でパスしていたものの、本試験となると話が違ってくる。
試験に落第したところで卒業が危うくなるという話ではないが、
かわりに就職先が危ぶまれるというのだから決して気楽に笑えはしないのである。
ほとんどの者は学園にとどまって休み中も試験の対策に奔走するというが、
さすがに年末から正月にかけてのあいだくらいは実家に帰るつもりでいるらしい。
仙蔵が文次郎に、お前はどうせ盆暮れ正月関係なく鍛錬をしているのだろうとからかいを向け、
文次郎はといえば意外にもそれに猛反発をしている。
小平太は年末と正月の餅つきと餅の話でひとり盛り上がり、
それを聞いて相槌を打っているかに見える長次は実は小平太の話に寸分も耳を貸してはいない。
寒くなると風邪を引く下級生が多いから帰宅が遅れるだろうと伊作はに愚痴をこぼし、
はそれを聞いてやりながら寒さは女の敵だというような返事をしていた。
留三郎はどの話もぼんやりと聞いているような格好で、ただ恋人の動向にだけ気をとられていた。
は休暇中に自分はどうするという話を少しもしていない。
皆の話に頷いているから、きっとも正月には帰宅するだろうと誰もが思い込んでいるのがわかる。
けれど、恐らく留三郎しか感付いていないほどちいさな違和感が、の表情にはあった。
「。おまえは」
伊作の愚痴が途切れた頃合いを見て、留三郎はほとんど小声で聞いた。
幸い、仙蔵と文次郎のやりあいが喧嘩に発展し、小平太が負けじと騒ぎ立てるおかげで、
声を潜めて話し合う彼ら二人の様子はまったくと言っていいほど注目をされずに済んだ。
はあまりこの話をしたくないのだろうと、留三郎は思っていた。
「私?」
「……帰るのか?」
は少し黙ってみせてから、いいえ、と首を振った。
「ずっと学園にいるわ」
「ずっとか?」
「そう、ずっと」
どの休みもそうなのよと、はなんでもないことのように言ってのけたが、
留三郎にはそれがほんのわずかばかり寂しそうな仕草に見えた。
いつだったか、家族と離れて自分の力で生きていくことを喜んでいるというような話をから聞いたと彼は思い出した。
寮制の整ったこの学園へ入学した理由のひとつが、家を出ることができるから、だったはずだ。
帰る、帰らないという言葉すら使わず、学園にいるのだという言い方をする。
家や家族というものと極端に距離を置こうとするの姿は、なんだか痛々しく留三郎の目に映った。
「……じゃあ、ウチに来るか?」
あとにもさきにも、留三郎はあんなに隙だらけのを見たことはないと断言できる。
驚いて時間が止まったのだろう。
は目を見開いて、怪訝そうな顔でたっぷり数十秒は黙ったまま留三郎の顔をじぃっと見つめた。
「……なんか言えって」
「ああ、……ええと……どういう意味?」
「だから……」
「どうして私が食満くんのご実家にお邪魔するということになるの?」
(それを聞くか? 聞くか?? 普通)
別に、口に出して言いづらい下心があるわけではなかったが。
留三郎は少し拗ねたように言った。
「だから……年末年始くらい賑やかにしててもいいだろう。モチ食って初詣でも行って」
の怪訝そうな目はいまだに留三郎に無遠慮に突き刺さる。
あまり長々、そんな顔をしているので、留三郎はとても信じられないとでも言われているような気になった。
「食満くんのご実家って、どこ」
「……ふたつ先の町。あいだに山ひとつ、峠ひとつ」
「ちょっと遠いわね」
「歩けるだろ」
「年末には雪も降るわ。寒いわよ」
寒さは女の敵……と、は先程伊作に向かって散々語り散らした話をまた口にした。
文句をつけながら、実はが巧みに話の核心を遠ざけていることに留三郎は気がついた。
別に意地の悪いことをするつもりではないが、彼は躊躇いなくの話を遮り、スパッと短く問うた。
「来るのか? 来ないのか?」
は一瞬言葉に詰まり、唇を噛んだ。
同じ困惑の表情でも、今日の顔は初めて見たなと留三郎は内心では冷静に思う。
なんと言うのが的確だろうか、そうだ、とても“女の子”なのだというところに彼はいきついた。
を困らせて喜ぶような趣味は留三郎にはなかったが、今の彼女を見ているととても嬉しくなってしまう。
女の子は女の子でも、今のをたとえるのなら“恋をしている”というおまけつきの表情だ。
意外と愛されているのかもしれないと、彼は少し自惚れることを自分に許した。
はしばらく恋する困惑顔のままで黙っていたが、やがてちょっと悔しそうに俯き、上目遣い気味に彼を睨み上げた。
「……なら、行くわ」
「あ、ほんとか? そうか。わかった」
「なによ、自分から言っておいて、意外そうに」
「いや、本気にしてくれたのかと思ってな」
留三郎が気持ちにまかせて照れ混じりに笑った顔が、には子どものように天真爛漫に映ったらしい。
恋人が喜んでいるのなら、まぁいいかしらと妥協して、はとりあえず冷めかけた茶に口をつけた。
が別の話に加わっているほんのわずかの隙に、これらのやりとりを聞いていないと思っていた伊作が
留三郎にこっそりと“よかったね、留”などと囁いてきたことに、彼は肝を冷やした。
別によかったとかなんとか……そういうつもりで言ったんじゃないしな、
などと留三郎は内心で己を相手に無駄な言い訳をした。
(大体、そういうつもりってどういうつもりだっつーのな……)
その日のことを思い出すにつけ、留三郎はそのときの自分が周りの目にどう映っていたのだろうと気にかかって仕方がない。
舞い上がっていたのは間違いがないから、かげでなにか囁かれていたとしてもきっと聞こえなかっただろう。
過ぎたことはもうどうしようもないと諦めるとしても、今は。
留三郎はまだ一文字たりとも書き進められない手紙に意識を戻した。
白紙がこれでもかというほどの圧力を輝かんばかりに放っている。
たかだか紙一枚に、彼はもう数連敗を喫している。
ヤワな勝負に折れるなど自分らしくないとは承知なのであるが、確かに、こんな手紙は書いたことがなかった。
どうしようか。
なんと書いたものか……
筆先を迷わせていたら、彼をばかにするように、ぽたりと墨が紙の上に落ちて染みをつくった。
「……こんにゃろ……」
たかだかこれだけのことに彼は軽く腹を立てた。
その一枚をまたぐしゃりとやると背後へ放り投げ、また一枚を用意すると潔く筆を振るった。
親父殿 お袋殿
年末、帰宅する。
という同級生をひとり連れていく。
帰ったら紹介するから今は突っ込み厳禁。
なにか聞いたら八つ当たる。
それまで元気で。
留三郎
我ながら身も蓋も洒落もない文面だと思ったが、勢いにまかせて彼はばしんと傍らに筆を置き、
机の上の戦場を見下ろしてふんと息をついた。
白紙は彼の思いの丈を書き殴られて立派な手紙へと変貌していた。
その美しさには多少難があると言えようが、読めりゃあいいんだと彼は開き直ることにした。
は誘いを受けてくれたし(あとから「外出届を出さなくちゃね」と言ったは、なんだかとても可愛らしく見えた)、
ずいぶん迷ったが手紙も書けた。
馬借便の受付締め切り時間にも充分間に合う。
よし、やっとのことだが完全勝利。
彼はとても満足であった。
宵のみぞ知る 迷い
閉