願い


せーんぱーい! ……あらぁ」

学年を問わず入り交じり、くの一の後輩達がの部屋を訪れたのは授業を終えた夕刻だった。

もう卒業も間近という頃。

とうに卒業試験はすべての日程が終了しており、

くの一教室でただひとりの卒業認定対象であるについては

かなりの好成績をおさめたらしいという噂がすでに飛んでいる。

あとは卒業試験の結果の発表と、就職活動の実りを待つばかり。

そしてには早いうちからいくつかの出仕先候補が申し出を寄越しており、

なお最後に駆け込みでひとつ持ち込まれたスカウト話もあった。

多くあった就職先の候補がピンときていなかったのか、迷って決められていなかったは、

最後の最後に使者が自らを口説きに学園を訪れたそのスカウトを正式に受けることに決めていた。

おかげで今の時期、には気を患わす事柄が少なくて済んだのだが、

がくんと減った授業の分の時間を持て余す日々が続いている。

自室を訪れた後輩達を見やり、はお帰りなさいと口の端で微笑んだ。

「どうしたの、皆で揃って?」

「くの一教室のみんなで、調理実習だったんでーす!」

「見てください、上手にできました!」

後輩達が嬉々としてに差し出す菓子はほっこりとふかしたてのもも色の饅頭である。

「まぁ、きれいな色。可愛いこと」

「先輩にお裾分けです! よかったら、どうぞ」

「いいの? せっかく上手にできたのだから、誰かに贈ればいいのに?」

からかうように言うと、後輩達は皆誰やらに思い当たったのか、

赤くなったり青くなったりとそれぞれの反応を見せた。

「いいんです! 先輩には、とってもお世話になったもの」

卒業が近いということが、誰の念頭にもあったのだろう。

お礼には足りないけれどと口々に、後輩達は言った。

「……そう。それならありがたくいただこうかしら。でも……」

は少々困ったように視線を室内に巡らせた。

後輩達は廊下に立ったまま、部屋の中へ一歩を踏み出すこともできる状態ではなかった。

も部屋の中央に立ち尽くしたまま、すぐに身動きのとれる様子ではない。

お互いを隔てるのは、これでもかというほど広げられた衣装の数々、飾りの数々であった。

足の踏み場もないというのはまさにこのことで、

見慣れたはずの板の間はすっかり彩り豊かに飾られてしまっている。

「……どうしましょうね」

他人事のようには言った。

後輩達ははぁぁ、と息をつきつつ、目を見合わせる。

くの一教室では忍としての教養や実技のほか、

行儀見習いと呼んで差し支えないだけの作法を教えるということが授業にしっかり組み込まれている。

忍たまたちに比べ、くのたまたちの卒業後の選択肢が“忍にならない”という方向に向きやすいためである。

実家へ戻った日のため、どこかへ嫁いだ日のためのその授業、調理実習ももちろん例外ではなかった。

六年間を通じてくの一教室の少女達は常識的な立ち居振る舞いも身につけつつ、

くの一としての身の振り方も学ぶことになる。

六年間の授業を終えようというところの最上級生であるは、

そのため相当鮮やかな包丁の扱いと、巷の十五歳では到底敵わないほどの料理の腕を会得している。

それはを知る者たちには今更言うほどのことでもないというくらい認識されているが、

それと両極端をいったようにが不得手とするのが整理整頓と後かたづけといった事後処理である。

同じ事後処理という言葉で表現しても任務の片づけならいとも簡単にやってしまえるものを、

部屋の片付け、授業の資料の整理といった日常の事後処理となるとからきしだめなのである。

部屋の惨状を目の当たりにした後輩達は、先輩は今日は夜中まで眠れないわと頭の中で考えた。

「……持ち物の整理ですか?」

ひとりが問うと、はええ、とまた部屋を見回しながら答えた。

「学園を出るのに、すべて持っては行けないものね」

「……そうですか」

「取り出して眺め始めると……いろいろと思い出されて」

他人を演じ分けることを得意としたであるから、化けるための小道具はあふれるほど持っていた。

いま散らばっているこの着物も、あの簪も、どれにも任務の記憶が宿るのかしらと、

後輩達はそれぞれに思いながら部屋を見回した。

しばらくは皆そうして一面の色を眺め回していたが、やがてふと、は思いついたように顔を上げる。

「……そうだわ」

なんだろうかと顔を上げた後輩達に、は小さく微笑みかけた。

「……もし……この中に、欲しいものがあれば……あなた達さえよければ……」

途端、少女達の歓喜の悲鳴があがった。

「いいんですか?」

「ええ、処分するよりずっといいわ。中にはよい品もあってよ」

お饅頭のお礼にもなるかしらと、は笑う。

後輩達ははにかんだようにまた目を見合わせ、どうにか隙間を見つけるとおずおずとの部屋へと踏み入った。

目を輝かせて品物を手に取り見つめる後輩達をよそに、

はまだあるのよと更に行李をひとつ・ふたつ引っぱり出そうとしてくる。

ただでさえ眩しいほど色にあふれていた室内が、少女達の歓声で更に華やかな空気となった。

熱を帯びたその中で、は静かに後輩達を見つめ見守った。

「簪がこんなにたくさん」

「ええ、それも、いいものがあったらどうぞ持っていって。……あ、でも」

簪の並んだ盆の上から、はいくつかを取り上げた。

「これは大切なものだから、持っていくわ。ごめんなさいね」

そのセリフに、後輩達はいたずらっぽく目を見交わした。

「この間、食満先輩が贈ってくださった簪ですよね」

「……よく見ているのね、さすがはくの一ね」

「だって、先輩って、食満先輩と御一緒のときはとってもお可愛らしいんですもの」

「もう。生意気仰い」

ごめんなさいと、後輩達は肩をすくめる。

話を誤魔化すように、別のひとりが口を挟む。

「その櫛は、なんだかとっても、使い込まれているみたいですね」

「ええ、これはもともとは私のものではないの。

 ……同じ学年に他のくの一がいなくなって……

 そのあと最上級生に進級して間もなく、山本シナ先生がくださったものなのよ」

「わぁ、いいなぁ」

「上等な品のようよ。つやが出てとてもきれいでしょう?」

は手のひらの上で櫛を返し、ためつすがめつ眺めた。

「ふふ。なんだか懐かしい思いだわ……」

口元で微笑みながら思い返すのは、それでも壮絶な記憶ばかりであった。

最後の級友だった少女ととは、同じ戦闘実習に一緒に出かけていた。

たった一瞬、二人の脳裏に閃いたのは真反対の判断だった。

そうしては生きて、友人は死んでしまったのである。

六年生への進級時、は山本師範に呼び出しを受けた。

“あなたはこのまま、本当にくの一になる気、?”

の決意は固く結ばれたまま変わることはなかった。

がうんと頷いたのを見て、山本師範も頷き返した。

“わかりました。それならばもう、なにも言わないわ”

それからしばらくして、なんの前触れもなかったが、は山本師範から櫛を譲り受けた。

長く大切に使われてきたらしいその櫛にはまるいやわらかい光沢があり、

良い具合に塗り色が枯れて風情すらただよって見えた。

この一年のあいだ、はその櫛を大切に手箱へしまい、ほんの時折、取り出してそっと髪に挿し入れた。

たとえば、気を抜くことのできない実習の前夜。

自信のない試験の日の朝。

縁起かつぎでしかないようなことを人知れず繰り返し、一年が過ぎた。

いまは無事で卒業を迎えようとしている身だ。

お守りのように大切にし、気持ちを寄せて頼ってきた。

今までそんなふうに考えたことはなかったが、この櫛に助けられてきたことが実は多く存在したのかもしれない。

山本師範に呼び出しを受けたときのこと、櫛を譲り受けたときのことを思い出す。

(……先生はあのとき、私に“くの一にはならない”と言わせたかったのかもしれないわ)

は顔を上げ、楽しそうにはしゃぐ後輩達の姿を見回した。

思考に沈んでいたの耳がいきなり覚醒し、笑い声の中に放り込まれた心地になる。

くの一として振る舞わねばならない場を、こうしていっとき離れた可愛い後輩達。

彼女らを見ていればにもなんとなくわかる。

すぐそばで友人を失う悲しみを、身を削って任務に従事するつらさを、

性を武器にしながら性を踏みにじられる屈辱を、後戻りができないような追い詰められた緊張を、

もしやすると襲い来るかもしれない苦痛のすべてを……この子達に味わってほしくはない。

一流のくの一として育ってきていることを誇らしく思う反面、

このようなつらく厳しい仕事のその場に属することを心配もしてしまう。

己のことを棚に上げ、矛盾したことを考えているとは自覚がある。

しかし、もし卒業後に両親の仕事を手伝うであるとか、嫁ぎ先が決まったなどという報せを受ければ、

惜しいと思う一方でどこかほっとしてしまうだろうことは容易に想像がついた。

いつでも手を貸してやるというわけにはいかないのだから、せめて、できることがないものか。

は手の中の櫛を見つめた。

この櫛はもしかすると、山本師範がの身の行く末を案じて譲り渡してくれたものなのではないか。

がこの後輩達に対して抱いているのと同じような思いを、山本師範はに抱いていたのではないか。

。よかったら、この櫛を差し上げるわ”

あのとき、いきなりそんなことを言われ櫛を手渡され、

あまり思いがけなくてはきょとんとすると、どうかなさったのですかと問うた。

すると山本師範は、

“ちょっと古い品だけれど、とてもよいものなのよ。

 長く持っていれば更に次第に磨かれて、なんともいい味が出てよ。どうぞ使ってちょうだい”

などと答えて颯爽と去っていってしまった。

その答えはの問いにはまったく応じていなかったのだが、

その件はそれで、なんとなくそのままうやむやになってしまったのである。

なにげなく、なんでもないような様子を振る舞って、

の手の上に載せられたそれは櫛に込められた心よりの願い。

三年生くらいの後輩が、少し遠慮気味にのそばへ寄ってきた。

先輩、あの……これは、いただいても、いいですか?」

彼女の手の上には、かたちはシンプルだがとりどりの色が目を楽しませてくれる、細い簪が載っていた。

「ええ、構わないわ。……それは縁起がいいのよ」

は後輩の手の上からその簪を取ると、彼女の頭巾をほどき、その髪にそっと簪を挿してやった。

「これはね、初めてお給金の出る実習を合格点で終えたとき、いただいた報酬で買ったものなの」

「そうなんですか」

「そうよ。あなたもそろそろ、そんな実習が増えてくる頃でしょう」

「はい」

きっと上手くいくわ、そう願っているから、はそう言うと、ほら可愛いわと後輩の頭をぽんと撫でた。

後輩は照れたように口元で微笑み、おずおずと簪に飾られた髪に手を触れた。

「なんだか、先輩みたいに、上手にできそうな気がします」

「……そう? それなら、よかったわ」

「ありがとうございます、大事にします」

嬉しそうにもう一度にこっと笑って、後輩は友人達のところへ戻っていった。

皆が皆、それぞれに気に入りを見つけたようで、の部屋は期せずしてすっかり片づいた格好である。

後輩達は嬉しそうに礼を言い、饅頭を並べた皿を置いていった。

その皿をチラと眺め、はがらんとした室内にまた目をやった。

少々寂しいような気も、しないでもない。

自分はここを出て、代わりに誰かがここにやってくるだろう。

その誰かも、卒業を前にした来年の今頃、

から譲られた品を眺めて、そこへ込められた願いに気付くときがあるだろうか。

いつかは後輩の中に、の知っている顔はなくなるだろう。

ひとりひとりが、順番に卒業の日を迎え、この学園を出て生きていく。

その歩むべき道の方向は、さまざまにあれども。

繰り返される春に思いを馳せる。

誰かはまた、誰かのために、願うのかもしれない。

来年の今頃、願いの春が巡り来たとき。

はもう、この場所にはいない。





宵のみぞ知る  願い