最後


「十五年間で一度も、誰も好きになったことないって、言ってたよね? 

饅頭を頬ばりながら、善法寺伊作がぽろっとそんなことを問うた。

「何の話?」

問われた本人、は湯呑みを両の手指で支えつつ、優雅に首を傾げてみせた。

六年生の委員長達にはすでに馴染みとなっていた医務室での“まったりタイム”に、

が加わるようになってからもうどれくらい経つだろうか。

男が数人陣取る中にひとりだけ女が混じって、しかしはすっかり馴染んだ様子である。

「腕、怪我したときに言ってただろ? ここで寝ててさ」

「ああ……そういえば、そんな話も、したかしら?」

「なんだ、曖昧だな」

伊作は苦笑いを返す。

それがどうかしたのかと、まわりの友人達は促すような視線を伊作に向けている。

それを受けて、彼はしまりのない笑みを浮かべるとまた口を開いた。

「いや、だからさ、の初恋って、留なんだなーって、思って」

途端、名前の挙がった当の本人が茶をのどに詰まらせ、げほっと盛大に咳き込んだ。

「なにしてるの、もう」

呆れたようには留三郎の背をさする。

なんかこいつらも所帯じみてきたなと、友人一同は声には出さずにそう考えた。

「いきなり何の嫌がらせだ、伊作……!」

「嫌がらせなんかじゃないよ。ほんとにそう思っただけだもん、ねー?」

伊作は言いながら語尾でに問いかけた。

「……初恋、ねぇ」

物思いにふけるような目では呟いた。

それが予想外の反応だったのだろう、どこかでなにかを間違ったろうかと、伊作は内心一瞬焦った。

「でも、十五年でひとりもいなかったっていうのは」

「そうなのだけど……ええと……」

は言いづらそうな、なにか難しそうな顔をして唸った。

睦まじく、あいだに問題もないはずの友人とその恋人のあいだに暗雲立ちこめる。

性格の悪い彼らは、他人の不幸は蜜の味とばかり、喜んでその話に耳を傾けた。

はわずかばかり、留三郎に遠慮するような、躊躇った様子を見せたあとで、おずおずと口を開いた。

「……ひとり、ちょっと気になった人はいたわ」

食満くんと会う前に、と付け加えられ、

不穏な話題であるのに友人一同は水を得た魚の如くぴちぴちと喜びはじけ、

留三郎は精一杯気にしないふりでちょっと目元をひくつかせるにとどまった。

「誰、誰? うっわー知らなかったぁ!」

「いちいちくの一教室の恋愛事情を知られてちゃあたまらないわよ」

遠慮せずに根ほり葉ほり聞こうとする小平太に、は苦々しくそう答える。

チラと視線を留三郎のほうへ寄越し、困ったように問うた。

「ショック?」

「……どっちかというと、この程度でショックを受けてる自分にショックだ」

「認めてんじゃん」

小平太にスパッと言い切られ、留三郎はそれ以上反論ができなかった。

「この学年か? まさかこの中にはいないだろうな」

「いつの話だよ」

仙蔵と文次郎も代わる代わる話に乗ってくる。

早く白状しろと言いたげに、場の空気はに迫っていたが、は留三郎を気にして言い渋る。

「絶対食満くんには面白くない話よ。これくらいでショックを受けてるなら確実に傷つくわよ」

「そりゃそうだ。で、誰」

「七松くん……」

は呆れ返り、判断を仰ぐようにまた留三郎を見やった。

視線で問いかけられ、留三郎はとりあえず、聞きたくないけど気にはなると正直に答えた。

「……言ったらあなたたち、みんな引くと思うのだけど」

「いいから言ってみ」

小平太の頭に遠慮の二文字はないようである。

は諦めたように息をつき、ごくさらりと告げた。

「忍術学園での、“初めてのひと”。先輩よ。私が四年生のときに六年生だったひと」

聞いていた一同の顔に青いタテ線が走るのをは見た気がした。

「ほら、だから言ったのに」

「えっ……えっ? その先輩が初恋なの?」

「だって、とってもやさしかったんだもの」

乱暴じゃない殿方もこの世にいるものだと初めて知ったのよと、は思いを馳せるように視線を遠くに投げた。

「今思うと、恋と言うほど、慕っていたわけじゃあないのでしょうよ。

 当時のくの一六年生の中に、その先輩の恋人だっていらしたのだし。

 どちらかというと、憧れってことなのじゃないかしら」

「……先輩が相手じゃ、僕らが太刀打ちできるわけないね……

 同い年の忍たまなんか、ガキに見えるんでしょ、君ら」

伊作が皮肉を言うように呟くと、は遠慮なくええ、そうなのと切り返した。

伊作はそれで相当なダメージを食らってしばらく口がきけなかった。

小平太が横目で留三郎をチラと見やり、苦笑しつつも楽しげに言う。

「あーあー。留がしょげ返っちゃったー」

「返ってねェし!!」

「返ってるよー」

ただうるさいと自棄になったように言い散らす留三郎は、動揺を隠そうとして思いきり失敗している。

調子づいてからかい始める小平太とぎゃんぎゃんと言い合いになり、

皆は自分の湯呑みと饅頭を抱えて部屋の端へと避難した。

「……うるさい」

ずっと話の外にいて本を読んでいた長次が呟いた。

「ごめんなさいね?」

がにっこり笑って言うと、珍しくも彼はわずかに不愉快そうに眉を顰めた。

が煽るからいけない……黙らせろ」

「あら、私は煽ったつもりなんかなかったわ。忠告したもの」

長次の視線はそれでもぶれることなく責任をとれとに告げるので、

はいいわと短く答えると言い争う二人のほうへと視線を向け、食満くん、と恋人に呼びかけた。

二人がぎろりと睨み付けるようにを振り返ったが、は臆せずにこにこと微笑み返す。

経験からと言おうか、留三郎はその顔を見て、なにか嫌な予感がすると思い当たった。

が実に害のなさそうな笑みを浮かべるときほど、

そのあとに襲い来るものの勢いは凄まじいのである。

当たらなくてもいいというのに、彼の予感は当たった。

はその笑顔のまま、口を開いた。

「これまでのことなんてどうだっていいわ。だって、きっと私の最後のひとはあなただもの」

効果覿面、ぴたりと言い争いは止まった。

横で聞いていた文次郎がヒュッと口笛を吹き、仙蔵は肩を震わして笑い出し、

伊作は茹で上がったように真っ赤になった。

……お前もなぁ!」

「ごめんなさいね」

留三郎に肩をすくめて見せ、は長次を振り返ると、彼はこれでよしと言いたげに頷いた。

「俺をネタにすんな!」

「本当のことを言っただけよ」

「……てめ……」

怒っているように見えても、本当は照れているだけだとわかっているからと、

はちっともすまなさそうな顔をしなかった。

留三郎からに、嫁に来いなどという言葉がかけられたことはあった。

けれど、いまが言ったその言葉が、まるで逆の立場の求婚のようにも聞こえることには、

当の二人は気付くことはなかった。







宵のみぞ知る  最後