大切


明け方、ふと目を覚ます。

隣には恋人が身体を丸めて眠っている。

いまとなってはすでに慣れた光景だ。

艶やかな髪が惜しげなく乱れ散らばる床のうえを、まだ明け切らないぼんやりとしたあかりが照らす。

このところはただ寄り添いあって眠ることの方が多いように留三郎は思った。

だからそれほど艶めかしい記憶は彼の脳裏によぎっては来ないが、

華奢な肩がただ愛おしく、守ってやりたいと思ってしまう。

男に頼らずとも、また守られずとも、このという娘は己を生かす方法をいくつでも思いつくのだろう。

それでもときどき、少しは頼られてみたいと思うこともある。

現状に不満はないに等しい、だから、それはただの欲張りであると留三郎は思っていた。

そろそろい組のギンギンがうるさく動き始める頃だろうと察しをつけると、

彼はを起こさないように注意を払いながら床を抜け出した。

忍装束に身を包み、自室を出る前に一度振り返る。

本当に実力あるくの一なのか、留三郎が隣でなにやら支度をしていても、

は大抵ぐっすりと眠ったままで目を覚ますことがない。

それが、留三郎に対してだけ警戒心が薄いからという理由ならば、少しは納得してもいいかと彼は思った。

まだ眠り続けるの背をしばらく見つめる。

現状に不満はない。

それは嘘ではなかったが、ここ最近は少しばかり、気にかかっていることもあった。

いまも留三郎の視界のすみにそれはたたずんでいる。

がこのところ、ほとんど肌身離さずというほど持ち歩いているもの。

なんのことはない、ただの紙挟みである。

地模様のきれいなきれでできていて、懐紙を入れておくのが本来なのだろうが、

のことだから忍具のひとつやふたつは忍ばせていてもおかしくはない。

ただ、がこれをずっと持ち歩くようになったここ最近、

その中に入っているのは懐紙でも忍具でもないらしい。

一度がこれを取り落とし、それを拾ってやろうとしたとき、中が少しばかりはみ出しているのが見えた。

留三郎はそれを、手紙ではないかと思った。

手を伸ばして拾おうとすると、触ってはだめとぴしゃり、断られたのがまた引っかかる。

就職に関する重要書類か、それに類する手紙か。

そんなものかもしれないとも考えたが、内心にはただ焦燥が募っていく。

正面きってにそれはなんだと聞いてみても、秘密としか答えてくれず、

思いは焦れに焦れることとなってしまった。

しばらく留三郎は立ち尽くしていたが、おもむろに自室へと戻った。

の枕元に大切そうに置かれた紙挟みを見下ろす。

はまだ眠ったままである。

ほんの少し、中を確かめて、元通りに戻しておくだけ──

彼は息をひそめた。

まさかが、己に対して裏切りになるようなことを秘密と呼んで抱いているわけではないだろう。

そんなことを疑ってはいない。

けれど、もともと人やものに対してほとんど執着を抱かないが、

毎日大切そうに懐に入れ、持ち歩き、恋人にすら手を触れるなと言い渡すなどとは。

いったいこの紙挟みは、この中にしまわれているものは、にとってどんなものなのだろう。

(ゆ、許せよ、ちょっとだけだからな)

内心で恋人にわびを入れ、留三郎は気配を殺しつつ、そぉっと紙挟みに手を伸ばした。

中にはやはり、手紙が数通おさめられているようだった。

丁寧に折り畳まれたその中を覗くことまではしてはいけないと思っていたのに、

留三郎の手はごく何気ない様子で、手紙を開いていた。

このときだけはほんの少し、やきもちのような気持ちに背を押されたことを否定できない。

しかし彼は、宛名を見たところでぴたりと文字を追う目をとめてしまった。

先輩へ”

先輩へ”

(……先輩へってことは)

細い可愛らしい文字が並んでいる数通の手紙。

これを男子忍たまが思いを込めて書いたのだと思うと“ふぁんしー”すぎて気持ちが悪い。

考えるまでもない、これはくの一の後輩達からに宛てられた手紙だ。

何も邪推をすることはなかった。

気付いた途端に後ろめたさと後悔に襲われ、留三郎は慌てて紙挟みに手紙を戻そうとした。

が、それが逆に悪かったのか、手元が狂ってばさばさと手紙は板の間の上に散った。

それで、がはっと、目を覚ました。

「……食満くん……? なにをしてるの、あなた」

「いや、これは、その……」

深い事情があって、となんの酌量にもならないだろう言葉をもごもごと呟くあいだには起きだし、

枕元の惨状を見るや、ここに恋人がどう関わったのかを即座に察した。

「最低よ」

「……返す言葉もない……」

「人の手紙を盗み見するなんて? いくらあなたでも許せることではないわ」

「……すまん」

「……いったいどうしたというの」

こんなことをする人じゃあないでしょうと、は怪訝そうな目を彼に向けた。

ごもっともな責めを素直に飲み込み、留三郎は全身くまなく悔いの思いでいっぱいであったが、

ぼそぼそと申し開きをし始める。

「……あまり、おまえがこんなふうになにかを大切にしているのを、見たことがなかったから」

「それは、興味? 嫉妬?」

「……両方 かな」

あ、そ、とは素っ気なく言うと、小さくあくびをこぼしてから黙って手紙を拾い集め始めた。

「悪かった」

「反省して頂戴ね」

「……おう」

集まった手紙をとんとん、と整えて、はまた紙挟みに元のようにそれをしまい入れた。

「鍛錬に行くの?」

「……そのつもりだったんだけどな」

すっかり気を削がれ、留三郎はその場にぺたりと座り込んだ。

は紙挟みを手に持ったまま、しばらく項垂れた様子の恋人を見やっていたが、唐突に口を開いた。

「食満くんは、手紙を受け取ったことがある?」

「は?」

「ご実家から?」

「そりゃあ、あるよ……」

「私は、実家とは手紙のやりとりはしないの。学園に来てから、私宛に届いた手紙は一通もないわ」

留三郎は思わず目を見開いた。

自分や他の皆にとってはあまりに当たり前すぎる、日常的すぎること。

その些細なことを、は心のどこかでずっと欲していたのだろう。

言葉も出ない彼をよそに、は続けた。

「後輩たちがくれた手紙はね、他愛のないものよ。

 女の子同士はよく手紙のやりとりをするけれど、その輪に私を入れてくれたというわけ。

 着物や飾りを贈った礼状だったりもするわ」

「……ふーん」

「でもね」

はこのうえなく大切そうに紙挟みの中から一通の手紙をとりだした。

留三郎が散らかした中には見かけなかったもののように思われ、彼は不思議そうにそれを見やった。

「内側に物入れ袋がついているの。これはいつもそこに入れておくの」

数通の手紙の中でも、どうやら優遇されているらしい一通。

ふと、その手紙の用紙に見覚えがあるような気がして、留三郎は目を眇めた。

「……見てもいいわ」

「はっ? でも」

「いいから」

渋々といった様子で、留三郎は差し出された手紙を受け取ると、それを開いた。

途端、見覚えがあるように思った理由が知れた。

「い、いつの間に……?」

「一週間ほど前よ」

「……知らねぇ……実の息子には寄越さないでこれかよ」

「ごめんなさいね」

が少しすまなさそうな声色で謝ったので、留三郎は慌ててかぶりを振った。

が大切にしまい込み、持ち歩いていた手紙は、留三郎の実家からに宛てられたものだった。

差出人は彼の母親である。

年末、冬の休暇の際にを実家に連れ帰ったとき、確かに母はいたくを気に入った様子ではあった。

綴られた文字にさっと目を通す。

中身は留三郎に宛てられた手紙とそう大差ない内容である。

学校の心配、身体の心配、お節介。

特別な手紙でなどあるはずがなかった。

「……外から届いた手紙は、これが初めてなの。

 おかしい? こんなもの、大切に持ち歩いているなんて?」

は平気そうに言ったが、その目はどこやらへ泳ぎ、まっすぐに彼を見つめることができずにいるようだった。

いま目が合ったら、は思わず涙をこぼしてしまうかもしれない。

思いきり泣いてしまえばきっと楽なのだろうが、はそれを嫌がるだろう。

彼は手紙の文字を追うふりをして視線を落とし、の目を逃がしてやった。

「いいや、別に……変じゃないよ。こんなことしてたんだな、あの人」

「嬉しかったわ」

「そーか。そりゃあ、よかった」

を気に入っていたようだから。

何気なく呟いた言葉は、の胸の内に思いがけないほど響いたようだった。

得手の演技もままならず、涙をこらえて唇を噛みしめるなどというの姿など留三郎は見たことはなかった。

ちいさく息をつくと、留三郎はの頭を肩口にぎゅっと抱き寄せた。

「よかったよかった。世話焼くの好きだからな、あの人。暇だったら、付き合ってやってくれ」

「……ええ」

が落ち着くのを、抱きしめてやったままで待ちながら、留三郎は思った。

近い未来、ほんのひと月ほど先のこと、この恋人とのあいだには確実に別れが訪れる。

離れてしまったあとで、忍の任務に当たるもの同士、

あまり頻繁に、緊密には連絡を取り合えないかもしれない。

名目上は恋人ではなくなったそのときに、それでもこの娘を恋しいと思ったとして、

ただ一言元気かと、手紙をやって尋ねるくらいは許されるだろうか。

なかなか素直になれないも、

素っ気のないひとこと・ふたことだけがしるされた手紙を見て、

そこに込められたかつての恋人の想いを感じとり、涙にくれたりしてくれるのだろうか。

頼りなさげな細い肩を、留三郎は両の腕にしっかりと抱きしめた。






宵のみぞ知る  大切