期待


“次の休校日には一緒に町へ行こう”

一歩歩けば忘れるほどに呆気ない約束を、しかし留三郎もも忘れはしなかった。

は素直になれないたちだからと、留三郎は理解のある恋人の立場を保ってやる。

ときどきは頑なな恋人を困らせてみたい気もするが、素直に可愛がるほうが彼の性に合っていた。

しかし、町に出たところで、一体なにをするというのだろう。

しかも、よりにもよって俺とが今更?

ぐるぐると彼はそのようなことを思い巡らせ続けていた。

誰かに助言を請うてみてもいいのだが、悪友達に告げるのはなんだか嫌な予感ばかり募るし、

そもそも誰もが発想しうるようなありきたりなことがの枠におさまってくれるのかどうか。

が突飛な存在であると彼も思っているわけではないが、そこが彼女の性格である、

ごく普通の十五歳の少女が喜ぶようなことに素直に乗り切ることができないこともしばしばだし、

羨ましいと内心では思ってもそれを言葉にしたり態度に出したりすることを躊躇うのだ。

もう少し素直な生き方をしてくれたら、見ているこちらとしても安心できるのだがと、

留三郎はたまにそんなことも思う。

しかしまぁ、こんなところも可愛いといえばそうだ。

恋は盲目を体現するかのごとく、留三郎はこの点に関しすすんでを甘やかしている。

休校日は翌日に迫っていたが、留三郎は特に町に出てどうするこうする、という想像ができずにいた。

行けば行ったで何とかなるだろうと、途中で思考を放り出し、

普通の恋人同士が楽しむであろう時間になにとはなしの期待を寄せて、眠りについた。



翌朝である。

「食満くん。起きて」

聞き慣れた涼やかな声が彼の耳元で囁いた。

「朝よ。起きて。昨夜はそう遅い時間まで鍛錬したりはしなかったでしょう」

まだ眠いのと、その声は不満そうに彼に問うた。

「……?」

「やっと覚醒したの? 気配くらい気づけなくちゃ」

「……なんでここにいる」

昨夜はは自室へ引き取っていて、留三郎の部屋へ泊まったりしたわけではなかった。

一緒に眠っていて朝起こされるというのなら

百歩譲って理解できる──はこれ以上ないというほど朝に弱い──が、

今朝は一体どうしたことかと彼は思う。

「食堂に行きましょう」

「ああ……うーん……」

「もう」

眠そうにあくびをする留三郎に、は呆れ気味に息をついた。

「わかったよ。起きる」

のろのろと布団の上に身を起こした留三郎は、もうひとつ大あくびをすると改めてに目をやった。

すっかり身支度の整った状態ではそこに座していた。

とはいえ、いつもの見慣れた忍装束姿ではなく、可憐な町娘ふうの装いである。

「……今いくつだ……?」

「ええと 明け六ツくらいかしら」

「……おい」

参ったと言いたげに留三郎は肩を落とす。

とんでもない早朝である。

熱心な上級生が数名、鍛錬のために辛うじて起き出している頃だ。

「いくらなんでも、この時間に食堂は開いてないだろ……」

「そうかしら」

「そうだろう」

はあ、と留三郎はこれ見よがしにため息をついたが、

改めてを見やると責める気も失せてしまう。

装いの印象はごく清楚だが隙なく見事な調和を醸し出しており、

の黒く艶やかな髪とよくものを言う瞳とに実に似合いであった。

うっすらとした化粧も普段のそれとは少し違うふうであるのか、

やわらかくやさしい面差しに見え、可憐という言葉がぴたりと当てはまる。

いつものことながら・女は化けるものだなあと思わされ、留三郎は苦笑した。

「随分はりきったな」

指を伸ばし、髪を撫でてやると、は意外そうに目を見開いた。

一瞬おいて、少し不機嫌そうに眉をひそめると、別にそんなこと、とは呟く。

「照れるなって」

そのまま続けて 可愛いよ と口を滑らせてしまいそうだったが、

言ってしまえばいいものを、留三郎はなぜだか言えずに飲み込んでしまった。

手を尽くした装いのすべても、期待が高じて急ぎ足で支度を終えてしまったことも、

留三郎のためと言えばそうなのである。

思い当たるとそれが素直に嬉しかった。

時間が余るのはわかりきった頃であったが、

すっかり身繕いの済んだにもうひと寝入りしろとも言えるわけがなく、

そのまま起き出すことに決める。

いつもどおりに指先が忍装束を探り当てたが、いやいや違うとそれを置く。

にはもう着替えの最中くらいは席を外そうなどという遠慮もないらしく、

布団からさっさと留三郎を追い出すと、手際よくそれをたたみ始めていた。

このところはまわりからよく所帯じみてきたなと言われて妙な思いをする留三郎だったが、

そう見えても仕方がないかもしれないとついつい思ってしまった。

よそ行きの格好のと連れだって部屋の外へ出ると、

ちょうど鍛錬に出るところらしい潮江文次郎と七松小平太、

一歩うしろに中在家長次の姿が見えた。

いのいちばんに小平太が気付き、ぶんぶんと手を振ってくる。

「おーい! 早いねー! どこ行くのー!」

「どこでもいいだろ!」

「デートか! デートだー!!」

言い返した留三郎をさらりと無視して、小平太は楽しそうに叫ぶと、

唐突にふたりのほうへ駆け寄ってきた。

やれやれと言いたげに文次郎と長次も続く。

「また随分化けたこった……」

「失礼だわ」

長屋の廊下から、は冷ややかに文次郎を見下ろした。

「あれかー! まごにもいしょう!?」

あっけらかんと小平太が言い放ったのにはさすがのも目元をぴくりと引きつらせた。

とは言え、小平太本人には悪気などなかったし、

その語の意味するところをきちんと理解しているかどうかもあやしいくらいである。

少々焦ったのか、長次が彼にしてはかなり聞きやすい声でフォローを入れた。

「小平太、それはあらゆる意味で間違っている」

「あー、そう?」

「不愉快よ」

「ごめんごめん! でもほら、すっげー可愛いし」

留三郎が先程言えずに押しとどめてしまった言葉を、小平太はいとも簡単に口にした。

なんとなく気に食わないと思った横で、

はすましてありがとうなどと答えたので、留三郎はほっとしてかすかに息をついた。

が照れて見せれば少しは妬いてしまったかもしれないが、

すまし顔で簡単にあしらってしまったので、なんとか余裕そうにしていることができる。

ふと、長次が黙ってじっと視線を寄越していたのと目が合い、

留三郎はわざとらしくふいと視線をそらした。

長次にはなんとなく見透かされてしまっているような気がして、ときどき心地が悪いのである。

三人と別れて食堂へ向かうと、おばちゃんはまだ朝餉の支度をしている最中だったが、

の姿を見て事情を察したのか、ふたり分だけ先に用意すると言ってくれた。

せめてもの礼にと食堂の掃除をしたり、テーブルを拭いてまわったりと手伝いを買って出る。

出かける前から働いて奇妙なことだと思いながらも、

なにをするにもなぜだか楽しくて、朝餉を待つのもそう苦にはならなかった。

お待ちどおさま、と差し出された盆を受け取り、食堂の隅の席について、

そういえばと留三郎はに問うた。

「なんとなく町に行くとだけ言ってたけど」

「ええ」

「……行ってなにする?」

「さあ……あまり考えていなかったわ」

「そうか。俺もだ」

一瞬しんと会話が途切れてしまった。

チラとの様子に目をやると、なにか考え込んでいるらしい。

留三郎はそのまま、の言葉を待つことにした。

「……必要なものがあるわ。もしあなたが構わないようなら、少し買い物をさせて」

「ああ、わかった」

ちなみにものがなにかと聞くと、化粧品やらなにやらとこまごま挙げられる。

それが留三郎には女装でもしない限り必要にならないものばかりで、

おなごは大変だなと思わずにいられない。

しかしはなにとはなしに愉快そうな様子であるので、

当人にはそう悪いことでもないのだろうなとぼんやり考えた。

なんだかんだと、出かけられる頃にはほかの生徒もちらほらと起き出してきたらしい。

休校日ながらはやばやと食堂にやってきた生徒は物珍しそうにと留三郎との姿を見、

友人たちとひそひそ言葉を交わしたりしている。

なんとなく居たたまれないと思ったときにははすでに朝餉の盆を下げており、

目の前の席でテーブルに頬杖をつき、無言で留三郎を急かし始めた。

の視線にさらされることがいちばん緊張をともなうということに留三郎は今更気付き、

急に味気を失ったような食事を無心に噛んだ。

盆を下げると、茶をいただいて一服などと悠長なことを言う暇も与えられず、

に引きずられるようにして学園の門のほうへと向かうことになった。

途中、鍛錬を終えたらしい小平太たち三人が戻ってきたのを遠くに見つけたが、

いってらっしゃーい、と言われたのにろくに返事も返せないほどせかせか歩かされ、

気付いたときには町へ向かう道を半ばほども来ている有様だった。

……まだ時間は有り余ってるぞ……」

「そう? いくらあったってきっと足りないわ」

振り返ったの表情がやけに明るかったので、留三郎はそれ以上なにも言えなかった。

はまた前に向き直り、続けた。

「任務もなにも絡まないで、遊びに出るのはとても久しぶりよ……

 去年まではたまにあったのだけど」

去年まではにも同年の級友が存在したのである。

たまに連れだって出かけていくのを、遠巻きに眺めていた覚えはあった。

「好きなひとと一緒なのも、初めてよ」

はくるりと、不意打ちのように振り返った。

満面の笑みを向けられてしまうと、朝早くに起こされたことも、無言の圧力に急かされたことも、

もうどうでもいいような気がしてしまう。

好きなひとと、とが言ったのを、留三郎は辛うじて聞き留めていた。

にそのように言われたのは、初めてかもしれなかった。

いつもと違う状況が、久々に遊びに出かけることが、恋人と一緒ということが、

の内心を軽く舞わせているのかもしれない。

普段なら滅多に聞けないそんな言葉を耳にして、

留三郎はふと

ちゃんと可愛いよと言ってやればよかったかなと、

先程思いとどまってしまったことを惜しむのだった。



ちょうど町が賑々しく動き始めた頃、ふたりはその入口に辿り着いた。

学園からはいちばん距離が近く、

生徒達が町へ遊びに行く、と言えばだいたいこの場所のことを指している。

天気に恵まれた休校日に町を訪れるのはふたりだけではないかもしれない。

「誰かと出くわすかもしれないわね」

「そうかもな」

言いながらふたりは、人の行き交う道を並んで歩きだした。

平気そうな顔で返事をしてみたものの、

知り合いとすれ違うのは気恥ずかしいように思われて、留三郎はチラと周囲に視線を走らせた。

は構わず一歩先を歩いており、その足は迷わずに目的のあるほうへ向いているらしい。

女にとっては武器になるからと、いつも頭巾をせずに背中に泳がせている艶やかな黒髪が、

今日はすそでくるりとまとめられている。

どこまでもどこまでもくの一に見えるが、今日はそれを装おうとしていない。

数歩急いで隣へ並ぶと、その拍子にか、ごくわずかに花のような香りがした。

気のせいかと思ってつい、覗き込むように顔を近づけると、不思議そうな視線が見返してくる。

「あ・悪い……香りがしたから」

「おやすみの日くらいは構わないでしょう?」

は言って薄く微笑んだ。

目に見えるものもそうでないものも、装いを凝らすのになんと長けた奴かと、

留三郎はこっそり嘆息してしまった。

香り・匂いすらも弱点となりかねない・と教わる学園においては、

湯殿でしゃぼんを使うとか、作法の授業で茶の湯や香を嗜むとかをしない限りはその身に香りは移らない。

ひどく新鮮な気がしたのであった。

(……そういえば)

のことを、女だからだとかくの一だからとかと意識したことは何度となくあった。

けれど、十五歳の女の子なんだと思ったのは、もしかすると初めてだったかもしれない。

見ればは、それが目的地なのかたまたま目に留まったのかは知れないが、

小間物屋の店先へと寄りついたところであった。

振り返って手招きをしてくる。

自身ではあまり馴染みのない場所だ、と留三郎は思い、少し緊張気味に歩み寄った。

「……こういうの、かなり持ってるって言ってなかったか?」

「ええ」

「……それでまだ欲しいのか」

「いくらでも。見ているだけだって楽しいわ」

わからないのね、と言っては美しく、しかし苦い笑みを浮かべた。

「任務のための買い物ではないのよ、ただの道楽。

 ねえ、あなたはどんなものが好き?」

どんなものが似合うかしら、と聞かれているだろうことは留三郎にもわかったが、

答えることに彼は躊躇い、うーんと唸ったきり言葉を失ってしまった。

はクスリと小さく笑う。

「いいのよ、殿方に聞いてもちゃんと答えてもらえることなんてないのだもの。

 それが興味がないという意味ではないとわかっているし、

 あなたのために装ったものが無下にされているわけではないと理解してもいるわ」

蕩々と述べられて反論の隙もなく、留三郎は面目ないと気まずく視線をそらした。

やはり先程ひとこと、可愛いだとかよく似合うだとかくらいは言っておくのが正解だったようだ。

こうまで先手を打たれて、己の舌の巧くまわらなかったことを庇われまでしてしまうと、

情けないと落ち込むのを通り越して負け放してたまるかと奮起したくもなってくる。

留三郎はずらりと並んだ簪に視線を落とした。

しかしどれが、と言われても途方に暮れるより他はないというほどのおびただしい数が並び、

なにかひとつを選び抜くだけで相当困難なのではと思わざるを得ない。

が手に取ってみるそれらは、他の多くのものとは違う興味をそそるなにかを秘めているのだろうか。

正直なところ、さっぱりわからないというのが留三郎の本音であった。

「……はどんなのがいいんだよ」

「そうね……手持ちの着物と合うものをいつも求めるけれど、

 そうなると少し似通ってしまって」

「ふーん」

興味のなさそうな返事をしてしまったことに留三郎は自分でぎくりとするが、

は気にもかけない様子で続けた。

「少し違ったものがあってもいいかしら……と、思ったのよ」

はいたずらっぽく視線を上げる。

やや答えに詰まった様子の留三郎を見、思った通りの反応と言いたげに笑う。

「いいのよ、気にしないで頂戴。

 あなたといるときに制服や夜着以外の身なりをしているほうが珍しいものね。

 普段は私も髪は下ろしているだけだし」

うーん、と返事のような、納得いかずに唸るような、奇妙な反応しか返せずに留三郎は腕組みをした。

そういえば、と、留三郎はふとあることを思い出した。

にとってはきっとつらい記憶であるから話題には出さないようにしているが、

いつかの任務の折に・敵方から簪を奪い返そうとしたことがあった。

あれはくの一教室で会計委員の仕事を担当していた四年生の後輩のもので、

赤い珠に黄と緑の数珠繋ぎの下げ飾りがついた、可愛らしい簪だった。

それが委員会中にチリチリ鳴るのが耳につくのだと、

委員長をつとめる潮江文次郎が言っていた。

文次郎はその後輩の特徴として、その簪のことを記憶していたらしい。

(あの野郎でもおなごの装いを覚えることができてたってのに)

自分はさっぱりだった、ということに思い当たり、

留三郎はこれまでにないくらいズンと深いところまで落ち込んだ。

情けないような腹立たしいような思いで傍らのを見やると、

実に楽しそうに二つ・三つの簪を取り上げては見比べている。

目的のものを手に入れるそのことだけではなく、こうして迷うことも楽しみなのだろう。

微笑ましくて、留三郎はついふっと笑い、の手からひとつを取り上げた。

不思議そうに見返してくるの耳元にそれをかざす。

「……細かい違いなんかわからねぇけどな」

「あなたが選んでくれるの?」

「いままでなにかしてやったことって、ないもんな」

選びきれなかったらしい数点を代わる代わるの髪に飾る真似をし、

最後に留三郎が選び取ったのはちいさな花のかたちを模した飾りがいくつも散らされ、

その間を蔦が這うように流線がつないでいる、優美なかたちの簪だった。

「とても上品ね……潮江くんにからかわれそうだわ。女狐のくせにと」

「昔なら言ったかもな」

と留三郎がより親密になってき、少しずつまわりの皆とも打ち解け始めたことで、

を毛嫌いしていた文次郎の態度もかなりほぐれつつあるのが最近だった。

「それとも馬子にも衣装、かしら」

「もう言わねぇよ、いくらなんでも……」

耳元にちゃんとその簪をさしてやり、留三郎は頷いた。

「うん……キレイだ」

己でも思ってもないほどさらりとそんな言葉が出て、留三郎は数瞬おいてからかあっと赤くなった。

「いや……つまりええと」

「……そんなに照れなくてもいいのに」

も苦笑したが、頬が薄赤く染まって見えた。

「ありがとう。とても素敵」

いいお買い物ができたわ、と微笑むの髪は飾ったそのままに、留三郎は店主を呼んだ。

ぽかんとしているをよそに、彼はさくさくと簪の支払いを済ませた。

「……食満くん?」

「いいよ、たまには。……贈らせてくれ」

言って彼は静かに笑ったが、それ以上を直視できそうもなくて、さっさと視線をそらしてしまう。

見つめた先のが、なんだか今にも泣き出しそうに目を伏せたせいかもしれない。

店を離れてまた歩き出してしばらく、は聞き取れないほどかすかな声で、

ありがとう、大切にするわ、と呟いた。

肩越しに振り返ると、店先からずっとさしたままでいた簪に指を触れて、嬉しそうにしている。

「……任務にはとても持っていけないわ」

「はは」

「普段使うのだって勿体ないわ」

「しまい込まれるのもなんだかな……」

ふたりは並んで歩きながら、楽しそうにくすくすと笑った。

日はやっと高くのぼった頃である。

予定などあるわけではないが、一緒に他愛のないことをして時間を過ごすそのことだけを、

留三郎はやっと楽しみだと期待を寄せることができた。

日が暮れて帰りの道を辿るまで、次はどこへ行ってなにをしようか、どんな話をしようか。

弾む胸の内を精一杯抑えて、留三郎はまたを振り返った。

屈託のない笑みを浮かべる、ただの十五の少女がそこにいる。

耳元には恋人から贈られた小さな花をいくつも咲かせて。

くの一としてあることがまるで当たり前のようになっていたの、

今日このときのこの笑顔を、それを見て己の内に生まれたこの幸福感を、

俺は一生忘れない。

留三郎はかたく心に誓った。






宵のみぞ知る  期待