今年度のくの一教室には、たったひとりだけ六年生がいます。
くの一教室の上級生とはあまり会うことがないので、私たちもその人のことはつい最近になって初めて知りました。
名前を先輩といいます。
とてもきれいな人です。



宵のみぞ知る  当然



先輩にはいろいろな噂があります。
忍たまのあいだではある意味とても有名な人なんだと、
川西左近先輩と三反田数馬先輩がひそひそ教えてくれました。
くの一としてはとても優秀で、学園を通して請けた依頼も失敗したことがなかったそうです。
山本シナ先生もとても信頼しているし、くの一教室のほかの女の子たちにとっては憧れのまとなんだといいます。
そういえばユキちゃんやトモミちゃんやおシゲちゃんも、
先輩の話をするときはなんだかとろけそうな目をしています。
よっぽどすごい人なのかなあと思っていたら、
先輩方は苦い薬を噛みしめたときのような嫌な顔をして、首を横に振りました。
忍たまのあいだでは恐がられているんだと聞いて、
くの一教室の子たちの話とまるで別の人のことのようで、ちょっと混乱しました。
先輩もやっぱりくの一はくの一で、忍たまをからかったり罠にかけたり騙したりして、
にこにことそれを見守っているんだそうです。
その嫌がらせの数々は最上級生らしい“巧妙”なもので、
私たちが引っかけられるものとはわけが違うんだと、先輩達は身震いしました。
そういえば、前に団蔵が会計委員会の予算会議の話をしてくれたとき、
くの一教室の代表としてやってきた先輩と会計委員長の潮江文次郎先輩が差し向かいで勝負したって言ってました。
ほかの委員会は大苦戦した末に予算をばっさり削られていったのに、
先輩は潮江先輩を言い負かしてあっさり予算案を通してしまったそうです。
どうやら潮江先輩は先輩に弱みを握られていたみたいで……
潮江先輩はちくしょう、女狐……なんて悔しまぎれに言うことしかできなかったし、
ほかの会計委員の先輩方もまさかくの一教室の最上級生にものを言うなんて度胸がわかなくてダメだったそうです。
そんな調子だから、くの一教室の子たちはなにかあったときは
先輩に言いつけて忍たまの先輩方をこてんぱんにやっつけてしまうってことが、
結構頻繁にあるんだって聞きました。
大変な人揃いの六年生の委員長達も先輩を相手にすると口ではほとんど勝てないなんて言うからびっくりです。
なかでもいちばん先輩に弱かったのは、きっと用具委員長の食満留三郎先輩です。
食満先輩が先輩を好きになってしまったらしいという噂は、たぶんいちばんよく耳にしたと思います。
先輩と食満先輩が食堂とかでばったりと会うと、先輩はとても楽しそうに食満先輩をからかっていました。
最後には必ず、食満先輩が言い返せなくなってしまいます。
先輩はそうなるといつも満足そうに笑います。
そんなところにたまたま出会ってしまうと私は、
先輩が恐がられる理由や女狐なんて呼ばれてしまう理由が、ちょっとだけわかる気がしました。
先輩は一度、任務で大きな失敗をして大怪我を負って帰ってきました。
怪我が治るまで先輩は医務室でやすんでいたので、
私たち保健委員たちはこれまでにないくらい先輩の近くで治療やお世話をしました。
そうして話をしてみると、先輩は本当は恐い人でもなんでもなくて、
やさしくてよく気がつく、女の子たちが憧れる気持ちもわかるなあなんてつい思うような、
素敵な人だということがわかりました。
くの一教室の子たちはきっと先輩のこういうところをよく知っているんだろうし、
食満先輩もそこに気がついていたのかもしれません。
その事件のあと、先輩と食満先輩は急に仲良くなっていきました。
好き同士になれたんじゃないかなと思います。
用具委員のしんべヱと喜三太もきっとそうだって言っていました。
先輩はたまに、食満先輩に会いに用具委員の活動場所に来るんだそうです。
先輩はあまり人の目を気にしないで食満先輩に甘えたりするので、
そのあいだ三年生の富松作兵衛先輩が用具委員をまとめるのに苦労するみたいです。
そしてこの冬、先輩は卒業試験が早めに終わってしまったので、授業の時間が余る日が続いていました。
それで、土井先生が助っ人に呼んだんだと思います。
女装の授業のひとつで化粧の練習をするとき、先輩が先生役では組の教室に来ました。
持ってきた手箱の中にはびっくりするくらいたくさんの化粧道具が入っていて、
私らはもちろん、土井先生も山田先生も(っと、伝子さん も)呆気にとられました。
先輩は惜しげなくそれを私らに寄越して、さあ始めましょうか、と言って笑いました。
あでやか、という言葉にはきっと、こういうときに例えるものなんだと思います。
先輩のいるところだけ、花が咲いているように見えました。
先輩はご自分の顔にお手本をやってみせてもくれました。
もともときれいな先輩の顔が、化粧をするときりっとしてますますきれいに見えました。
でも私たちが真似をしてもなんだか上手くいきません。
先輩は きれいきれい と念じなさい と言いました。
「先輩はいつもそう念じているんですか?」
「ええ もちろん」
なにを当たり前のことを聞くのと、先輩は言いたそうでした。
私たちは男だし、女の人のことは本当にはわからないということなのかもしれません。
でも、教室の向こう側で伝子さんがうんうんと熱心そうに頷いていました。
「言葉にも思いにも力は宿るものよ。
 強く念じることは、ふるまいを自信に満ちた落ち着いたものに見せることにつながるわ。
 自然、まわりの人たちに与える印象も変わってきます」
なるほど、と私たちは頷きました。
あとから聞くと、先輩がいちばんお得意なのは、
変幻自在にふるまってまるで別の人になりきってしまうことなのだそうです。
任務のときも、そうしていちばん相応しい人物を考え出して、その人になりきります。
ほとんどは先輩の思ったとおりにまわりの人が動き出すので、任務はすごく成功しやすいんだそうです。
体力や腕力の勝負ではくの一たちは不利なことが多いから、と聞くと、
先輩の作戦は無駄がないようにやりやすいようによく考えられているんだなあ、と思いました。
「そうして堂々としていること、というのは、実はとても大切なことなの。
 ヘマをしてしまったからといって、それを顔に出してはだめよ。
 少しくらい不自然な振る舞いを見せてしまったとしても、
 落ち着いて堂々としていれば、周りの人はそういうものなのだと考えていきなり疑うことはしません」
さあ、やってみましょう、と先輩はきれいに笑いました。
さっきうまくいかなかった化粧を、私たちはもう一度落としたり直したりしました。
頭の中できれいきれい、と念じてみます。
念じていると本当にそんな気がしてくるから不思議です。
さっきよりもちょっとだけ、うまくできたような気がしました。
隣のきり丸はでも、けっこういつもどおりです。
きり丸は土井先生に黙って女の子の格好で町に出てみたりしているので慣れているんだと思います。
しんべヱはちょっとぷっくらしているのが可愛く見える気がしました。
まわりのみんなも、いつもより女の子の格好に馴染んでいて、不自然じゃないように見えてきました。
念じるっていうことは本当はとてもすごいことなんじゃないかと思います。
だって、そんな気がする、って一度思ったら、頭の中で疑う気持ちがするすると引いていきます。
きっと、これは忍たまの友とかを見たら術として載っているようなことなんだと思います。
習ったかもしれないけど、いまその術の名前はすぐに思い出せません。
土井先生には内緒です。
魔術みたいな不思議なことではなくて、ひとの気持ちを動かすために自分がどんなふうにしたらいいのか、
それを上手に考えてやってみせることが忍術の基本なんだって、
考え続けていたらすごくよくわかってきました。
先輩はきっと、周りのひとのことを外から見てわかるのが上手なひとなんだと思います。
すごいなあ、と思いました。
じっと見ていたら、先輩は私に気がついて、にこっと笑ってくれました。
医務室で先輩のお世話をしていた頃から、私と先輩はちょっとだけ仲良しです。
化粧と着替えが終わったところで、今日は町に出てみることになっていました。
先輩方が女装の授業をするときは、
男だってばれないようにしながら、女の人として任務をこなさなければならないそうです。
そんな課題が出たら、私ならびくびくしてばれてしまうかもしれません。
みんなの支度が終わったのを見て、よーし、と土井先生が言いました。
からはいろいろと大事なことを教わったぞ。
 これから先の授業でも違う教科の授業でも通じることだからな、よーく覚えておくように。
 普段のやほかのくの一の先輩たちのことを思い出しながら、
 町に出かけてぐるっとひとまわり歩いてみよう」
いつもの格好の土井先生と、いつもどおりの伝子さんと、
化粧も着物もとってもきれいな先輩も一緒に、私たちは町へ行く道を一生懸命内股で歩いていきました。
先生の言ったとおり、歩きながら私は先輩の様子をずっと見ていました。
先輩の着物は、ふんわり黄色っぽい白の地にいろんな色の花模様が入っていてとってもきれいです。
先輩は化粧のほかにも髪を結ったり着物を選んだりするのが上手で、
くの一教室の子たちはよく先輩におめかしを手伝ってもらうって言っていました。
そうしたら、食満先輩が先輩をやさしそうな目で見ているのと同じふうに、
好きなひとが見てくれるかもしれない、そんな気がするって、
くの一教室の先輩達が食堂できゃーきゃー言っているのを聞きました。
でも私はそれだけじゃないような気もします。
だって食満先輩は、おめかししていないいつもどおりの先輩のことも、とってもやさしい目で見ています。
それは善法寺伊作先輩も言っていたことなので、伊作先輩にもそう見えているんだと思います。
伊作先輩はそのとき、自分のことみたいにちょっと赤くなって、
乱太郎も大きくなって好きなひとができたらわかるかもね、と言いました。
私は、食満先輩が先輩を見ているときと同じような目で、
伊作先輩が骨格標本のコーちゃんを見ていることがあるのも知っているけど、
なんだかそのときはそれを言い出せませんでした。
私も少し、くうきがよめるようになったんだと思います。
町にはひとがいっぱいいました。
女の子がぞろぞろ十人以上もかたまって歩いているので、私たちはすごく目立つみたいでした。
すぐ横を通るひとたちがちらちらと私たちを見ていきます。
なんだか、女の子の格好をしている男なんだっていうのがばれてしまってるような気がして、
私は縮こまってしまいました。
乱太郎、大丈夫だって、と、きりちゃんが言います。
きり丸はやっぱり慣れているみたいで、すごく堂々としています。
私たちがみんな男だって見破られてしまっても、きり丸だけは絶対女の子に見えているんだろうな。
堂々とすること、という先輩の言葉を思い出して、私は背筋を伸ばして歩きました。
しばらく行くと土井先生が、ここで一度解散、半刻後にもう一度ここに集まること、と言いました。
女の子の格好であちこち歩いてみることに慣れなさい、ということみたいです。
ずっとみんなで固まっていたからなんだか安心していたけれど、ばらばらに歩くのは心配です。
頼りになる土井先生と山田先生(また間違えた、伝子さん)はもう
私たちがそれぞれ行動し始めるのを待っているみたいだし、
どうしようもなくて私は先輩を目で探しました。
先輩は私たちのそばにはいらっしゃいませんでした。
振り返ると、やってきた道のすごく向こうのほうで、小間物屋さんを熱心に眺めています。
どうやら先輩は、気になるお店を見つけるとさっさと私たちから離れてしまったみたいでした。
もう、こういうところは忍たまの六年の先輩達と変わらないんだから、
最上級生ってみんなこうなの、と私は思ってがっくりへこみました。
ふと、土井先生がおや、と言うのが聞こえて、私はまた土井先生のほうを向き直りました。
先生の見ている先には薬草売りのお店があって、
その前に善法寺伊作先輩と食満留三郎先輩がいるのが見えました。
先輩方はすぐに私たちに気がついたみたいで、お店の品物を眺めるのを一回やめてこっちを向きました。
「やあ、善法寺、食満。六年は組はいまの時間は空いているのか」
「はい、たまたま。そちらは授業ですか」
善法寺伊作先輩が私たちを見てにこにこしながら寄ってきました。
食満先輩は伊作先輩に遅れて一歩二歩こっちへ寄ってくると、
私たちの一団のずっと向こうにいる先輩を見つけて呆れたみたいにため息をつきました。
ああ、あいつは、なんて言いながら、でも食満先輩は笑っていたので、
先輩らしいなあと思ってそれが嬉しかったんだと思います。
善法寺先輩は土井先生と山田先、……伝子さん、の、ところへ来ると、また私たちを見て言いました。
「可愛いですね、よくできてますね。これくらいの年齢だと全然おかしなところが見えませんし」
「ああ、今日は教えたひとも良かったから」
ですか。彼女得意ですもんね、こういうの」
善法寺先輩は顔を上げて、
向こう側でなにかの飾りを選んでいる先輩を見るとやっぱり困ったみたいに笑いました。
でもすぐになにかに気づいたみたいに目をぱちぱちして、あれ、と呟きました。
食満先輩もちょっと真剣な目になって、先輩のほうをじっと見ています。
私たちもつられて振り返りました。
先輩はそのとき、背が高くて身体のがっちりした男の人二人に声をかけられて、
ぴったり両側に立ちはだかられて身動きがとれないみたいになっていました。
町の真ん中で山賊なんかが出るわけがないけど、
きっとあの男の人たちはそれと同じくらい悪い人に違いないと私たちは思いました。
先輩は全然慌てないで、きょとんとして二人の男の人を見上げています。
しんべヱと喜三太がいのいちばんに、助けなきゃ、と言って走り出しました。
食満先輩が慌てて、あ、こら、大丈夫だ、と、なぜか止めましたが、
私たちは全員急いで先輩のところへ向かって走り始めていました。
二人の男の人は先輩に道を聞いていました。
でも顔はにやにや笑っていて、全然それが目的じゃないことはすぐわかります。
そこらへんの店で茶でも飲みながらゆっくり教えてくれよ。
なんなら案内してもらえると助かるねえ。
そんな声が聞こえてきて、私たちは焦りました。
男の人たちが先輩の腕を横から掴みました。
先輩が危ないのはわかりきっています。
でも、伊作先輩も食満先輩も、先生達も追いかけてくる様子がありません。
なんで、と思った途端、目の前でどしーんと、派手な音がして私たちは跳ね上がりました。
ちょっと目をそらしていたあいだに、二人の男の人は痛そうに呻きながら地面に転がっていました。
そのうちひとりの男の人の太い腕を、先輩の細い腕が、ぎゅぅとひねりあげています。
もうひとりの男の人は股間を押さえてごろごろ転がっていました。
一瞬遅れて私たちは、先輩が一瞬でこの二人の男の人をやっつけてしまったのだということに気がつきました。
先輩は息ひとつも乱さないで立ち上がると、ひとすじ乱れた髪の毛を上品な仕草で撫でつけました。
「……舐められたものね、か弱い女には力で迫ればどうとでもなるなんて思っていたのかしら?
 だとしたらなんて愚かな思い違いかしら。
 洗練された口説き文句のひとつも覚えてから出直していらっしゃいな。
 その程度の誘い文句は掃いて捨てるほど聞いたわ。いい加減飽き飽きしているところよ」
男の人たちはあんまり痛い目に遭って先輩の言葉も聞こえていないみたいです。
先輩がどういう攻撃をしたのかを私は直接見ていないけど、
男の人たちの痛そうな様子やまわりのみんなの真っ青な顔を見ると、
よそ見していてよかったのかもと思ってしまいます。
小間物屋のおかみさんがけらけらと笑って、相変わらず威勢がいいこと、お嬢さん、と先輩に拍手を贈りました。
先輩はすましてどうも、と笑いました。
つまり、この町で、先輩はもう何回もこういう目に遭って、男の人たちを返り討ちにしているということでしょうか。
これ以上考えるのは、でもやめます。
だって恐いです。
びっくりしたまま動けないでいる私たちに先輩は気がついて、あら、ウフフ、と笑いました。
「……こういう女が現実に存在するのよ。
 あなたたちの多少の慣れのなさなんて、どれほどのものかしら?
 無理に気負うことなんてなにもないの。普通にしていらっしゃい」
痛そうに苦しそうに呻いている男の人たちを足元に転がして、
先輩はまるで場違いなのに私たちが女装することについての気構えを今更改めて説きました。
話題が転換しすぎです。
それくらい先輩には、このひと騒動が特にこれといったことでもない、
取るに足りないことでしかないのでしょうか。
それも、先輩はいま、今日見た中でたぶんいちばんきれいな笑顔を浮かべています。
ものすごい説得力でした。
説得力っていうか、強制力っていうか、恐いです。
私たちはこくこくと、黙って必死で頷きました。
後ろからやっと食満先輩が来たみたいで、おい、、と呼ぶ声がしました。
「あら。食満くん」
「派手にやったもんだな」
「いつから見ていたの?」
「ああまァ、おまえにこいつらが声かける前から」
食満先輩はこいつら、と言いながら、先輩の足元でぐったりしている男の人たちを指しました。
先輩はじろ、と食満先輩を睨みました。
「あなたが割り込んできて私をかばうべきところだったのじゃないかしら」
「……いや、だって。別に、大丈夫だろう」
「そういう問題じゃないのよ」
くの一として戦い方を知っているからとか、そこらへんの男の人になら負けないだろうからとかじゃなくて、
先輩は無条件に食満先輩に守られるのが当たり前だから、
先輩が確実に勝てるようなけんかにも食満先輩はすすんで割って入るべきだ、と言いたいみたいです。
ふつうに聞いていたら、これはすっごいわがままだと思います。
でも食満先輩ははいはい、悪かったな、と聞いてあげています。
先輩はそれでもまだぷりぷりと怒ったみたいな顔で食満先輩をじっと見ています。
あ、そうか、と私は思いました。
たぶん先輩はいつもこうやって甘えてて、食満先輩はそれをわかってあげているんだって。
私はなんだか改めて、お二人がほんとに好きあってるんだなあってわかった気がしました。
食満先輩は先輩が文句を言うのを聞きながら、それでもにこにこ笑っています。
いつものあのやさしい目です。
きっと先輩のことがすごく可愛くて仕方ないんだなあって、私たちにもわかります。
「困ったねぇ、僕たちが照れるよね」
気がつくと、伊作先輩がそばにやってきていて、私たちにこそっとそう言いました。
しんべヱと喜三太がうんうんと頷いています。
たぶん、しんべヱと喜三太、それに伊作先輩は、
いちばんよくこのお二人が仲良くしているところを見ている同士なんだと思います。
食満先輩と先輩は、私たちのこともとりあえず気にしないで話し込んでいます。
口数が多いのは先輩で、そのほとんどはまだ文句でした。
「いくら私が負けはしないとわかっているからといって。
 あんな遠くからですって、一瞬では駆けつけもできないような距離で。
 いったいなにをしていたというの」
「いや、……珍しい柄だなと思って」
先輩は聞き返すかわりに顔をしかめました。
食満先輩が先輩を指さします。
「着物」
「これがなに?」
「見たことない柄だなーと、思っているうちに、片がついてた」
「……なによ。そんな場合じゃないとわかるでしょうに」
先輩の口調からあっという間にとげとげがなくなりました。
食満先輩が続けます。
「おまえは持ち物が多すぎるからな、正直わからないことのほうが多いけど。
 いままで着たことあるやつだっけ」
「……誂えてから初めて袖を通したのよ。丈が長かったのでずっとしまっていたの」
食満先輩はふぅん、とだけ言いました。
でもやっぱりやさしい見守るみたいな目で先輩(の、着物)をじっと見ています。
「そっか」
またそれだけ言って、食満先輩は口元でちらっと笑いました。
一言言って笑っただけなのに、それがすごい褒め言葉に聞こえました。
先輩にもきっとそう聞こえたんだと思います。
けんかの空気はどこかへ行ってしまって、先輩はすごく言いづらそうに、
今度こういうことがあったらちゃんと駆けつけて頂戴、とむすっと言いました。
食満先輩がうん、わかった、悪かった、と答えて、けんかは終わったみたいでした。
伊作先輩がくふっと笑ったのが聞こえたので見上げてみると、
先輩はなにかいたずらしたみたいな顔でこそこそ、言いました。
「いいかい、みんな、これがこの授業のいちばんの目的なんだから、よく見て覚えておくんだよ」
私たちは意味がわからなくて目をぱちぱちさせました。
食満先輩と先輩には、伊作先輩の声は聞こえていないみたいです。
伊作先輩は全然表情を変えないで続けました。
を見てごらん、いつもみたいな澄ました顔じゃないだろう?
 留と一緒にいるときは、彼女はよくあんなふうに自然な表情を見せるんだよ。
 笑った顔も素直で可愛いし。いつもはちょっと冷ややかな顔をしているけれどね」
言われて私たちはまた先輩のほうを見ました。
食満先輩となにか話しながら、先輩は機嫌を直したみたいで、
拗ねたような顔をしていたのにふわっと笑顔が混じります。
教室で化粧を教えてもらったときには見なかった顔です。
土井先生が追いついてきて、やっぱりひそひそ声で言いました。
「今日の勉強は、女の人の振る舞い方や表情を知ることだったんだ。
 には授業の先生役以上にこうして例を示してもらいたかったんだが、うまくいったようだな。
 助かったよ、善法寺」
「いいえ、お安いご用ですよ、僕にもちょうど用事がありましたし。
 荷物持ちの手が欲しいなんて言えば、留は渋々でも必ず着いてきてくれますからね」
土井先生と伊作先輩の言葉から私たちが知ったのは、
先生方はこの授業にそなえて先輩のほかに伊作先輩にもこっそりと協力をお願いしていたということ。
そして、町に食満先輩を連れてきて、
まるで偶然ばったり会ったみたいに先輩を食満先輩に会わせるのが伊作先輩のお役目だった、ということでした。
食満先輩と先輩ご本人方には知られないように、先生方と伊作先輩で仕組んだのだそうです。
「ほらね、あれが“女の子の” “女の子らしい”自然な姿のひとつなんだよ」
伊作先輩はにこにことそう言いました。
食満先輩になにか褒められたのか、髪を指先で撫でてもらって、先輩は嬉しそうに笑いました。
そこに、いつも別の人の振りをしてその人になりきってしまうだとか、
女狐なんて呼ばれて恐がられてしまったりとか、そういう先輩はいませんでした。
好きなひとと一緒にいてすごく幸せだって、顔に書いてあるみたいな、
見ている私たちが照れてしまいそうな、いまの先輩はそんなふうにしか見えません。
伝子さんがやれやれ、ってため息をつきました。
「忍者の三禁とは言うけどねぇ、
 の場合は食満から少なからずいい影響を受けているみたいねぇ。
 私らだって忍術人形を育てたくて先生やってるわけじゃないんだから」
その言い方はすっごく伝子さんの口調だったので私たちは背筋がぞわっとしたけれど、
言ってることは忍術学園の先生のせりふでした。
山田先生はきっと、先輩がくの一としてすごく優秀だっていうことだけをみんなが言うこととか、
先輩ご本人もそういうふうにふるまっていることとか、それを心配していたんだと思います。
私もちょっとだけ思ったことがありました。
くの一教室の女の子たちと先輩は、少し違う感じがするなあって。
先輩は、他の女の子たちと一緒に遊んだりはしゃいだりするよりも先に、
くの一としてどうしたらいいかってことを考えているみたいだなあって。
いまくの一教室には先輩しか六年生がいないし、いままでの他の先輩のことは私は知らないけれど、
ほかのくの一教室の女の子たちもみんな、六年生になったらあんなふうになっちゃうのかなって、
なんだか手の届かないひとみたいで、そうしたら寂しいなって。
伊作先輩が山田先生に、ウチの留も呆れるくらいいい奴ですからね、と言いました。
それもちょっとわかる気がします。
しんべヱと喜三太も食満先輩はすごくやさしくていっぱい遊んでくれて、大好きだっていつも言ってるし。
富松作兵衛先輩がたまにすごく食満先輩を恐がってるのがよくわからないって。
あ、でも、もちろん私の伊作先輩だってやさしくていろんなことを教えてくれる大好きな先輩です。
その、大好きな先輩達が、仲がよくていつも一緒にいるところを見ていると、私たちも嬉しくなります。
六年も一緒に勉強してきた先輩達だから、きっとすごくきずなが強いはずです。
いつも私は先輩達を見て、いいなあ、私もあんな最上級生になれるかなって、思います。
父ちゃんと母ちゃんもきっと喜んでくれます。
……それで、いつか、善法寺伊作先輩が私に言っていたように、
いつか私にも大事にしたい女の人ができたら、
食満先輩が先輩にするみたいに大事にしてあげたいなって、そう思います。
そうしたらその私の大事な誰かは、先輩がするみたいに幸せそうに笑ってくれるでしょうか。
卒業試験も少しずつ終わりを迎えて、もうすぐ先輩方は学園からいなくなります。
先輩方が学園から出て私たちの目の・手の届かないところへ行ってしまうのは不安で、
もしかしたら……なんて悪いことも考えてしまって、恐いです。
それでも、
きっとどこかで元気でご活躍されてるはず、お幸せでいらっしゃるはずって、
そう思って私は頑張ろうと思います。
そうやって頑張っていたら、きっとこんなふうに幸せそうに暮らせることが当たり前になるときが来るはずです。
そのときのために、いつかの私のために、私は一生懸命頑張ります。
先輩方のことを目標に、憧れに、そう思って頑張ります。
やっと私たちが少し離れたところから見ているのに気がついて、食満先輩と先輩が一緒に戻ってきました。
先生達が目を見合わせて笑います。
やれやれ、仕方ないね、なんて言いたそうです。
「さて、大事な勉強ができたところで。みんなで団子屋でも寄って帰ろうか」
土井先生が言うと、私たちはみんな喜んでばんざいをしました。
食満先輩と先輩も目を見合わせてにこっと笑いました。
伝子さんがぼそっと、半助のおごりでしょうね、と囁いたのに土井先生はひええ、と悲鳴を上げて、
私たちはそれでみんなで笑いました。
ちょっとびっくりすることもあったけど、きっと忘れられない、楽しい授業でした。
おわり。


宵のみぞ知る  当然