視線

いろは三組合同の実技授業は、さすが六年生とでも言おうか、授業終了の鐘より幾ばくか早くに片付いた。
疲労の凝る身体でもたもた歩いていたいつもの六人はしかし、
そのいつもなら耳に留めない音を聞きつけ、聞こえ来るみなもとを振り返る。
和琴をかき鳴らす音、鼓を打ち鳴らす音。
目をやった先には雨戸も障子も開け放った大教室が、
そこにくの一教室のくのたまたちが学年に関係なく集まって、どうやら舞の稽古中である。
あのもも色の忍装束ではなく・各々によく合う小袖をまとい、
扇を片の手に持ってひらり、ひらりとやるさまは蝶の舞うが如し、
いまだ幼い少女ですらもどこか妖艶に見えて末恐ろしい。
指導にあたっているのは若い男性の舞い手で、
見かけぬ顔であるところを察するに外部から呼ばれた師範のようだ。
彼らが興味本位で近づいていくと、指導を受ける順番が巡り、
立ち上がって新たに教室の中央に進んだ数人のうちに彼らはよく知るひとりを見つけた。
ちゃんだ」
小平太が不躾にを指さし、なにか意味ありげな目を留三郎へ向ける。
そろそろこうしたからかいを含んだ目にも慣れてきた留三郎だが、
の舞姿というのは見たことがなく、純粋に興味を覚えて目を瞬いた。
す、と抜けるような深い青地に小花模様の小袖をまとったは、
普段振りまいている色香のかわりに澄みわたる清水のような冴え冴えとした雰囲気をたたえている。
指導を受ける数人を遠く囲んで順番を待っているくのたまの生徒たちが、
姉とも慕う最上級の先輩を熱のこもった目で見つめている。
それでも六年生忍たまのお出ましには数人のくのたまがすぐに気づき、
それにつられて他のものもちらほらと彼らのほうを見返した。
も一瞬彼らを見やったが、何事もなかったかのようにすぐに稽古に意識を戻す。
すぐそばに座っているくのたまの後輩に、伊作が小声で話しかけた。
「今日はくのたま全員で授業なの? みんなそれぞれ着物で、可愛いね」
くのたま達は目を見合わせてくふふ、と照れたように笑った。
「先輩方がいらしたんじゃあ、みんな緊張してしまいます」
「なにを言うの、上手じゃないか」
言いながら伊作は、舞を披露している数人のほうへ視線を戻す。
と、ぱたり、とが扇を取り落とした。
「あら……」
はやや動揺したように目を見開いて、慌てて扇を拾い上げた。
でも緊張などすることがあるのだな」
仙蔵にひそ、と囁かれ、留三郎はうーん、とどちらともつかない返事をする。
確かに、いまのような小さな失敗を含め、慌てる姿はあまり見せることのないである。
「急に留が来たからだろー?」
「いや……別に今更何ということはないと思うぞ」
はいまもどこかあたふたと、師範の舞の型をなぞることもおぼつかない様子でいる。
なにか腑に落ちないような思いで留三郎はの舞う姿をしばらく見つめていたが、
やがてふっとおかしそうに笑いを漏らす。
「どうした」
「いや……やっぱあいつにも苦手なものはあるんだなと、そう思って。
 普段はきっちり取り繕って完璧そうに見せているけど」
そうした姿も愛らしい、とでも言いたそうな笑みを浮かべて、留三郎はまだくくと笑っている。
留三郎の恋人に甘いことは一同もこれ以上ないというほど承知であったので、
はいはいと聞き流して話題を脹らませようとはしなかった。
「しかし確かに、あの女狐には珍しいほどの外しっぷりだな……
 並んで舞ってる後輩のほうがよっぽど様になっているぞ」
よほど物珍しかったのか、文次郎の口調は呆気にとられてすらいた。
ひとりたどたどしい身振りでしか着いていけないは、
慌てるあまりか頬を赤くし、舞を間違うたびにああ、とかはあ、とか嘆かわしい声をあげ、
師範がもうよろしいと言うまでのあいだに更にもう一度扇を取り落とした。
「そこの、最上級生のあなた」
師範の男が、男にしては少々高く細い声でをさした。
「舞というものを甘く見ておられましょう。
 もう少々まじめに取り組んではいかが」
「まあ、先生……私は至極まじめに取り組んでおりますのに」
「いいえ、わたくしにはわかります、
 あなたはお持ちの力のすべてをお出しになってはいらっしゃらないのです。
 本気を出しておやりなさい」
「……そのように仰られましても……」
「これ以上の問答は無用。はじめからもう一度」
は困惑したような表情で俯き、気まずそうに留三郎のほうをちらと見た。
その視線はどうやら、なにもわざわざこのような失態をさらす場に居合わせずともよいものを、と訴えている。
確かに、これまで彼らの前ではまるで欠けたところのないような様子を演じ続けてきたなのだ、
このような情けない姿を真正面から見られることには恥と思えるところもあろう。
目を離すことができず、しかし留三郎はに少し気の毒と思った。
完璧な女でいてほしいと求めたことなど一度たりともあったはずがない。
どのような不甲斐ない姿を見せられようともを想う気持ちに変わりなどないと
留三郎は言いきることができるのだが、自身には今この時間は耐え難いものに違いなかった。
また最初から舞が繰り返されたが、の振る舞いの拙いことは同様のままである。
渋い顔での姿を見ていた師範は、最後まで舞いきる前にもうよろしい、とさえぎってしまった。
「先程申し上げたことをお忘れでいらっしゃるのですか。
 同じことを何度申し上げれば心得ていただけるのでしょう」
「……申し訳ありません」
「これ以上はないとお思いなさい」
言って師範は、もう何度か繰り返したらしい注意を再度に言い聞かせる。
「厳しいんだね、舞なんて礼儀作法の授業の一環だろうし、こうも本格的にやるところでもないだろうに」
ほとんど聞き取れないほどの小声で伊作が呟いた。
優秀な先輩で通ってきたが、大勢の見つめる前で注意を受け、未熟な芸を披露させられている、
更に畳みかけるように厳しい注意が飛ぶ……そのような光景を、留三郎ももう見ているのが心苦しいほどだった。
ふと気がついて周囲で見ているくのたま達の様子をうかがうと、
少女達はなにやら小声で言い交わしてはクスクスと思わせぶりな笑いを漏らしている。
まさか、普段とり澄ましている先輩のこうした姿を見て笑っているのかと、
そう思って留三郎は急に腹の奥に怒りが渦巻いてくるのを感じた。
先程までベッタリとしつこいほど仲がよかったはずの娘達が、
しばらくあとではまるでそれまでのことなどなかったかのようにひそひそと悪口を言い合っていたりする、
おなごのこうした態度の変化はどうしても好きになれない、と留三郎は辟易とする。
それも、悪し様に言われるのが己の想い人であれば平静でなどいられるわけがなかった。
師範の注意はまだに向けられている。
「ほら、またお忘れなのですか。
 扇はここでこう返すのです、その際目線はあちらに。
 右の手の舞うあいだも左の手を放ってはなりません、申し上げましたね」
「はい……申し訳ありません」
は苦しそうにそう返事をして、必死に指導のとおりの型を舞おうとする。
「違っていますよ、その足の運びは、」
またしても厳しい言葉が出ようとしたそのとき、である。
の目が一瞬なにかを企むように閃いたのを、六人は確かに目に留めた。
「……どのようにすればよろしいのでしょう、先生」
は静かな声でそう問い返した。
「お手本を、見せていただけません、先生」
やりこめられ続けたがどうやら逆襲に出たのか、
その口調の端々から彼女が攻撃に転じたらしいことが彼らには感じ取れた。
師範は一瞬黙ってから、よろしいでしょう、と答えて手本を示して一差し舞って見せた。
はその姿をじっと、食い入るように見つめていた。
端から眺めて留三郎は、その視線にこもるの意図になにか覚えを感じて首を傾げた。
ただ教えを請うているのでも、やられた分をやり返そうとして凝視しているのでもなさそうである。
あの目はなんだか──そう、己やこの悪友達にも何度か向けられたことのある目だ。
思い当たって留三郎はひく、と口元を引きつらせる。
罠を仕掛けてそれに相手がかかるのを待っている、それは恍惚の目に違いなかった。
舞い終わった師範に、は優美な笑みを向けた。
「なんと雅やかなお姿でいらっしゃるのでしょう。
 私など、どれほど心込めて舞おうとも先生の足元にも及びません」
「ふざけたことを仰い。
 あなたはおできになるのです、それなのにその才能をなぜ全うしようとなさらないのです。
 わたくしは……理解いたしかねます」
「まあ……買いかぶりすぎていらっしゃるのですわ、先生は」
私など、とまたは繰り返して、じっと長い睫毛のあいだを透かすように、上目遣い気味に師範を見返した。
師範はその視線に気圧されたようである。
どぎまぎとした様子での視線から逃れ、それでは次の方々、前へと声を張り上げる。
それで舞の順番を終えたは、
先程のおどおどとした様子から打って変わって・いつも通りのとり澄ました表情を浮かべて彼らの元へとやって来た。
「授業はどうしたの? まだ途中でしょうに」
「あっという間に片付いた」
「そう」
は楽しそうにそう答えて、肩をすくめて見せた。
「恥ずかしいところを見せてしまったわ」
「……まあ、あんまり、見ないな、ああいう」
「ふふ」
は口元でに、と笑うと教室の中央に向き直り、すぐそこへ座り込んだ。
近くにいた後輩たちがわくわくとした表情で寄ってきて、先輩、すごいです、と讃辞を向ける。
先程までひそひそとなにか言っていたくせに、この変わり身のはやさは何としたことか。
留三郎は内心げんなりとしてしまったが、には悟られないように必死に口元で噛み殺す。
知らぬが仏か、は後輩たちに微笑みかけるとありがとう、と答えた。
舞の稽古はそうして続いていった。
出番を終えたはいまはもう余裕そうに、教室の中央で指導を受けている後輩たちを見つめている。
その横顔をちらと見下ろして、留三郎はまたなにか違和感を覚えた。
──またあの目だ。
そうして気づくのは、が熱心に見つめているのは後輩たちでも授業の光景でもなく、
あの若い男性の師範の姿なのだということであった。
淀みのない視線を背に受けて、それが気にかかって仕方がないのだろう、
稽古の最中だというのに師範の指導はどこかしどろもどろになり、
なにか言いたげな視線をちらちらとに返してくるようになる。
その異変に、他の五人も気がついた。
「……おい、まさか」
、君、いまなにをやってるつもりなの」
「まあ、何のこと?」
知らないわ、とは愉快そうに囁いた。
師範はやがて耳まで真っ赤になりながら、要領を得ないことばかりが口を突いて出るようで、
先程失態続きだったがそうだったように・動揺してろくろく稽古の体裁も保てぬようになってしまった。
「うわー……すげぇ、女が男を弄んでる瞬間を間近で見たのは初めてだ」
、手加減してやれ……そのやり方は仕返しにしても陰湿だろう」
「仕返し? 私は先生の仰るとおりの努力をしているだけよ……よく見て型を修めるようにと」
は師範を意味深に見つめ続ける行為をやめようとしなかった。
そのくせ師範が折々・気にかけてのほうを振り向けば、わざとらしくふっと目を伏せてしまう。
そんなことを延々と繰り返してしばらく、授業の終了の鐘が鳴った頃には、
師範は真っ赤になって怒りをこらえるようにふるふると震え、
を振り返るときつく唇を噛みしめて睨め付けた。
強い視線もものともせずに、は立ち上がると悠然と師範に微笑み返す。
「お疲れさまでございました、先生」
「──あなたは。いったいなんのおつもりでいらっしゃるのですか」
「まあ? 意味がわかりませんわ」
朗らかに答えて首を傾げるを、囲む六人の忍たまはやや呆然と見やった。
この女、あくまでしらをきり通すつもりである。
男にとっては屈辱的に違いない。
さんざんに思わせぶりに見つめておきながら、
意味がわからないなどと嘯いて何事もなかったような顔で笑うなどとは。
反論をしようとして師範は口を開きかけたが、
結局悔しそうに言葉を飲み込み・踵を返すと大教室から出ていってしまった。
少々緊迫したような空気がそれでやっとゆるみ、教室はそれで開放的な雰囲気に満たされた。
「……くの一の授業は恐ぇな」
ぼそ、と文次郎が呟いたのに、は苦笑する。
「あら、潮江くんにも恐いものなんてあるの」
「お前らの餌食にだけはなりたくない」
「まあ、つれないこと。課題の標的として、あなたほど挑戦し甲斐のある人はいないのに」
「ざけんな」
「落としにくくて難度が高いと言っているのよ。褒めているのだもの、怒らないで頂戴」
クス、とは肩をすくめて笑う。
そのやりとりを端で眺めながら留三郎は、
少し前までは自身がの視線にとらわれ・自由に動けぬ身であったことをまざまざと思い返していた。
の視線は注がれるといつも痛いほどで、到底意識せずにはおられなくて、留三郎はひどく苦しかった。
問いつめても言い寄っても無視を決め込もうとしても最後には結局己が折れた──耐えきれなかったのだ。
想いが通じて、も少しずつ留三郎に気持ちを傾けるようになってからやっと、
痛くも苦しくもなく、やがてはその視線を己だけにと恋しく思うようにすらなった。
それまではどうすることもできない自分に苛立ちが募り、恥のようにも、屈辱のようにも感じたものだ。
たかだかおなごひとりの視線ひとつとって。
感傷にふけっていると、舞の稽古を反復していたくの一の後輩たちがを呼んだ。
先輩。このあと、覚えていらっしゃいますか」
「右の扇を返して、左の手を持ってきて添えて、それから」
「ああ、そこはね」
は振り返った。
それを見送りながら彼らはちらちら、不思議そうに目を見合わせる。
ろくろく稽古についていけてもいなかったに教えを請うとは。
先輩を笑いものにしたいのか、それとも?
少々心配も混じりながら見守る彼らの前で、は凛と、扇を構えて型を示して見せた。
「右の腕を前に。扇を返し、左の手を添え、同時に左の足を寄せて。視線は左前方、俯き加減に」
すらすらと淀みなく指導しながら、師範もこれならば文句のつけようがなかろうというほど、
は優美な舞姿を披露してみせた。
これには忍たまたちも開いた口がふさがらない。
「あれ……ちゃん」
「さっきはここで扇を落としたような」
皆が不思議そうに視線を見交わすと、くの一の後輩たちが可笑しそうにくすくすと笑う。
なにか居心地の悪い思いで、救いを求めるように一同はを見やった。
教えられた動作をひとつも間違えず、忘れずに、は立派に手本を舞って後輩たちから拍手を浴びている。
「あなたたちにもわからなかったかしら?」
突然背後からそう声をかけられ、六人は咄嗟にびくり、と肩を跳ね上げた。
振り返った先には若い女性の姿の山本シナ師範が立っていて、意味ありげににこりと微笑んだ。
「さあ、皆さん。舞の先生から評価を頂戴しましたからね。
 ひとりずつに申し渡して今日の授業は終わりとしましょう」
彼らのあいだをすり抜けて、山本師範は教室に上がった。
くの一教室の生徒たちは皆、真剣そうな顔で山本師範を囲んで集まった。
「まず、総合してどなたも筋がよろしいとのお言葉をいただきました。
 少々授業の態度には問題があったようですね、
 自分の順番が来るまでの待ち時間に私語が目立ったことに言及されておいででした、
 これは日々の授業でも言えたことです、常から注意をしていますね」
少女たちはしおらしげに肩をすくめた。
では一人ずつの評価を、と山本師範が低学年の生徒から順に名を呼び上げてゆく。
一人で見るには生徒の数は多かっただろうにそれぞれにこまやかな指導がなされ、
若く見えたがあの舞の師範とやらは相当芸をおさめていたのであろうと想像がついた。
最上級生のは評価を言い渡される順番も最後である。
の名を呼び上げると、山本師範はおかしそうにクスと笑った。
「お帰り際、舞の先生は大変居心地悪そうにしておいでだったのよ──
 それはあなたのせいね、さん。
 あまり誉められたやり方だったとは言えないのではないかしら」
「承知しております」
は言い訳をするように眉根をひそめて見せた。
「ま……その点に関しては評価の点を下げざるを得ません。
 あなたのことだから、わかっていてそうしたのでしょうけれどね。
 舞そのものについては、先生は言葉をつくして誉めてくださいましたよ」
聞いていた六年生忍たまたちはなんの間違いかと訝しげに目をぱちぱちさせた。
彼らの反応を知ってか、山本師範は肩越しに彼らを一度振り返り、
意味ありげに微笑んでから続けた。
「最後に先生はこう仰っておいででした。
 『最上級の生徒さんは、舞の型をしっかりと理解しおさめているにも関わらず、
  あえて拙く振る舞っているように見受けられました。
  真面目に取り組めば人前に出して恥ずかしくないだけの舞が舞えるはずなのに、
  理解いたしかねます』──とね」
「やはり本職の方の目を誤魔化すというのは──
 少々演じるに長けるといわれる程度では到底通用しないのですね。
 お勉強になりました」
「最上級になってもまだまだ学ぶべきことが多くあるということよ」
「はい」
は苦笑した。
意味がわからずに首をかしげている六年生たちを山本師範は振り返る。
つまりね、と彼女は種明かしを始めた。
さんには舞の授業のあいだ、別の課題に取り組んでもらっていたのよ。
 “演技で専門家を騙しおおせること”という課題にね」
頷いて、が話のあとを引き取った。
「本当は先程の授業で教わった舞は全部覚えて知っているの。
 けれどそれができない、覚えられない、ろくに舞えないという演技を授業のあいだじゅう押し通して、
 “できの悪い生徒”として評価をもらうことが私の課題だったのよ。
 まぁ……聞いてのとおりで、大失敗のようだけれど」
舞そのものはある程度の高評価であったうえ、あえて拙く振る舞っているとまで見抜かれていた。
授業のあいだにに言い渡された舞の師範の言葉──真面目に取り組めだとか本気を出せだとか──を、
“やればできるのだから諦めずに努力すべき”という意味に彼らは受け取っていたが、
本当は“きちんと会得しているのに手を抜くな”という意味で投げかけられていたのだ。
くの一の後輩たちがをすごいと言って誉めたことも、
舞に対して世辞を言ったのではなく、不出来の演技に対する素直な感嘆のセリフだったのだろう。
言葉の裏に込められたあまりに微妙な意味の違いに、彼らは少々圧倒されて息をついた。
にっこりと微笑んで、山本師範が続ける。
「すでに会得しているものについての人間の振る舞いというものは、
 手を抜いていてもある程度のかたちをなして見えるものなのよ。
 専門におさめている人の目から見ればなおのことそう。
 素顔の人間と、素顔を演じている人間とには自ずと差があるということね。
 無意識の領域のこととも言えますから、この差を意識的に埋めるのはとても難しいけれど──
 人間をよく見て研究することでそこを補うことはできるわ。
 それがよくわかったでしょう、?」
「はい、身にしみて」
はもういい加減解放してほしいと言いたげに、困り顔で俯いている。
彼らが授業を眺めているあいだに見て取ったの拙さは演じられたものだったわけだが、
課題に対するの答えは事実・とても合格点に及ばないものだったということになる……
山本師範は非の打ち所のない笑みを浮かべたまま容赦なく言った。
「舞の実習については文句なしでしょう、でも演技課題に点は差し上げられません。
 後日補習課題を言い渡しますから、ぜひそこで巻き返して頂戴ね」
「はい……」
弱々しく答えたきり、はがっくりとうなだれた。
追い討ちをかけるようなタイミングで小平太が口を挟む。
「すげー、ちゃんでも不合格とか補習とかあるんだ!」
「あるわよ……このあいだなんて腕相撲大会で四年生の娘に負けたのよ」
「うわぁ弱ぁー。私腕相撲とか負ける気しないけど」
「傷口に塩を塗りこむような言い方しないで頂戴……
 あなたが腕相撲で負けるなんてことあるわけがないでしょう」
「あはは、うん、まぁ、そうかもね。
 でもこれ色の授業だったら合格なんじゃん、ねー、山本センセ」
小平太に話題を返されて、山本師範はそうね、と美しく微笑んだ。
「ただ誘惑することが課題ならいいでしょうね。
 でも今日のやり方はやはりあまり誉められないわ。
 ……見抜かれていることを少しでも誤魔化したくて、先生の気をそらそうとしたのよね?」
「もう何も仰らないで、先生……」
は所在なさげにそう言って、片手で涙を押さえるように目元を覆った。
見守っていた一同が和やかに笑う。
は恨みがましい目で留三郎をじ、と見やった。
「なぜ今日みたいな日にわざわざ見に来てしまうの? 恥ずかしいわ」
「え、……いや」
俺が悪いわけじゃないけどと頭では思いながらも、留三郎はなんとなくごめんと謝った。
事実のところは彼の目に見えていた光景とは違ったようだが、
にも力及ばないものがあるのだという当たり前のことを改めて認めたのは新鮮な思いである。
似たような目に遭ってきた身としては舞の師範が気の毒な気もしたが、
それでもやはり、とりあえずを可愛いと思う彼の気持ちには変わりがなかった。
「頑張れ、一流のくの一に不可能はないだろ」
「……そうよ」
拗ねたように頬を膨らませて、はそこで開き直ることにしたらしい。
ため息をつき、腕組みをして。
「私の未熟なところは。
 優秀な仲間が助けてくれるのだもの、任務そのものは一流の仕事に違いないわ」
留三郎だけではない、他の皆もその一言にはやや挑発されたようだった。
誰も何も答えなかったが、当たり前だ、任せろ、と一様に思っていたに違いない。
は姿勢を正した。
「その仲間に面倒をさせないためにも、私自身もっと努力をしなければね。
 ──ご指導ください、山本先生」
山本師範は真摯に頷いた。
「もちろん。努力をする娘は好きよ」
がまだ少々困り顔ながらもそれで微笑んだところで、授業の終了の鐘が鳴った。
くの一たちの実習もそれでお開きとなり、皆が小袖姿のままで食堂へ向かおうとする。
ぞろぞろと六年生忍たまたちもあとに続き、
その最後尾を並んで歩きながら、留三郎はチラと横目でを見下ろした。
視線に気づいて、はばつの悪そうな顔をする。
「変な目で見ないで頂戴」
「別に。いつもどおり」
開き直った顔はしていたものの、どうやらはまだへそを曲げているようだ。
「私だって失敗くらいすることあるのよ」
「うん」
頷いてやりながら留三郎はぼんやりと考えを巡らせる。
間違ったり、失敗をしたり、読みを外したり、もちろんそういうこともある、
たまたま目にする機会が少なかっただけで。
この授業を見守っていたあいだだけで、悪い意味ではなく、を見る目が少し変わった気がした。
可愛い、愛しいと思う気持ちには変わりはないし、
すでに互いのあいだに打ち解けず頑ななところなど微塵も感じていなかった留三郎だが、
それでもよりいっそう、との距離が縮まったような気がしていた。
くの一として優れたところ、秀でたところがよくよく目につく娘だったからかもしれないが、
その実はどこにでもいる普通の娘なのだということを、こうも強く思ったのは初めてだったかもしれない。
こんなにもそばにいても、知り尽くしたつもりでいる相手でも、
ずっと見つめていればまた、初めて見える姿があるのだろうか。
じっと見下ろされる視線がいつになく気にかかるらしい、
はずっと拗ねたような顔をしたまま意地になって留三郎を見つめ返そうとはしない。
凝視されれば気になるんだぞと、いま言うのは少々意地が悪い気がして、留三郎は口をつぐんだ。
それでもなんだか、見つめる目をそらす気にはなれなくて。
“仕返し”や“意地悪”、などではないけれど。
──いつも見てるよ。
──嬉しくても悲しくても、どんな表情も知っていたいから。



宵のみぞ知る  視線