最愛

後輩たちの何気ない質問がきっかけだった。
くの一教室の娘たちのあいだで恋の話が持ち上がったとき、その矛先が留三郎ととに向きやすいことは、
恋人のある生徒の中でもが身近なうちのひとりであるからと思えば致し方ないことかもしれない。
後輩たちの興味は、自分たちが遠くから眺めているだけではわからないような、
当人同士しか知らないやりとりがいかなものか、という点に集中する。
なにを言われたのか、どんな顔をするのか、どんな仕草を見せたのか、どのように触れられたのか。
あまり話しすぎると、照れがどうのよりもその言動の張本人である留三郎に悪い気がして、
最近は誤魔化して口をつぐみがちになるである。
その口を割るのがもう困難である、と後輩たちが諦めるまで
は苦笑いしながらのらりくらりと逃げつづけるのであるが、その夜は最後にこんな問いが向けられた。
「先輩が、食満先輩に、いちばん愛されてるなあって思うのって、どんなときですか?」
「さあ? ……そうねえ」
考えるような仕草ではまた口を閉ざしてしまったので、
後輩たちはまた秘密なのだわ、と思って肩をすくめると別の話題に興味を注いでいった。
しかしは実際、どんなときに愛されていると感じるかしら、と常のやりとりを思い返していた。
(割といつでも感じるのだけれど)
素直にそう答えてしまうと、後輩たちを喜ばせたうえ・更なる根掘り葉掘りが待っているに違いないので、
は慎重に考えつづけるふりをしてみる。
その、割といつでも、のなかでも“いちばん”はいつ、どのようなときだろうか。
考え続けてみたが、どうもあるいっとき・ある一度に思い当たってはくれなかったので、
はあくる日の朝に食堂で留三郎に会ったときにこう決めた。
今日いちにちじゅう、特に愛情を感じる瞬間がいつなのかを検証してみようと。
「……なに考えてんだ?」
留三郎に不思議そうに問われて、は思考から醒めた。
「いいえ、大したことではないわ」
「まあ、いいけど。先に飯食っちまえ、もう鐘鳴るぞ」
「ええ」
すでに大方の食事を終えた同席の六年生忍たまたちは、
親が子どもにするような注意だとややしらけたような目を二人に向けている。
あまり人目を気にしない二人であるので、睦まじいのはまあいいこととしても、
そろそろいい加減にしてほしいという本心も少々混じってはいるだろう。
「俺は実技だから、先に行くからな」
「ええ。またね」
「うん」
席を立ち、食器を下げてから、委員会の後輩にするようにぽんぽんとの頭を撫でて食堂を出て行く。
たとえば、この仕草は、とは思う。
互いのあいだではもう日常的な触れ合いといえるほど頻繁に起こることだ。
しかし髪に触れられるというだけのことなのに、確かに少々特別な心地はする。
そんなふうに意識してしまうと、胸のうちがむず痒いような、心の表面だけはがれて浮いていきそうな感じがしてくるのだ。
(こういうことなのかしら)
日に何度も重ねられる、本当に何気ない触れ合い。
こういうことなのかしら、と何度も思う。
そうこうしているうちに、遠くで始業の鐘が響いた。

! お前一時間目遅刻したろ!」
「え? ああ、そうね」
「そうね、じゃねえ! 鐘が鳴ったあとで渡り廊下歩いてくの見えたぞ!」
次の機会は昼休みの食堂であった。
隅の席にの姿を見つけるなり、留三郎は注文もそこそこにに近づいてきて小言を食らわせたのである。
反省しろ、と頭を小突かれる。
これも何度目のことかわからない。
とにかく極端に朝に弱いというのがの悪癖のひとつであった。
頭痛がする、というように額を抑えて留三郎は唸った。
「山本シナ先生が、俺に言って寄越すんだぞ。俺に! 全然関係ない俺に!
 『悪いのだけれど、時間に間に合うように起こしてやって頂戴』って!」
「全然関係ないということはないのじゃない?」
「当たり前みたいに言うな! それに俺は起こしてるぞ、お前が起きないの!」
それもそうね、とは何事もなかったように茶をすする。
はたして、こうした小言も愛ゆえだろうか。
それもそう、そうかもしれない。
留三郎は呆れたように息をついた。
「そんなんで任務のときどうすんだよ」
「任務のときは起きられるわよ。すごく頑張って起きるのだけど」
「当然だ」
あまりに何度も繰り返した小言で、もう言うのも面倒になったのだろう。
留三郎はまた何か物言いたげにため息をついて、食事の注文をするために受付のほうへ戻っていった。
席に着いている生徒たちをかきわけて遠ざかる背中をじっと見つめた。
自分がいちばん好きなのは、課題をやっている最中なり・修繕を施している最中なり、
何か集中している際の留三郎の背中にぺたりと貼りつくことだ。
それでは留三郎がを見つめてくれないではないか、といつか伊作に言われたが、
自分がひとりで勝手に、一方的に甘えているだけというのもはやはり格別好きなのだ。
構ってほしい、と言いたくてそうしているわけではないし、
留三郎もそれを理解しているのか、手を休めてまで話しかけたり振り返ったりしようとはしない。
(逆に食満くんは、どんなときにいちばん、私の気持ちを感じるのかしら)
自分がいちばん好きな“甘える瞬間”では、もしかしたらないかもしれない。
食事の盆を受け取って戻ってきた留三郎に、はストレートに問いかけた。
「食満くん。あなたはどんなときにいちばん、私に愛されてる、と感じる?」
の隣に座りかけていた留三郎だが、聞いた途端にがくっと足の力が抜けたらしい。
赤くなってわなわなと震えながら言い返す。
「突然なんてこと聞きやがるんだ、お前は!」
せめて声をひそめろ、と留三郎自身が声をひそめてそう言うが、すでに手遅れというものだ。
席の近い生徒たちはすでに、このくの一が今度はどんな手で留三郎をやりこめるものかと気にかけて耳を澄ましている。
留三郎はあたりにじろりと睨みをきかせてから、やっときちんと席に腰掛けた。
「ちょっと気になっただけよ。聞いてみたくなっただけなの」
「ああそうかい」
「怒った?」
「……わかるよなあ俺が言わんでも、人前でしていい話とよくない話とが」
「わかるわ」
「それとも俺を困らせたいのか」
「いいえ。ごめんなさい」
じゃあ、とは言われたとおりに声をひそめ、留三郎の耳元に唇を寄せる。
「思い出して、考えておいて。あとで誰もいなくなったときに、教えて頂戴」
留三郎はまた赤い顔をしてを引きはがした。
「……だから、そういう、思わせぶりな行動に出るなって……!」
「ごめんなさい。今日はこれで最後にするわ、だから」
許して、という言葉だけ飲み込んで、は唇の前に人差し指を立ててにっこり笑ってみせる。
最後には結局許してくれるのが留三郎というひとだ。
苦虫を噛みつぶしたような顔で留三郎はをにらんでいたが、やがて諦めたように息をついた。
やさしいひと、と思ってはまた少し胸の内にあたたかい想いを抱く。
甘やかすのが上手い、というところに愛情を感じることもある。
背中を貸したまま放っておいてくれることもそうだ。
時間が合ったときには、当たり前のように隣り合った席で、向かい合った席で、食事を摂ることも。
肩の触れそうなほどに近いその距離が、いま妙に愛おしかった。
触れそうで、触れなくても、それでもいいとなぜかは思ってしまう。
留三郎に関わることならば、わずかに開いた距離すらも愛おしいような気持ちがする。
(最初の最初は、ただの遊び相手……だったのに)
の好き放題にさせてくれて、甘やかしてくれることが居心地よかったのだ。
今も彼のそうした態度にはあまり変わりがないような気がする。
いつの間に、自分がこんなに彼に傾倒し始めたのだろう。
いつからこの気持ちが、恋に変わったのだろう。
いつの間にか。
もう覚えていない。

朝の遅刻分の補習を受けていたため、夕餉を摂りに食堂へ行った頃には食堂はがら空きだった。
今混んでいるのは湯殿のほうだろう。
定食もすでに売り切れていたので、余ったおかずをいくつか注文して食事の盆ができあがる。
隅の席について箸を取ると、ため息が出る。
なんだか今日は気もそぞろだった、と思う。
考えごとをしていたせいだろうか。
愛されている、と、殊の外感じる瞬間。
ある一瞬、あるひとときに思い当たらないというほど、それが当たり前になってしまっているという幸福。
幸福は大抵、それを失う恐怖と紙一重だ。
考え込んで視線を落とすと、食堂の入口のほうから足跡が聞こえてきて、ひょいと留三郎が顔を覗かせた。
「あ、いた」
「あら」
「遅かったんだな」
「遅刻の埋め合わせをしていたのよ」
「そりゃ仕方ねえな」
苦笑しながら入ってくる彼は湯を浴びたあとのようで、髷をといて肩に下りた髪がしっとりと濡れている。
歩いてくると、彼はの向かいの席に座り込んだ。
「お疲れさん」
「いいえ。今日はなんだか、ぼんやりとしてしまって」
「ふーん?」
頬杖をついて、留三郎はの話を聞く姿勢を見せる。
は口元でわずかに微笑んだ。
「……思いついた?」
「ん、なにが?」
「昼休みに聞いたことよ」
「ああ、」
そうだなあ、と今考えるような素振りを見せる。
「私もずっと考えていたのよ。後輩に聞かれたの。
 いちばん愛されていると感じるときって、どんなとき……って」
「あー……どうかな……」
「ずっと考えていたのだけど、思いつかなくて。いつでも大事にされていると、そう思えるのだもの。
 ある瞬間だけではなくて、いつもいつでも、常に……というのも、すごいことよね」
「ああ、そう……?」
照れているのだろうが、素っ気ない素振りで、彼はそれだけ答えた。
そうよ、とは微笑んだ。
「幸せだもの。いつも」
「……そりゃあ、ヨカッタネ」
「ええ」
おかしそうにはくすくすと笑いをこぼす。
力の抜けたような顔で、なんだかなあ、とでも言いたそうに留三郎はを見つめていたが。
「……まあ、俺も、毎日いい気分だけど」
低い声で呟いた。
は俯いたまま、視線だけ留三郎を上目遣い気味に見つめる。
「そう? あなたが大事にしてくれることに対して、私があなたにすることは足りていない気がするのよ」
「充分だよ」
「そうかしら。欲のない人」
くく、と留三郎は苦笑いする。
「いんじゃない? 満足してるなら」
「そうね」
食事を終えて箸を置くと、は湯飲みを取り上げた。
そうしてが一服するあいだに、留三郎が盆を返却しに立ち上がる。
片づけが遅くなってごめん、と受付での代わりにおばちゃんに謝って、
面倒見がいいこと、などとからかわれている。
彼のこうした振る舞いは、たとえば委員会の後輩たちに対して発揮する面倒見の良さにも似ている。
それがときどき子ども扱いのようにも思われてには少々複雑ではあるが、結局あまり悪い気はしないのだ。
が茶を飲み終わるまで留三郎はそのまま待ってくれ、二人で一緒に食堂を出る。
大抵はそのまま自分の部屋には帰らず、当たり前のように留三郎の部屋に向かう。
あまり頻繁にそれを繰り返しすぎて、互いにそこに違和感を感じなくなっていることは少々問題なのだろう。
が寝過ごしたことの責任を留三郎まで問われたとあれば、
気にかけるようにしなくてはとは一応思ってみるが、朝には忘れてしまうかもしれない。

消灯後、並んで横になってしばらくごろごろとまどろんでいると、ふいに留三郎が話題を振った。
「たとえば」
「ええ」
「こういう普通の日とかじゃなくて」
「何の話?」
「昼の質問の話」
ああ、とはいま思い出したように言った。
留三郎もずっと考え込んでいてくれたようだ。
「任務かなんかのときに、刺客が襲ってきて、俺が前に出てかばおうとしたりとかしたときは?」
「……それは任務だからと思ってしまうかもしれないわ」
「任務じゃなかったら?」
ふふ、とは笑いを漏らす。
任務ではない場で同じ目に遭っても、留三郎はきっと背中にを守ってくれるだろう。
「それは素敵。でも」
「でも?」
「何度かあるわ、七松くんとか、潮江くんまで」
「潮江までか……それはなぁ……」
「もう、彼らはすっかり私への敵意を忘れてくれているのね」
「だろうなあ……」
答えながら、留三郎が少し眠そうにゆっくりと瞬いたのがわかる。
もう眠ろう、と言いたそうな、気だるそうな仕草で抱き寄せられる。
「……結局、よくわからなかったわ」
「うん」
「いつも、ということでいいかしら」
「うん……」
「もう眠い?」
返事もない。
もそこで黙ることにした。
少しだけ顔を上げて、目を閉じてしまう前にそっと唇を合わせた。
まだすっかり眠りに落ちていたわけではないようで、彼はちいさく笑って薄く目を開けた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ただの遊び相手だった頃はそればかりが目的のようだったから、毎夜のように肌を重ねていた。
それが恋人同士になったあとには、逆にただ抱きしめあって眠ることのほうが多くなった。
けれど、口付けられ、愛撫を受けて、丹念に身体中に熱を送られ、次第にわれを忘れたようになり、
一緒くたになって身体中が溶けていくような感覚にとらわれる……抱かれているあいだのことは、
恋心をはっきりと自覚したあとに一度がらりと変わったと思ったことがあった。
ただ身体の疼きが昇華されるというだけのことではなくて、そのゆびさきから、唇から、
吐息や体温にいたるまでのすべてから、彼の感情が注がれているような気持ちがしたことがあったのだ。
それまでも何度も言葉で言ってくれていたことなのに、そのとき初めてはそれを実感として知った。
ああ、このひとは、私のことが好きなのだ、と。
じっとりと凝る夜の闇の中に、はふと覚醒した。
考えを巡らせながらもどうやらうとうととしていたらしい。
夢かうつつかわからない、ふわふわと浮いたような感覚が、すとんと身体に落ち着いた。
留三郎はもう深く眠ってしまっているらしい。
身体の触れ合うあいだにただよう熱の密度がひどく濃い。
耳のすぐそばに、留三郎の寝息が規則正しく繰り返されているのが聞こえる。
そういえば、朝から実技の授業があると言っていた。
競ったり張り合ったりしながら激しい課題をこなし、委員会では後輩の面倒も見、
今日はの食事が終わるまでを付き合いもして疲れているだろう。
忍としての鍛錬を六年も続けてきた留三郎は当然ながら気配に敏感で、
眠っていても時折はっと目を覚ますことがある。
しかしもうの存在は警戒の範囲外なのだろうか、
がそばで多少身じろぎをしたり声をかけたりしたくらいでは目を覚まさない。
少し身体を起こそうとして、はふと、留三郎の腕に抱きしめられたままでいることに気がついた。
すっかり眠ってしまっているにも関わらず、
留三郎は恋人の身体を大切そうに抱き寄せ、守ってくれているのである。
いちばん愛情を感じる瞬間はいつかという問いかけが脳裏によみがえる。
いつもいつでも感じているけれど、それにもまして。
目を覚ます様子のない留三郎を、はその腕の中からじっと見つめた。
心臓に鈍くじんわりと、痛みにも似た疼きが生まれる。
こんなにも、大切に大切にされていること。
日々それがまるで当たり前のようになる中で、がいままで知らなかったこと。
留三郎には取り立てて言うほどのことではないのかもしれない。
あたたかな腕に甘え、はその胸元に顔をうずめた。
目覚めているわけではないだろうが、留三郎はを抱きしめなおすように、
のほうへわずかに身体を傾けた。
後輩にも留三郎自身にも、言わずに黙っていようと思う。
いままであまり信じられなかった、幸福が過ぎて泣きそうになるという言葉をやっと理解する。
涙がにじみそうになるのをこらえるように、はじっと目を閉じた。
やがて眠りに落ちてゆくまで、は黙って、ただただそのぬくもりを感じていた。



宵のみぞ知る  最愛