父に着いて旅をしている最中のことであった。
中途激しい雷雨におそわれ、父子は大事を取ってその日到着を予定していた町の手前で宿を取った。
都会すぎはしないが田舎すぎもせず、また裕福でもないが貧しすぎもせず、
人々が居心地よく暮らす活気ある町であった。
雨に降られて全身がびしょぬれになってしまっていた三治郎は、
宿の女将が厨房のすみに用意してくれた桶に入って湯を浴びた。
すっかり身体が温まると、これも宿が貸してくれたよく乾いた服に着替え、野菜のスープをもらって飲んだ。
三治郎は厨房の端で椅子に座ってスープをすすりながら、
夕食時の忙しさがやっと落ち着いてきたらしいそこを物珍しげに見渡した。
多くの女中が立ち働いて、今は食事の後に下げられた食器の片づけをしている。
雑多で生活感にあふれたその場所には、
三治郎やその父や、一族のものたちだけの目に映る“人ならざるもの”たちの姿はわずかたりとも見えなかった。
人々の多くは、己の目には見えないものの存在を簡単に信じようとはしてくれない。
そのくせ己の知る限りのことでは説明のつかない何かに出会うと、
そうした不可思議な存在の及ぼした影響に違いないと恐れおののいて
三治郎たち一族に助けを請うてきたりするのである。
一族はそうして求められれば出かけていって、ことの要因を探り出し事態を収拾することを生業としてきた。
稼業が稼業であるだけに、人々が彼ら一族を見つめるその目はあまりあたたかではない。
遠巻きに向けられるその視線の中を、三治郎は父や一族の大人たちに着いて歩いてこれまでを育ってきた。
そうして早くから大人たちの中にひとり混じって暮らしてきたおかげで、
また・無言の差別にさらされて育ってきたおかげで、
三治郎は年齢よりもかなり大人びた視点をすでに持ち合わせているのだった。
人々が遠くから見つめてくるのを、三治郎も見つめ返してはその状況を分析した。
けれどそれをまわりの人間に言うことまでは彼はしない。
子どもは子どもらしく振る舞うことが、
結果的に己の居心地をよくすることにつながるのだと三治郎はちゃんと知っている。
この宿へやってきてからの短い時間にも、彼はいくつものことを冷静に見抜いていた。
父と自分の身分と職とが怪しいと思われたからこそ、
あてがわれた部屋が最低限雨風のしのげる程度の粗末な部屋だったのだということも、
あたたかな湯の出る設備がその部屋にはないということもわかっている。
三治郎がこうして湯の世話をしてもらってスープまで与えてもらえたのは、
彼がまだ子どもで、雨に濡れて気の毒な格好だったために他ならない。
幼い身というのは自由のないように思えてその実・非常に便利なときもあるのだ。
あったまったかい、ほらこれもおあがり、とパンのあまりをいま女将が寄越してくれたのも、
三治郎が愛らしい気の毒な子どもであるからだ。
三治郎はうわあ、ありがとうございます、とにっこり笑って喜んで見せた。
女将はいいのよ、と微笑み返すと、厨房の女中たちにきびきびと仕事の指示を出す。
そうして最後に、若いひとりの女中に声をかけた。
──あんた、この子の面倒を見てやってちょうだい。
──あの部屋少し寒いからね、毛布がもう一枚あったほうがいいかしらね。
女中はうんと頷いて、その支度をするためにか、厨房を出て行った。
三治郎はその背を見送りながら、ほうと熱い息をついた。
──今のお姉さん、とってもきれいな人でしたね。
──あら坊や、美人がわかるの。
──たくさんの町に行ったけど、あんなきれいな人、初めてです。
──そうねぇ、あの娘は“人形屋敷”の出身だから。
人形屋敷、と三治郎は繰り返した。
聞いたことのない言葉だ。
──ここで働き始めてもうひと月にもなるんだけどねぇ。
──まるで本当に人形のようよ。
──もうあんたの奉公は終わったんだからいいのよって、何度も言ってるんだけどね。
パンにかじりつきながら、三治郎は“人形”女中の出て行った扉をじっと見つめた。
人形屋敷とは、人形とは……と、よっぽど聞いてみたかったのだが、
なんだか深く知ってはいけないもののように思われて、三治郎は好奇心をパンと一緒に噛み砕いて飲み込んだ。
やがて毛布を抱えて戻ってきた例の女中に連れられ、三治郎は与えられた部屋へと帰った。
父は暖をとるのに酒を飲みに行ったらしく、部屋は無人だった。
一言すらもしゃべろうとしない女中の行動はしかし親切で、
炭の入ったアイロンで冷たいベッドをあたため、暖炉の火をかき回して太い薪をくべてくれた。
三治郎は興味深く女中のすることを見守った。
よく気がつきてきぱきとして、宿にとっては恐らくよい働き手と見なされているに違いない。
しかし女中は無言であるだけではなくわずかたりとも笑いもしなかった。
死んだような無表情で、黙々と仕事をこなすだけなのだ。
聞いたときには意味のわからなかった“人形”という言葉を彼は思い出した。
生きた人間らしいところのない無表情のことをたとえるのなら、
その言葉は適当かもしれないとついつい思ってしまう。
たとえばこの町では、使用人のような立場の人たちに対して、
そうした差別用語があるのかもしれない、などとも考えた。
しかし、先程の宿の女将の物言いから思えば、
この女中はすでに“人形”という立場を脱している状態に違いない。
事情もなにも少しもわからなかったが、
この女中は自ら望んで“人形”でありつづけているということなのだろうか。
よくわからないなと、三治郎は考え込むように眉根を寄せた。
──あのう、お姉さん
なにか話題があったわけではなかったが、三治郎は女中に話しかけていた。
女中は目を上げて三治郎をじっと見るだけで返事はしない。
改めて正面から女中の姿を見つめて、三治郎はその美しさに目を奪われた。
掻き立てられて今は勢いを増した暖炉の火が、その頬に逆光気味に明かりを投げかける。
赤みがかった髪はつやつやと光をはじき、
ぬけるように白い肌もなめらかで美しかったが、どこか石膏のようにかたい印象を帯びていた。
向き合う者を惹きつけてやまないその瞳の力強さはなんとしたことだろう。
あまりにも欠けなく美しいものは大概魔性を秘めていることを三治郎はよく知っていた。
人でもものでもそれは同様で、それらに魅入られた人間がどのような破滅を迎えたか、
彼は何度も目の当たりにしてきている。
それでも、“人ならざるもの”を見分ける三治郎の目が、この美しい女から邪悪なものを見出すことはなかった。
惚れ惚れと見蕩れかけて、三治郎は危うく言葉を失ってしまうところだった。
彼は慌てて、ありがとうございます、と頭を下げた。
女中はやはり、うんともすんとも返事をしない。
三治郎は恐る恐る、女中の顔色をうかがうように更に問うた。
──あのう……
──話、できますか?
変なことを聞いたらごめんなさい、と三治郎は弁明の言葉を付け加える。
──“お人形”って言葉を、聞いたので。
──あの、僕、意味わからないんですけど。
──でも、あの、そう言っていた人はみんな、お姉さんを悪く言う意味で言ったんじゃないことはわかるんです。
──ええと、怒りましたか?
女中はまた一言も答える気配を見せない。
ただ、しばらく黙って三治郎と対したあとで、言葉はなくくびを横に振った。
──話、しないように、してるんですか?
くびを横に振る。
──僕のこと、気持ち悪いですか?
またくびを横に振る。
ここまで三治郎が重ねて問うても、女中は頑なに口を開こうとしない。
しかし、黙りこくっていても強い視線を注ぎつづけていても、それを受けて怖いとは三治郎は思わなかった。
その目には見守るようなあたたかさが秘められている。
あたたかさと、ほんの少し悲しいような色が。
その事情は三治郎にはわからないし、知る必要も恐らくはないだろう。
雨が上がれば再び流浪に出る身の三治郎だ。
尋ねることも遠慮するべき、わずかな時間をすれ違っただけの間柄。
これ以上の関わりはいらないということなのかもしれない。
三治郎はこれまでも、すれ違ってきたすべての人たちと深く関わることを許されてこなかった。
滞在した地に友達ができそうになったこともあったが、三治郎の立場がそれを許すことをしなかったのだ。
長く留まることができない、あるいは人々に忌み嫌われる、そうした立場が。
三治郎には時折、それがさびしかった。
もう少し年齢を重ねれば、自分で選ぶことが許されるようになるだろうかと思う。
それを願って心待ちにしている自分をおさえるのが、このところは少し苦しい。
──“人形”というのは
三治郎ははっと顔を上げた。
女中がはじめて口をきいたのだ。
女性にしては少々低く聞こえるような、それでもやさしく耳に響く声色だった。
──人は働く力やその結果をお金に替えて生きているでしょう。
──この街には、働くことではなく自分の存在そのものをお金に替えるというシステムがあるの。
──本人たちが望んでそうしているわけでは決してないのだけれど……
──そういう人たちの中に“人形”と呼ばれる人たちもいるの。
──あまりよい呼び名ではないけれど
静かにそう言って、女中は口を閉ざした。
続けて尋ねていいことなのかどうかを迷ってから、三治郎はおずおず問いかけた。
──お姉さんは、もう“お人形”じゃあないんでしょう?
──そうね
──“お人形”じゃなくなった人は、なにになるんですか?
聞いてしまったあとで、三治郎はこの問いは口にすべきでなかったと即座に後悔した。
女中の無表情は一見のところほとんど変わらないようにも見えたが、
なにかが石膏の肌の向こうでぴしりと音を立てて硬質化したような気がした。
──あの、ごめんなさい、僕。
──私にもわからないの
──え、
──私もかつて“人形”だったけれど、それは私を“人形”と呼ぶ“主人”がいたあいだのことで
下手なことを言えず、三治郎はただ口を閉ざして女中を見つめた。
彼女はいま、窓の外に広がる夜の町を眺めている。
夜の底に沈んだ石造りの町の奥で、大聖堂の鐘楼だけがうっすらと月明かりに浮かび上がっていた。
──私を買った“主人”は、私によけいな口をきいてはいけないと命じたの
──“主人”が認めた場合だけ最低限の声をもらすことがゆるされて、
──それ以外に何か言えばひどい罰を受けなければならなかった……
三治郎はごくりと息をのんだ。
──その、人は、どうなったんですか。
恐らくは、これも聞いてはいけない質問だった。
女中の眉がぴく、とゆがんだ。
──“主人”は私をもう要らないというので……
彼女は捨てられ、“主人”という人物はまた別の“人形”を手に入れたはずだ、という。
その横顔は表情すらも石膏に固まったようだった。
強い目線は窓の外を遠く見据え、その頬からは色という色が、感情という感情がすべて削げ落ちてしまっていた。
いまの彼女からは、三治郎は何も感じることができなかった。
わずかにその目に浮かんでいたあたたかさも悲しみも、怒りや虚しさにさえ触れられた気がしない。
髪の一本、まつげの先、細い顎、胸の膨らみ、指先、足先、
彼女の全身から唯一発せられているのは、感情というよりはひとつの意思のようだった。
強いつよい、三治郎がその身に受けつづけて肌に痛みを感じてしまうようなその意思は、
もしかすると拒否──という名前、だっただろうか。
居たたまれなくて三治郎はつい下を向いた。
女中は彼のその仕草に気がついて、少々申し訳なさそうに唇を引き結んだ。
彼女がそうして石のようにかたく閉じこもって立っていた姿勢を崩し、ほんの少し顔をゆがめただけで、
張り詰めていた空気はみるみるうちに掻き消えた。
何の慰めになろうとも思えなかったが、三治郎はこの気まずい空気を打ち消せはしないかと、
必死で口を開いた。
──あの、僕、僕は人間ですけど。
──僕や僕の父や、一族の人たちは、みんな人間じゃないみたいに言われることがあります。
──人間じゃないものと話をするので。
女中はまた何も返事をしなくなってしまった。
三治郎が女中が話しているあいだに言葉を失ってしまったように、
彼女もいまなんと答えてよいものかをはかりかねているのかもしれない。
──そういう意味では、僕たちは“人間”と“人間じゃないもの”のあいだに立っていて、
──人間じゃないのかもしれませんけど、でも人間なんです、
──なんかなに言いたいのかよくわかんなくなっちゃいましたけど……
必死で頭の中に言葉を探しながら、三治郎は弱々しい声で続ける。
──この街に来たとき、あそこの、あの大聖堂のところで、天使さまを見ました。
──真っ白できれいな、大きな羽が六枚もありました。
──そのとき大聖堂ではパイプオルガンが鳴って、聖歌隊が歌を歌っていました。
──きっと、音楽を聴きに天使さまが降りてきたんです。
そろりと、三治郎は顔を上げる。
女中がどんな顔をしているかが気にかかった。
目が合うと、女中はわずかに口元に笑みを浮かべた。
──私も一度だけ見たわ。
三治郎は目を丸くした。
──ほんとうですか?
女中はかすかな笑みを浮かべたままで頷いた。
──“主人”に追いやられて、街を迷っていたとき……ついこのあいだのことよ。
──もう立てない、一歩も歩けないと思ったときに、音楽が聞こえて、歌が聞こえて……
──空を見上げたらばら色の夕焼けが広がっていたわ。
──そこに天使さまがおいでになって……涙が出てきてどうしようもなくて……
──立って歩いて、生きたいんだってことを、私はそれまで知らなかったの。
──“人形”と呼ばれていた頃には思いもしなかったの
まぼろしのようなその光景を思い返したのだろうか。
女中の表情にはまた少し、違った色が浮かんでいた。
感極まったものをこらえようとしているような、そんな顔だった。
──お姉さん、
──“お人形”なんて、違います。
──僕もです。
──同じものを見てる、人間です。
念を押して確かめるような目で、三治郎は女中を見つめた。
女中を励ましてやりたい気持ちで話し始めたことだったが、
いつしか何か頼みたいようなすがりたいような思いでいるのは三治郎のほうだった。
たくさんのものから、人から、目をそらされ背を向けられつづけてきたのは、三治郎もこの女中も同じなのだ。
自らの意思には関わらず負わされたたくさんのものと、闘って向き合わねばならない。
やっとそれから解放されたばかりの彼女と、どうしたらいいのかをこれから考えなければならない三治郎。
背を押してほしいと、無意識に彼は願ったのかもしれなかった。
女中はまたあたたかい色を帯びた目で三治郎を見つめ返した。
しばし黙って視線を交わしたあと、女中は初めて、満面に笑みを浮かべて頷いた。
──ええ。
──ええ、そうね。
たったそれだけの言葉で、三治郎はぽんと、他愛なく呆気なく、安心してしまった。
肩のあたりからぶら下がっていた重苦しい何かが、ぷしゅぅと音を立てて蒸発していった。
よかったと、ほっとして三治郎の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
ドアの向こうからきしきしと廊下の板を踏む音がして、二人はふとドアのほうを振り返る。
──お父様がお戻りね。
──おやすみなさい。
戻ってきた父と入れ違いに、女中はアイロンを持って部屋を出て行った。
すっかりあたたまったベッドに入り、三治郎は目を閉じた。
暖炉の火はおだやかに朝まで燃えつづけ、三治郎たち父子を凍えさせることはないだろう。
まる一晩、三治郎は安心しきってぬくぬくと心地よい眠りの中に揺られていた。
ずっと大人びた子どもでいた彼が、そのふりをすべて拭い去った素直なすがたで眠りつづけた。
翌日の朝、ふんわりとごく自然な目覚めを迎えて、
三治郎はまっさらに生まれ変わったような気分で起き上がった。
外はきらきらと眩いよい天気のようだ。
手早く身支度をととのえると、早朝のうちに一族の皆と合流して街を発つことになった。
宿を出るとき、まだ朝早いにも関わらず、あの女中が見送りに出てきてくれる。
──元気で。どうぞ気をつけて。
──ありがとう。お姉さんも元気で。
──ありがとう。
二人は何気なく、空を見上げた。
──雨、上がったわね
雨が上がって、晴れたから。
三治郎は一同について歩き出した。
しばらく行ったあとで振り返り、手を振った。
何度も何度もそれを繰り返す三治郎の姿が見えなくなるまで、彼女は宿の前に立ってそれに応えていた。
日の下に自分の足で立ち、一片の曇りもない……人間らしい笑みをその頬にたたえて。