ごみ溜めのような裏町には、悪臭を含んだガスが霧のように垂れ込めていた。
近年になって急速な進歩を遂げた機械産業は一部の人々の暮らしに多大なる潤いをもたらしたらしいが、
その裏で吐き出される排泄物とでも言うべき淀みとそれにまみれるその他大勢の貧しい人々については
国も役人も見て見ぬ振りを貫くつもりであるらしい。
猥雑な町の最奥には巨大な屋敷が陰鬱そうに佇んでいて、
薄暗くじめじめとした雰囲気を内にも外にも振りまき続けている。
錬鉄の門には古びて煤けた装飾看板がくくりつけられ、“従順ナル人形御座イマス”の文字が踊っている。
まるで幽霊でも出そうな雰囲気の屋敷であるがしかし、
そこにはおよそ霊的な類のものとは縁遠かろう美しい乙女達が数十人もともに生活をしていて、
時折屋敷を訪れる紳士達に金で買われて去っていく。
乙女達を躾て厳しく育て上げるのは背中の曲がった老いた女で、
まるで物語の悪役をつとめる老女や魔女がそのまま抜け出てきたような姿である。
その、女だけが奇妙な暮らしを繰り広げている屋敷では、暗黙の了解ながら男の滞在は厳禁とされていた。
娘達を物色するためにやってくる紳士達も用事が済めば皆追い出されるというのにしかし、
ここへたったひとりだけ日々を暮らすことを許された青年があった。
それが喜八郎である。
まだ年端もゆかぬ頃のこと、大雪の日に屋敷の門の前に立ち尽くしている喜八郎を、
“人形”と呼ばれて屋敷で暮らしているひとりの娘が見つけて屋敷へ招き入れた。
その娘は“人形”達の中でも特に中心的な存在であったらしく、
皆が躾役の老婆と目を合わせぬよう俯き気味に黙り込んでいるあいだにも
凛と顎を上げてまっすぐに相手を見据え、恐れることなくはきはきと意見を述べた。
──婆様、だってご覧になって、こんなに痩せ細って、きのどくに。
──ひとりくらい少年があったところで何が滞ることがありましょう。
──門の前に立って待っていろと、御両親はそう言って行ってしまったのですって。
──捨てられたのですわ、可哀相に。
──婆様、お願いですから。
──私がこの子の面倒を見ます、ですから。
最後には老婆も押され負けて、その娘が世話をすることを条件に喜八郎を屋敷に置くことを承知した。
成長すれば労働力として休む間もなく使われることが前提ではあっただろうが、
ともあれ喜八郎はそうして命拾いをすることとなった。
以後いままで喜八郎は、屋敷の外の連中が皮肉そうに“人形屋敷”と呼ぶそこで、
当の“人形”たちに世話をされ育てられて今までを暮らしてきた。
そうしているうちに最初に喜八郎を招き入れてくれた娘はいつのまにか姿を消し、
ほかの娘達も気づいたときにはいなくなっているということが多々あった。
間もなくそれが金で取り引きされた結果のことであると知り、
入れ替わるように幼い娘が新しく屋敷へ連れてこられることが頻繁にあるとも知った。
この屋敷がどういった目的を孕んでいるのか、ここへやってくる人間がどういった思惑を抱いているのかを、
喜八郎はそうして幼い時分から当たり前のように見聞きして育ったのである。
あまりに幼かったために、喜八郎はそのこと自体を異常と思うこともなかったし、
この屋敷において娘達の存在理由とはそうしたものなのだと納得し・心得てしまった。
屋敷ではひと月に一度ほどは娘達のあいだに入れ替わりがあった。
訪れた客の述べる“人形”の用途はさまざまであったが、
漏れ聞く限りではどれも幸福な末路を辿るとは想像しにくいものだった。
出ていく娘達は屋敷に未練のある様子などチラとも見せず、
これから向かう先に希望を抱いている素振りもかけらも見せることはない。
文字通りの人形のような無表情、生気のない瞳は、娘達がただ諦めの感情に飲まれた結果であった。
屋敷へやって来たそのときは力いっぱいに抵抗をして暴れようとした娘も、
請われて屋敷を出る日には皆死んだような目をした“従順ナル人形”と化している。
老婆はとにかく、娘達が屋敷にやってきたその日のうちに絶対服従の心構えを叩き込むことを徹底していた。
暴れ逃げようとする幼い娘をほかの娘達に押さえつけさせ──娘達は口々に、ひいてはあなたのためだからと囁く──、
老婆は古びてはいるがよく手入れしてある大きな鋏を手に取ると、情け容赦もなく娘の髪を切り落とす。
美しい金髪も愛らしい赤毛も艶やかなブルネットもすべて頭皮すれすれの位置で断ち落とされ、
異国の僧侶のようにまるくなった頭を目の当たりにした娘はそれですっかり己を失ってしまうのである。
髪が生えそろい、美しく結い上げて飾ることができるようになるまでの長い時間、
娘は当然自ら屋敷の外へ出ようなどという気は起こさない。
その間に老婆は娘に“人形”としての振る舞いを叩き込み、いかにして主人によく奉仕するかを心身深くにまで教え込む。
そうして育て上げられた娘達からは、屋敷を訪れた金持ちに買われて出ていく日までに
すっかり人間らしさというものが削ぎ落とされてしまうのだった。
喜八郎は特にそうした娘達に興味を抱くことはなかった。
喜八郎にとってはやはりそれは当たり前の光景、繰り返される日常なのである。
成長するにつれて少しずつ屋敷内外の力仕事を押し付けられるようになりながら、
折につけ目にする“人形たち”の生活と出入りを横目に眺める。
娘達は屋敷の外へ出ることを許されてはいなかったが、
喜八郎が自由に出入りすることについては特に言及するものもなく、
仕事を終えて退屈を覚えれば、老婆の目を盗んで屋敷から出・町へ遊びに行ってみることもできた。
日々がそうして窮屈ながらも規則的に回っていたある日のこと、
喜八郎は初めて、当たり前でない日々のパターンに出くわした。
気の強そうな娘は一言もいわずにまっすぐに老婆を睨み付け、暴れ逃げようとすることもせず潔く耐えて見せ、
美しい黒髪がばっさりと切り落とされても目の端に涙をたたえるのみで決して取り乱そうとはしなかった。
ほかの娘達なら泣き嘆いて暮らすその後の数日もあっけらかんと迎えたようで、
屋敷の庭で落ち葉を捨てる穴を掘っていた喜八郎の元へ歩み寄ってきて
手伝いましょうか、とまで言ってのけた。
──あなた、男の子なのね。
──ええまあ。
──なぜここにいるの? あなたも“人形”?
──いいえ。僕は人間です。
──そう、私もよ。
喜八郎はこの屋敷へ来て初めて、誰かと話をした という感覚を覚えた。
否、よく思い起こせばきっと初めてではない。
喜八郎をかばい育ててくれたあの娘は、よく幼い喜八郎の話を聞いてくれた。
そういえば、と喜八郎は、数十センチほど掘り下げられた穴の中から娘を見上げた。
そういえば。
この娘はあの彼女に少し似ているような気がする。
──ここは奇妙なところだわ。
──みんなどうして何も言おうとしないのかしら。
──逃げることだって難しくなどないでしょうに。
喜八郎はまたざくざくと穴を掘り始めた。
──誰もそんなこと言わないな。
──誰も逃げるなんてこと考えもしない、だから誰かが買ってくれるのを待ってるんです。
娘は喜八郎の一心不乱な様子を眺めながら呟いた。
──まさに人形ね。
──だとしてもなぜみんな、遊んでくれるのを待っているだけなのかしら。
──自分の力で踊ることだってできるのに?
喜八郎は目も上げずに更に深く深く、穴を掘り下げていった。
──諦めと、面倒。です。たぶん。
娘はしばらく納得のいかないような顔をしていたが、やがて小さく息をついた。
──あなたは自分でよく見てよく考えているのね。
──このお屋敷で、自分の力で何かをやっているのは、あなたくらいだと思ったのよ。
喜八郎はそれで穴を掘る手をぴたと止め、娘を見上げた。
娘の顔は逆光気味にかげを負って薄暗い。
彼女は自嘲するように笑うと、それ以上なにも言わずに去っていった。
その背が見えなくなるまでぼんやりと、喜八郎は娘を見送った。
別に、自分の力でなにかやってるわけじゃないけど。
喜八郎は土まみれの手を見下ろした。
その手に意思などはかけらもない。
どうでもよくて、頓着する気も起きなくて。
どうでもいいからとりあえずやっている……雑用だったり面倒だったり片づけだったりを。
なんらか働いているような素振りを見せていれば、誰も喜八郎を責めることはない。
成長したいまはネチネチと小言を寄越すあの老婆すらも力でねじ伏せて勝つことはできるだろう。
わかりきったことであるのに喜八郎は思い当たるとハッとさせられた。
いまのいままで、己の力で考えることすらしてこなかったと思い知った。
流れゆく時間、複写したように寄せて返してを繰り返す日常の起伏。
それを安寧と受け入れるだけでやり過ごしてきた自分を知った。
“僕は人間です”
本当にそうだっただろうか。
その日以来、その娘は喜八郎にとってある種特別な存在となった。
娘は喜八郎と視線が合えば挨拶代わりに微笑むようにその目を細め、
会話がかなうほど近くにいれば必ずなんらか話しかけてくる。
この人は確かに人間らしい、と喜八郎は思った。
娘が屋敷へ連れてこられたのが幼い時分ではなく、
ある程度成長して自意識が育ったあとだったということも多少は関係していよう。
娘は己が人間として当たり前に生きていくことを大切にしようとし、
その妨げになる屋敷のしきたりや決まり事を片端からはねつけた。
老婆にはいつも目をつけられて厳しく小言を浴びせられていたが、気にする素振りも見せはしない。
まさに我が道をゆく格好の娘の生き様に、喜八郎は確実に魅せられ始めていた。
娘の髪がやっと肩あたりまで伸びたある日、半年に一度ほどは必ず屋敷を訪れる老紳士が老婆を訪ねてやって来た。
訪れれば必ず人形を一人買ってゆく、紳士は老婆曰くの上客であったが、
喜八郎はこの男をどうにも気に入っていなかった。
どこか不穏な、気味の悪いにおいを感じるのである。
喜八郎はそっと、老婆と紳士とが二人だけで商談を交わしているらしい部屋のドアに耳を寄せ、その話を盗み聞いた。
──やはり弱々しくていけませんな。
──旦那様が無理を仰るからでございましょうに。
──仕方がないので従僕に言いつけて、今回は川へ投げ込ませましたよ。
──なんてことを。春先にはいぬが死体を見つけて大騒ぎになりましたのに。
──なに、心配は御無用、此度死体が出てもさかなに食われて判別などつきようもない。
老紳士は上品に笑った。
この血生臭い話に似つかわしくなく品のある笑いであった。
ぞく、と寒気が喜八郎の背をせり上がった。
今年の春、町へ出た折に耳にしたある騒ぎを思い出した。
墓地の奥の森に、若い娘の死体が埋められていたのをいぬが見つけたとかなんとか。
死体はまだ腐敗もすすんでおらず顔の見分けもついたのであるが、
身元は最後まではっきりとしなかった。
ただただ、思わずため息の出るほど美しい娘であったのだと。
まさか。
喜八郎は急な眩暈を覚えてゆびでこめかみをおさえた。
足元がぐらぐらと揺れるようで、壁に一歩・二歩とよろけかかる。
巡る思考が落ち着くのを待ってから、喜八郎はいったいなにが起ころうとしているのかを考えた。
半年に一度、人形を買い求めにやってくる上品な老紳士。
老婆との話のあいだから察せられるのは……人形たちを待つむごたらしい末路ではなかったか?
人形と呼ばれても、まるでその通りにふるまっていても、彼女らは歴とした、生きた人間の娘だというのに。
いまなにが起ころうとしている──老紳士は今日またやってきた。
人形を買いに。
商談のきりが見えたのか、室内で二人が立ち上がるような音が聞こえた。
ドアが内から開かれる前に喜八郎は場を離れると、ものかげに身を隠した。
応接間から前後して出て来ながら、老婆が紳士を引きとめるように言った。
──頑丈な娘がひとりおりまする。旦那様のお気に召すことでございましょう。
──ほう? それは、それは。
──ここへ来てまだ間もない娘でございますゆえ、髪も伸びきっておりませぬが。
──ほう、そうした毛色の違うものもたまには珍しくて面白い。
──ただ、手懐けるにいたってはおりませぬ……強情を張って抵抗するでしょう。
──なに、また根から髪でも断ち切ってしまえば大人しくもなろうというもの。
──ではそのようにいたしましょう。
──よろしく頼みましたぞ。
──はい、翌朝にはお引き渡しがかないましょう。
紳士は了承して帰っていった。
喜八郎は耳を疑った。
二人の話題にのぼったのは、あの娘のことに違いない。
あの娘が、あの老紳士の元へ引き渡されるというのか?
喜八郎の脳裏を、思い出などとも呼べぬほどの些細な記憶の断片が凄まじい勢いで駆け抜けていった。
この屋敷にあって、たったひとりいきいきと人間らしく暮らしているあの娘との、かすかなつながりと関わりの記憶。
喜八郎は早足で、あの娘に与えられている部屋へ向かった。
その表情ははたから見ればいつものとおりに落ち着いて見えただろうが、
喜八郎の内心はひどく焦って慌てふためいてすらいた。
唐突な訪問に娘はやや驚いた様子を見せたが、どうぞと喜八郎を招きいれようとした。
喜八郎はそれには応じず、先程盗み聞いてきた話を静かに娘に告げた。
娘は黙ってそれを聞き、考え考え、言った。
──ぐずぐずしていられないわね。
──今夜ここを出るわ。
──あのおばあさんに見つかってしまう前に。
元よりそのつもりでいたらしい。
娘はすでにまとめられた荷物をベッドの下から引きずり出してきた。
──このひらひらした服は逃げるには邪魔ね。
──喜八郎、あなたの服を借りられないかしら。
──たぶん返せはしないけれどね。
──それから……
娘はそこで少し躊躇った。
──おばあさんの気をどうにかしてそらす方法がないものかしら。
──他に頼れるひとがないわ、喜八郎、お願い。
なにも思いつきはしなかったが、喜八郎は頷いてしまっていた。
──怪しまれないように、夕食の時間まではいつもどおりにしているわ。
──そのあとで、こっそりと裏口から屋敷を出るわ。
──喜八郎、あなた、その時間に落ち合えるかしら?
喜八郎はまた頷いた。
先程からのどがはりついたように乾いて声が出ない。
初めて己の意思で招いた事態は、屋敷への裏切り行為に等しいものだった。
育ててもらった恩やらを感じてなどないのだから、罪悪感を抱くようなことはない。
そんな感情すら胸の奥深くに沈み込んで澱と化してしまっている己を、掻き乱したきっかけこそはこの娘なのだった。
──うまくいくかな
やっと出た一言は覇気なくかすれた声だった。
娘は自分を奮い立たせでもするように言った。
──やってみなくちゃわからないわ。
その言葉に背を押されるようにして、喜八郎は自室へととって返した。
娘の身体にも合いそうな服をいくらか見繕って袋に詰め、神経質そうな視線を窓の外へ向けた。
日は沈みかけ、赤い光を屋敷へさんさん・投げかけている。
両親には捨て置かれ、かつて世話をしてくれた娘はどこにいるかももうわからない。
幼い身が生きていくため、本来そばにあるべき頼れる存在というものが、喜八郎にはずっとなかった。
大勢の娘たちに囲まれて暮らしていても、彼はずっとずっと、ひとりきりだった。
彼が孤独でなかった瞬間は、屋敷の外で友人に出会ったそのとき。
そして、あの娘と関わりあったそのときだけだったのだ。
彼ら親しい人々を得ていなければ、喜八郎は己が孤独だということにすら気づかなかったかもしれない。
ただなにがあるでもなく、過ぎる時間を過ごすだけだった日々が、そうして塗り替えられた。
変わり映えのしない日々に波風を起こす力が自分にあると知りながら、
そうしてこなかった彼がいまやっとやろうとしていることは──
初めて、自分ではない誰かのために行動するということだった。
誰に頼ったことも甘えたこともない、それを許されてこなかった彼は、そのとき初めて弱音を口にした。
──こわいです。
誰が聞いているでもなかった。
彼自身、誰に言ったつもりでもなかった。
ゆくあてのないその言葉は、不自然に宙に浮いて消える。
夕日で真っ赤に染まった部屋が、あまりにも現実味のないものに見えて──身体から力が抜け、
喜八郎は思わず膝を折った。
床に着いた手が足が、ぶるぶると震えているのを信じられない思いで彼は見つめた。
──こわいです。
──助けてください。
──神様。
どうか彼女を、助けてください。
すがるもののない彼は生まれて初めて神の名を呼び、己の無事より娘の無事を祈った。
聞き届けられるものかどうかはわからない。
残酷にも、日はあっという間に沈んでしまった。
夕食の時間が来ると、喜八郎はいつもひとりで広い厨房の隅で食事を摂ることになっていた。
喜八郎と人形たちとがそうした時間を共にすることは許されていない。
用意された質素な料理は大広間のテーブルに運ばれ、数十人もの娘たちが一同に会し食事が始まる。
広間の入口のそばに喜八郎が立って待っていると、中へ入っていくあの娘とチラと一瞬視線が絡んだ。
危険が迫っているのは喜八郎ではなく娘のほうだというのに、むしろ喜八郎のほうが焦って慌てているようだった。
落ち着きなさいよ、と言いたそうに娘は口の端にちいさく笑みを浮かべて大広間へ入っていった。
やがて老婆も現れて席へ着く。
食事の時間が始まったのを見届けてから、
喜八郎は踵を返すと厨房へ向かうふりをして老婆の部屋へと忍んで行った。
彼も娘たちの多くも各々数度しか踏み入ったことがないはずのその部屋で、喜八郎はあるものを探していた。
あの娘が逃げる時間を稼ぐため、老婆の気を引いておくことが喜八郎に請われた役目である。
できることなら物色した痕跡など残さずにおきたかったが、娘の身に迫るおぞましい事態を思うと恐ろしくて手先が鈍る。
古い柱時計が一秒を刻むたびにこちこちと耳障りな音を立ててますます喜八郎を焦らせた。
探し荒らしたあとを片付けることもできず、心臓の音を耳のすぐ奥で聞いているような心地で、
喜八郎はやっと目的のものを老婆の鏡台の引き出しから見つけ出した。
それを引っ掴んで、喜八郎は大急ぎで裏庭へ走り出る。
娘とのちのち落ち合うはずの裏口には、先程用意しておいた逃走のための荷物と、
彼がいつも仕事の際に使っているスコップをすでに置いてあった。
彼はスコップを手に庭へ走り出、人目につきづらい茂みのかげへやってくると、そこへおもむろに穴を掘り始めた。
食事の時間はもうなかばほども過ぎた頃だろうか。
心臓が胸の奥でばくばくと音を立てて跳ねている。
どうか間に合ってくれ、うまくいってくれと、ひたすらに念じる。
穴が一メートル以上もの深さに達すると、
喜八郎は器用にそこから登り出て、老婆の部屋で探し当てたものをベルトのあいだから抜き取った。
それは、この屋敷へ連れてこられた幼い娘たちをいちばん最初に殺す道具。
美しい髪を断ち落とす魔女の鋏だった。
息を切らしながら、彼は暗黒に繋がるその穴を見下ろした。
かたちも深さもどこかいびつで、あまりよく掘れた穴とは言えない。
けれど、急を迫られ張りつめたこの空気の中では上出来だと彼は思った。
役目を果たすには、これで充分。
一瞬、
思いつめていたその緊張の糸が切れたのか、喜八郎の胸の内に息苦しい感情が怒涛のように押し寄せて、
彼の目にはみるみるうちに涙がたまった。
こぼしてはなるかと歯を食いしばって、喜八郎は大きな鋏を穴の中に投げ捨てた。
──これは、墓穴だ。
誰に言うでもなく呟いた。
神様とやらがどこかで見守っているのなら、この呟きを聞いてくれと思う。
彼を拾って育ててくれたやさしい娘も、ろくな交流もしなかったほかの大勢の娘たちも、
自由を得ようとここから逃げ出そうとしているあの娘も。
売られ、買われるのを待ち、行き着いた先で無残な末路を辿ったかもしれない彼女たち皆を傷つけ苦しめた、
この鋏は象徴のはずだった。
──二度と誰も、これ以上、傷つけさせない。
──こいつは死んだ。
──土の下で誰にも知られずに朽ちていって、それで終わりだ。
こらえていた涙がひとすじ、頬に落ちた。
土に汚れた袖で乱暴にそれを拭うと、喜八郎はまたスコップを手にその穴を埋め始めた。
流すまいと奥歯を噛み締めていてもこぼれつづける涙を、彼は鋏と共に幾粒もそこへ埋めた。
一緒に葬ってしまおうと、彼は最後に考えた。
自分で考えてこなかった僕。
何もしようとしなかった僕。
見て見ぬ振りを続けてきた僕を。
すべてを埋めて、喜八郎が屋敷の裏口の前へ戻ってくると、あの娘が走って出てきたところだった。
──ありがとう、喜八郎!
──無事でよかったわ。
──なにをしていたの、その格好。
うん、ちょっと、と言うに留めて、喜八郎は用意してあった荷物を彼女に手渡した。
彼女は茂みに隠れてさっさと着替えを済ませ、まだ短い髪を紐で括り、まるで少年のような格好で喜八郎の前に出てきた。
──なんてお礼を言ったらいいかわからないわ。
──いいよ、そんなこと。それより早く。
──ええ。
屋敷のどこかから、老婆がかんしゃくを起こして怒鳴り散らす声が聞こえてきた。
部屋が荒らされているのを見つけたのだろう。
もう時間がなかった。
裏門の前へ走り、喜八郎の助けを借りながら、彼女はなんとか錬鉄の門を乗り越えた。
二人を隔てる頑丈な門は、今しばらくは彼女を追うものを留める役を果たすだろう。
日常ほとんど使われていない裏門はさび付いて、簡単には開いてくれないのだ。
その一方で、表の門から裏へまわってくるには馬車でも数分かかる。
門を挟んで、二人の視線が一瞬、かみ合った。
別れを惜しむ間は、ほんのわずかしか残されていなかった。
──ありがとう、喜八郎。
彼女は重ねて礼を言った。
喜八郎はくびを横に振る。
とうに作り慣れてしまった無表情を頬に貼り付けて、喜八郎は懸命に笑おうと試みた。
口の端がわずかに歪んだだけだったが、彼女はにこっと笑い返してくれた。
──このあと、あなたがひどい目にあわなければいいけれど。
──大丈夫だよ。心配いらない。
──元気でね。
──君も、元気で。気をつけて。
──ええ。生きていたら……いつかまた、どこかで、会いましょう。
──うん……僕もここを出るよ。だから。
うん、と彼女は嬉しそうに頷いて見せてから、名残を惜しむように数歩後ずさり、
思い切って踵を返すと、夜の闇の向こうへと走って行ってしまった。
屋敷では老婆が怒り狂って喜八郎を探し回っていた。
娘たちも恐れおののき、老婆を止めることも事態を問うこともできず、騒ぎを遠巻きにしながら縮こまっている。
スコップを片手に土にまみれた姿で現れた喜八郎に、老婆は我を忘れた態でつかみかかってきた。
びく、と条件反射のように一瞬身がすくむ。
しかし喜八郎は老婆の手首をうまくつかまえると、想像していた以上に呆気なく床にねじ伏せてしまった。
きゃあ、と娘たちの悲鳴が周囲に上がる。
息を切らしながら、喜八郎自身もなかば呆然と、自分のしたことがよくわからないような心地で倒れ伏す老婆を見下ろした。
──お前、許さないよ。
──鋏をどこへやった。
老婆はじたばたと、喜八郎の腕の下で無駄な足掻きを続けている。
──僕が殺した。
殺した、という言葉の冷たい響きに、老婆はわめくのをやめた。
娘たちもひっとちいさな悲鳴を上げたきり、固唾を飲んで喜八郎の動向を見守っている。
──僕はこの屋敷を出て行きます。
──いままで置いていただいてありがとうございました。
最低限の礼は忘れずに、喜八郎は老婆を押さえつけていた腕を緩めると立ち上がり、頭を下げた。
傍らに放り出していたスコップを取り上げて振り向くと、喜八郎が殺人鬼にでも見えたのだろう、
娘たちが泣かんばかりに顔をゆがめ、恐れおののいた視線を向けてくる。
──喜八郎、お前、許さないよ!
汚い言葉で喜八郎を責め始めた老婆を、彼はただ振り返った。
たったそれだけの彼の仕草で、老婆はぴたりと言うのをやめた。
その瞬間に、喜八郎は初めて、完全な己の勝利を知った。
──どう思われてもいいです。
──僕は僕で、自分で考えて正しいと思ったことをやります。
──邪魔しないでくださいね。
──でないと、力ずくで、押しのけて出て行かなくちゃいけなくなるので。
暴力はよくないです、と呟いて、喜八郎は老婆に背を向けた。
まだ喜八郎を恐れるような素振りで遠く取り巻いている娘たちに、喜八郎は少し哀れみのこもったような目を向けた。
──君たちも、思い出したほうがいいよ。
──自分が人間だってこととか。
言い捨てて、喜八郎は自室へ引き取った。
長らくを過ごしてきた部屋だったが、持って出ようと思えるようなものは見つからない。
わずかな金と衣類、そしてスコップだけを持って、彼は堂々と正門から、屋敷を出た。
夜の空気はひんやりと心地よく、先程までの逃亡劇で興奮していた喜八郎の内心を冷ましてくれた。
──さて、どっちに行こうかな。
珍しく悪臭を放つ濃い霧は漂っておらず、美しい星空が頭上一面に広がっていた。
空を仰いで、喜八郎はふっと笑った。
笑顔には恐らくほど遠いが、自然と口元に浮かんだ笑みだった。
──どっちでもいいや。
──僕の好きなほうに行こう。
ちいさな荷物を背負い直して、喜八郎は力強く一歩を踏み出した。
暗くたたずむ魔女の館を、ただの一度も振り返らずに。