広大な土地に堂々たるたたずまいの家屋敷、かしずく召使たち。
目で見ただけでは把握しきれないだけのさまざまなかたちの財産。
上等な衣服、贅沢な食事、それらを惜しみなく切り捨てることを躊躇わず、
たくさんのものを無駄に使うことを許されている、そんな生活。
滝夜叉丸が物心ついた頃、それはすでに彼にとっては当たり前のことだった。
近年めざましい発展を遂げた機械産業で成功をおさめ、彼の家は巨万の富と呼べるだけの財を成したのである。
贅沢三昧もわがまま放題も滝夜叉丸には際限なく許されていた、というのも、
彼の父親は仕事に忙しく家を留守にしがちであり、母親はとうに儚くなって、
滝夜叉丸を誠実に躾る人間が周囲に誰もいなかったためである。
彼の父親は、息子の欲しがるものならなんでもかんでも買って与えた。
貴族の子どもや彼の家よりも多くの財産を持つ家の子どもですらが持っていないものをこそ、
彼は息子に持たせたがった。
滝夜叉丸が不足も欠けもなく、これ以上ないというほど満たされていることこそが、
その父親にとっての富のあかし、また愛情を示すすべだったのである。
誰も持っていないものを自分は持っている、それが滝夜叉丸にとっては当たり前のことであったし、
周りがそれをうらやんだりやっかんだりすることもまた茶飯事であった。
自分の持ち物を自慢してみると、皆がもの欲しそうな羨望のまなざしを彼に投げる。
そうして優越感を得る瞬間は彼にとってなんとも心地のよいものだった。
彼はなにか新しく手に入れれば必ずそれを友人たちに自慢してまわった。
最初こそ誰もが彼をうらやんでいたが、あまりしつこくそれが続くので次第に飽き、嫌気もさしたようで、
やがて彼の話はさらりと聞き流されるようになってしまった。
滝夜叉丸にはそれこそがとんでもない不満である。
息子の機嫌をとるべくと彼の父親がとった次の行動とは、“人形屋敷”からひとりの娘を引き取ってくること、だった。
薄暗いじめじめとした裏町のその屋敷へそうして足を踏み入れたのは、
滝夜叉丸がまだ十歳になるかならぬかの頃である。
背の曲がった魔女のような風体の老婆に案内され、
滝夜叉丸と父親とは薄暗いが豪奢に仕立てられた応接間に通された。
父親は老婆に、“血統書付きの人形”を、と注文をつけた。
老婆は頷き、やがて数人の、眩いばかりの美貌の娘たちを連れてくると彼と父親との眼前にずらりと並ばせた。
少し古い時代のものかと思うような古典的なデザインのドレスをまとい、髪を結い上げて薄く化粧したこのさま、
老婆を魔女とするならこの娘らはとらわれの姫君ではなかろうか。
応接間の中でいったいなにが起きているのかもわからないながら、
滝夜叉丸はただただ美しい娘たちに見蕩れてぽかんと口を開けた。
父親は老婆に、娘たちの“血統書”の説明を求める。
老婆はひとりの娘の腕を乱暴に引いて一歩前に出させ、言った。
──この娘はある伯爵家の御令嬢の私生児。
──御令嬢が婚約なされましたのち、婚約者ではない男とのあいだにできた娘でございます。
──隠し隠し出産し、赤子をすぐに私どもの屋敷へ追いやったのち、
──御令嬢は婚約者とめでたく御婚礼を。
腕を引かれた娘は恥のあまりに顔を真っ赤にし、唇を噛んで必死に老婆の言葉に耐えていた。
老婆は乱暴に娘を押し戻すと、また別の娘の腕を引いた。
──こちらの娘は由緒正しい家柄の直系の血を引いております。
──しかしこの娘の両親は賭け事にはまり込んで、先祖代々の財を食いつぶし、呆気なく破産を。
──細々と食いつなぐのが精一杯の生活となりましても、知ってしまった快楽からは抜け出せぬのでございましょう。
──娘を私どもへ売り飛ばした金でまた賭け事に手を出したとか。
老婆は次々と娘たちの後ろ暗い事情を暴いていった。
父親が聖職者であったがため、存在ごと抹消された娘。
継母に疎まれた末に売られた娘。
実の兄と妹のあいだに生まれた娘。
どの娘もみなこの上なくよい家の出であるというのに、
人には言い出せぬような事情を抱えているがために実家にいられなくなり、
このような裏町で金で買われるのを待つ身となったのである。
父親は娘たちを見渡してふむ、と考え込む仕草を見せ、おもむろに息子に問うた。
──どれがいい。
──え、
滝夜叉丸は驚いて父親を見上げた。
父親はなんでもないことのようにさらりと言った。
──ひとりお前に買ってやる、どれがいい。
滝夜叉丸はまた驚いて、もう返事もできずに目を丸くした。
──お前の友達は誰も、“人形”など持ってはおらんだろう?
──でも、人形で遊ぶなどと、女のすることです。
──この娘らはその人形とは違うのだ。
意味がわからず、彼は父親の顔色をうかがうようにそろりと首をかしげた。
──生きた“人形”だ。
──お前の言うことをなんでも聞くぞ。
──言葉を惜しまずお前をほめたたえる者が、お前には常に必要だ。
父親は改めて娘たちをぐるりと示して、さあ選べと繰り返した。
娘たちは恥と屈辱とに震えながらも身を縮こまらせて、選ばれる瞬間を待っているようにも、拒んでいるようにも見える。
滝夜叉丸は困って考え込んでしまった。
美しく、無表情だが、今は怯えている、その点ではどの娘も皆同じだった。
常にあるじをほめたたえることが、選ばれた娘に与えられる唯一にして絶対の命令である。
どうせそばに置くのなら、もちろん気に入るところの多い娘がいい。
それならば滝夜叉丸は、ただひたすらに美しい娘を選びたいと思った。
そうして改めて視線を巡らせたとき、どの娘もとびきり美しいには違いないというのに、
ひとりだけわずかに彼の目を引くところのある娘を見つけた。
このひとを、と滝夜叉丸がおずおず示すと、
父親はふむ、と唸ってからじろじろと不躾に選ばれた娘を見やってのち、
死んだお前の母親に少し似ているな、と呟いた。
“人形”がそばにある生活は、それまでの彼の暮らしとはまったく違うものとなった。
娘には滝夜叉丸の身のまわりの世話という仕事も与えられたが、
あまたかしずくハウス・メイドたちと娘との待遇は天と地ほどの違いがあった。
娘にはあくまでも“人形”という立場がついてまわり、
それは平家においては“観賞用”および“愛玩用”という目的のためのもので、
ただ働き手と見なされる使用人たちとは違う存在であると認識された。
観賞、そして愛玩に見合うだけの装いが求められるというだけの理由で、
娘にはきらびやかなドレスや靴、宝石などが惜しげなく与えられた。
それらを娘に着せつけ、髪を結い上げて化粧をし、花や宝石をあしらって隙なく美しい姿に飾り立てるのは、
“人形”の世話という特別な仕事を与えられたメイドである。
滝夜叉丸にはもちろん、この人形娘がなによりの自慢であった。
かなう限り行く先々にまで連れ歩き、さまざまなものを与え教えた。
娘は素直に彼の言うことすることを受け入れてよく従い、
躾られたハウス・メイドよりもよっぽど気のきいた仕事をすることでも滝夜叉丸に気に入られた。
ひとつ・ふたつ年齢が上らしい娘が、深々と己に頭を垂れるさまもなにやら少々心地よい。
娘は最初の言いつけを忠実に守り、ことあるごとに滝夜叉丸のことを言葉をつくしてほめたたえた。
その美しさを、聡明さを、凛々しく勇猛果敢であることを、とにもかくにもなんでもかんでも、
娘の紡ぐ誉め言葉は誠実で心こもった音でもって滝夜叉丸の耳に響き、
それがまた滝夜叉丸には誇らしく思われるのだった。
あるときなど、顔つき合わせればいがみ合うのが恒例となってしまっている知人の取り巻きと、
己の主人がいかに優れているかという点で延々言い争いを繰り広げすらした。
それこそは娘に命じられているがゆえのことなのだと、滝夜叉丸はもちろん理解している。
しかし娘の言葉はいつもまるで嘘がないように聞こえ、
滝夜叉丸はその言葉が真実であると信じていたくてただただ、
娘が己のために他人と張り合ってくれる光景を黙って眺めるのであった。
これが嘘ならば、つき通し続けてほしい。
そのような願いを口に出して言い聞かせることはさすがに憚られて、滝夜叉丸はつとめていつものように尊大に、
娘に誉められるのは己にとって当たり前のことなのだと、心底からそう思ってでもいるように振る舞いつづけた。
そうしてふんぞり返っていれば娘はさも嬉しそうに微笑んで、それでこそ私の若様でございます、と言ってのける。
作り笑いかもしれなくても娘のその笑顔が愛おしく思われてならなくて、
滝夜叉丸はまた堂々と誇らしげに、誰やらと張り合いつづける。
いつのまにか、誰のために、なんのためにという目的が、どこにあるのかもわからなくなってしまっていた。
己が優越感を得たいがため、という欲求など吹き飛んでいまやあとかたもない。
己が立派な自立した男でありさえすれば、娘がそれをほめたたえて微笑んでくれる。
滝夜叉丸はいつしか、それを望むようになっていた。
真実すぐれた人間として成長してゆくこと。
そうすれば、娘の笑顔も誉め言葉も、いつか心からのものになってくれるのではないか。
願いをそうして自覚したとき、滝夜叉丸はすっと冷静な目を得て己をかんがみた。
本当に美しい姿とは、聡明であるということは、凛々しく勇猛果敢であるということは、どういうことなのだろうか。
彼はこれまで以上によく学び、身体を鍛えて技術を磨くようになった。
会うたびに張り合わずにいられない知人との諍いの派手さばかりが取り沙汰されがちであったが、
その裏で彼の努力することはたしかに実を結んでおり、
平家の後継ぎという名に恥じぬ成長振りであるといってやがてはその父親にも喜ばれるようになった。
なにかをひとつやり遂げるたび、彼は胸を張って人形娘にそれを話して聞かせ、
彼女が我がことのように目を輝かせて喜ぶさまを見てはやっと心満たされて成功の実感を得た。
なんとした幸福の日々であろうと、娘の笑顔を見て滝夜叉丸は考える。
ある日彼はいつものように娘に己の武勇伝を語って聞かせたあと、ふと尋ねた。
──おまえはこの家にやってきて、不幸であったことはあるか。
──なにを仰います、若様!
娘はとんでもない、と言いたげに大仰にかぶりを振った。
──あの薄暗いお屋敷から連れ出していただけて、若様という御主人様に恵まれました。
──これ以上の幸福がどこにございましょう!
真剣そうに力説する娘を見て、しかし滝夜叉丸は更に深く問うた。
──本気で、本当にそう思って言っているのか。
──もちろんでございます。この私が、若様に嘘を申し上げるなど、あろうはずもございません。
──それなら、いいが。
──若様、なにかお気にさわることでも? 私、何か粗相をいたしましたでしょうか。
──いや、そうではない。……考えたのだ。
娘はゆっくりと瞬きをした。
その仕草が問い返すようにも先を促すようにも見えて、滝夜叉丸は一度頷くと続けた。
──人の幸福とは、どうしたものだろうと。
──個々によりさまざまな幸福のかたちがあるのは無論のことだ。
──私は、お前のあるじとして、お前の幸福とは何かと考えねばならない。
──少なくとも私は、お前がここへやってきてからは幸いだった……
──お前はよく笑うからな。
──笑うことがお前の仕事だとわかってはいるが、
娘はそこで滝夜叉丸の話を遮った。
──そのようなこと!
──確かに、旦那様のお命じになったことは、若様を誇り褒め称えることに相違ございません。
──けれど、私が心にもないことを申し上げてきたなどとは、どうかお思いにならないでくださいませ。
──若様は、私が心からお慕い申し上げる、自慢の御主人様でございます。
──私が若様を誇らしく思い、言葉を尽くしてお褒め申し上げますことに、寸分の偽りもございません。
──若様は真実ご立派でいらっしゃいます。
──人々の目の届かぬところでどれほどの御努力をなされておいでか、私は存じ上げておりますゆえ。
──若様はそうして私に、誇らしい御主人様のお姿を示し与えてくださっているのでございます。
──どのように感謝を申し上げればよいのかもわからないほどなのです。
娘がまくし立てるのを、滝夜叉丸はなかば呆気にとられて聞いていた。
仕事として作り事を述べるにしても、ここまで徹底できるとしたなら大したものだ。
もはや彼は娘が嘘を述べているのではと不安に思うことはなかった。
彼が思わず安堵の笑みを浮かべると、娘は話しすぎたことを詫びるように気まずそうに唇を引き結んだ。
──お前が心底誇ることのできる主人になろうと思ったからこそ、今の私があるのだ。
──お前だけは、私に媚びへつらう意図で誉め言葉を述べることはないからな。
──私が成長することを、お前は真実喜んでくれていたのだろう?
娘は真摯に頷いた。
頷き返して、滝夜叉丸はまた続ける。
──それを思えば、努めることはなんの苦でもなかった。
──感謝するのは、私のほうだ。
娘は恐縮そうにぶるぶるとくびを横に振り、言葉もなく必死に俯いた。
その様子が、年齢が上の娘ながらなんとも可愛らしい。
いい主人になりたい、と滝夜叉丸が言うと、娘は神妙そうにこっくりと頷いて見せたあとで、
──でも、若様は、もっともっと大きなものを目指せるお方でございます。
もったいない、と呟いた。
謙虚にそう言う娘を見つめて、滝夜叉丸は久方ぶりに相好を崩して笑った。
娘は彼にとってすでにただの“人形”ではなくなっていた。
本心を吐露できる、本音でぶつかり合える貴重な相手。
“人形”の“用途”として、成長するほどにえげつない話も耳にしてはいたものの、
こうして彼のそばにある娘は美しい人間の女に違いなかったのだ。
いつか自分が家督を継ぎ、多くの責任を自分で担うことを許されるようになった日には、
この娘につきまとってきた“人形”という呪縛をといてやろうと彼は考えた。
そうして娘から“主人に付き従って彼を褒め称えること”という役目が取り払われたとき、
この娘は自らの意思で再び己のそばに留まることを選んでくれるだろうか。
しばし先の未来、けれど確実にやってくるその日に、この娘に選んでもらえる己でいようと滝夜叉丸は考えた。
彼の努力の日々は続く。
ひとつ、ふたつと成果をあげるたび、娘は喜んで滝夜叉丸を誉め、満面に微笑み、労った。
変わることのないその関係を、滝夜叉丸は時折もどかしく思う。
早く早く、己が成長すれば、彼女を解放してやれるのにと幾度となく考える。
彼はそうして脳裏に思い描く未来を希望をもって見つめ続けた。
変化には乏しくも幸福な日々が過ぎ、彼の背がやっと娘の背を越した頃のこと。
そろそろ年頃と思わせぶりな言葉を向けられるようになった彼の元へ、舞い込んだのは見合い話であった。
あまりに唐突な婚約者候補の登場に滝夜叉丸は面食らって言葉もない。
息子になんの相談もなく縁談を見繕ってきた父親は上機嫌である。
なんでも、相手の娘は由緒正しき貴族家系の末裔だそうだが、代々の財産は切り崩されてすでに内情は火の車という。
それを聞いただけで、父親の思惑になんとなく察しのついた滝夜叉丸である。
すでに莫大な財を成した平家である、花嫁の持参金をあてにする必要はない。
父親が欲したのは、やすやすとは手に入らない爵位、地位身分とそれにまつわる権力なのである。
聡明な青年へと成長していた滝夜叉丸は、地位や身分、権力、財産、
そうしたものそれぞれの性質を彼なりによく見極めていた。
貴族の娘と縁を結ぶことで、平家もその貴族家系の姻族となる。
そうして力を誇示したいということが野心ひとつで平家を育て上げてきた父親の目的であったろうが、
滝夜叉丸にとってそれは決して美しい姿ではなかった。
縁談に最後まで納得することのできなかった彼は、
内輪でのちいさなパーティーという名目で仕組まれた見合いを途中であっさりすっぽかした。
和やかな会場から抜け出し、通りで辻馬車を拾うと、供もないままひとりぼんやり帰宅してきてしまったのである。
門前に降り立った滝夜叉丸を使用人たちが大慌てで迎えようと走り回っている、
自宅の使用人たちの様子は少々滑稽でなんだか彼は苦く笑いたい気分になった。
──若様! いかがなさいました、まだパーティーの最中でございましょうに。
──旦那様はご一緒ではないのですか。
──お加減でも悪うございますか。
此度は留守を言いつけられていた人形娘が駆け寄ってき、心配そうにそう言うのを彼は穏やかな心地で見つめていた。
──パーティーなど、……つまらん。
──お前と遊んでいたほうがずっと有意義というものだ。
娘は拗ねたように頬を膨らませた。
──まあ、なんてことを! 旦那様がお怒りになります。
──だろうな。
よいのだ、と言って滝夜叉丸はさっさと門をくぐると屋敷の前庭に踏み入った。
緑まぶしく、花がさざめいて咲き、空は青く高く、心地よい風が吹く。
──美しいな。
──なにがでございます、若様。
──いい季節だ、そう思わないか。
──はい、それはもう。けれど、いまはそれどころではございません。
──なにがだ、慌てるな。
──ご婚約者のお嬢様は、ショックで気絶でもなさっておいででしょう。
頭が痛い、と言いたげに娘はうなだれて見せる。
相変わらず大袈裟だなと思いながら、滝夜叉丸はふふと笑った。
──プライドが傷ついたとでも言って、縁談も何も断ってくればいい、あの娘。
──たいそうおきれいなお嬢様だとうかがっておりましたのに。
──ああ、まあ、顔はな。あんなもんだろう。
──若様! 女性に対して、そのような仰り様!
──すまない、お前も傷ついたろう、少々軽率だったか。
──私のことなどどうでもよろしいのです。旦那様になんと申し上げるおつもりですか。
そうだなあ、と滝夜叉丸は考えるふりをして空を仰ぐ。
怒り心頭に発する父親、怒髪天を衝きかねない貴族方の当主、よよと倒れるその娘を想像しつつも、
滝夜叉丸はどうにも軽妙な心地であった。
──自分の愛するものくらいは、自分で見つけるとも。
──自分に相応しいと思える、自分が相応しいと思える、そういう娘を。
娘はまだ少々怒ったような顔で言う。
──旦那様が苦労して見つけておいでになったお嬢様でしたでしょうに。
──若様に相応しいお嬢様なんて、そうそうおいでになるわけがございませんでしょう。
このあとずっとお独り身でいらっしゃる羽目になったらどうなさるのですと、娘の言うのに滝夜叉丸はつい苦笑した。
──お前も大したものだ、このような場合ですら結局私を誉めている。
──本当のことを申し上げたまでです。
少々虚を突かれた感があったのか、もごもごと言い訳をするように娘は呟いた。
──だって若様は……頭脳明晰でいらっしゃいますし。
──武芸も十二分におおさめでいらっしゃいますし。
聞いて滝夜叉丸は肩を震わせて笑うのを懸命にこらえた。
娘はそれを横目に見ながら、もうやけになったかのように続けた。
──ご家業のことも文句のつけようもないほどご存知だと旦那様もお喜びでいらっしゃいます。
──政治、経済のことに目配りもおききで、語学もご堪能で。
──父君やご親族様方、ご友人様方はもちろんのこと、私ども使用人にまでお心遣いをお忘れにならないご立派なところ。
──それになによりも、どなたにも比べようのないほどのお美しさ……
その若様に見合うほどのお嬢様をなどと、どう頑張っても条件が高くならざるを得ません。
真面目くさって言う娘がおかしく、愛らしく思われて、滝夜叉丸はとうとうくくと笑い出してしまった。
──まあ、そんなにお笑いになるなんて。
娘はまた頬を膨らませて肩をすくめて見せた。
多少言葉が大袈裟になるのがこの娘の癖なのだろうが、
嘘偽りのない思いでそう言ってくれていることが滝夜叉丸にはただ嬉しかった。
──いるさ、そんな娘も、どこかには。
それだけ言って、滝夜叉丸はまた笑い出した。
なぜだろう、とても言えないと思って飲み込んでしまった言葉だけが、喉元にしこりのようにひっかかる。
もしかしたら己にはもったいないほどではないかと思われるほど眩しく美しく笑う娘を、滝夜叉丸はひとりだけ知っている。
“──お前は美しいよ。”
拗ねるのも諦めた娘が、滝夜叉丸につられたように一緒に笑い出した。
なぜだろう。
“お前は美しいよ”。
とても、言えない。