尾浜家へやってきた“人形”に、勘右衛門が最初に与えたものは鏡だった。
全身をくまなく映すことができるほど大きい、豪奢な細工が施されたヴェネチア鏡である。
彼が“人形”に命じたのは、ことあるごとにこの鏡を覗き込み、厳しい目でその美を管理しろ、というものだった。
勘右衛門は冷ややかな笑みを浮かべて言い放った。
──誰が見ても君が世界でいちばん美しいと思うよう、そう振る舞うんだ。
──君を連れて歩いたときに、振り返らない人間がただの一人もいないというくらいだ。
──男は見蕩れて腑抜け、女は妬んで地団太踏んで悔しがる、それくらい。
とてつもない無理難題である。
言われて娘は青ざめたが、莫大な金で買われて引き取られた“人形”たる己にそれを拒む権利などない。
かしこまりました、と頭を垂れる娘から、勘右衛門はふんとそっぽを向いた。
尾浜家が所有する財産の一角が削れたと言っても過ぎることはなかろうというほどの額を、
勘右衛門は“人形屋敷”に支払ってこの娘を手に入れた。
“人形”自体には何ら思い入れはなく、もしも美しさが勝るとするなら他の娘を選んでもよかった。
彼が“人形”に求めた条件はただひとつ、もっとも美しい娘である、ということのみである。
“人形屋敷”を取り仕切る老婆は、屋敷中の娘の中から選りすぐった数人を勘右衛門に引き合わせたが、
一度・二度では彼の気に入る娘は出てこなかった。
数度目の機会、もう十数名以上の“人形”を目にしても気に入るものが見つからず、
いい加減いらいらしていた勘右衛門の前に立ったのがこの娘であった。
慎ましやかに目を伏せ、たっぷりとした黒髪を結い上げ、
白い肌にほ、と薄く紅を掃いたように色味がさしているさまは清楚で実に愛らしかった。
身にまとった古風なドレスは色あいも装飾も比較的大人しい印象で、
この娘自身がどうやらあまり派手さを好まぬ控えめな性質らしいことをうかがわせた。
勘右衛門は娘を一歩前へ出させると全身をじろじろと不躾に眺め、そっけなく この娘でいいや、と言った。
尾浜家へ連れ帰ってきてから、勘右衛門は娘に世界一美しい姿でい続けろと命じ、
巨大な鏡、そしてあふれんばかりの衣服と装飾品がおさめられた衣装室と寝室とを与えた。
続けて娘の今の姿ではもっとも美しいとは到底呼べないと文句をつけた。
──いまつけている衣装はすべて処分して。
──身につけるものはすべて最新流行よりも先のものを選ぶこと。
──誰よりも一歩先をゆく努力をするんだ。
──人に後ろ指をさされるような真似をすれば……それはおれへの裏切りだからね……いい?
勘右衛門は口元に笑みを浮かべながらあまりにも厳しい言葉を次々と突きつけ、
娘はびくびくとしながらも長年の躾に従って、はい、御主人様、と頭を下げた。
その日から尾浜家では、機嫌の悪い若主人がいらいらしながら人形娘を呼びつけ、
頭ごなしに娘をなじって突き放すという光景がひっきりなしに見られるようになった。
娘はわずかばかりも主人に逆らわず、抵抗もせず、大人しく頭を垂れては命令のすべてを受け入れた。
身につける衣装や宝石は何もかもすべて新しく作られたもので、
巷の若い娘たちが喉から手が出るほど欲しがっている流行の品ばかりだった。
娘は毎朝、一度も袖を通したことのない衣装、一度もつけたことのない飾りでのみ装い、
毎夜着替えてそれらを外すと二度と身につけてはならないと厳しく申しつけられた。
たった一度身につけただけのものをすべて処分する、これも勘右衛門の事細かな命令のひとつなのだ。
尾浜家での贅沢が過ぎる暮らしに娘がようやく慣れた頃、
勘右衛門は初めて娘をともなって社交界の集まりのひとつに顔を出した。
勘右衛門の最初の命令どおり、娘はその場で最も美しい女性の一人としてあることに成功した。
すれ違う誰もが振り返って娘をほれぼれと見つめた。
男たちはすっかり腑抜けたさまを呈してダンスのパートナーをつとめる娘の足を踏み、
一方で女達は嫉妬と羨望のまなざしを無遠慮に娘に注いでは、その装いと立ち居振る舞いとを値踏みする。
周囲のそうした反応に、勘右衛門はおかしそうにのどでくつくつと笑った。
常に不機嫌そうな顔をしている主人が、恐らく珍しく満足しているのだろうと、娘は少々安堵した。
──皆の顔を見た? 楽しいなあ
──はい、御主人様。
いつもどおりに返事をすると、勘右衛門はたちまち機嫌を損ねたように厳しい目線を娘に寄越す。
──お前が“人形”だと悟られるような受け答えをするな。
──はい……では……勘右衛門、さま
──それでいい。
勘右衛門は妖しい笑みを浮かべて、娘の耳元に囁いた。
──毅然としているんだよ……
──胸を張って、悠然と笑ってさえいればいい。
娘の評価が上がることは、勘右衛門自身の評価を上げることにも繋がるのだ。
“人形屋敷”にいた頃、娘はそうして主人を引き立てるという考え方を徹底的に叩き込まれていた。
勘右衛門に睦言でも囁かれたかのような初々しい笑みを意図的に浮かべてみせると、
遠巻きに二人の様子を見ている女たちが一瞬刺々しい気配を振りまいてさざめいた。
こうも敵意を含んだ視線を受ければ、勘右衛門がどれほどの娘たちに憧れられているのかは確かめるまでもない。
恐らくは勘右衛門自身もそれをよく知ったうえで思わせぶりな態度を取って見せているのだろう。
その証のように、今日の勘右衛門の表情はずっと明るく、笑顔にもいつものような怪しいかげはない。
彼は会う人ごとに娘を紹介したが、人形屋敷から引き取ってきたという裏事情はおくびにも出さず、
“しばらく尾浜家に滞在することになった娘だ”というだけの、どうとでも取れるような言い方をした。
それを邪推したがる人々は、どうやら勘右衛門にも縁談がまとまったのかと無責任に噂を立てる。
そうして尾ひれのついた噂がまた更なる噂を呼ぶようにして膨らんでいったが、
自身の話題が人々の口にのぼることを勘右衛門はかえって好んで楽しんでいるようだった。
彼の隣に立ち、よけいな口は出さぬように気を配りながら、娘は終始笑顔を保ってその様子を見つめつづけていた。
頭がよく、豊富な話題を持ち、機転がきき、気配りに長け、
なによりも笑う姿の底抜けに明るいことには誰もが心惹かれる様子で、
勘右衛門と共に過ごしているあいだは皆本当に楽しそうに笑っている。
その彼がまさか真反対のように冷たく残酷でさえあるまなざしで、
嘲るように人を見下ろしののしることすらあるのだと、誰も思いもしないだろう。
あるじの持つその二面の姿が、娘にはわずか、不可解だった。
夜中遅くまでそうして遊んでから、勘右衛門は娘と共に帰途についた。
馬車に揺られて自宅に辿り着くまでのわずかな移動時間のあいだに勘右衛門の上機嫌は次第にさめてゆき、
尾浜家の壮大な門が馬車を出迎えた頃には彼はすっかりいらいらとし始めていた。
地雷を踏むような真似をしたくなくて、娘はひたすらに黙って俯いていた。
なにが彼の機嫌をじょじょに損ねていったのか、娘には思い当たるところがない。
ほとんど八つ当たりでもするように投げやりな態度で馬車を降り、早足で玄関のエントランスに入る。
勘右衛門はいらいらと歩きながら上着を脱ぎ捨て、装飾品も通路に次々と投げ捨ててゆくので、
娘はそれを拾いながらあとをついて行くはめになった。
深夜も深夜という頃である、女中たちはすでに寝入っていたのだろう。
数人が慌てて出てきて、娘から勘右衛門の脱ぎ捨てたものを引き受ける。
彼女らがそれらを扱う様子が少々ぞんざいなところを見ると、
娘の身につけたものだけでなく、彼の身につけたものもすべて一度使われただけで処分されてしまうのだろう。
あまりのことに娘はすでに呆れ返っていたが、進言するような勇気はない。
娘だけではない、この屋敷には誰一人として彼に意見をできる人間がいなかった。
勘右衛門の横柄で高慢な態度を、誰も彼もが恐れながらも咎め立てせずに受け入れているのだ。
娘はこわごわ、勘右衛門の様子をうかがいに彼の行った廊下を追いかける。
辿り着いた先は夜の庭に面したサンルームだったが、一歩入って娘は驚きのあまり声を失った。
豪華も過ぎるほどのパーティーで思うさま遊び呆けてきたあとだというのに、
サンルームにはまるでそれを再現したようなテーブルが用意されていたのである。
所狭しとその上に並べられているのは、胸焼けがしそうな甘い菓子の数々。
数種類にも及ぶケーキ、その他あまたの焼き菓子、砂糖菓子、チョコレート、フルーツの盛られた籠。
勘右衛門は行儀も何もないといったさまでテーブルの端にじかに腰掛け、手づかみで菓子を貪っていた。
娘が呆然とサンルームの入口に立っているのにも構う様子はない。
──これはいったい、なんなのですか。
──何って。
──今しがたまで、パーティーにおいででいらしたのに。
──それがなに?
意味がわからない、と言いたそうに勘右衛門は眉を寄せた。
──お身体にさわります、勘右衛門さま。どうかほどほどになさってくださいませ。
──好きなことをめいっぱいやり通して生きて身体に悪いわけないでしょ?
君も食べれば、と娘を手招きさえする。
先程までの不機嫌は少々薄れているようだった。
娘は一瞬躊躇ったが、あるじのためと思ってサンルームへ踏み入った。
チョコレートの濃い香りがあたりに漂っている。
──人形屋敷って、厳しいの?
──はい
唐突にそのような話題を振って寄越され、娘はたじろぎながらも頷いた。
勘右衛門は問うたわりには興味がなさそうに、ふぅん、と呟く。
──おやつとか、出た?
──いいえ。食事と甘味には、特に制限がありましたので。
──体型を維持しないとダメってこと?
──はい。
ごくまれに、屋敷を取り仕切るあの老婆の機嫌が良いときだけ、
娘たちにと客から贈られたキャンディやチョコレートを一粒もらえるという程度だ。
屋敷に来たばかりの幼い娘たちが喜ぶこともあって、年長の娘たちは気遣って譲ってやることも多かった。
──かわいそうだね。
──そういうものだと、思っておりましたから。
贅沢の許される身ではなかった。
まして、たった一度袖を通しただけの服を捨てるだとか、
フォークでちょっとつついただけの皿も食べる前に飽きたと言って下げるだとか、そのような浪費が許されるなど。
──食べないの?
勘右衛門は不思議そうに娘を見つめる。
娘は頷いて辞退した。
──空腹でいらしたのですか。
──別に。
ゆびについたシロップを舐めながら、勘右衛門はそっけなく、呆気なくそう言った。
──これが幸せってものでしょ。
なんでもないことのように呟いて、勘右衛門はフルーツの籠からりんごをひとつ取り上げた。
手の上に数度投げ上げたあと、娘のほうへおもむろに放る。
娘は慌てて、なんとか両の手でそれを受け止めた。
──ナイスキャッチ。
──食べ物を粗末に扱ってはなりません。
──なにそれ、ばあやみたいなこと言うね。
うるさそうに手を振り、勘右衛門は娘の言うのを遮った。
──それは君にあげる、心配しなくても毒なんか入ってないよ。
──仮に毒りんごでも、おれは助けになんか行かないけど。
冗談めかして笑い、
──おれ、王子さまとかじゃないし。
低い声で呟いた。
娘はなにかやりきれない思いで手の中のりんごを見つめていたが、答えずに黙って一礼すると、
サンルームをあとにした。
胸の内にぐるぐると、なんとも形容しがたい感情が渦巻いている。
怒りでもあるような、どこか悲しい思いも混じっているような。
自宅ではいつも近寄りがたい刺々しい空気を発している勘右衛門にも、
今は少しばかりは聞く耳があったようには思われる。
それでも、なにを言ってもその言葉が彼の心の奥深くにまでは届いてくれないような気がして、
娘は背を向けて彼から去ってくることしかできなかった。
彼女があるじに対しておそれや遠慮や呆れ以外に初めて覚えた感情は、
ひどく空虚でいたたまれないような思いだった。
それをなんという名で呼んでいいのか、娘にはわからない。
哀れみ、という言葉が脳裏にふと浮かんだのを、彼女は必死で打ち消した。
わけもわからず悲しくなってきて、娘は与えられた部屋へ帰るとベッドの端に座り込んで物思いに沈み、
しばらく身動きも取れずにいた。
これが幸せというものだと、言ったあるじの言葉はその様子とはまるで裏腹のように娘には思えてならなかった。
明るく笑っていても、怒りに声を荒らげていても、娘の目に勘右衛門は少しも満ち足りたようには映らない。
投げ渡されたりんごが、娘の手の内で誘うようにかすかな芳香を放っている。

それ以降、どこかのパーティーに出席するといっては勘右衛門は頻繁に娘を連れ出し、
ひどいときは明け方近くまで遊んでからいらいらと帰宅し、
サンルームに山と用意された菓子を貪り食うということを繰り返した。
聞けば、社交界の集まりなどに顔を出したときには必ず山のように甘味を用意することになっているのだという。
遊び疲れて帰ってきてからそうしてまた菓子ばかり腹に詰め込み、今度は食べ疲れてその場で眠ってしまう。
遊び歩くのが好きなのか、人と過ごすのが好きなのか、あるじの外出の頻度は高かった。
そのすべてに連れ回されることを繰り返しているうちに、
娘は勘右衛門がまともな食事をほとんど摂っていないらしいことにも気がついた。
遊びの最中にもつまむのは甘いものばかりだ。
彼を囲む友人たちにもそれが彼の性質であると認識されているようで、
たまに塩の味のするものも口にしろよ、海に囲まれた国の民だというのに、などと笑われている。
勘右衛門に寄せられるのはそのように軽口めいた意見ばかりで、
彼自身も冗談を聞き流すように笑ってその場をうやむやにしてしまう。
遊び歩く日々ばかりを過ごし、生活する時間が不規則になりがちな中で、
娘も体調が崩れているような具合の悪さを感じることがたまにあるほどだったが、
勘右衛門は不思議なほど元気な様子だった。
その日も遊び呆けて真夜中に帰宅すると、勘右衛門はその足でサンルームへ向かった。
無造作に投げ捨てられる装飾品を拾って女中たちに預け、娘はまたそのあとを追いかける。
サンルームにはいつもどおり、一人では食べきれない量の菓子が用意されていた。
この光景に、娘もすでに慣れ始めている。
──甘いもの、嫌いなの?
あるじは娘にそう問うた。
──いいえ。
──なんで食べないの?
──なぜ召し上がるのかとおうかがいしたいくらいです。
勘右衛門は気分を害したと言いたげに眉根を寄せた。
──そういう口の利き方、“人形”には許されてるの?
──いいえ。申し訳ありません。でも。
──でも? 意見することは許されてるの?
娘はその問いかけに直接答えることをしなかった。
──心配しているのです。
勘右衛門は丸い目をさらに丸くして娘を凝視した。
言われたことがあまりに素っ頓狂に聞こえたのだろう、豆鉄砲を食らった鳩の心境に違いない。
──いくらなんでも、お身体にさわります……ですから。
──なんともないけど? おれ、もう何年もこういう生活だよ。
娘は言葉に詰まって、困ったように口をつぐんだ。
手に持ったフルーツケーキにかじりつきながら、勘右衛門はじっと娘の様子を見つめる。
どちらからも何も言い出さない、夜の底が恐ろしく気まずく冷えていく。
勘右衛門は黙ったままでぱくぱくとケーキを食べることだけはやめなかったが、
唐突に顔をしかめると、うわ、レーズン、と呟いて不味そうにそれを吐き出した。
口直しにとチョコレートをつまみ、それを飲み下し……彼はどこか力の抜けたような声で、娘に聞いた。
──殴られたことある?
──人形屋敷で、ですか?
──どこでも。
──あります
──いつ、どこで? なにをやって?
答えようとして、娘は口篭もった。
苦い記憶が喉元にこみ上げる。
勘右衛門は何かを期待しているのか、恐れているのか、ただなにか訴えているような目で娘の答えるのを待っている。
──逃げようとしたのです。“人形”としての扱いが、あまりにつらくて。
勘右衛門はぴくりとも反応を示さなかった。
沈黙が娘に話の続きを促している。
娘はその居たたまれなさに耐えながら、低い声で言葉を紡いだ。
──お屋敷に連れ戻され……服を剥がされて、下着姿で立たされて……
──後ろから髪を掴まれて、おばあさまに革の紐で打たれるのです。
──もっともその頃、私は掴めるほど髪が長くありませんでしたけれど。
──そういうとき、おばあさまは屋敷にいるほかの娘たちに手足を押さえつけるように命じます。
──見せしめなのです、逃げたらこうした目に遭うのだという。
娘が口を閉じると、勘右衛門はまた気のなさそうな相槌を打った。
──ふぅん。
──その一度きりでした、逃げようとしたのは。
──怖くなった?
──はい。
──打たれたあと、残ってる?
──いえ……消えていると思います。幼い頃のことですから。
──そう。
勘右衛門は菓子を食べる手を休めて、テーブルの端に座り直した。
サンルームの広い窓から、庭を見渡す。
──おれも打たれたことがあるよ。
──しかもさ、すごいの、活けてあったばらの花で殴られるんだよ。
──ばらって樹木だから、茎というより枝でさ……案外太くて丈夫だし、とげがはえてるんだよね。
──痛いよ。
──打たれた傷と、とげでできる掻き傷とが重なるからね。
──あとはもうだいぶ薄いけど、細い線になってまだ残ってる。
──打たれてるあいだじゅう、そこら中に花びらが散るわ、香りがするわ、血は飛ぶわで、めちゃくちゃ。
──お貴族さまの女のヒステリーとか、わけわかんないよ、そのとばっちり食うとかほんとやってらんない。
勘右衛門が何の話をしているのか、わかりかねて娘は聞きながら静かに混乱し始めていた。
戸惑ったように何も言い返せずにいる娘を見返して、勘右衛門は苦笑する。
──やってらんないけど、おれは付き合うことにしたんだ。
──かわいそうだったからね。
──いい家に生まれつくことが100%幸せなこととはおれは思えないな。
──子どものうちから大人の顔色うかがうことを覚えちゃうから。
勘右衛門はまた、窓の外へと視線を移す。
ろうそくのあかりがチラチラと揺れるたび、彼の身体にうつるかげも揺れた。
──お姫さま生まれのお姫さま育ちで、いいとこに嫁いで跡取りの息子をちゃんと産んだっていう……
──貴族社会では文句のつけようのない女がさ、旦那には飽きられちゃったわけ、女としてつまんないって。
──そんで、愛人に追い出されるようにして実家に引っ込んだの。
──女の八つ当たりの矛先は、ちゃんと産んだのに報われなかった、実の息子に向いたわけ。
──普段はきれいでやさしい母親やってんだけど、そういうときは悪魔みたいな顔になる。
──最近、新聞なんかでは巷で猟奇殺人が起きたとかずいぶん騒いでいるけど、そういうのよりよっぽど怖いよ。
──少なくともおれにとってはね──ときどき夢に見るくらい。
その話の主役が誰なのか、彼は一度たりとも明言しなかった。
勘右衛門はまた、フルーツの籠からりんごを取り上げると、つややかな赤い表面に視線を落とす。
──この家、数年前に当主が死んだんだよね。
──ほかに跡を継げる奴がいないからって、追い出されてた息子が呼び戻されたの。
──十六年ぶりにだよ?
──都合よすぎだよな。
──腹立ってきて、その息子は好き勝手やり放題にすることにしたんだ。
勘右衛門はそこで言葉を切り、娘に向き直るように座り直した。
何も反応を寄越さない娘を見て、自嘲気味に笑う。
──なんて顔してるの。
──どこにでもあるような、陳腐な話だよ。
──下手な芝居みたいに滑稽で、かえって笑えてくるでしょ?
手の中に弄んでいたりんごの軸を指でつまんで、勘右衛門はぐるぐるとりんごを回転させた。
そうして遊んで見せる顔は笑っているが、
彼のまわりをとりまく空気は離れて立っている娘の肌を刺すようにぴりぴりとしていた。
おれはね、と勘右衛門は続ける。
──別に、食事が嫌だとか、四六時中甘いもの食べていたいとかってわけじゃないんだよ。
──ついでに言うと特に腹減ってるわけでもない。
──子どもの頃は、おやつの時間ってのがあって、そのときは絶対痛い目見ないで済んだ……
──ばあやがそれを口実に、母親からおれを奪っていってくれるの、厨房まで。
──まあ口うるさいばーちゃんだったけど。
──子どもを育てる人を親と呼ぶなら、生みの親よりばあやのほうがそれっぽいな……
勘右衛門がそこで語るのをやめたので、娘は躊躇いながら、ちいさな声で聞いた。
──ばあやさんという方は、今は。
──死んだ、去年? 一昨年なのかな。
──お母様は……
──ああいう人は逆になかなかくたばらないよ。たまに手紙寄越すけど、読まないで火にくべちゃう。
たぶん金の無心だから、と何事もなかったようにそう言って、勘右衛門はりんごを手の上にぽんぽんと放る。
──誕生日をさ、覚えておいて、嫌味を込めてばらの花を贈ってやるの、毎年。
──それくらいのもんなんだよね、おれにできる仕返しって。
──ばあやが死んだことを知らせてきたのも、ずいぶん経ってからだったらしいし。
──それに比べたら、おれの仕返しなんてかわいいもんだよ。
りんごを手の上に受けると、彼はそれをまた籠へ戻した。
そして肩越しに娘へ視線を送る。
娘はぽつりと、勘右衛門に聞いた。
──どうしてそんなこと、お話しになったのです。
──さあ? 別になんてことのない話だし。
──たかだか“人形”を相手に。
その言葉に、勘右衛門は少々傷ついたような顔をした。
その表情がなにを意味するのかは、娘にはよくわからない。
勘右衛門は考え考え、口を開く。
──“人形”だからかもしれないな。
──聞く耳も、言いふらす口も、ないものと思っていいんだろう。
娘はなんと答えていいのかわからずに、ただ口をつぐんだ。
人間として扱われないことについてはとうに諦めている。
嘆いても抗ってもいつもいつも、無駄に終わってしまった。
だとしたら確かに、聞く耳も話す口もないも同然である、しかし。
──どなたかにお話しされたかったのでは?
──生意気を言うなよ
──私は勘右衛門さまの“人形”です
──そうだ。だからよけいなことは言わずに黙って笑っていればいい。
──けれど、人間です
聞いて、勘右衛門は思わず言葉に詰まった。
娘は静かに続けた。
──仰る通り、“人形”として、なにもかもなかったように振る舞うことはできます。
──けれどその実は……聞く耳を持ち、考える頭を持ち、伝える言葉を持っているのです。
──ですからもう一度申し上げます、……私は勘右衛門さまを心配しているのです。
──私だけではありません、このお屋敷で勘右衛門様にお仕えする誰もが心配しています。
勘右衛門は不気味なほど静かに、押し黙って聞いていた。
ひとつ間違えば逆鱗に触れることは間違いがない。
しかし娘は怯まずに続けた。
──立場をわきまえぬ無礼は承知の上で申し上げます、どうか……
──基本の生活をきちんとなさってくださいませ。
──睡眠とお食事と、労働と休息、すべてバランスよい時間に適切に行うというだけのことです。
──遊びと、甘味の暴食は時折でよろしいでしょう。
勘右衛門が怒りを忘れて思わずたじろいだのは、よりにもよって最後の一言を聞いて、だった。
──別に、体調に響いてなんていないって!
──将来病を得られては困ります、ご自身はもちろん、使用人一同も困ります、ですから。
──遊ばないで毎日なにが楽しいっていうんだ。
──おうちのためのお仕事をなさいませ。お暇潰しには私がお付き合いいたします。
きょとんとして、抗う勢いも中途半端に浮いたまま、勘右衛門はぽかんと呆けてしまった。
わずかな勝機を見出し、娘は諭すように続ける。
話の内容といい、まるで母親の言うことではないかと、少々おかしみも感じながら。
──私は、勘右衛門さまの“人形”です。
──“人形”が主人の遊びの相手となるのは、当然のことでございましょう。
──勘右衛門さまが私に飽きたと仰るまでは、いかようにでも。
──必ず最後までお供いたします。
飽きた、という言葉に、勘右衛門は一瞬つらそうな顔をする。
先程の彼の話──恐らくは両親の諍い──を思い返したのだろう。
一方で、やっとあるじの素顔を知ることができた娘の心のうちにはわずかずつながら余裕が生まれていた。
些細なことで癇癪を起こしてあたり散らし、外にはいい顔をしたがり、好き放題を繰り広げる……
勘右衛門の言動のすべてはわがままな子どものすることのようだった。
親と呼べる人を失って、遊びから帰る時間もベッドに入る時間も知らせてもらえない、
気がついたときにはたったひとりで遊びつづけていた子ども。
孤独なままで身体だけ大人になってしまった、ちいさな子どもだ。
いまや、優勢なのは娘のほうである。
小言を食らって精一杯抵抗をするような、悔しそうな顔で、勘右衛門は娘をじっとにらんでいる。
──“人形”が、出すぎた真似をする。
──どのようなお咎めも覚悟の上で申し上げております。
──あとで後悔しても知らないからな!
──あるじの言葉の揚げ足など取りたくもございませんけれど。
それだけ言って、娘はとりあえず勘右衛門の言葉の綾を具体的には指摘しないでおいてやった。
これ以上言葉を連ねては、彼には責めに聞こえるばかりだろう。
──どのような目に遭わされようとも、なんとも思いません。
──痛みは、耐えれば引くものと知っておりますから。
──“人形”にはあらゆる教育がなされ、躾がされます。
──本当にあらゆることを叩き込まれるのです──屈辱や痛みを与え、それに耐えるすべすらも。
──あの“人形屋敷”では、その人を支えている心根を徹底して破壊することから教育が始まります。
──どのような罰をお与えになろうとも、必ず耐え抜いてご覧に入れましょう。
──たとえばらの鞭で打たれようとも、涙ひと粒・こぼしはいたしません。
毅然として、笑みすらたたえて娘は言い放った。
それは勘右衛門が命じたために娘が保ちつづけていた態度ではなかった。
あまりに堂々とそう言ってのけた娘の凛とした姿に勘右衛門は初めてまともに心打たれ、それを美しいと思った。
思ってしまったことで、初めて己が負けを喫したことに彼は気がつき、
言葉でやり返すことがとうとうできなくなってしまう。
苦しく八つ当たる相手を探す勘右衛門の目に留まったのはさきほどのりんごである。
いらいらと再び手に取り、しかしどうすることもできなくて、乱暴にまた籠の中に投げ戻す。
たちまち娘の注意が飛んだ。
──勘右衛門さま。
──食べ物を粗末に扱ってはなりませんと申し上げましたね。
──あなたは、子どもですか。
──ばあやさんもきっと同じことを何度も申し上げておいででしたでしょうに。
勘右衛門はまたぐっと言葉に詰まる。
たった一人だけいまも慕う、ばあやを話に出されるとどうしても弱いのだ。
──もう夜も遅うございます、早々にお休みになってくださいませ。
──明日の朝はお時間になりましたらお起こししにうかがいますので、
──お召し替えのあとで朝食を摂っていただきます。
よろしいですね、といわれて勘右衛門は心底うんざり、という顔をする。
しかし娘は容赦する素振りも見せはしない。
頷くまで去りそうもないと悟ると、勘右衛門は仕方なく、嫌々、渋々、といった様子を隠しもせずに頷いた。

翌朝、周りの使用人たちがはらはらと遠巻きに見守る中、娘は勘右衛門を叩き起こして着替えをさせ、
ほぼ時間どおりに朝食の席に座らせることに成功した。
彼の前に並べられたのは当然、塩味のする料理の数々である。
──食事をお厭いのわけではないと仰いましたね、きちんと召し上がってください。
──すべてお召し上がりになれましたら、ご褒美にデザートを差し上げますから。
デザート、の一語に勘右衛門はわかりやすく励まされた様子である。
スプーンとフォークを取り上げ、ひどく時間をかけながらも、どの皿の料理もどうにかこうにか平らげた。
からになった皿をフォークで叩く行儀の悪さを嗜めながら、
娘が勘右衛門の前に出したデザートとは、丸々ひとつ焼いてあるりんごである。
──なにこれ
──焼きりんごです。
見た目に豪華さはないが美味であると、娘はそれを勘右衛門にすすめた。
──毒りんごですよ。
──はっ!?
ナイフを入れようとしながら、勘右衛門はぎょっとしたように娘を見返す。
さあどうぞとくすくす笑いながら促され、勘右衛門は警戒しながらりんごを割った。
途端、中からぱらぱらと、レーズンがこぼれる。
──うえ……ほんとだ
──大丈夫です、少々の毒気があるくらいがかえって美味だったりするのです。
──なにそれ、無理だって
──好き嫌いを仰ってはいけません。
──ほんとにばあやみたいなんだけど……てかレーズンって。食べなくても支障なくない?
むしろ悪魔の再降臨かも、などと言いながら、勘右衛門は嫌そうにフォークの先でレーズンをつついている。
娘は微笑んで言った。
──大丈夫です、私は助けにまいりますから。
意味がわからなかったようで、勘右衛門は疑るような目を娘に向けた。
──毒が回ってお倒れになっても、私は助けにまいりますから。
──王子様でもお姫様でもございませんけれど、お望みの役をなんなりと演じてご覧に入れます。
──人形遊びは、ごっこ遊びですもの。
平然と言って微笑んでいる娘を見つめて、勘右衛門はなにか申し訳のなさそうな顔をする。
子どもが拗ねているようにしか見えなくて、娘はこみ上げてくる笑いを口元で噛み砕こうと懸命になる。
──ふつうの女の子でいいんじゃない?
──あら、まあ。よろしいんですか。
思ってもなかった、と娘は笑いながらも驚いてみせる。
想定外のわりにはあまり驚いたふうではないな、
と勘右衛門は久々に思う通りにいかないむず痒さを感じて軽く頬を膨らませた。
──あてが外れたな。
──女家庭教師がほしくて人形屋敷を訪ねたわけじゃないのに。
高くついたとぶつくさ言いつつ、それでも勘右衛門はぐずぐずに崩してしまった焼きりんごを口に運び始めた。
四六時中甘味を欲しているわけではないとは言っていたが、それだけはどう考えても嘘だろう。
呆気なく“人形”の役を取り払われた娘はいま、穏やかな心地で勘右衛門を見やっている。
母親が子どもを見守るような心地というのがいちばん近いのだろうか。
ならば、彼が心の奥底で求めただろう役割は、きっと果たせるだろうと娘は思う。
口やかましく、勘右衛門に対して恐れも遠慮も抱かずにはっきりとものを言う相手。
たとえば友人とか。
たとえば、家族とか。