うえ、と伊作は喉元にせりあがってきた酸味を危うく吐き出しそうになった。
同行していた男がどこか愉快そうな視線を肩越しに寄越す。
──気分を害したかな? 君のような子でもちょっと現場を離れただけで平和ボケするものなんだねえ。
──すみません……
とはいえ、これはちょっと、というのが伊作の正直な意見である。
顔見知りの警部に引っ張り出されて、伊作は今日街のはずれにひっそりと位置する死体収容所を訪れていた。
昨日発見されたという殺人事件の被害者の遺体の検死を依頼されたためである。
今日の新聞でもでかでかと報道されていたが、
今朝は医院の開業前から流行の風邪に喘ぐ子どもらが母親に連れられて押し寄せてきたせいで
ろくろく記事に目を通すことができなかった。
第一面に踊った煽情的な見出しが、目にした数瞬で脳裏にこびりついたのみだ。
──なんで僕が検死を。
──頼みやすかったからさ。
他にも警察内部の検死官や捜査に協力してくれる医師に心当たりはあるそうだが、
誰もが例の殺人事件の被害者の検死と聞くなり震え上がって嫌がったのだ、と警部は口ではそう言う。
しかし、久々に君の様子をうかがいたかったしね、などとあとから警部が付け足した言葉を聞けば、
むしろそれこそが本音に近かったに違いないと容易く想像もつこうものだ。
捜査の最前線を退いた伊作を、この警部はなんだかんだと理由をつけては現場へ引っ張り出したがる。
教育を受けていた時分からもずいぶんと目をかけてくれ、
袂を分かったと言える今も気にかけてくれることはありがたくもあるのだが、
やはり今日の事件は少々毒気が強すぎる。
せめて伊作は大袈裟に嘆いて見せることでささやかな抵抗を試みるが、警部は知らぬ振りをするばかりだ。
──そもそも、僕を連れにいらしたときには急かすばかりで、用件を仰らなかったじゃないですか。
──そうだっけ。
──おかげでこちらは朝食を食いっぱぐれましたよ、まあ、朝から多忙だったせいもありますけど。
──おやごめんね。それならあとで昼食をご馳走するよ。食えるものならって話だけど。
──僕に選ぶ余地も与えてくださらないで。こんなのちっともフェアじゃありませんよ。
唇を尖らせてぶつぶつ愚痴を言う伊作を見、警部はおかしそうにくくと笑う。
なおもむくれながら、伊作はまたそろりとくだんの遺体に視線を戻す。
顔の半分ほども血みどろになっていて見る影もないが、残る半分の顔の造形を見るだけでも、
この娘が元々はこれぞ神の御業かと思わず息をつきたくなるほど美しかったことは想像に難くない。
それを思えば尚のこと、つめたくなって横たわっている姿はむごたらしく、
伊作の喉元にはやりきれない思いとひりひりした酸味とがこみ上げる。
う、と喉を詰まらせて、伊作は再び口元をおさえた。
こう何度も吐き気に襲われるようなら、多忙のために食事もままならなかったのはかえってよかったかもしれない。
もっとも警部の言うとおり、この痛々しいさまを目にしたあとで何か口に入れるような気分にはなれそうもないが。
具合の悪そうな伊作に一瞥をくれてから警部は言った。
──今年はこれが最初。ま、定期的に起こるものでもないんだけど
──今年は、最初……って。続くものだとでも仰りたいんですか。
冗談めかして伊作はそう言ったが、警部は珍しく、少しも面白そうな顔をしなかった。
二人のあいだにしばし、気まずい沈黙が下りる。
──え……つまり……そういうことですか……?
うん、と警部はため息混じりに唸ってみせる。
──去年は二件見つかっててね。大体年に二件、多ければ三件起きる。
──まさか、連続殺人なんですか?
──死因、遺体の状態、見つかる場所、時期、すべて異なるんだがね……
──そ、それなのに……?
──共通していることは殺害方法の残虐さ、被害者が若く“美しい”女性である点。
──それだけ? ずいぶん曖昧な。それで連続殺人となぜ言い切れるんです。
──被害女性についてももちろん警察が調査するが、結局全員が身元不明と判明している。
──でも、それは……
全然まったく決定打とは言えないのでは、と伊作はもごもご口の中で言った。
警部はどこか面倒くさそうな仕草で女性の遺体に覆いをかけ戻す。
──ところで伊作くん。君は“人形屋敷”という名を聞いたことがあるかな。
──は……“人形屋敷”……?
唐突な話題の転換、そして聞き覚えのない単語に、伊作は訝しげに眉を顰めた。
警部は伊作を見返しもせずに続ける。
──正確には、それは俗称でね。他にもいくつか呼び名があるそうだが。
──本来は孤児や遺児などの行き場のない少女たちを集めて教育を施し、
──社会に出て暮らしてゆけるように育てる場なのだが……
そこで警部は意味ありげに言葉を切った。
伊作をかえりみて、続ける。
──時代を経てその屋敷は人身売買の総元締めに変わり果ててしまった。
──そこで教育を受けている少女たちは“商品”として扱われ、社会の暗部でひっそりと“流通”している。
──ひとり売買するのにも、ひどいときは億単位の金が動く。
──金持ちの道楽として近年特に愛好されているそうだ……“愛玩用少女人形”という呼び名なんかついちゃってね
愛玩用、と伊作は感情のこもらない声をもらした。
警部は覆いに隠れた遺体に視線を戻す。
──一連の事件を警察が連続殺人として関連付ける理由はそれだ。
──被害者の少女たちが皆、“人形屋敷”の出身者である可能性が出てきたのだよ。
伊作は目を瞠った。
その反応をじっと確かめてから、警部は続けた。
──実のところ、君に協力を要請したいのはつまり、そういう事情からだ。
──“人形”の買い手には恐らく上流階級の紳士も相当含まれることだろう。
──警察の権限で彼らに手出しすることができないわけでは決してないが……
警部は口をつぐむ。
抑揚のない声で、伊作が話の後を継いだ。
──僕に密偵をやれと仰るのですか。
はっきりと肯定する返事はせず、警部はおどけたように肩をすくめて見せる。
──我々より君のほうが内部事情を探りやすい立場にあるからね……
──上流階級と呼ばれるなかでも歴史ある由緒正しい家柄の出で、
──元は警察官として勤めた経験を持ち、職を退いたいまは医師として活躍中だ。
──経歴上、外科医療にも内科医療にもある程度通じ、解剖学の心得もある。
──君の元へはさまざまな立場の人間が常時、大挙して押し寄せているだろう。
──人々は君のもとへ、病気と怪我と世間話を持ち込んでくる。
──時折は有益な情報という側面を持つ与太話なんかをね。
警部は愉快そうに伊作の様子をうかがった。
伊作が頷くことに迷って懊悩しているとき、決まって警部はこうした仕草を見せる。
申し入れを断りきれない状況までじわじわゆっくり伊作を追い詰め、
受け入れるしかすべがないとわかっていても最後まで拒みたがって悩み続ける、
伊作のそうした無駄な足掻きを眺めて楽しんでいるという仕草なのだ。
まったくなんて趣味の悪い、性格の悪い人だと伊作は何度思ったか知れない。
警部にはきっと、なにもかも計算のうちなのだ。
なによりもこの依頼を断りきれない理由とは、
伊作自身がこの事件を放っておけないお人好しな性格であるという点に尽きるのである。
なんとでも理由をでっち上げれば断りきれないということはないはずなのに、
結局捨て置くことができない伊作の思考と行動のパターンを、警部は完璧に見越しているのだ。
──どう、伊作くん?
念を押すような、愉快そうな声色のその問いに、頷くのは少々しゃくだった。
しかし、目の前に横たわっている少女の、これまでも無残に殺されてきた少女たちの、
その無念を思うと彼は何かせずにはいられないのである。
──わかりました
──そう、よかった、助かるよ。
──断らせる気などなかったでしょうに。
──なにを言うの。ひやひやとしていたよ。
──心にもないことを。
せいぜい冷たく吐き捨てる、その程度が伊作に今できる仕返しだった。
警部はおかしそうにまたくくと笑った。
死体安置所を出ると、警部は一応の申し出どおり昼食をどうかと伊作に言ってくれたが、
吐き気がどうのよりも気持ちが重く沈んでしまって、何か口にする気にはなれなかった。
丁重に誘いを断って背を向けた伊作を警部は呼び止めた。
──私のもとへ戻ってくる気はないか、伊作くん。
──君さえその気なら、あらゆる便宜をはかってあげるよ。
伊作は振り返り、わずかに笑って、くびを横に振った。
──僕は、いまの生活と、いまの自分を、気に入っていますから。
──でも、いつも気にかけてくださって、どうもありがとうございます。
──心配なさるようなことはなにもありませんから、どうぞお気遣いなく。
──何かわかったら連絡します。
──そうだ、お差し支えなければ、関連事件の被害者の検死報告を拝見したいのですが、ご用意願えますか。
警部が了承すると、伊作は一礼してから踵を返し、去っていった。
見送りながら警部は、まいったね、と言いたげにまた肩をすくめた。
──この話だけは毎度、躊躇う素振りもなく断るんだから。
警部のもとを辞してから、伊作はひとまず調べ物をしに図書館を訪れた。
過去に起きた事件の新聞記事を保管してあるスクラップを探し、
とりあえず去年起きたという二件の殺人事件についての記事を読み込んだ。
一件目は春だ。
身元不明の美しい少女が死体となって発見された。
死体は教会の墓地の奥に広がる鬱蒼とした森に埋められていたが、いぬがかぎつけて発覚したようだ。
古い時代の貴婦人のようなドレスをまとい、着飾った姿であったのが特徴的だったという。
死体の腐敗はほとんど進んでおらず、見つかったのは埋められてから数日経ったかどうかという頃。
森の奥まった場所に埋められていたわりに発見は早いほうだったといえるが、
少女の身元は結局最後までわからないままだった。
先程の警部の口ぶりから察するに、今現在も少女の身元は不明なのだろう。
二件目は冬の始めに発覚した。
川から腐乱死体が見つかったというもので、その状態からも被害者が殺害されてからかなり経っていることが推察された。
身元を示すものは見つからず、顔の判別もとてもつかないありさまだったが、
骨格はかろうじて少女と呼んで差し支えないのでは、というほど若い女性のものだった。
身体にまとわりついて残っていた衣服が一種独特で、少々古い時代の女性が着飾ったドレスのように思われる。
恐らくこちらの少女の身元も現在にいたるまでわからずじまいに違いない。
ひととおりの記事に目を通し、伊作はふむ、と息をつく。
少なくとも、昨年二件目の事件が連続殺人に数えられているのは、
被害者が少女と呼べるほど若い女性であったと思われる点、
遺体のまとっていた衣服の特徴という状況証拠が共通するという理由からのみだろう。
なにせ、さかなに食い荒らされて腐敗も進み、骨もあらわになったような死体だったのならば、
たとえば“美しい”少女であったかどうかなど判別のしようもなかったわけだ。
そもそも、若いはともかく“美しい”少女という表現は曖昧極まる。
どのような顔立ち、どのような表情が美しいか、ということは結局主観的な判断に過ぎないのだ。
人によっていかようにも変わるだろう条件をもって、
連続殺人か否かを判断するというのは少々リスクが高すぎやしないか。
しかし確かに、先程見てきた“今年最初の事件”の被害者の遺体は、
顔の半分しかわからないにも関わらずため息の出るほど美しい顔立ちをしていた。
被害者が皆あの娘のように美しいのだったら、どんな人間が見ても同様に“美しい”と形容するかもしれない。
自らで危惧したリスクであったが、伊作は矛盾したようなことに思い当たって納得もしてしまう。
もっともすぐれた捜査官であると巷に名高く・上層部の信奉もあついあの警部が担当している件であるし、
伊作にもまだ語られていないたくさんの証拠があるのだろうが、
それにしても全体的に決定打に欠ける事件のように思われてならないのも事実だ。
過去の事件の検死報告を見ることがかなえば、多少はなにかがつかめるだろうか。
今更伊作が見て気がつく程度の事項ならばとうに警察が気づいているのだろうが、
見てみなければ実際のところはわからない。
一方で、“人形屋敷”とやらについては何か調べられるだろうかと伊作は考え、
ふと思い立ってスクラップを元の棚へ戻すと足早に図書館を出た。
急いで医院を兼ねた自宅へ戻り、読まれずにたたまれたままの今朝の新聞を広げた。
ここに、一遍の連載小説が掲載されている。
このところ頭角をあらわしてきた若手作家の意欲作といわれ、世間の評価は賛否が拮抗しているという話だが、
どちらにせよ多大な注目を集めているのは確かだ。
なにが注目されているのかといって、フィクションを装い、物語として確実に読ませる文章でありながら、
そこに痛烈な政治・社会批判がふんだんに盛り込まれている点である。
その批判がまた、実に的を射ているのがにくいというのだ。
まだ年若い世代が世の中をこうも気にかけている、というさまが如実に表れた格好のその小説は
年配の読者にもおおむね歓迎されているようで、伊作のもとを訪れる患者たちのあいだでも時折話題になっていた。
また、難しい題材も物語としてわかりやすく読ませてしまうことで、
実際の政治の場や社会の在り方に関心を持つ若い人を増やすことに貢献した、という評価も聞く。
ここまでありありと書いてしまって、
作家生命が脅かされはしないものかと伊作も毎朝続編を読んでははらはらとしている。
なにせこの連載小説、彼の親しい友人の手になるものであるのだから。
昨日までの掲載分で、物語は下町の娼婦たち、マフィアたち、盗みに手を染める孤児たちの生活に鋭く切り込み、
その現状に疑問を投げかける展開を見せていた。
物語として盛り上げるという意味合いのそれを除いて、
作者である友人はえがくテーマについての事実関係を徹底的に調べ上げ、
可能な限りの取材を重ねたあとで事実に基づいた描写を心がけており、絶対に嘘を書くことをしない。
ゆえ、制作にあたって友人は恐らく、作家としての視点で徹底した調査と取材、考証を重ねているはずだ。
下町、裏町がテーマに盛り込まれているこの小説の土台を築くうえで、
彼はもしや“人形屋敷”に繋がる情報も得てはいないだろうか。
もしも彼から何か情報が得られるとしたら、信頼という点においてはこの上ない。
大手の新聞社などはむしろ、よっぽどでない限りこの手の情報を扱うことがないのだ。
機械化による産業の発展、ひいては国の発展。
その栄光のかげで、貧しい暮らしが一向に改善されず苦しみに喘ぐ大勢の国民がいることに、
政府は見て見ぬふりをしつづけている。
あまた提示されてきた改善案はどれもこれも最終的には口約束に成り果ててしまうのが現実だ。
そんな中、“人形屋敷”やそれに並ぶと思しきさまざまな悪しき状況を、
正確に報道することは政府への反逆と受け取られる恐れがあった。
政府の存在を揺るがしかねない不都合な事実は、だから隠蔽してなかったことにしてしまう。
言論の自由を勝ち得たはずの報道機関も、独立した権限を持つはずの警察や裁判所でさえ、
でっち上げや証拠隠滅を当たり前のように繰り返しているのだ。
報道に関して言うなら、大手の報道機関よりも下層の街に近い視点を持つゴシップ紙や娯楽紙のほうが
現状に近い情報を提供してくれる。
内容を二割ほど控えめに了承することさえ怠らなければ、それらも情報源としてある程度は役に立ってくれるだろう。
警察内部や社会全体のそうした現実に耐え切れず、
ほんの数年も勤められずに退職してしまったことを、いま伊作は後悔していない。
あの警部と彼に心酔している部下たちは、恐らく現在の警察に最後に残った良心だろう。
良心と呼ばわってしまうには警部は少々くせ者めいた人物ではあるし、
組織の人間という立場を崩すことはしないが、ちゃんと彼なりの正義があることを伊作はよく知っている。
警部が伊作の人脈をあてにして協力を依頼してきたのは正解だろうな、と思いあたって苦く笑う。
通常の警察の捜査方法ではこうした情報源にはなかなか思い当たらないだろうから。
昼前に出かけなければならなかったため、その日はいつもより早めに午前中の診療を締め切っていた。
できればこの捜索欲のおもむくままに調査の続きに出かけたかったのだが、
患者たちのためにもとりあえずお預けにして現在の本業に返り、午後は通常どおりに開業することにした。
少々気持ちも落ち着いてきたので、朝食のために用意して放り出したままだった固いパンをかじり、
熱いコーヒーにうんざりするほど砂糖を溶かし込んで飲み干すと、伊作は医院の午後の診察を開始した。
風邪に苦しむ子どもたちを次々と診てやりながら、
付き添いの母親たちからなんらか噂でも得られないかと念のため耳をすましてみるが、
さすがに幼い子どもたちを前に人身売買がどうのという話題にはなかなか転じることがない。
こんなものかと諦めつつ、伊作は夕方まで大忙しで診察を続けた。
日が暮れて、今日の診察をすべて終えてから、伊作は戸締りをして医院を出た。
途中で商店に寄り、土産になればと酒を求めると、それを抱えて石畳の路地を急ぐ。
このところ近所の広めの家に移り住んできた友人は、その目的を蔵書と居候の収容のため、と言っていた。
十分ほどで目的の家へ辿り着く。
一室分少々ほどしか幅がない分奥行きがあり、二階建ての上に屋根裏部屋がある。
狭いながらも備えついた前庭で花を咲かせるのが執筆のあいだの楽しみだそうだ。
扉をノックしてしばらく、応対に出てきたのはやはり友人本人ではなかった。
──伊作じゃん、どしたの?
──やあ、久しぶりに遊びにきちゃったよ。彼に聞きたいこともあって、今の連載のこととかさ。
──あ、そーなの。あれ私も手伝ってんだよ、取材。あっ、なにそれ酒!?
──うん、お土産ね。そうだろうと思ったよ、彼、自分で人に尋ねてまわる取材は苦手そうだもの。
──だよなあ、文献調べるほうが得意なんだもんな。
今も書斎で埋もれてる、と二階へ続く階段を示して見せるのは、
小説家宅にほとんど住み込むような頻度で入り浸り、とうとう居候認定を受けたらしいもうひとりの友人である。
豪胆な性格と恵まれた体格とは力仕事にこそ向いていると思われるが、
どういうわけか私立探偵の真似事のような仕事をしている。
もっとも、彼の仕事とは有り余るその体力でとにかく広く多くを回って、
単純に情報を集めてくる、話を聞き出してくるというそのこと“だけ”であった。
それら情報を突き合わせ、頭脳を働かせて推論を立てるのは、もっぱら小説家友人の役割である。
この二人はつまり、二人合わせて小説家・二人合わせて私立探偵とでもいうべき、
実に強固な協力体制を築き上げてそれらの仕事をものにしているのである。
元警察官で現医師という経歴を持つ伊作も、しばしば協力を求められて二人の仕事に巻き込まれる。
そうしてのちのち、探偵氏の活躍で事件が解決されたという新聞記事を見かけたり、
友人の小説の中に己の助言が役立ったらしいエピソードを見つけたりすると、なにやらくすぐったくて嬉しくなるのだ。
本来は几帳面な小説家の友人も執筆が佳境に入ると家の中の片づけを忘れる悪癖があり、
ちょうどそうした時期にさしかかっているのか、玄関ホールにも居間にも新聞と書籍とが散乱していた。
付け加えると、居候の探偵友人には片付けという概念は基本的にない。
土産をひとまず居間へ置き、伊作は探偵友人と共に書斎へ向かった。
──やあ、元気? 遊びに来たよ。
声をかけてみるが、特に返事は聞こえない。
少々聞き取りにくい、低い声でぼそぼそとしゃべる友人なのである。
それでなくても書斎の内部は床といわず机といわずうずたかく本が積み上げられていて、
視界の下半分がほとんど遮られている状態だった。
椅子や窓枠、火が近い暖炉のマントルピースの上にすら数冊の本が載っている。
かわりに本来書籍のおさまっているべき書棚はあちこちに傾きと空白が見られた。
積み上げられているうちのいくらかは友人自身の著書で、伊作もすべて所持しているし一作も残さず愛読している。
その書籍の山のかげから、背の高い友人がのそりと立ち上がった。
──伊作か。すまん、散らかしていて。
──新聞連載だもんね、忙しいはずだよ。そのうち床が抜けるんじゃない、これ。
ちゃんと食事をしているか、睡眠を摂っているかと医者らしい質問を投げかけてから、
少し話を聞く時間を割いてもらえないかと問うてみる。
──仕事に無理がかかるようなら構わないんだけど。
──いや、……ちょうどいいところだ。少々詰まっていてな。
言いながら小説家の友人はやや疲れた顔で顎をさする。
彼にしては珍しく、ひげがまばらにのびていた。
静かな目で伊作を見下ろし、言った。
──なにか、医師としての仕事以外に厄介事が舞い込んだんだろう。
──まいったな、相変わらず鋭いね。
──俺で役に立てるのなら、協力を惜しむつもりはない。
いつも世話になっているからと言いながら、友人は本の山をよけつつ伊作たちのほうへ歩み出た。
──伊作から土産に酒もらった!
──そうか。気を遣わせたな、すまない。
ふと思えば、話題が話題なのに土産に選んだ酒が赤ワインである。
なにかを彷彿とさせはしないかと自分の選択を少々まずく思いながら、
伊作は探偵の顔も持つ友人二人に事の顛末と求めている情報について相談を持ちかけた。
──その事件なら各々、新聞で報じられているのを読んだが……関連していたのか。
──私は現場を見に行った。死体は運び出されたあとだったけどな。
──うん、僕も、……今年最初の事件の被害者遺体を見ただけなんだ。ひどかったよ……
伊作は重く息をついた。
──若くて、本当にきれいな子だったよ。あんなふうに無残に命を落とすなんて……
──どれも犯人はわかっていないのだな。
──死因も死体の状態もばらばらで、見つかる場所も時期も不定、かあ。
──それで、連続殺人だと警察が考えている理由が、被害者が“人形屋敷”の出身らしいから、ということなんだけど……
伊作はそこで、“人形屋敷”というものの実態が自分にはまったくわかっていないということを差し挟んで説明した。
──いわゆる“人形”たちが暮らす屋敷が裏町にあるそうなんだよね……
──そもそも人身売買なんて重犯罪の総元締めとわかっているそこを摘発しないことがまず疑問なんだけど、
──上流階級の紳士たちが顧客に名を連ねているせいなんだろうと思う。
──警部ははっきりそうとは仰らなかったけど、恐らく上層部が捜査を渋っているんだ。
──決定打さえ出れば、あの警部はどうとでもして捜査に踏み切ってしまう人だから、
──やはり現在の段階では条件が揃っていないと思っていいだろう。
二人の友人は慎重そうに頷いた。
小説家友人がふと何か考え込むような仕草を見せてから立ち上がり、
書斎へ上がってややしばらくすると、ひとかたまりの書類を抱えて戻ってきた。
──実は、……少々調べ始めていた。
──うわ、タイムリー! 助かるよ。
──気分のいい話ではないぞ。
──それは、……もちろんだよ。それでなくたって、昨今いい気分のする話なんてある?
伊作が肩をすくめてそう言うのに、小説家友人はかすかに目を細めてみせた。
──紙の上でくらいは、……と、思うのだがな。難しいものだ。
──よくやっているじゃない。うちの患者さんにもファンが多いよ、僕鼻が高いもの。
──それならいいが。
資料に目を通してみるが、その内容の大半は下町の噂の聞き書きのようで、
小説家友人の手書きの文字できちんと清書がされている。
──一緒に行って、聞き込みをしたのは私!
──俺は横にいてメモをとっていたが……噂のわりには真実味を帯びた情報がかなり多い印象だ。
──“人形屋敷”の位置は特定できているんだね。
伊作が一度も足を運んだことのない、治安の悪さではひどく有名な一帯にあるらしい。
別の資料を見てみると、それはなんらかの名簿で、人物の名前と所在が整然とリスト化されている。
──これは、紳士録の、抜き書き……とか……?
──そのように見えるだろう。
紳士録などではないとわかっていながら、伊作は問わずにいられなかった。
“人形屋敷”に関連する人物のリスト──恐らくは顧客名簿だ。
そこに名を連ねる人々のあまりに立派な地位や身分に、彼は愕然とせざるを得なかった。
上流階級の人間が顧客としてかかわっているという推測にも、これで信憑性が出てきたといえる。
──よくこんなものが手に入ったね。
──念のため……確証はない、と思ってほしい。
──充分参考になる、ありがたいよ。
呼吸が狭まるような苦しさをのどの奥に感じながら、伊作はその名簿に目を通した。
探偵友人がなにか慮るように伊作の顔を覗き込む。
──伊作、もしかしたら……知り合いいるかもしれないな。
──元はお坊ちゃんだもんな、お前
そんなことないよ、と伊作はかたい声で返す。
──なんで“上”に戻らないでこんなとこにくすぶってんのさ?
常々疑問だったのだろう。
わずかに遠慮するような口調も混じりつつのその問いに気遣いを感じて、
伊作は探偵友人を見やると口の端で微笑んだ。
──上下ってものは、存在しないんだって、僕は思いたいんだけど。
──居心地のいいところにいたいだけだよ。
──でも、そんなこと、本当に苦労したことのない人間の戯言かもしれないね。
強いて言うなら、と彼は呟きながら手元のリストに視線を落とした。
知り合いの名前をひとつ、見つけていた。
──自分も他人も、嘘をつかなくていい場所にいたかったのかな……
──いい人だと思われたくて嘘をつくよりは、愚かでも正直でいるほうが僕には気が楽だよ。
──苦しくないと言ったら、嘘なんだけどさ。
しばしの間を置いて、探偵友人はなにか安堵したような声色で、ふぅん、とシンプルな相槌を打った。
一方で小説家友人は呆れたように苦笑する。
──今日は俺が通訳をせねばならないようだ。
伊作は不思議そうに彼を見返した。
常ならば声の小さい小説家友人の言葉を、探偵友人が横で“通訳”と称して大声で言い直すのだが。
小説家友人はふっと笑って呟いた。
──“私はそういう伊作が好きだ”と言いたいようだ。
──もちろん、俺も
伊作はきょとんとして、目をぱちぱちと瞬いた。
なんだよ、通訳いらないって、と探偵友人はふてくされたように顔をしかめた。
友人二人の心遣いがありがたく、嬉しくて、伊作は照れたように笑うのだった。
閉