それが何のためだったのかは、彼はもう覚えていない。
いつの間にか死にものぐるいで働くこと自体が目的になってしまっていたのだろう。
彼が最初に手に入れたのは、ひとりで暮らすには広すぎる薄暗い屋敷。
美味なる食事をつくる料理番と幾人もの給仕。
馬と馬車、それを操る御者。
皆がもくもくと、陰鬱そうに与えられた仕事をただこなす。
朝早く家を出て仕事に出かけ──しかしすでに地位を得てろくな労働をしなくても済む──、
せっかくの屋敷に彼はただ寝に帰るようなものだ。
日々はめまぐるしく忙しない、しかし彼は退屈だった。
それが何のためだったのかは、彼はもう、覚えていない。
金だけは腐るほどあった。
使う額より入る額のほうが多いのが問題だ。
退屈しのぎに、彼はその財産を盛大にむだ遣いしてやろうと考えた。
つい先日、御者が通い慣れない道を一本間違えて、彼の乗る馬車は治安の悪そうな裏町へ迷い込んだ。
さびれ荒れ果て、陰鬱そうな空気があたりにじっとりと漂う、なにもかも枯れきったような町だ。
煙だか霧だかわからないもやの向こうに唐突に見えたのは、
“従順ナル人形御座イマス”と書かれた装飾看板を門に掲げる巨大な屋敷だった。
人形──ドール。
聞いたことがあった。
主人に忠実に仕えるようにとあらゆることを躾られ仕込まれた、愛玩用の少女達。
歴とした人間だが、人形と呼ばれて品物扱いをされ、金で売買をされている。
そもそもは女中として雇われることや、
運が良ければ金持ちの養女や妻女として引き取られることを目的として
行き場のない娘達を教育する場であったはずが、
いまや彼女らは当たり前のように 愛玩用少女人形 などと呼ばれている。
引き取られた先で娘達がどのようなむごたらしい目にあわされていることか。
この町にもそれを生業とするものがあったとは意外だったと、
そのとき彼はそれでその屋敷から目をそらしたのだった。
ひとり買うのに、上玉と呼ばれる娘なら億単位の金が動くこともあるという“人形”。
むだ遣いにしてはよい選択ではないか。
ある意味での人助けにもなろう。
その程度の思いで彼は御者をせっついてまたあの裏町へ出かけていき、
人形屋敷の応接間に通された。
背の曲がった婆が目の前に“商品”を“並べて”いく。
ご予算はいかほどで、と疑わしげに聞かれたので前金だと言って札束を二・三押し付けてやると、
婆はたちまちぺこぺことし始めた。
まったくこれだから、と彼は内心でげんなりとした。
──旦那様のようなお若い方はそうそうお越しになりませんので。
言われてみれば、それもそうかもしれないと彼は思う。
目の前に並んだ数人の娘は皆が皆このうえなく美しかった。
上等な服を着せられ、化粧をして髪を結い上げ、
しかし死んだような無表情でどこともない場所を見つめている。
歴とした人間ではあるはずだが、これでは人形などと呼ばれても致し方なかろうと、彼も思わずにいられない。
──用途はどのような?
──よぅく仕込んで御座いますゆえ、必ずや“御満足”いただけましょう。
婆は下品な笑いを漏らした。
もはや答えるのも否定するのもばかばかしく思われた。
特に誰が、どのようなものが、という希望はそもそも彼にはなかった。
美しいが無表情だ、という点ではどの女も同じに見える。
たまたまいちばん近くに立っていた娘を指して、こいつにすると婆に告げた。
従僕に捧げ持ってこさせたトランク・ケースひとつ分の金がそれで消えたが、何ら彼の気にかかるところではない。
娘には手荷物のひとつもなかった。
馬車に乗る前に娘は一度屋敷を振り返っていたが、名残惜しむような顔はしなかった。
──おまえ、名は。
娘は答えない。
なにもかも命じなければならないのだと、そういえばどこかで聞いたかもしれないと思い当たる。
──名を。名乗れ。
──御座いません。ご主人様のお好きな名でお呼びくださいませ。
何とした面倒だと彼はうずくこめかみをおさえた。
女の名などそうそう思いつくものではない。
死んだ母、ろくでもない男に嫁いだ従妹、生徒に手をつけた女家庭教師、男に貢ぐために盗みを働いた乳母、
彼のまわりにかつていた女達の名が頭の中を駆けめぐる。
そもそも、“人形”を買い求めたはいいが、すでに不足ない彼の生活に新たに必要だったわけではなかった。
使用人なら足りている。
“愛玩用”という反吐の出そうな文句が彼の脳裏にちらついた。
──おまえの処遇にいま苦悩しているところだ。
娘は相変わらずの無表情だったが、問うようにゆっくりと瞬いた。
──とりあえず……むだ遣いを手伝う仕事をくれてやる。
──財産一山、食いつぶせ。
“人形”と呼ばれようとさすがに頭は人間か、娘は驚いて目を丸くした。
──退屈なんだよ。金だけが唸るほどある。もううんざりだ。
──かしこまりました……
娘は承知した旨の返事をしたが、その声は戸惑っていた。
無理もないだろうと彼は思う。
先程彼が娘を買い取った額を見て、その財産とやらがどの程度膨大かくらいは想像がついているはずである。
ひとまず彼は娘に屋敷の南側の部屋でいちばん広い場所を与えてやり、
仕立屋や職人や商人を呼び寄せると服でも靴でも宝石でもなんでも、これでもかと言うほどつくってやった。
来る者来る者、皆が“奥方様ですか”などと宣うのに、
彼がさらりと“ただの人形だ”と答えてやると全員呆気にとられた顔をする。
“人形”に湯水のように金を使うなど、大方悪趣味な集まりにでも出入りして悪知恵をつけたとでも思ったのだろう。
娘は毎日のように、着るもの身につけるものをとっかえひっかえし、それをすべて彼に見せるようになった。
むだ遣いという暇な仕事を忠実にこなしているという主張だろうか。
毎日毎晩、同じことが繰り返される。
それでも彼は、そのこと自体にはなぜか飽きることがなかった。
ある夜、彼が帰宅すると間もなく、娘が部屋に現れた。
いつものようにしずしずと、今日はこのドレスにしました、靴はこちら、宝石はこれ、などと説明をする。
どれもこれもつくった覚えも買った覚えもないものばかりだった。
金の消える先など、彼はもういちいち覚えていられなくなっていた。
娘はいつもならそれで部屋を辞するのだが、その日は違った。
──お持ちの財産は、いかほどまで減りましたでしょうか。
意外な質問だった。
──せいぜいスプーン一杯分削れたってとこだな。まだまだだ。
──ご主人様は、財産すべてをすっかり無駄にお使いになられましたあと、どうなさるのですか。
──考えてなかったな。
またおまえをどこかに売っ払って、その金で暮らすか。
いつの間にか、娘のことを人間扱いしていない自分がいることに彼は気がついた。
ひとは、いつしか慣れて、そうして飽きる生き物だ。
相手が血の通う感情を持つ己と同じ人間であったとしても。
なんと傲慢なことだと、己の無意識の発言を思って彼はぞっとした。
──ご主人様、生意気を承知で、お願いが、御座います。
──願うことは“人形”にも許されているのか。
──いいえ……
──いい、言ってみろ。
娘は躊躇いがちに口を開いた。
──財産のすべて、お望みなら、一生をかけましても食いつぶすつもりです。
──いつか、本当に、ご主人様が何もかもを使い果たして、私だけがお手元に残りましたら、
──私を売り払っていただいても少しも構いません、けれどその前に最後にひとつだけ、
──私に名前をつけてくださいませんか。
想像もしていなかった願い事に、彼は一瞬時を失った。
目を上げて娘を改めて見やる。
困惑しているような、恥じらっているような、初めて無表情ではない顔で、
そこに立っていたのはまぎれもない、ひとりの美しい人間の娘だった。
──このような贅沢な暮らしを与えていただけて、私はしあわせです。
──こんなにも何もかもを与えてくださることに、感謝しています。
──これ以上を与えて欲しいと望むことはわがままだと承知してはおります……けれど、
娘はそこで何も言えなくなってしまった。
黙って一礼すると、部屋を出ていく。
彼は呆気にとられて数分ほどは固まったままだったが、しばらくしてやっと力が抜けて、椅子にどさりと身を投げ出した。
金よりも贅沢な暮らしよりもなによりも、欲しいものは──名前。
人間扱いしてくれと言われたわけではないし、娘のほうもそう思って言ったわけではなかっただろう。
──あいつもむだ遣いに飽きた頃か。
独り言を聞き留めるものはない。
しばらく考え込んでから、彼は立ち上がると娘に与えた部屋へ向かった。
あの娘が暮らし始めて以降、そこへ踏み入るのは実は初めてだった。
寝支度を済ませた娘が驚いて彼を出迎える。
──おまえの名を考える。
──書斎に行くぞ。文献でも参考にしなければ良い名など思いつかんからな。
娘は口を半開きにしてぽかんとしていたが、やがて本当に嬉しそうに、満面の笑みを浮かべて頷いた。
そのとき彼の胸の奥にわき上がった想いはいったいなんだっただろう。
彼は初めて金ではどうにもならないものがあることを知り、
それを手に入れるすべにかすかに触れたのだった。
二人がかりで徹夜で名前を考えて、その名を娘につけてやったそのときから、彼の家に“人形”はいなくなった。
いまここに彼とともに住んでいるのは、明るく美しく溌剌とした人間の娘だ。
結局彼らのむだ遣いは失敗に終わったと言えようが、以後は財産ばかりが増えていくこともなくなった。
目的も見失ったままただがむしゃらに働く時間をいくらかつぶして、
愛おしい相手にかまけて日をダラダラと過ごすことを彼が覚えたせいだろう。
彼女は最近、不満そうに彼に言う。
──あなたがかつてむだ遣いをなさったときのドレスもなにもかも、まだまだ数が残っているんです。
──毎日毎日、お見せしておりますでしょう。
──一度くらい、何か感想を言ってくださったらよろしいのに。
名前の次の願い事は、彼には少々難しい。