“その屋敷へ踏み入ったなら、そこへ住む者たちとは決して目を合わせてはならない”
親方について初めてそこを訪れたのは、留三郎がまだ十かそこらの頃のことだ。
ガスなのか霧なのか、濃いもやの中を掻き分けるように、
幼い留三郎は親方の背を見失わないよう必死で早足で歩き続けた。
やがて現れるのは、どんよりと淀んだ空気をまとった大屋敷である。
“従順ナル人形御座イマス”という装飾看板がくくりつけられた門をくぐり、
留三郎はこわごわとあたりをうかがいながらその屋敷に踏み入った。
落ちぶれかかってはいたものの、親方は腕のよい大工であった。
酒が入ると手のつけようもない荒れ方をするので弟子たちは次々と去ってしまって、
いちばん幼い留三郎ひとりだけが残ってしまった。
それで親方は仕事の先へはどこへでも留三郎を連れて歩くようになった。
その大屋敷のことを、親方は“人形屋敷”と呼んでいた。
屋敷の門にくくりつけられた看板の文字にもそういえば“従順ナル人形”……とある。
それには留三郎も思い当たったが、それがどういう意味なのか、幼い彼にはよくわからなかった。
月に一度あるかどうか、お呼びがかかって親方とともに屋敷を訪れると、
いつも決まって腰の曲がった老婆が応対に現れ、高圧的な口調で用を言いつけてきた。
老婆のその様子も、そこに暮らす美しいが無表情な娘たちも、留三郎にはただただ気味悪く思われるだけだった。
留三郎が十五ほどの年齢となった頃、
乱暴な飲酒がたたってのことか、親方は病を得てごほごほといやな咳をするようになった。
じょじょに弱っていく親方からそろそろいい加減にと酒を取り上げるのが留三郎の役目となったが、
親方は酒を奪われると毎度怒り狂って汚い言葉を留三郎に浴びせかけた。
留三郎は辛抱してそれを聞き流すようにつとめ、
親方にしっかりとした食事をさせ、仕事の管理をして立ち回ることを覚えた。
ある日、親方はぼそりと、唐突に留三郎に言った。
──俺がいなくなっても心配ねぇぞ、お前はもう一人前だ。
──ただ、あの“人形屋敷”へ呼ばれたときには気をつけろ。
──そこへ住む者たちと、決して目を合わせちゃあならねェ。
言われた意味がわからず、留三郎は目を白黒とさせた。
親方はそれ以上は何を言うこともなく黙ってよろよろと部屋へ引き取り、
翌朝留三郎が起こしに行ったときにはすでにベッドの中でつめたくなっていた。
ひとりきりになってしまった留三郎は、
親方の名を己が汚さぬように・またその仕事で飯を食うために、必死になって仕事に打ち込んだ。
心身ともに疲弊する日々を過ごしながら、しかしそれが日常といえるほどにやっと慣れてきた折、
屋敷の修繕に来るようにという依頼が留三郎の元へ舞い込んだ。
裏町の、あの陰鬱そうな雰囲気の“人形屋敷”からである。
あの女だらけの、女しか住んでいない大屋敷に、此度はひとりで乗り込んでいかねばならない。
そう思うと、これは仕事だからと割り切ったつもりでいてもやはりあまり気分よく向かうことはできそうになかった。
それまで親方が留三郎の盾のような存在であったことを、留三郎はそのときになって初めて思い知った。
応対に出てきた老婆は昔もいまも印象が変わらず、それがまた留三郎には不気味だった。
やってきた留三郎の頭からつま先までをじろと一瞥し、あごをしゃくってみせるような仕草で中へ入れと示してくる。
聞けばぐちぐちと聞き取りづらい声で、長らく使っていなかった屋根裏部屋が雨漏りをしているのが見つかったと言う。
実際に雨漏りの具合を見てみると、すでに天井板が腐り落ち始めていてかなり状態が悪かった。
誰も使っていない部屋だったために発見が遅れたのだという。
漏れ入った雨が滴り落ちた先の床も湿気で傷み始めており、
さらにその下の部屋に暮らしている娘が気づいたことで雨漏りはやっと発覚したらしかった。
朝から夕刻近くまで、留三郎はわき目も振らずに仕事に取り掛かった。
ひとりがかりでは想像したほどスムーズに作業ははかどらない。
適当なところで一旦切り上げ、修繕は日数をかけて行うことに決めると、留三郎は道具をまとめて部屋を出た。
すると、それを見計らっていたかのように、ひとりの娘が廊下の向こう側に姿を現した。
これまでは遠くにちらと見かける程度で、一度も間近に見たことのなかった“人形”と呼ばれる娘。
まとった衣服は少々以前の流行のものであったが、それでもあつらえたように娘にぴたりと似合っていて、
高貴な生まれ育ちの令嬢のように気品が漂って見える。
ひとすじ・ふたすじほどを肩に躍らせて高く結い上げられた髪、うっすらとした化粧、かすかにただよい来る花の香。
言うまでもなく、娘のその美しさは計算し尽くされた末のもので、そこに留三郎はまんまと目を奪われてしまったのだった。
娘の視線に絡めとられ、留三郎はまるで時間が止まったかのように錯覚した。
“決して目を合わせるな”。
思い返したときには、きっともう遅かった。
──御勤め御苦労様でございました。
──は、ぁ……
──お見送りをするように申し付かっております。
それだけ言って先を歩き出した娘の後姿を、その背に踊る髪の先を見つめながら、
留三郎は玄関のエントランス・ホールへ向かった。
娘は一度たりとも留三郎を振り返りもしなかったし、なにひとことも言いはしなかった。
それなのに、先程目が合ったその瞬間から留三郎は不自然なほど娘を意識してしまって、
奇妙に居たたまれない思いを噛み締めながら必死になって歩きつづけた。
ただ沈黙だけの時間は実に苦々しく思われたというのに、
帰宅してからもずっと、夜になってベッドに入ってからもまだ、
留三郎の脳裏にはあの娘の姿がちらついて仕方がなかった。
以後しばらく、修繕のために“人形屋敷”を訪れるたび、留三郎は目の端に彼女の姿を探すようになってしまった。
仕事を切り上げて屋敷を出ようとする夕刻頃には、彼女の姿が見えるだろうかと期待してしまう。
その彼の淡い期待の通り、毎度娘は廊下の向こう側で留三郎を待っていてくれた。
数日そんなことが続いても、留三郎は彼女に一声も話し掛けることができなかったし、
娘は娘で必要以上のことを言おうとはしなかった。
ただ静かに流れる時間、ほんの数分間を目も見交わさずに前後して歩き、見送り見送られる、その繰り返し。
たったそれだけのことが、やがて留三郎にとってこれ以上ないというほど待ち遠しく、愛おしい時間と成り代わっていった。
しばらくののち、屋敷の修繕は無事に済んだ。
隅々までしつこく検分をして、老婆は留三郎に報酬の話を切り出した。
──今ちょうど、払える金がなくってね。
留三郎はひく、と引きつった。
亡くなった親方の跡をついではいるがまだ若い留三郎である、経験も浅いと見られるのは致し方がないかもしれない。
しかし充分な出来の仕事をした自信があった。
ここで舐められるわけにはいかない。
反論に出ようとした留三郎を、しかし老婆は遮った。
──三日もすれば金は入るんだけどね。それじゃあ間に合わないだろう。
──代わりといっちゃあ何だが、どうだい……
老婆は部屋の外に向かって声を張り上げた。
誰かの名を呼んだのだ。
そうして部屋へ入ってきたのは、留三郎の見送り役をつとめてくれたあの娘であった。
留三郎は思わず息をのんだ。
──報酬代わりに、三日三晩、この娘をお前さんの好きにさせてやろう。
──なんでもかんでもよぅく仕込んである。
──さぞかしいい思いができるだろうよ。
ヒヒ、と老婆は嫌らしく笑った。
留三郎は驚いて娘の様子をうかがったが、娘は表情ひとつ動かさず、いいとも嫌とも言おうとしない。
──どうだい、大工の坊や?
──いつももの欲しそうな目でこの娘を見ていたろう?
にやり、と老婆が笑ったのを見て、留三郎の頬にかっと熱がのぼる。
仕事が終わった夕刻、見送る者と見送られる者というだけのあいだに交わされた、ささやかすぎるあの幸福な時間を、
老婆はどこかから盗み見てでもいたに違いない。
──さあお前、支度をしておいで。
──三日三晩が過ぎたら戻ってくるんだよ。
娘は素直に頷いて、自室へ引き取ると
ちいさなトランク・ケースをひとつ持って戻ってきた。
さあお行きと追い出されるようにして、二人はそろって屋敷を後にした。
頑丈な錬鉄の門がしっかりと閉めきられてはどうしようもなく、留三郎は渋々娘を連れて自宅へと帰った。
“人形屋敷”のある裏町界隈とはまた別の、
貧しいが賑やかで活気あふれる下町に彼はいまひとりで暮らしている。
狭いけど、散らかっているけどと言い訳をしながら、留三郎は娘を部屋へ通した。
かまどに火を入れ、茶をいれるのに湯を沸かし、娘に質素な椅子をすすめ、
忙しそうに部屋を片付けて右往左往・バタバタしている留三郎を、娘は物珍しそうに見つめていた。
──何か、お手伝いを。
──いや、いいよ、客に手伝いなんか。座ってて。
──お客ではありませんもの。
言って娘が歩み寄ってくるのに、留三郎ははっとして動けなくなってしまう。
瞬きのひとつすら鮮明に目に留まるような至近距離で立ち止まると、娘は留三郎をじっと見上げた。
──たった三日限りのご縁ですけれど、どうぞお好きに。
──どんなことでもお命じになってくださいませ。
──時が来るまでは、あなたが私の主人です。
それは、“人形”として仕込まれた娘には
何の感慨もなく口にできる台詞だったに違いなかった。
聞いて留三郎の思考回路はたっぷり数十秒ほど鈍ったが、
やっと我を取り戻して最初に湧きあがった思いはまるで哀れみのそれだった。
──別に俺は主人なんか気取る気はない。
──けれど私は、あなたのお仕事に見合うだけのことをお返ししなければなりません。
──じゃあ、あんたを屋敷に返す。
娘は驚いたようで、それでも静かにただ口を閉ざした。
──三日後には金が入ると言っていただろう。
──少しくらい受け取るまでに時間がかかってもいい。
──俺は、……あんたやあの屋敷や、それを利用する奴らの気は理解できない。
──人が人を、……“人形”などと呼んでこきつかうなどと。
“従順ナル人形御座イマス”……ある程度成長したいまなら、あの看板の意味もわかる。
“愛玩用少女人形”などという下卑た呼び名も知っている。
どこかの姫君のように美しく着飾り化粧した娘たちを待つのは、あまり想像したくない未来ばかりだ。
二人のあいだに、しばし沈黙が降りた。
何か言い出そうとして互いに躊躇うような、
遠慮交じりの困惑がその場にありありと漂っていた。
やがて先に口を開いたのは娘のほうだった。
──もしもあなたがそうしたいと仰るのなら、私にはお止めすることはできません。
──でも……
娘はそこで言いづらそうに一度言葉を切った。
──三日後、お屋敷にお客様が見えられることになっています。
──“人形”を……私を引き取るために。
──お屋敷にはそれで、私を買ったお金が入るはずです。
──あなたへの報酬は、そこから支払われることになりましょう……
留三郎は言葉を失った。
あの屋敷へ通いつめて仕事をしていた数日間のあいだ、あたりに満ち満ちた陰鬱な空気のなかに留三郎が唯一見出した、
この娘は些細ながらも心の拠りどころだったに違いなかった。
それが。
娘は恥じたように目を伏せた。
──おばあさまは、私がずっとあなたを気にかけていたことをご存知です。
──けれどこれは、おばあさまのお慈悲の心ではありません。
──あの方は楽しんでおいでなのです。
──心寄せる方から引き離され、お金で買われて、ほかの男性に“お仕え”することになる私を思って。
娘の言葉の中にこもる重々しい意味を脳裏に反芻して、留三郎はそれでもまだ言葉が出なかった。
驚愕し、呆けたように、ただひたすら娘を見つめるばかりである。
諦めたように、娘はかすれた声で続けた。
──あなたにはご迷惑なことでしょう。
──仰るとおり、あのお屋敷と、そこに関わる人々は、まるでまともとは申せません。
──その規律にただ従って“人形”であり続ける女に想われるなどと。
俯き加減の娘の目元はひと房こぼれ落ちた髪に隠れてよく見えなかったが、
その目尻から涙がこぼれたのが留三郎の目に鮮やかに映った。
こわばっていた彼の感情が、それでやっとうずいた。
“人形”など、冗談ではない。
この娘は、まぎれもない人間の女だ。
──わがままを承知で、お願いいたします、どうか、三日だけ。
──私のさいごの三日間をあなたのおそばで過ごすことを、どうぞお許しくださいませ。
しんと、また沈黙がそこへ降りた。
ややしばらくあって、留三郎は低い声で
──わかった
頷いた。
二人の日常はそれを境に一変した。
翌日、にぎわう町の市場を、仲良く手をつないで歩く二人の姿があった。
楽しげに言葉を交わし、笑いあい、ときどきふいに視線が絡むと照れてどちらからともなく目を伏せる。
留三郎を見知った商店の女将は、おや、恋人かい、などとからかいを寄越し、
留三郎は苦々しそうに一瞥を返してはだったらどうしたと低い声で精一杯反論をする。
──よかったじゃないの、親方が死んでからこっち、あんたもひとりきりだったのだし。
──大事になさいよ、お互いにね。
最後には祝福となりかわった周囲の言葉に、二人は曖昧そうに頷くのみだった。
買い物を済ませ、狭い家に帰り、弾む会話は途切れることを知らず、
一緒に食事をして、片づけをして、ゆっくりとお茶を飲むなどして夜を過ごした。
片付けなどの合間にふと気づくと、唇の触れそうなほど近くにいる互いに気がついて、
まるで時間が止まったような錯覚を覚えることも何度となくあった。
そのたびに娘は躊躇いがちな、それでも強く請い求めるような目で留三郎を見つめてきたが、
留三郎はまるで気づかなかったような振りをして、娘から目をそらしてしまった。
許された三日のあいだ、留三郎は娘にそれ以上触れようとすることはなかった。
約束の三日が過ぎ、娘は荷物をまとめると留三郎に礼を言って屋敷へ戻っていった。
部屋を出て行こうとする姿を黙って見送るのが精一杯で、
彼は数日前までと同じくひとりで部屋に取り残されてもぴくりとも動けず、
閉じられた扉をただただ、見つめるばかりだった。
それからも“人形屋敷”からは相変わらず、月に一度ほどあるかないかという頻度で仕事が舞い込んだ。
訪れた留三郎に、老婆は面白可笑しそうな視線を不躾に投げかけてくる。
屋敷の中にちらほらと見えるのは、そこに暮らす美しいが無表情な娘たち。
“人形”と呼ばれ、そのようにしつけられた大勢の娘たちの中に、留三郎の知る顔はもうない。
彼は与えられた仕事を機械的に黙々とこなしつづけた。
己に力があったら。
金があったら? 地位があったら? 娘を連れて逃げるような度胸があったら? あるいは。
思うほどにただ苦しく、留三郎は無理矢理その思考を投げ捨てる。
不毛な後悔を、何度も何度も繰り返す。
あのとき、もしも。
まぶたの裏によみがえるのは、娘の生きた表情、笑顔ばかり。
さいごのさいごに彼に向けられた悲しくも壮絶なほどに美しかった微笑が、今はそうして彼を責める。
“その屋敷へ踏み入ったなら、そこへ住む者たちとは決して目を合わせてはならない”
単調に作業を繰り返す己の指先だけを見つめる。
彼はもう、チラとも目を上げようとはしなかった。
もしも誰かと目が合おうものなら、絡めとられてしまうから。
そうして捕らわれた先の恋の淵に、落ちてはゆけない己を知ってしまったから。