真新しい紅を引き、まだ一度も挿したことのない簪を髪に飾る。

数日無人になるはずの家の中を見回し、はうんと頷いた。

出来うる限りいつも片付けるように心がけてある部屋はふたり暮らしにはちょうどいい広さである。

ただ、日常の大半・夫は仕事先にいるため、ひとりで留守番をする時間のほうが圧倒的に長い。

(それでも毎度、休校日のたびにきちんと御帰宅くださるのだから)

夫の律儀なことを嬉しく思い、その必死な様子がかわいらしくすら思われて、はクスリと笑った。

そんなことを言おうものならしかし、当人はきっとあっと言う間に気を損ねるだろう。





夢醒めやらぬ 番外  三年後、忍術学園





一昨日の夜も彼──文次郎は帰宅し、昨日はまる一日を一緒に過ごしてくれた。

数日離れていただけでもうお前が足りないと求められて、

いつになくやさしい愛撫と口付けを身体中に受け続けた夜半、

やっと開放されたがうとうとし始めたのを見届けてから彼は起き出して持ち込んだ書類仕事に取りかかった。

夢かうつつかもわからないようなぼやけた視界に、

髪も着物も乱雑なままで文机に向かう文次郎の背が映ったのを覚えている。

そうして今朝早くに彼は慌ただしく学園へ戻っていったのであるが、

文机の傍らに無造作に置かれた数枚の書類を見つけてはあらっと首を傾げた。

昨夜起き出して取りかかっていた書類のうちと思われる。

急ぎの仕事だからこそ睡眠時間を削ってまで取り組んだのだろうに、慌てて忘れるのでは意味がない。

はしばし考え込んだ末、届けに学園まで足を運ぼうかと考えた。

三年前、文次郎ととがやっと平穏無事に夫婦として暮らせるようになる以前のこと、

危険な任務に臨むあいだはそばで守ってやれぬからと、の身は忍術学園へ預けられていた。

生徒たちの顔ぶれに入れ替わりはあるだろうが、

教員達やおばちゃん、親しく打ち解けたくの一ととは直接の知人でもある。

久々に訪ねてみるのもよいだろうと考えたのであった。

文次郎の携えた土産の紅と髪飾りがさっそく活躍する。

きちんと家の戸締まりをし、隣人に数日留守にする旨を一応伝え、は学園へ向かう道を歩きだした。

日は明るく良い天気の初夏であった。



「お前らなあ……っ、的はあっちだと何度言ったらわかるんだ!

 なんで的に向かって投げたはずの手裏剣が俺に向かって飛んで来る!」

「諦めろ文次郎、一年は組のお約束というやつだ」

それはもう昔からのお決まりである。

忍術学園では午前中の最後の授業が行われている最中であった。

手裏剣の演習場には、一年は組の生徒たちと担任教師ふたりが訪れていた。

授業の内容はごくごく初歩の扱いについてであったが、

生徒たちの手裏剣の迷子ぶりといったら目をみはるものがある。

的のある方向とは離れた位置に立っていたはずが、なぜだか危険にさらされる。

逃げても逃げてもさらされる。

いい加減いらいらとしてきて八つ当たり半分怒鳴った文次郎は現在、

一年は組の担任として実技授業を教える立場である。

一方、いまの災難をすべて文次郎のかげに隠れてやりすごした仙蔵は教科の担当をつとめている。

三年前の騒動の折、学園長から教師として学園へ戻らないかと打診され、

文次郎と仙蔵はその申し出を受けることを決めた。

それから最初の二年間は担任を持つことはせずにほうぼうの生徒の授業だけを担当し、

今年の春に初めて一年生のひとクラスを担当することになった。

なにやら懐かしい思いもする一年は組という響きも、いま現在己らの手のなかにあるものとして聞き慣れてきた。

かつてのは組を彷彿とさせるとでもいおうか、決して出来のよろしい子どもたちではないのだが、

それぞれなりに一生懸命で、先生と呼んで慕ってくる姿を見ていると愛おしく可愛らしく思われる。

たまのいたずらやなぜか巻き込まれる大騒動などは片目を瞑って耐えれば良いという話だ。

さて、手裏剣の授業は思いきり滞っていた。

ついでに言うなら、休暇の前の授業で終えているはずの内容である。

「ああ……胃が痛む。土井先生の気持ちがいまこそわかった」

「補習でもやるか?」

腹をおさえる文次郎に、仙蔵は苦い笑みを向けた。

文次郎が補習やら追試やらを避けたがることを知っていてそう問うているのである。

かつて会計委員長をつとめていた頃の彼であれば、

睡眠時間を削っても休みをつぶしても目標達成を第一と声高に叫んだだろうが、いまは事情が違う。

休校日ごとに律儀に帰宅し、妻のとできるかぎり一緒に過ごそうとしている文次郎には、

睡眠時間が減ることはともかく休暇が返上となるのは頼むから勘弁、なのである。

学生時代の堅物頑な・女のかげもなかった彼からは想像もつかない愛妻家ぶりであるが、

からかわれるのが嫌なのか、文次郎はあまりそのことを学園では口外しないようにしている。

己でねたにしてやってもいいがと仙蔵も腹の底で考えることはあるが、

文次郎がを想うことについては遊びでつつき回していいようなものでないと承知であるので、

今のところは黙って経過を見守るにとどまっている。

生徒たちの手裏剣の構えをひとりひとり直してやっているうちに、

はるか向こうで間の抜けたような鐘の音がかーん、と響いた。

昼餉だとわきたつ子どもたちをよそに、今日も授業が進まなかったと教員ふたりはがっかりして息をついた。

「補習は避けられんぞ、冗談ではなく」

「あああ……」

仙蔵の言うのは実に正しい意見であって、ゆえ文次郎は頭を抱えた。

には詫びの文でも書かねばなるまい。

できた女であるから、これくらいのことでへそを曲げたりはしないだろうと文次郎は思うが、

ひとりになどしないと約束したことを不必要に裏切ることになるのはやはり苦しい。

もまた食堂に勤めに戻ってくればいいのにと思う一方、

それはそれで気が休まらないことも多々あるような気がして文次郎の内心は常に複雑だ。

次に帰宅した日の夕餉が文次郎の嫌いなものばかりで埋め尽くされているとか、

それくらいの他愛ない制裁ならばいくらでも受けてやろうとすごすご、諦める。

文次郎は気持ちもやや沈みがちなまま、一同の最後尾に立って演習場をあとにした。

井桁模様のちいさなあたまが十ばかり、ぴこぴこ揺れながら前を行く。

文次郎はふと軽い息をついた。

に悪いと思うのは本音だが、この子どもらのためならば少しばかりの無理もしたくなるような気がする。

まだ己らのあいだに子の授かるような気配はないが、これが親心とかいうものだろうかと考えた。

四方、六方、八方、手裏剣。

四方、六方、八方、やぶれ。

無邪気に歌うよいこたちを見やり、苦笑する。

苦労はさせられるが、憎たらしく思うことなどあるわけがないのだ。

先頭を歩く仙蔵も同じだろう。



演習場を出て学園の正門前を横切って食堂へ。

正門の前にはすでにベテランとも呼べる年数をへっぽこ事務員として勤めあげてしまった小松田がいて、

来客を招き入れたところだった。

遠くそのさまを眺めていた文次郎は、客の姿を認めた途端につんのめって転びかけた。

そばを歩いていた生徒が怪訝そうな目で見上げてくる。

……!? なんでここに)

妻帯していることを恐らく知らない生徒の前で、の名を呼ぶのを文次郎は躊躇ってしまった。

仙蔵も気づいて、どうするんだと言いたげな視線を寄越してきたが、なぜだかその顔は楽しそうに見える。

文次郎はじわじわと緊張を覚え、冷や汗をかいたが、

子どもたちはまだそんなことに気付けるほどの忍の上手ではもちろんない。

わあ、きれいな女の人、学園長先生のお客さんかなあ、などと楽しげにさざめくばかりである。

は小松田とひとしきり話をしたあとで目を上げ、仙蔵と文次郎、一年は組の子どもたちに気がついた。

微笑んでそのまま歩いてこようとするの進路を見て、仙蔵と文次郎ははっとした。

途端、きゃあ、と小さな悲鳴を上げて、がなにかにつまずいた。

「うわ……大丈夫か、さん!」

仙蔵がぱっと走り出したのに対し、文次郎は反射的に動くことができなかった。

子どもたちもわらわらと、を助け起こす仙蔵に駆け寄っていく。

出遅れた己に一瞬遅れてたっぷり後悔しながら、文次郎も重そうに走り出した。

「ああ、立花様、お会いするなりこのような、ご挨拶もままならず」

「いや、お怪我がないのならなにより」

「はい、大丈夫です……ああ、“目印”、気付けませんでした……鈍くなったものです」

安全な場所へ立ち上がって、はほうとまだ驚きの色を含む息をついた。

「まるでくの一でいらしたかのような言い方をなさる」

「あら、いくらか習いましたもの、こちらにお世話になっていた頃には」

もう三年も前の話ですけれどと言って、はにこりと微笑んだ。

駆け寄ってきた子どもたちはその笑みにやや見蕩れながら、こんにちはと元気に声を張り上げた。

「はい、こんにちは。この子たちが“一年は組”の生徒さんたちなのですね」

語尾は仙蔵に問いかけながら、は楽しげに生徒たちを見渡した。

子どもたちは口々に問うた。

お姉さんはくの一なんですか?

学園長先生にご用事ですか?

かめむしは好きですか?

は少しどぎまぎとしながら、かめむしは、ええと、と呟いて考え込んだ。

まずそれに答えるのかよと文次郎は思ったが、どうも突っ込みを入れられる空気ではなかった。

学園にのような女が訪ねてくることは珍しい。

未知の来客を子どもたちはわくわくしながら見つめていたが、やがて中のひとりが あ、と声をあげた。

「もしかして、立花先生の奥さんですか?」

は聞いてきょとんとし、仙蔵はぎょっとした顔で ハァ!? と聞き返した。

「なにがどうしてそうなるんだ」

子どもたちはすでに納得顔である。

に声をかけるタイミングを逃し続けていた文次郎は、これでどうにも言い出せなくなってしまった。

仙蔵と、確かに見目整ったもの同士で、似合いに見えなくもないふたりなのである。

が転んだ先程も仙蔵は真っ先に身を翻して駆け出したし、

を助け起こすさまなどは子どもたちには実に親密そうにも見えただろう。

まさか仙蔵を相手にやきもちのような感を覚えることになるとは考えたこともなかったが、

確かに胸のあたりがチリと焼け焦げたような気はする。

周囲の空気を淀ませながら、文次郎はぐっと黙り込むよりほかになかった。

子どもたちの悪気のない質問に責められてはややたじたじとしていたが、

わずかに離れた位置でぽつんと、不機嫌そうにこちらを見ている文次郎に気がつくと、苦笑した。

「……あなた、文次郎様。なにを拗ねておいでなのです」

「別に拗ねてなどおらんわ」

文次郎は素っ気なくそう言ってぷいと横を向いたが、どう見ても拗ねた子どものする仕草である。

仕方のない人、と呟いて、はまた苦笑した。

生徒たちのあいだを通り抜けて、文次郎のそばへ歩み寄る。

「……お忘れ物をなさいましたでしょう?」

今度は文次郎は素直に驚いてを見やった。

なんの心当たりもなかったのであるが、が手荷物から取り出した書類を見た途端、

文次郎は頭痛でもこらえるかのような仕草で目元を抑えた。

「……家にあったのか……」

「はい、文机の傍らに」

「ああ……不覚だ。気づかなかった」

「夜中に起き出してまで取り組んでいらしたので、お急ぎのお仕事かと」

「ああ、すまん。助かった」

文次郎はから書類を受け取った。

その一連のやりとりを、子どもたちはぽかんと燃え尽きたような顔で見つめていた。

仙蔵はそのあいだでひとり、くくくと肩を震わせて笑っている。

「……なんだ、お前ら……なにが言いたい」

文次郎は大人げなく、生徒たちをじろりとにらみつけた。

いよいよ盛大に笑いながら、仙蔵は目の端に浮かんだ涙を払った。

「……こちらは潮江夫人だ、さんと仰る。

 大恋愛の果てに結ばれた睦まじい夫婦なのだぞ、妙な勘違いをしては潮江先生が気の毒だろう。

 いいかお前たち、授業が滞り補習だなんだと休日が潰れることになると、

 潮江先生はご夫人を家にたったひとりで待たせることになるのだぞ。

 日頃の授業もそう心してかかるようにするのが思いやりというものだ、なあ、文次郎。

 さんもそうお思いだろう」

仙蔵の言うのを聞いても、子どもたちはしばらく硬直したまま動かなかった。

やがて飛び交うブーイング。

「嘘だー!」

「忍者の三禁って言ってたくせにー!!」

こんなときばかり痛いところをピンポイントに突く、と文次郎は言葉に詰まった。

一方で仙蔵はかつての誰かのように“教えたはずだ”と嘆かずに済むことに目を輝かせた。

子どもたちがわいわいと抗議をするのをは穏やかな顔で見つめていたが、

やがてちいさく笑って口を開いた。

「……やるべきことをわかっていれば、いいのですよ。

 自分に厳しくできる人なら、三禁の広い意味を知って、

 お仕事の妨げにもならないように律することができますものね」

一般人と思っていたの口からそのような言葉が出たことに子どもたちはまたぽかんとし、

これには文次郎も仙蔵もやや呆気にとられた。

はそのようなことを気にもかけぬ様子で文次郎を見返し、いたずらっぽい目で彼を見上げた。

「ご心配なさらないで。自慢の旦那様です」

「ぶっ……ばっ……バカタレ……!」

文次郎はムキになって手をわたわたとさせ、それ以上の言葉を発することができなかった。

子どもたちは無遠慮に、先生、赤くなってる、と指までさした。

ひとり仙蔵だけは、肩を震わせて笑い続けている。

あ、とはなにかに気がついて目を上げた。

「昼餉のお時間じゃありません? 私、おばちゃんを手伝いにうかがってきます」

「……いいんだぞ、いまはお前は職員じゃあないし」

はにこっと笑った。

「数日ご厄介になろうと思ってきたのです、お手伝いくらいはしなくては。

 おばちゃんにお会いするのも久しぶりですし」

その言葉の外になにやら隠れた意味があるように感じて、文次郎は不思議そうに首を傾げた。

、お前、なにをしに来たんだ、ただこれを届けるためだけか」

渡された書類をひらひらとさせてみせると、は意味ありげな視線を寄越し、口元で微笑んだ。

「……あなたが先生をしていらっしゃるところを、今日初めて拝見しました。

 いつもお話はたくさん聞きますけれど、生徒さんにお会いするのも初めて。

 私、生徒さんのお名前と委員会はちゃんと一致して覚えているんですよ」

言って指折り、は十人あまりの生徒の名と委員会とをひと組ずつ、ひとつも間違えずに挙げてみせる。

ほう、と仙蔵が感心した声をあげた。

最後のひとりの名と委員会とを挙げ、その生徒が少し照れの混じった緊張した面もちで返事をしたとき、

はわずかばかり興味深そうな色を宿した目でその子を見やり、嬉しそうに微笑んだ。

それで文次郎は、がわざわざ数枚の紙切れを届けると言いながらやってきた本当の理由を理解した。



一昨日の夜、文次郎は片腕いっぱいの土産を抱えて帰宅した。

常には考えられぬほど多様な土産には少しばかりの邪推をする。

どうやらこれらは御機嫌とりだ。

文次郎がなにやら言い出しにくい話を一緒に持って帰ってきたことに、はすぐさま感付いた。

問うてみると、子どもは好きか、と聞き返される。

文次郎がぼそぼそと話し出したのは、もうすぐ訪れる夏の長期休暇についてだった。

一日・二日の休校日であればわざわざ帰宅する生徒は多くないが、長期休暇となると話は違ってくる。

聞けば、文次郎の担当する一年は組には、親を失って帰る家のない子どもがいるという。

できればその子を長期の休暇のあいだじゅう預かりたいのだと、文次郎は気まずそうに言った。

ひと月近い休みのあいだ預かるとなれば、の手を借りないわけにはいかない。

待たせてばかりの日常の埋め合わせをできる機会を失うことにもなるかもしれないと

文次郎は案じていたのである。

は即答はしなかったが、文次郎の話に充分な理解を示しているらしいことは聞いている姿勢からうかがえた。

長い相談がひと段落するとは微笑んで、賑やかになっていいのではないでしょうかと呟いた。

その答えに、普段ひとりきりで静かなのが寂しい という意味を読んでしまうのは

文次郎が抱いている後ろめたさと申しわけのなさのためだったろう。

しかしがいつもと変わらず疲れて帰ってきた文次郎を労ろうとしてくれたことは、

その思いを慰めるのには充分すぎるほどだった。



そして今日、忘れ物を届けるという名目で、はその子どもに会いに来たのである。

新しく、家族のように寄り添って暮らすことになるその子に。

その子がに返事をしたとき、が見せた表情は母親のような慈愛に満ちて見えた。

隣を歩く仙蔵が、よかったなと、低い声で呟いた。

仙蔵もすべての事情を知っているわけではなかったが、見ているだけでもある程度悟ったのだろう。

文次郎は黙ったままで頷いた。

少し素直になりきれないところのあるその子が、まだ照れた様子ながらも慕わしげにを見つめている。

もそれをやさしく見つめ返す、その光景に文次郎はただ声もなく見入った。

最初のうちはぎこちないこともあるのだろうが、きっとそれなりに仲の良い三人になれる。

文次郎の内に渦巻いていた不安のようなもやもやとした思いは、おかしいほど呆気なく取り払われていた。

子どもたちに囲まれ両の手を引かれ、食堂へ向かったの数歩あとについて歩き、

文次郎はただただ、の気持ちに感謝した。



食堂ではおばちゃんとの感動の再会が演じられ、見かけぬ若い女性の給仕に忍たまたちは浮き足立った。

しかし、潮江と申します、夫がいつもお世話にという挨拶をが繰り返すたび、

「嘘だー!」

「忍者の三禁って言ってたくせにー!!」

というブーイングの嵐が数十回にわたって巻き起こった。

理不尽な責めを食らう羽目になった文次郎は、きりきりと痛む胃のあたりを抱えてはうんと唸るばかりであった。





夢醒めやらぬ 番外  三年後、忍術学園






あとがきに注釈があります。 御覧いただけますと幸いです。