夏期休暇もあけ、忍術学園に生徒たちの騒々しさが戻ってきてからまもなくのこと。

学生だった頃にも覚えのある高揚感を潮江文次郎は感じていた。

一年度に数回、新学期早々に必ず行われる予算会議である。

予算全体を管理する会計委員会を相手取り、各委員会が予算案を希望の通りに通そうと躍起になるあまり、

名目は“会議”であるはずがその議場には武具や火器や飛び道具まで持ち込まれ、

多少の流血沙汰なら珍しくもない乱痴気騒ぎに発展するのが毎度のこととなり果てている。

文次郎が会計委員長をつとめていた当時から予算会議の有り様はそれほど変わりがないようだったが、

此度文次郎に改めて気合いが入ることにはそこそこのわけがある。

文次郎は今年度から、学生の頃より親しみ深いかの会計委員会の顧問をつとめている。

学園生徒は皆同様に後輩であることには違いないが、

思い入れ深い委員会活動を後継している生徒たちを慕わしく思うことはまた格別であった。

もちろん、教師の立場として、特定の生徒に肩入れするということでは決してない。

ないが、あの立花仙蔵が作法委員会の顧問に就いたとあらば、どうして燃え立たずにいられようか。

懐かしい10キログラムの算盤はいまも会計委員会の必須道具として健在であった。

委員会の所属生徒たちに算盤を与えて鍛え上げ、

作法委員会を始めとする各委員会の反論および襲撃に備える。

かつての委員長としての心地も手伝い、負けを喫するわけにはいかぬといきり立つ。

燃えよ会計委員会、予算会議と書いて合戦と読む。

毎年度のお決まり通り、戦いの火蓋は切って落とされたのであった。





夢醒めやらぬ 番外  予算会議・花の乱ハイパー





とはいえ、予算会議の立役者は顧問ではなく委員会を代表する生徒たちである。

文次郎はうずうずとしながらも、とりあえずは経過を見守るよりほかになかった。

一見平和に始まった話し合いが次第に険悪さを増し、なにかをきっかけにして大抵委員長が切れる。

そうして乱闘が始まるのは昔と変わらぬどこか懐かしい光景であるわけだが、

委員長たちが飛び抜けて問題児に見えてくるのを目の当たりにしていると、

過去の己らがどのような目でまわりに見られていたものかをひしひしと感じてしまいどことなく居心地が悪い。

それは斜め向こうでやや苦い顔をして座している仙蔵も同じであるようで、

先程チラと目の合った際にやたらもの言いたげな視線を飛ばしてきたことからも知れる。

ともあれ、委員会は委員長の突飛であることがそのまま特色とも言えるらしいことは

第三者目線を持ち得たいまならわかることであるので、

過去の己らを苦く思うについてはとりあえず耐えることにして、

文次郎はひたすら経過を眺めるに徹することとしたのであった。

生徒たち自身もちろんわきまえた上で騒ぎ始めているのであるが、

まだ逃げ切れない下級生たちが巻き込まれるかたちで怪我でも負うのはいただけない。

顧問として場に居合わせる以上・ことがエスカレートしすぎぬよう目を光らせることが義務であるのは当然であるが、

ひょいと顔を出した学園長が乱痴気騒ぎの様を見ては

派手なほどよいよいと言うばかりであることに文次郎も仙蔵も愕然とする。

学生当時であったならよしきたまかせろと騒ぐのが楽しかったのは言うまでもないが、

教員側の困難がこれほどのものであるとは思ってもなかった。

いまになって少々反省、といったところである。

相も変わらずの体育委員会の砲弾をかわし、用具委員会が改良を重ねて進化してしまった漆喰砲から逃れ、

互いに食ってかかる委員長たちについていけない下級生をかばってやりつつのその横で、

予算会議は全体に会計委員会が優勢を保って進行していた。

(ふん、会計委員会はやはり優秀だ。鍛えていれば違うものだな)

図書委員会の貸し出しカード攻撃に晒されそうになる一年生を小脇に抱えて飛び退きながら、

文次郎はしかし余裕そうに口元で笑う。

作法委員会の出番もそろそろだろうが、過去の傾向から察すると何が襲い来るかにはだいたいの想像がつく。

落とし穴もカラクリも分類するならば罠とひとくくりに呼べるであろうが、

顧問として仙蔵が就いたいま・その罠のえげつなさのレベルがどれほどの段階に達しているか、

文次郎はあまり考えたいとは思わなかった。

あの仙蔵のことである、対象は会計委員会の生徒たちではなく文次郎ひとりでもおかしくはない。

生徒の相手は生徒にさせ、顧問は顧問で対しようという考えはなんとなく見え透いている。

本来ならば生徒同士の議論の場である予算会議において

顧問同士が張り合うなどお話にならないはずであるが、いや、仙蔵ならやりかねない気がすると文次郎は思う。

学園へやって来てからは日々互いに協力し合い、いまは担当する組の生徒を育て上げるのがもっぱらであって、

よきライバルであった頃のように純粋に張り合える機会は確かになくなっている。

時間を見つけてやればいいものを、この祭に便乗してしまおうという魂胆が見え隠れするあたり、

学生気分が抜けていないというのも否定しきれないのかもしれない。

仙蔵ばかりではなく、文次郎の内心にもそれを楽しみと思う気持ちが確かにあるのだから人のことは言えない。

それほどにこの学園という場所は、仙蔵にも文次郎にも思い入れが深くありすぎるほどの場なのであった。



つつがなく、というのはおおよそ間違いであろうが、

大きな怪我人も出ないままにとりあえず予算会議は進行し続けていた。

過去と同じように、六年生の委員長を欠いた委員会も見られる。

会計委員会の委員長は文次郎とはタイプの違う人物であるものの、

会議のやり方に関してはしっかりそのあとを受け継いだ方法を心得ている六年生で、

相手が委員長代理の五年生である場合にも必要以上の容赦はいっさいしなかった。

六年生を相手取って対等に勝負が出来るつもりでやってくる五年生もなかなかいないもので、

その経過は会計委員会にとってこそ望ましい運びとなっている。

とうとう作法委員会の順番が巡ってきたとき、とりあえず冷静そうに話し合いを始めた生徒をよそに、

仙蔵と文次郎は遠く睨み合いばちばちと火花を散らした。

その視線は待ちかねたぞと言いたげに、また口元には不敵そうな笑みすら浮かべ、

内に隠した企みをいまこそ実行に移さんと、仙蔵は喜色満面といった様子である。

その顔つきには過去何度も見覚えがあり、そのたびにろくな目に遭わなかったはずの文次郎は反射的に身構えた。

(しかし仙蔵の奴、会議の存在を置いてまでやり合おうというのではないだろうな)

目の前で気味の悪いほどにこにことしている仙蔵を見ると、いくら打ち消してもそんな予感がわいてきてならない。

以前から文次郎の弱みを握ることに関してをこのうえない得手とした悪友である。

昔あったような弱みはいまはない、と、文次郎は思うが、

どこで何を握られているかはわかったものではない。

(……せいぜいのことぐらいと思うが、そのことに関してはねたにする気がないらしいからな)

なぜかについての話題だけは、からかわれる以上のねたに使われたことがない。

一応仙蔵も気遣ってくれているのだろうと好意的に受け取ってはいるが、

いつか逆襲が来るような気分がどうしても拭えないのも確かではあった。

(まあいい、いまは予算会議だ、仙蔵の手から逃れることだ、生徒たちには危害の及ばぬよう気を張ることだ)

とりあえずは最後のひとつだけでも守れればそれでいい。

さて仙蔵は何を考えている、何を隠している、なんの予備を懐に蓄えている、

考えを巡らすばかりで判断がつかぬとあらばそれは迷うのと同じであるから、

どれもこれも未知、すべてに備えよと漠然と覚悟だけ決めて相手の出方をうかがった。

仙蔵は相変わらずにこにことしているばかりでとりあえず動こうとはしていない。

その静けさが不気味でもある。

ややあって仙蔵がすっとゆびを上げたのに文次郎ははっと目を奪われた。

ごくちいさなその動きがいったい何を招いたか、カラクリでも動くか、誰かが指示によってはたらくか、

周囲の気配を鋭く探り出そうとした文次郎の後頭部を、

なんのことはない、生徒がむちゃくちゃに投げたフィギュアの首がばこんと打った。

「……し、潮江先生! すみません!!」

三年生らしい、作法委員会の中ではまともそうな顔をした生徒が顔面蒼白になってひれ伏した。

仙蔵はいとも優雅に腕組みをして見せ、唇を歪めて楽しげに笑った。

「油断大敵・火がボーボー、お前が昔言っていたろう、文次郎」

「てめ、仙蔵……」

板の間に強か額を打ち付け・眼前がくらくらとするのに必死で耐えながら、

文次郎は精一杯の悪態もつけずに歯を食いしばった。

「なんか仕込んであるかと思うだろうが!!」

「ああ、お前ならそう考えるかと思ってな、何もしないでみることにしたのだ」

タイミングを見計らって適度に注意を引きさえすれば、生徒の巻き添えを食うかもしれないと、

その程度のややずさんでさえある考えに文次郎は見事にはまってしまったのであった。

「直接私が手を下したわけではないが。やはりお前のリアクションがいちばん面白いよ、文次郎」

「てめえ、言うに事欠いて……!」

実に美しい笑みを浮かべる仙蔵を前に、文次郎は歯噛みするばかりである。

傍らでは生徒の騒ぎもひと段落を見るところで、話し合いは双方譲り合って妥協案の受理に至ったようであるが、

顧問同士の睨み合いは作法委員会に軍配が上がって幕、となった。

考えすぎ警戒しすぎ、文次郎は久々にあまり呆気ない敗北を味わってひそかに肩を落とした。



総合して、予算会議は乱闘騒ぎもあったものの・ほぼ円満に終わりをみた。

下級生たちには気の毒なことであるが、委員長たちはむしろ騒ぐ口実として予算会議をとらえているふしもある。

そのあたりの心理は文次郎にもよくよくわかることであるが、

生徒に立ち位置の近い教師、という意味で中立の位置にある身としてはなんとも口を挟みにくい。

とりあえずひと段落かと息をついたところ、先生、まだですよと会計委員長の六年生が呟いた。

「あ? 全委員会終わったろうが」

「まだです。ある意味でいちばん手強いところが残っております」

少し引きつった表情で告げる生徒を見、文次郎はしばらくわけがわからずにいたが、

やがて過去あった同じ展開を唐突に思い返してびくりと肩を震わせる。

「先生の学生時代にも覚えがありませんか。最後の最後、乱闘のおさまったのを見計らってやってくる……」

きしり、と廊下が不吉に鳴った。

文次郎は肩越しにおそるおそる、そちらを振り返った。

痛い目に遭わずに済むだろうことは承知の相手であったが、なにせ恐い、仙蔵よりも恐いかもしれない。

“彼女ら”こそは、いったい何を弱みとして掴んでいるかも知れたものではない。

現れたのは、教員の黒の忍装束を肌にぴたりと纏った女がひとり。

数歩遅れて、もも色の愛らしい装束を身につけた生徒がふたり顔を出した。

「ごきげんよう、潮江先生。忍たまたちの会議は無事に終わりましたかしら?」

待ちくたびれたわと、彼女は言って妖艶に微笑んだ。

くの一教室の補佐教員を勤めるこのくの一は、かつて文次郎達と同じ学年に所属するくの一教室の生徒であった。

くの一教室の代表としてこの女が文次郎の前に座したときのことを、

文次郎はいまでも鮮やかに思い出すことができる。

当時提出されたくの一教室の予算案は、会計委員会が定める許容をわずかずつ上回る額で計上されていた。

その用途は認めるところであるが額には異議ありと文次郎は反論し、

予算案を却下すると例によって言い放ちかけた。

このくの一は黙ったままで文次郎の反論をすべて聞き、

頷きも首を横に振りもせず、返事も何ひとつ寄越さないでじっと待ちに徹したあとで、

却下すると言い終わる前にばしんと勢い、机を叩きつけたのである。

文次郎は思わずびくりと身を引いた。

くの一は何かを押し殺したような静かな声色で言ったものである。

「……潮江くん、あなた先日、うちの後輩たちに10キログラムもある算盤を持たせたまま、

 池の中で眠れなんて無茶を言ったのですってね……?」

文次郎は一瞬なんのことかと呆けたが、ややあってハッと会計委員の後輩たちを振り返った。

そこにはくの一教室から委員会に参加している生徒もいて、気まずそうに肩をすくめて目を見交わしている。

それに並んで座している忍たまの会計委員たちもまたいたたまれない様子でおり、

委員会の後輩の誰ひとりとして委員長と目を合わせようとはしてくれないのであった。

くの一は己のセリフが文次郎の弱いところを見事に突いたことを知って、

口調は変わらないがいやに楽しげに微笑んで続けた。

「野郎がどうなろうが私の知ったことではないし、

 忍たまの鍛錬としてなら多少無茶なメニューも笑って許せはしましょう。

 でも潮江くん、前途有望なくの一よ? 女の子よ?

 女性の身体の繊細さをまさか慮れないほど愚かな人ではないでしょう?」

ねえ、とわざとらしく聞かれ、文次郎はぐっと言葉に詰まってしまった。

確かに言われたことはすべて事実であった。

ただ後輩には学年も性別も関係なく鍛錬を課しただけ、というのが文次郎の言い分であり、

おおよその場合においてはその言い分も通りはするのであるが、

くの一教室の、よりにもよってこの女につかまるとそれは弱みに化けてしまう。

恐らく会計委員会所属のくの一たちが、文次郎に直接抗議することができず、

くの一教室の先輩に訴え出たのである。

するとこのくの一がなんらかの折にそれをねたに逆襲に出、

大体の場合文次郎を言いくるめて勝利してしまうことはわかりきった話であった、そういう顛末である。

くの一の後輩たちの読みはそのときもそうして大当たりし、

文次郎はぎりと歯噛みしながらも絞り出すような声で、くの一教室の予算案を受理する、と言わざるを得なかった。

せいぜい小声でちくしょう、女狐と悪態をつくのが精一杯である。

そのときの予算会議で予算案をまるまる通してしまったのはくの一教室だけであったので、

結果的にこの女のひとり勝ちであったということになる。

学級委員長委員会が学園長の権限をフル活用してふざけた予算を通してしまったことや、

予算ゼロを言い渡された火薬委員会にあとから詐欺のようなやり口で予算をぶん取られたことについては、

会議の外の話として文次郎はあまりのちのち考えないようにつとめていた。

ついでに言えば、保健委員会の弱気な予算をそのまま素通ししてやったことは逆に会計委員会の勝ちとも考えている。

ともあれ過去にこの女と対峙したときの記憶は決して穏やかなものではなかった。

会計委員の面々もどこか緊張した面もちである。

顧問としてここは少し出しゃばっておいたほうがよさそうだと、文次郎は口を挟んだ。

「くの一教室の顧問役はお前か」

くの一は口元に笑みを浮かべたままで余裕そうに答えた。

「いいえ、顧問ではないの。私が交渉役よ」

「は? ふざけるなよ」

「ふざけるですって? とんでもないことだわ。こんな危険な」

言ってくの一は大袈裟にあたりを指し示した。

壁にめり込む首のフィギュア、砲弾、図書カード。

ところ構わず漆喰が飛び散り、カラクリや落とし穴のあとも残っている。

火薬に焼け焦げたところもあれば、虫ののたくったあとが残っているところも見受けられる。

くの一は改めて嘆かわしいと言いたげに息をつき、続けた。

「──危険なところに。私の可愛い生徒たちをそうやすやすと寄越すことなどできるものですか」

「だから終わるのを見計らってきたんだろうが」

「当然だわ。それにしても、終わったあとでも何が起こるかわかったものではないのだから。

 だから私が来たのよ──ご不満そうね、潮江先生?」

「当たり前だ、プロくの一が相手で忍たまの生徒が勝てるわけがあるか!」

くの一は聞いて小さく微笑んだ。

その顔がありありと、してやったりと告げていた。

向こう側で仙蔵が、あーあと息をついたのが見えた。

「では……あなたが代わって役をつとめては如何? あなたには興味があったの、潮江くん」

いつかどこかで聞いたようなセリフを、くの一は待ちかまえていたかのように吐いた。

背筋を嫌な汗が流れていくのを感じたが、文次郎はこうなってはもう後には引けなかった。

「……いいだろう、七年ぶりの再戦だ、女狐」

「そのセリフ、覚えていらっしゃい」

くの一は口元は笑ったまま、視線できつく文次郎を睨み付けた。

ここで気圧されてなるかと考えている時点で文次郎はすでに押され気味である。

会計委員長の六年生が席を空け、文次郎は七年ぶりにその座についた。

見える景色は、乱闘のあとであったので荒れてはいるが、確かに懐かしい気持ちを起こさせる。

あのころがいちばん楽しかったなどと言えば、それは少し年寄りじみて聞こえるのだろうが。

連れてきたくの一教室の生徒たちを安全そうな場所に控えさせ、

くの一はいとも優雅に歩いてきて、目の前にス、と腰を降ろした。

いつぞやの会議の光景が目の裏に浮かぶようであった。

いまは互いに、黒の忍装束を着た教師の姿をしているが。

此度は負けぬと文次郎は相手が切り出すのを黙って待った。

くの一は値踏みするように文次郎をじっと見やっていたが、やがて微笑むとおもむろに懐に手を突っ込んだ。

狼狽えたのはまわりで見ていた忍たまたちである。

この女、かつての“札取り”武術大会でも、対する生徒の目の前で札を胸のあいだにしまい込んで見せたことがあった。

どこに札が隠れているのか、相手の忍たまはそれで見知ったはずであるのに、

場所が場所であるだけに手を出せなくて自滅し敗北した、という経緯である。

それを目の当たりにしていたためか文次郎はそれほど動じずに済んだのであるが、

取り出された紙の束──丁寧に折り畳まれている──を認めると全身がヒヤリとしたのを隠しきることが出来なかった。

「あら……どうかなさいまして?」

文次郎の反応を見て、くの一はわざわざそう問いかけた。

文次郎はつとめて平静を装い、答える。

「……それはなんだ。予算案か」

「いいえ? 案は先に提出してあるはずです」

傍らで会計委員の生徒が、予算の台帳を一冊差し出してくる。

くの一は文次郎の答えを待たずに続けた。

「これはね──文です、私の大切なお友達からのね」

今度こそ文次郎はびくりとせざるを得なかった。

先程全身が冷えたように感じたのは、やはりこの予感が気のせいではなかったためなのだ。

望んでなどないというのに、嫌な予感ほど当たるものである。

「予算会議……始めましょうか、潮江先生」

くの一の声色が急に、甘えを帯びたように変化する。

手元の文をぱらぱらと開き、繰りながら、ゆったりとした口調で彼女は言った。

「このところお忙しいのですってね……ろくにおうちに帰れないほど」

「……オイ待て……」

それって、と指をさす。

くの一はいま気がついた、とでもいうように目を上げ、ああ、と微笑んだ。

「お気になさらないで、とても個人的な用件の文ですから」

個人的な用件で寄越されたという、友人からの文。

食満留三郎がよく言っていた、彼の妻には親しい友人がないから、

文次郎の妻であると知り合えたのをとても喜んでいるのだと。

くの一が手元に遊ばせているその用紙はそして、日常見覚えがあってよく馴染んだものである。

はたと遊ぶ手元を休め、くの一は気遣わしげな顔をつくって見せてから、上目遣いに文次郎を見やった。

「……相変わらず染みついたようなひどいくま。ちゃんと眠っていらっしゃる? 潮江先生」

「……うるせえ黙れ……」

もうまともな反論は出来そうもない。

負けが濃厚とわかっていながら文次郎は苦し紛れに言い返し、右の手で苦しげに額を押さえた。

「奥様もさぞかしご心配のことでしょうね……最愛の旦那様が無理をなさっているとあっては。

 私もね……夫を待つ妻の気持ちは己のこととしてよくわかっているつもりなの。

 忙しいことはわかっているから、邪魔をしないようにと気遣えば聞き分けのいい女を装ってしまいがちだけれど、

 本当はとても心配しているのよ……身体を壊していないか、苦しい思いをしてはいないかと。

 そばにいて世話をしてあげられないとあれば尚のこと思いはつのるばかり」

答える元気もなくして、文次郎は襲い来るじわじわとした頭痛にただひたすら耐えていた。

だめ押しとばかりにくの一は畳みかけた。

「夏休みが終わったあと……そういえば、一度も帰って差し上げていないでしょう?

 ねえ、ただただ待ち続けるということがどれほど苦しいか、あなたは御存知?

 たとえわかっていると仰っても、きっとそれは口先だけだわ、そうよね?

 でなければこんなに長いあいだを……」

「わかった、わかった、いいからもう黙れ……」

文次郎はかすれ声でようやくそれを遮った。

くの一は澄まし顔で手元の文をひらひらとさせた。

「お疲れのところ悪いわ……早く済ませましょう?」

予算くれるの? くれないの?

勝利を確信して悠然と微笑む彼女に対して、素直にくれてやると言うのは正直なところひどい屈辱であった。

しかしもうぐうの音も出ないほど責められて、生徒たちの手前情けなくありたくはなかったものもどうしようもなく、

文次郎は渋々 予算案を受理する、と素っ気なく言い放った。

くの一の後ろに控えていたもも色の装束の生徒たちが、きゃあ、やったあと歓声を上げた。

くの一はにこっと、やっと害のなさそうな笑みを浮かべた。

「まあ ありがとう。話のわかる人ね」

「うるせえ女狐……仙蔵すらねたにしなかったものをよくもヌケヌケと」

聞いてくの一は心外そうに、

「使えるものはなんだって使うものよ、あなたの持論でもあるのでしょうに、おかしな人」

一蹴した。

「……次の休校日の予定を、知りたがっていらっしゃるけれど?」

文次郎は苦い顔で絞り出すように言った。

「もう、わかったから、放っといてくれ……」



朝も早くから家の表を掃き清め、室内を掃除して、日の高くなる前には買い物を済ませて、

あとはなにをやり残しているかしらとは家の中を見回して首を傾げた。

友人から追って届いた返信には、の待っていたとおりの答えがあった。

これまでの帰宅の様子から考えると、昼頃には文次郎は帰ってきてくれるだろう。

文によると、例の予算会議──確か合戦と読むのだった──では文次郎は相当やりこめられたそうだから、

きっとばつの悪い顔をしてやってくるのだろうと、考えると少々おかしかった。

夕餉にはなにか好物を用意しておいてあげようと、はあれやこれや考えを巡らせ始める。

半月ぶりほどの帰宅である。

教員の中にはそれ以上の長いながい期間を帰宅できずに学園で過ごさざるを得ない人も多いというから、

家も比較的近隣で、文次郎もできるだけ家へ帰るようにしてくれていることを思うと、

自分は恵まれているのだとは一応納得できる。

家の中を片付けたりいじったりあれこれ、食事の支度もやりはじめたりそれこれと、

はただ夫の帰りを楽しみに忙しそうに立ち働いた。

なんだか嬉しそうだことと、通りがかった近所のご婦人方がからかうように言って去っていく。

過去を思うといまだ夢を見ているような気がするほどに、がいま抱く現実は幸福に満ちてあった。

昼餉の支度が万端整ってしばらく、実にタイミングよく文次郎は自宅に顔を出した。

振り返ってお帰りなさいと出迎えて、はおかしくなってふっと笑いだしてしまう。

あまりに想像通りに居心地の悪そうな顔をして帰ってきたもので、怒ってみせる気も失せてしまった。

「……何をそう笑う」

「いいえ、なにも。お帰りなさいませ、お勤め・お疲れさまでございました」

「……別に」

いやに答えが素っ気ないのも正直なことで、はますます笑ってしまう。

文次郎はただ苦虫を噛みつぶしたような顔をして、ぷいとそっぽを向くばかりであった。

御機嫌とりの土産のひとつふたつを渡され、素直に喜んでみせると文次郎はやっと気を取り直したようだった。

久々にの手料理を味わいながら、文次郎は聞きづらそうなのを隠し隠し、切り出した。

「……不満があるのはわかるが、なんで俺に言わずにあの女狐にチクるんだ」

弱みになるだろうがと付け加えてみるが、はその意味のわからないふりをするばかりであろう。

学園に預けていたあいだでいらんことも学んでしまったものだと、文次郎はときどき少し落ち込むことがある。

チラとを見やるとやはり、涼しげになんのことでしょう、というような顔で首を傾げている。

天然でくの一気質というのもひどく厄介だ、実に厄介だと、文次郎はひそかに息をついた。

ややあって、更に言いづらそうなのを隠し隠し、文次郎はまたぼそぼそ呟いた。

「……つーかな、旦那に寄越さんで友人にだけ文を出すか、普通」

は目をぱちぱちとさせ、しようのない人ねと言いたげに苦笑する。

「まあ、また拗ねていらっしゃるの?」

「……拗ねてなどおらんというのに」

「だって」

文次郎の言うのを気にもかけず、はふふ、と嬉しそうに続けた。

「だって、あの方に相談申し上げたほうが、帰ってきてくださる率が高いのですもの」

文次郎は飲みかけていた茶を危うく吹き出しそうになり、ごほごほと盛大に咳き込んだ。

あらまあ、子どもみたいにと、は呆れ半分に言って文次郎の背をさする。

二重にも三重にも言葉の引っかけを仕組んで弱みになるものをちらつかせて、

その結果の帰宅率の高さなんだぞと、文次郎はよっぽど言いたかったが、

に八つ当たっても致し方のないことではあるので口をつぐむ。

が仕組むつもりでわざとあのくの一にけしかけるよう頼んでいるのだとすれば、

たいした戦略家であると言えなくもない。

くの一としては誉められる手腕かもしれないが、さすがに愛する妻にまではそれを求めてはいない。

文次郎が内心でうだうだと考え続けているのを知ってか知らずか、

は愛おしげに目を細めて文次郎を見やり、言った。

「……それに、文よりも直接お話ししたいじゃありませんか」

ね、と念を押すように言ったと、このタイミングで、目が合った。

頬どころか脳天までかあっと熱がのぼるのを留めようもなく、

文次郎はせめての目から逃れようとがくりと項垂れ、目元に手をやった。

照れると途端に言葉少なに・素っ気なくなる文次郎のくせをもうよく心得ていて、はくすくすと笑った。

それ以上あまり言うと文次郎が気の毒なほど項垂れることも承知であったので、

そのあたりで切り上げてやることにする。

言い分はわかった、と呟いた文次郎に、ははい、と頷いた。

「しかし今度からは直接俺に言ってほしい……」

ちゃんと帰ってくる、叶うかぎりはと、文次郎は苦しそうにやっと告げた。

約束がときどきは破られてしまうだろうことはわかっていたが、それでもははいと答えて微笑んだ。

文次郎が約束してくれようというその気持ちに嘘がないことはよく知っているのである。

昼餉のあとを片付けながら、は文次郎に学園の話をしてくれるよう、さりげなくせがんだ。

片づけを手伝い、自らの荷をいじったりもしつつ、文次郎はそれにこたえて近況を話してやる。

久々に家の中に戻った明るい笑い声に、は満足であった。

休校日の昼は、そうして穏やかに過ぎていった。






夢醒めやらぬ 番外  予算会議・花の乱ハイパー