その日、その夜  前編

猛暑の夏を過ぎ、風が秋の匂いを孕む頃。
忍術学園は常と変わらぬ平和な喧噪の内にあった。
このところは対立するさまざまな勢力にも不穏な噂を聞くことがない。
嵐の前の静けさと、そう言ってしまうこともできはしようが、
いまはこの心地よい午後を穏やかに過ごすことをこそ楽しみたい。
本日最後の授業を終えた立花仙蔵は、やれやれ疲れたと肩のあたりをとんとん叩きながら、
職員棟の自室へと向かっているところであった。
休校日を控え、生徒たちの様子もどこか浮ついた感があった。
授業に集中しろ、と同じ注意を繰り返す羽目になったが、生徒たちの気持ちもよくわかる。
とはいえ、己には今のところ休みの予定はない。
さて、どうしたものかと仙蔵は考えを巡らせる。
忍術学園の教員、という立場に慣れのなかった頃は、
これまでの授業の反省とこれからの授業の準備にばかり時間をとられて休むどころの話ではなかった。
無我夢中で業務をこなし続けるうちにあっと言う間に二年が過ぎて、
三年目の今年度には初めてひとクラスの担任を任された。
時には親が子にするように面倒を見もする生徒ができれば、肩に感じる責任の重さは並みのものではなかった。
それでも、やればやっただけ生徒は応えて、慕ってくれる。
決して出来のよろしい子どもたちではなかったものの、このところはやっと要領を得てきたようで、
補習や追試の回数はどうにかこうにか減ってきた。
相も変わらず仙蔵の相棒たる立ち位置にある文次郎は、いまも共に一年は組の担任をつとめているが、
文次郎にとってはやっと望ましい状況だろうと、思って仙蔵はくくと笑った。
一連の騒動からもう三年の月日を数えるが、文次郎とその妻となったとの睦まじさは変わらぬものと聞く。
文次郎自身がすすんで話そうとすることなどないに等しかったが、
休校日や長期の休暇のたびに律儀に帰宅する姿をそばで見ていれば自然と知れたものである。
廊下の角を曲がるとすぐ先に見える自室──文次郎とは相部屋である──を見ると、
中途半端に引き戸が開いたままになっている。
おや、どうしたことかと仙蔵はぱちぱち瞬いた。
部屋の中はやや薄暗い。
仙蔵は訝しげに首を振り振り、自室の中を覗き込む。
「文次郎? なんだ、いるではないか」
呼ばれて文次郎は、面倒くさそうな仕草で振り返る。
文机に向かい、なにやら文をしたためている様子だ。
仙蔵にも見慣れた光景である、文次郎は休校日の前にはいつも、妻のに文を送るのである。
何日のいつ頃帰る。
今回は補習があるから帰れそうもない。
そのような文を。
さんへか? 相変わらず熱心なことだな」
文次郎は答えずに、まだ一字も書かれていない真白い紙面に向き直る。
「今回は教科の授業でも特に補習をする予定はないぞ──実技もだろう?」
「……ああ」
低い声で文次郎はそう言った。
その声色に少しばかり違和感を覚えて、仙蔵は己も机の前に座り込みながら問うように文次郎を見つめた。
「……どうかしたのか。なにか問題が起きたか?」
それが一年は組の生徒たちに関わるものであるなら無視を決め込むわけにはいかぬと、仙蔵は少し身を乗り出した。
文次郎はかぶりを振った。
「いや、なにも。なにも問題はない」
「……ではなんだ。いやに重苦しい様子ではないか」
「……そうか」
文次郎は ふ、と息をついて筆を置いた。
文の文面もまとまらぬ様子だ。
「……どうした? 休校日は眼前だぞ……やっと帰れるのではないか」
「……そう、なん、……だが」
文次郎は歯切れも悪く、かろうじてといったふうにそれだけ言った。
しばらくなにか言いたそうにしながら口を開いては閉じ、を繰り返して、やはりうまくまとまらなかったのか、
文次郎は大きくため息をついて項垂れた。
「だから、なんだというのだ! 気持ち悪いな!」
「きも……てめ、言うことなすことたまに学生の頃と変わらんぞ、それ」
言われて仙蔵はややカチンとくる。
言葉は少々汚いが、そうしてあおってやれば文次郎も乗せられてなにか吐くのではと目論んだ末の言だったのである。
乗せられて言い返してくるどころか・さらりとあしらわれてしまったようで気分が悪い。
しかしここで己が怒るのは逆に文次郎に乗せられたようでまた気分が悪いので、
仙蔵はぐっとこらえて低い声で絞り出した。
「……貴様らしくないというのだ、うじうじうだうだと! なにを急に、思い悩むことがある」
「……急、では、ない……実を言えば、去年も似たようなことがあったからな」
「……覚えていないぞ」
「去年はそれこそ、担任は持っていなかったがやることが多すぎてな……帰る暇がなかった」
仙蔵はわけがわからない、と言いたげにまた目をしばたたいた。
「つまり……帰りたくないということか?」
「……よくわからん」
文次郎はだらしなく文机に頬杖をついてよりかかる。
「帰りたくない、ということはない……あまりひとりにしすぎても心配だしな」
それは単純に防災意識から出た言葉か、他の男のちょっかいが気になるのかと仙蔵は聞いてみたかったが、
真面目な話であるようなのでとりあえず黙って頷いてやる。
仙蔵の内心になど文次郎はチラとも気づかず、静かな声で先を続ける。
「一年のあいだの、この時期だ。
 帰るべきなのか、帰らずに離れているべきなのか……どちらがにとって望ましいのか」
わからん、そう呟いたきり文次郎はもうなに一言すらも言わなかった。
これだけの会話の巡りでは、仙蔵にも事情は少しもわからない。
もう少し問いただしてみようかとも思ったが、
文次郎がに対して抱いている感情のすべて、愛情はもちろんほかにもさまざまな想いのすべては、
第三者が外から簡単に触れてよいものではないのである。
二人の出会ったいきさつ、それからいまに至るまでの紆余曲折はあまりにも壮絶であった。
そのあいだに、かつての級友達が集って深く関わったことも仙蔵はいまだはっきりと覚えているが、
文次郎ととのあいだでしかわかり得ない事情に、
いくら親しい仲でも己が介入することはできないと仙蔵は肝に銘じている。
(出会ったいきさつ……)
ふと思いついて、仙蔵は目を上げた。
文次郎は相変わらず、真白い紙面をぼんやりと眺めているばかりである。
(……そうか)
すべてを悟るには及ばないものの、なにか納得した心地で仙蔵は文次郎を見やった。
ちょうど、いまくらいの季節である。
三年の月日をさかのぼった、夏の終わりのある一日。
文次郎ととが出会い、すべてがいまに向かって巡り始めた、あれは運命の一日であった。


休校日当日、文次郎は結局帰宅することを選んだ。
学園を出る寸前までウンウン唸って悩んでいたのを、いい加減鬱陶しいと仙蔵が蹴り出したのである。
町へ続く道を歩きながら、文次郎は何度となく重苦しいため息をついた。
迷いすぎたせいで、今日の帰りを知らせる文も出せずじまいである。
いきなり帰れば、は驚くだろうか。
(いや、それとも)
己の想像に己で脅かされ、文次郎はぞわ、と肌の粟立つのを感じた。
(……やはり学園へとどまっていた方がよかったかもしれん)
歩調がどうしても鈍くなる。
今日、わざわざ今日という日である。
去年は多忙のために、その前は……よく覚えていないが、とにかくこれまではなにかしら帰らずに済む理由があった。
補習やら追試やらが少なくなったこと自体はもちろん喜ぶべきことで、
生徒たちの成長ぶりには仙蔵とともにたびたび感じ入らずにはおられない。
しかし、今日だけは。
逡巡しながらも心を決めかねているうちに、視界の先には町の屋根屋根が見えてくる。
まだ自身の姿が見えたわけではないというのに、文次郎はどきりとせずにいられなかった。
大丈夫だろうか。
は大丈夫だろうか。
己はどうだろうと構わない。
なにがあっても耐えることはできるだろう──けれど、あの心優しい妻は。
心臓の騒ぐのを落ち着けることのできぬまま、文次郎は緊張して冷や汗をかきつつ、町の喧噪へ踏み入った。
活気に満ちて親しげに、誰をも拒まないこの空気が、今日は苦しいほど文次郎を責めてくる。
大通から路地へ入り、もう自宅はすぐそこである。
どくどくと脈打つ鼓動が、耳の奥にうるさいほど響いている気がした。
心は迷っている──否、本当は、嫌だ、帰りたくないとすら言っている。
それなのに文次郎の足は止まらなかった。
慣れぬ真反対の感情のせめぎ合いに、己のことであるというのに決着をつけることが出来そうもない。
早く帰りたい、に会いたい。
帰りたくない、に会いたくない。
路地の先でぶつかったまた別の通りを曲がると、すぐそこにわが家が見える。
はそこにいて、ちょうど家の外を掃き清めているところであった。
やってきた文次郎にはまだ気がついていない様子だ。
文次郎は息を殺して、の姿をうかがい見た。
いつもどおり、なにも変わらないように見える。
近所で知り合った顔でも通ったか、往来の人物と二言・三言言葉を交わし、にこやかにその相手を見送る。
そのまま目を上げてはやっと、夫の帰還に気がついた。
「……あら、……文次郎様?」
驚いて目を丸く見開いて、はぱちぱちと瞬いている。
それはそうだ、文をやらなかったからな、と文次郎は思いながらの反応をじっと待った。
はほうきを置くと文次郎のほうを振り返り……微笑みながら、小走りに駆け寄ってきた。
ただそれだけの仕草に、文次郎はいつも目を奪われ、心奪われてしまう。
立ち尽くしたまま動けずにいる文次郎のそばへやってきて、は嬉しそうにまた微笑んだ。
「驚きました、どうなさったのです、今日はお帰りにならないと思っておりましたのに」
「……ああ、ちょっと……文を出せなかったのでな」
すまない、と文次郎は呟くように言った。
はふるふると首を横に振る。
「いいえ、気にしません。……お帰りなさいませ」
「……ああ」
は子どものするように文次郎の袖を引いた。
「お疲れでございましょう、なにも支度がないのですけれど、まずはお茶をいれますから」
こんなに急に帰っていらっしゃるなんて、とまだ言いながら、は足取りも軽く家のほうへととって返す。
文次郎はもう呆然と、のされるままに手を引かれ、家へと入る。
たかだか数日の留守であったが、は久々の再会を喜んでいるかのように楽しげであった。
にこにこと文次郎を座らせて、足を洗う桶を用意し、先程まで使っていたほうきを片付け、いそいそと湯を沸かしにかかる。
その様子を黙って眺めながら──文次郎はすっかり拍子抜けしてしまった。
あれほど緊張して、迷って迷って、やっとここまで辿り着いたというのに。
の様子は常とちっとも変わらない。
それどころか、いつもよりもどこか興奮気味に見えるほどである。
よっぽど怒らせたときを除いては、わりと落ち着いた態度を保っている女であるというのに──
(なんだ……俺の、考え過ぎだったか……?)
ぽかんと見つめてくる夫に気づいて、は照れたように目を伏せ、ふっと笑いをもらした。
「……どうなさったのですか、そんなに見ないでくださいませ」
「あ、……いや、別に」
文次郎はもごもごと口ごもった。
ごまかすように日常の話題を振る。
「留守中、変わりはなかったか……?」
「はい、つつがなく。先日はご近所から栗のお裾分けをいただきました。もうすっかり秋なのですね」
「ああ、そうだな……」
当たり障りのない会話がただ続いていくことに、文次郎はほっとした。
「学園のお仕事はいかがですか。生徒さん達も、立花様も、お元気でいらっしゃるのでしょうか」
「ああ、変わりない。子どもたちは、まぁ、過ぎるほど元気だ……」
お前にも会いたがっていたと言うと、はくすぐったそうに笑った。
なんだか今日はよく笑うなと、文次郎は思いながら自分でも少し嬉しくなって、つられたように口元でちいさく笑う。
愛する女が己とともにあって幸福そうにしていてくれることの、なんというよろこびだろうか。
日々は変わらずに回っている。
離ればなれでいる時間のほうが長いことは相変わらずだが、はそれでも幸福そうにしていてくれる。
たまの帰宅を喜んでくれ、微笑んで家へ迎え入れてくれる。
「ああ、そう、文次郎様、夕餉はどうしましょう。あんまり唐突にお帰りになるのですもの、なんの用意も」
そうして悩ましげに言う姿もどこか楽しそうである。
「なんでもいい、なんでも」
「……また『食えればいいんだ』なんて仰ったら怒りますからね」
「だから……あれは俺が悪かったと」
その後一度も言ったことはないだろうと苦しく言うと、は少し拗ねたような顔をして見せてから、くふっと笑った。
(ずいぶん御機嫌だな……)
いつもの会話はやはり当たり前に巡っていく。
は常に楽しげで、いつもより表情豊かですらある。
なにかいいことがあったかと聞いてみると、いいえ、なにもと答えてから、恥ずかしそうに微笑んで、
「あなたがお帰りになったから」
頬を薄赤く染めてそんなことを言う。
落ち着かなく浮ついていた心地がじわじわと安心に沈むのを文次郎は感じた。
あれほど重くのしかかっていたはずの緊張も不安も、今やっと霧散しかけてくれている。
家に帰ること、のことばかりに気をとられて仕事のひとつも持ち帰ってこなかった文次郎は、
久々に家の中を片付けるだの、炊事のための力仕事を引き受けてやるだのと立ち働いてやり、
常ならぬほどの熱烈な感謝を妻から受けて照れのあまりにたじろいだ。
いったいどうしたことだろう、それほど長い留守でもなかったろうにと文次郎は不思議に思う。
だからといって、俺がいなくてさびしかったのか、というような露骨な問いはとても口にできない。
逆を聞かれて焦ったこともあったなと、文次郎は懐かしく過去を思い返す。
あれはまだと出会って間もない頃のことだった。
互いのあいだにはまるで詰めようがないと思っていた距離が横たわり、
関係はぎくしゃくとして、会話もほとんどないに等しかった。
真実夫婦として暮らすことができるようになり、それが当たり前となったいま、
なんだかその頃の記憶は遠すぎて感じられてしまう。
(……いつまでも気に病むことはなかったか)
文次郎はやっとのことで、ぬぐい去れずにいた不安を追いやった。
簡単なものしかできませんよと言いながら、は腕を振るって夕餉の膳をととのえてくれた。
のしてくれたことに対し、己の感謝なり褒め言葉なりが足りていないだろうことには自覚があったが、
無理矢理言おうとすると 逆に不自然だから言わなくていい と窘められてしまったことが過去にあって、
とりあえず文次郎はもくもくと食事を平らげた。
食事中の様子のほか、きれいに空になった食器を見ては文次郎の反応を確かめているようなので、
忍たま時代からしつけられたことではあったが、お残しはしないようにつとめている。
は折につけ・にこにこにこにこと文次郎を見つめていた。
視線を受けて、が照れて俯くことならたまにはあったが、
なるほどこれは照れるもんだと文次郎は初めて我が身のこととしてそれを知る。
「……ずいぶん機嫌がいいな」
「そうですか?」
文次郎が帰ってきたからだと先刻は言ってくれたが、己でそれを聞き返すのもどうかと口を閉ざす。
は薄く微笑んだまま、いつもどおりですよ、と囁いた。
食事の膳を下げ、それを洗いに井戸端にやって来て、夜の静寂に文次郎はほっと息をついた。
帰宅後に一人きりになる時間はそう多くない。
妻とともに過ごすために帰ると言っても間違いではないのだから、
普段は文次郎自身・一人になろうとはしていないのであるが。
今日は少し、こうして家の外へ出たことで初めて落ち着いた感があった。
がああも喜んでくれるのはありがたいし、嬉しくも感じるのだが……
四六時中ああだと疲れるのだなと、思ったあとで文次郎は苦笑する。
望んで望んで、それでも手に入らないと、そもそもはそう思っていた相手だというのに、なんと贅沢な考えであろうか。
己は恵まれているのだ。
その始まり方は決して望ましいものではなかった。
には憎まれ続けて当然のはずの己であったというのに、
最初は成り行き上ながらも妻に、そしていまはその心も己のものに。
不足などあるはずがなかった。
いま己は間違いなく幸福なのだ。
食器を洗い終え、かごに積んで抱え上げると、文次郎は家へ戻った。
は文次郎に背を向けた格好で、また茶をいれようとしてくれている。
何気ない日常の姿、光景には違いなかったはずだったが、
のその後ろ姿と仕草とに、文次郎は内心を掻き立てられた。
黙って食器の入ったかごを置き、のほうを振り返る。
は文次郎の様子に気づいた風ではなかったが、目を上げると微笑んだまま首を傾げてみせる。
ただそれだけの仕草もたまらなく愛らしく、愛おしく思われて、
文次郎はに這い寄るとなにも言わずにその身体を抱きしめた。
「……文次郎様、」
「なにも言うな」
はそれで素直に口を閉ざす。
文次郎を見上げてくる目はもの言いたげに少しばかり潤んでいた。
唇の重なる瞬間に、がそっと目を閉じたのがわかる。
ほんの数日の別離が苦しくてたまらなかった、互いの本心をそうして悟った。
それからは二人とも、なに一言も言わずに何度も口付けを交わした。
呼吸が弾み、がわずか甘い声をあげたのがまるで合図になったように、
文次郎はの身体を抱え上げて寝間へ入った。
部屋の片隅に積んであった寝具を乱暴に引きずり出し、そのうえにを横たえようとすると、
はくすくすと笑いながら、だめです、と文次郎を押しとどめようとする。
「なにが」
「お布団、ちゃんと干したのですもの、きちんとのべましょう」
返事をする間も与えられず・呆気にとられて一瞬かたまってしまった文次郎の腕のあいだから、
は器用に抜け出した。
なにやらせっせと布団を敷いているの姿を間近に眺めていたが、文次郎にはそろそろ待つのはつらかった。
黙っての手をつかまえ、背中から抱きしめると、は呆れたように息をついた。
「もう、文次郎様」
「待てない」
「少しだけですのに」
「……訂正する、待ちたくない」
「まあ」
はもう言葉もない、と言いたげに頬を脹らませてみせる。
そんな子どものような表情はには珍しく、もう少しそうして見つめていたい気もしたが、
呆れた素振りを見せながらもが文次郎のすることを拒んではいないことはよくわかった。
文次郎はまだ整っていない布団のうえにを押し倒し、また何度も口付けを繰り返した。
美しい肌、細く甘えてくるような声、互いのあいだに生まれる熱、そんなもののすべてに文次郎は酔いしれた。
何度となく意識を絡め取られていきそうになりながら、文次郎はおぼろげに、己は幸福なのだと繰り返し考えた。
愛する者に愛を返してもらえるということの幸福が、己のものになるとは昔は思っていなかった。
愛した女が己を想ってくれるようになるなど、あり得ない話だと考えていた。
(……もう、疑うのは、やめよう……)
なにを不安に思うことも、きっともうないのだ。
文次郎が思うのと同じように、もいまを幸福と感じてくれていることは、文次郎にもよく伝わってきている。
これでいいのだ、と文次郎は己に言い聞かせた。
眠ってしまったを見つめ、文次郎はふっと口元で笑った。
(幸福に慣れぬせいか……? 疑いようもないというのに)
愛おしいものと過ごす日々が、こうして続いていく。
かなうことならばこれからも・ずっと先の未来まで、互いに年老いてしまってもずっと。
乱れたままのの髪を撫でつけてやり、文次郎はのすぐそばに横たわった。
すぐに襲い来た眠気は、平和な眠りを連れてくるだろう。
長くは続かないはずのその平和にぼんやりと思いを馳せながら、文次郎はうつらうつらと眠りについた。


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