ティータイムは薔薇の香りと共に

いったいなんだそれはと、問われて仙蔵は顔を上げた。
午後三時の太陽は屋敷の広大なばら園を隅から隅まで平等に照らしている。
問うてきた相手は美しいばらの茂みにはあまり似つかわしくない無骨な男で、
仙蔵はついついくくっと笑いを漏らしてしまう。
歪な笑みを向けられてばつの悪そうな顔をするのは、家の当主に秘書として仕える文次郎である。
用事でもなければばら園になど見向きもしないだろう文次郎は、
己でも不似合いの自覚があったのか、やたら居たたまれない様子で仙蔵の答えるのを待っていた。
わかっていながら仙蔵は、焦らすようにゆっくりと、考えを巡らす仕草をしてみせる。
「見ての通りだが」
「切り過ぎじゃねぇか。なにに使う」
「もうすぐ四時だ」
「“お嬢様”用か」
「きっと機嫌を損ねてお帰りだ」
ああ、と文次郎はややゲッソリした様子で頭を掻いた。
最後に一本、見事に咲いた紅色のばらを切って、
仙蔵は片腕にはもうおさまりきらぬほどにふくらんだ花束を抱え直した。
文次郎は半ば呆れた視線を仙蔵に投げた。
「……まるで恋人に会いに行くような格好だぞ」
「似たようなものだろう」
「そうか?」
「違うか?」
文次郎は唸って黙り込んだ。
なんとなく否定しきれなかったのは、彼らの言うところの“お嬢様”が、
彼らにとって一種特別な女性であり続けるがゆえである。
かのひとの名は
御年十八、誇り高き侯爵家当主の愛娘にして唯一の後継者である。
その美貌はかつて社交界を風靡した“夢の貴婦人”たる母君譲り。
一方で深窓の令嬢らしからぬきっぱりはっきりとした物言いは、
代々並みならぬ統率力でもって愛しき祖国と国の母たる女王陛下とをお守り申し上げてきた、
父君の血筋のゆえんであろう。
彼らの出会いは十年ほど前、
侯爵閣下が愛娘の付き人を選び出すため催した昼食会でのことである。
貴族諸侯が歓談に笑いさざめくなか、場に集まった子どもは男ばかり六人。
わんぱくざかりの少年たちが集って黙っているわけもなく、
目線ばかりで合図を交わすと六人そろって抜け出した。
大人達の思惑を彼らもちらりと聞いてはいたので、
己らが忠誠を誓うことになるはずの家の令嬢とやらを覗き見に行こうと考えたのである。
昼食会の会場に、なぜだか令嬢は在席していなかった。
広い屋敷の中を右往左往、昼食会の給仕のために使用人達もてんてこまいで、
普段なら立ち入ることを咎められるだろう奥の奥へもどんどん入り込むことができた。
見つかったら怒られるに違いないと、思いながらもやめられないのは大冒険のスリルのゆえか。
いかにも大切な部屋らしい重厚な扉の奥から女の金切り声がしたのが聞こえ、
彼らは目配せをひとつふたつ、息をひそめて近づいた。
「いい加減になさいまし、お嬢様!
 これ以上お客様方をお待たせするなど、さすがの侯爵様もお怒りになられますよ!」
そうして私だって怒られるのだからと、声はなにやら悲劇ぶってもいた。
しかし彼らが心弾ませたのはそのためではない、
その扉の奥に確実にいるはずの“お嬢様”の存在のためである。
澄ました声が答えて言った。
「ではまいりましょう、やっとお迎えが来たようだから」
幼いが涼しげな声がそう言ったかと思うと、彼らの目の前の扉が唐突に開いた。
あまりいきなりすぎて、六人が六人ともぴたりと固まった。
「ごきげんよう、お父様が選んでくださった付き人というのはあなた達のことね?」
部屋の奥にはバルコニーへ続く大きなフランス窓が見え、そこから眩しく光が入り込み、
彼らの目の前に現れたの姿にはまるで後光がさしているようだった。
同い年のはずの少女はそうして彼らに悠然と微笑みかけてき、
さも当然というふうに貴婦人のするような仕草で手指を差し出してきたが、
それが口付けを許すという意味であるとは彼らは知りもしなかった。
高価そうな緻密なレース細工がふんだんに使われた白のドレスはあまりにも清楚で、
光にあふれた中にそうして佇む少女の姿はあまりにも神がかって見えて、
彼らはそのときただただ言葉を失った。
子ども心には衝撃的だったその出会いから十年ほど、
まるで天使かと思ったはずのの本性はどちらかというと小悪魔的であるのだと、
彼らはすでに知っている。
「で、文次郎。お前はなんの用事か」
「ああ……旦那様がだな」
「ああ」
「機嫌をとりにいけと」
「なるほど」
「お嬢様が嫌々お出ましになったのを、一応自覚しておいでだ……」
「はは」
「俺なぞ同席していても罵られるのが関の山だろうに」
「だからお前がいたほうがよいのだ、鬱憤ばらしに八つ当たりはちょうどよかろう?」
「俺かよ」
「お前はそういう役回りだ、昔からな。
 小平太には通じない、長次にはかわされる、留三郎は真面目に取るし伊作にいたっては落ち込む始末だ。
 他に適役があるか?」
「お前はどうなんだよ」
「私か」
仙蔵は抱えたばらの花に埋もれるようになりながら、口元に笑みを浮かべた。
「私はただ気を配るだけだとも。
 お嬢様付きのサーヴァントとして必要な気配りをだ。
 アフタヌーン・ティーの時間に、奥方様がお好きだったばらをわんさか用意してみるとかな」
仙蔵の口調は軽やかだったが、聞いて文次郎は神妙そうに目を伏せた。
「……奥方様がご存命であられれば、
 此度のようなむちゃくちゃな縁組はそもそも持ち上がりもしなかったろうな」
「それに、お嬢様ご自身にももう少し深窓の令嬢たるお振る舞いが身についていたはずだ」
「あのガヴァネスはそのへんを俺らのせいにしているぞ」
「あれは昔から物事を悲劇的に演出するのを好んでいるだけさ」
出会いの日から仙蔵達六人を目の敵にしている女家庭教師は、
の教育に彼ら糞餓鬼が悪影響を及ぼしたと信じて疑わない。
きんきん響く金切り声を反芻しながら、ふたりは引きつった笑みを浮かべた。
「さぁて、支度を急がねば。そろそろお戻りの頃だろう」
ポケットから片手で器用に懐中時計を取り出して時間を確認すると、仙蔵は気を取り直して前を向いた。
「気配りが仕事の仙蔵よ」
「なんだ、“裏切り者”の文次郎」
「てめ……だからそれは旦那様が」
「お嬢様は今日何度その文句を口になさることだろうな」
「うるせぇ、黙れ! ……全員呼ぶ気か」
「旦那様の思惑はそこにあるのだろうが……来るかな?」
「来るだろ」
「もちろん、お前が呼びに行ってくれるのだろうな、そう言うからには」
文次郎は返事をしなかったが、チ、と舌打ちをひとつ残して早足で彼の先に立って歩き出した。
その背を見送りながら仙蔵はまたくくっと笑うのだった。

「誰が! 誰が結婚なんかするものですか!」
開口一番、はそう叫んだ。
まあ、お嬢様と窘めるようなことを言うのは迎えに出てきたガヴァネスひとりで、
それを遠く取りまく使用人一同はどちらかというとお嬢様に一票といった心境である。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「仙蔵! いいこと、よく聞いてちょうだい、あなたは証人よ!
 “私は結婚なんか絶対にしません”! どう、わかって!?」
「承知いたしました」
「あなたに承知されてもどうにもなるものではないわ!」
どことなく矛盾したことを言いながら、
は髪に挿した花飾りを乱暴に抜き出してばしんと床にたたきつけた。
黙ってそれを拾い上げ、怒りのあまりに肩で息をしているの様子をうかがいながら、
仙蔵はなんと言っての気を引くべきかとぼんやり考えを巡らせた。
「お嬢様」
「なによ」
「花には──罪はございません」
「……そうね」
叩きつけられて弱った花飾りを仙蔵の手の中に見、は少しばかりしおらしくそう答えた。
「お茶の支度を整えてございます、どうぞサン・ルームへ。
 此度は少々趣向を凝らしておりますよ」
「そう? どんな?」
「鬱憤ばらしをするにはよろしいかと」
「ああ……それは、賑やかね」
ため息と一緒にそう囁いて、はしかし元気そうな調子を取り戻して歩き出した。
ガヴァネスの咎めるような視線が背にぐさぐさと遠慮なく刺さってきたが、
仙蔵はそれを華麗に無視してのあとに続いた。
サン・ルームには先程仙蔵が切ったばらがこれでもかというほど活けてあり、
華やかな香りがほのかに漂っている。
その香りの中、大の男が五人もうろうろ、あるじの帰りを待っていた。
あからさまに異様なその光景を目の当たりにして、はふっと吹き出した。
「なんて似合わないのかしら、あなたたち! なにをしているの」
「お前こそなんだその髪は、その乱れほつれは。
 婚約者に会った帰りとは到底思えん出で立ちだぞ」
「お黙りなさい、“裏切り者”の文次郎!」
はびし、と文次郎を指さした。
「あなたが私を裏切った日のことを、私は今日まで一日たりとも忘れていないわ!
 ちょっと数字に長けていたからって、お父様なんかの誘いをホイホイと受けたりして!
 今だってどうせ、お父様に言われて偵察にでも来たのでしょう!
 どうぞ伝えてちょうだい、“私は結婚なんてしません”!」
さっそく出た“裏切り者”の文句に、文次郎以外の皆が苦笑した。
六人の従者のうち、文次郎だけは侯爵直々の引き抜きにあっての元を離れている。
ずっとそばにあると幼い時分に誓っているはずの文次郎のその行為を、
は以降このうえなく明るい悪意を込めて“裏切り”と呼んでいた。
一歩後ろでとりあえずの応酬を眺めていた仙蔵は、これを機会と口を出す。
「お嬢様。
 文次郎がここへやって参りましたのは、旦那様のお心遣いがあらばこそなのですよ。
 旦那様もなにも好んでお嬢様の意に添わぬ縁談をまとめ上げようとお思いなのではないのです」
「仙蔵もお父様の味方をするのね。あなたの忠義も底が知れるわ」
「これは……手厳しいことを」
仙蔵は苦く笑うと、のために椅子を引いた。
が腰掛けると、乱れほつれと示された髪を指先で撫でつけてやる。
黙って仙蔵のされるがままになっているをちらちらと見やり、
互いに成長はしたが相変わらずなものだと皆が懐かしく笑った。
「──旦那様は。
 今日は見て見ぬ振りをしてくださろうというのですよ……無礼講の茶会となろうとも。
 まあ、幼い時分とまったく同じように振る舞えるわけではお互いないでしょうが」
は諦めたようにため息をついた。
「わかっているわ、お父様のお気持ちも家の役割も、私の立場というものもね。
 身分というものは面倒ね。お茶にとかして飲み干してやりたい」
ティー・スタンドに盛りつけられたサンドウィッチをひょいとつまんで、
礼も遠慮もへったくれもないといったふうにはもぐもぐそれを食べた。
そのまま視線をぐるりと巡らせる。
「お母様がお好きだったばらね。
 いい香り、お菓子の味がわからなくなりそうだけれど」
「少々集めすぎましたか」
「いいえ。私も好きな花だもの。
 ねえ、お母様がこのばらをお好きだったのはどうしてか、聞いたことがある?」
皆がきょとんとかぶりを振った。
あのね、とは遠い目をしながら続けた。
「お母様のご実家は王族と姻戚関係にあるの、
 だからお母様はご幼少の頃には躾のためなどと言われて
 僧院に閉じこめられるようにしてお過ごしになったのよ。
 その僧院の庭にはばらが咲き誇っていたの……このばらよ」
運命の出会いは僧院のばらの庭。
逆賊を追ううちに負傷した若かりし頃の侯爵閣下は命からがら・僧院の庭へ逃げ込んだ。
それを保護して手当てしたのが、のちの侯爵夫人だったのだという。
「なんてロマンティックなのでしょ。
 現実にはそんなこと望むべくもないわ。
 今日会ってきた伯爵令息のあぶらでてらてらした顔といったら!
 ねえこれは悪夢? 私は本当にあの人のところへ嫁がなければならないの?」
「まだ本決まりじゃねぇって話は聞いてるが」
文次郎が考え考え、口を開いた。
家にはお前しか跡取りがいないんだ。
 家のために縁組するなら、嫁がせるのではなく婿を取るほうを旦那様も選ぶだろう」
「……じゃ、社交辞令の悪い冗談ってことね? あああ、よかった、安心した、
 安心したらおなかすいちゃった」
苦笑しながら、仙蔵はのカップに紅茶をなみなみと注いだ。
「さあまずは、お茶を。
 身体が温まって、気持ちも落ち着いてきますよ」
「これはダージリン?」
「ヌワラエリヤです」
「香りが強いのね」
「ダージリンがよろしければ、先頃届いたセカンド・フラッシュの封を切りましょうか」
「いいのよ、選んでくれたお茶をいただくわ」
香りふくよかな茶をひとくち味わって、はほっと息をついた。
「ずっとこんな時間が続いてくれないものかしら」
叶うわけもない話とわかっていながらも言わずにいられないと、は悩ましげに首を傾げる。
願うことならば誰も同じであった。
それほどに、身分差も主従もなく無邪気に遊び回っていたあの黄金の午後、幼い頃の記憶は、
彼らの内に尊く刻まれたままなのである。
は咎めるような目で一同を見渡した。
菓子をつまむなり茶をあおるなり、はたまた会話に興じていたり。
を囲むのは目を瞠るばかりの成長を遂げた青年達である。
「だいたい、よ。
 付き人と使用人とが同じ扱いだなんて思わないでちょうだい。
 あなた達だって皆々・由緒あるお家の子弟だというのに、いつまで他人にかしずいているつもり?
 社会勉強ならとうに足りているでしょうに。
 仙蔵、特にあなたに言っているのよ、
 メイド達が仕事を取られたと言って泣きついてくることだってあるのだから。
 あの子たちが貴族の子弟であるあなた達にじかに訴えるなんて出来るわけがないのよ、
 そこをぜひわかってあげてちょうだい」
「……確かに実家からは再三帰宅を促す書状が参っておりますが」
「ほらご覧なさい、ご実家に迷惑をかけて。
 まるで私があなた方を無理に引き止めているようではないの」
「そのような誤解はないようつとめておりますよ」
仙蔵はさらりとそう答えた。
は不満そうである。
「他人に従うよりも自分のやりたいことのできる環境を求めればいいのに。
 なぜ皆ここに居続けようとするの?」
そんなに居心地がいいのとは疑い深げな声音で問うた。
聞かれた彼らはしかし、
考え込んだきりまともに答えることができずに互い、怪訝そうに目を見交わした。
「……思うに、お嬢様」
「なあに?」
「私たちは皆、あなたに惚れているのですよ──すべてはあなたのおそばにありたいがため」
はカップを口元に持ち上げたまま、ぴたりと動けなくなってしまった。
目を丸く見開いて驚いた表情だが、なにやら言葉にはならない様子である。
一方の青年達は仙蔵の言うのを否定するどころか、確かに納得といった表情で頷いていたりする。
文次郎が話題を継いだ。
「いい奴が見つかって、縁組がうまくまとまってくれりゃあいいと思うのも本音だが。
 ……そうなりゃなったで、あまりいい気はせんだろうな」
「我々から“お嬢様”を奪うどこぞの誰かに──我々は勝手に嫉妬しているのですよ」
その答えがまた、の反撃を鈍らせた。
「……すてきな言い分だこと」
「恐れ入ります」
「あなたもお茶をいかが」
「お心遣いはありがたく頂戴いたします」
「まだ使用人モードなのはあなただけよ。お父様もお許しくださっているのでしょ」
「私はお嬢様付きのサーヴァントですから」
「では命じれば席に着いてくれるのかしら?」
「……それが命令ならば。背くことはできませんね」
仙蔵は苦笑した。
ばらの香りの甘やかにただよう中、ティー・タイムは和やかに・やがて賑やかに。
クリスタル・シュガーのきらきらと輝くサブレ・ディアマン。
バターの溶け出すほんもののマフィン。
スモーク・サーモンとキュウリのサンドウィッチ。
紅茶と会話を楽しむ優雅な時間だったはずが、いつしかその場は明るく騒々しくなっていった。
出会ってまもない頃に戻ったかのように、
そのときの彼らのあいだには互いを隔てる身分の差などはわずかたりとも存在しなかった。
午後四時を過ぎれば日は少しずつ傾いていたが、誰もが時間のたつのを忘れた。
本当はとうにわかっているはずのことに、わからない振りをしたかったのかもしれない。
“ずっとこんな時間が続いてくれないものかしら”
その願いを隠そうとでもするように、皆が必死で笑いあい喋り続けた。
そこに沈黙のともらぬように。
いつしか夜になることを、時間は過ぎてゆくことを、立ち止まってはいられぬことを、
そうして気づいてしまわぬように。

「ねえ、仙蔵」
「なにか」
は少々ムッとして唇をとがらせた。
すっかり暮れて日の射さなくなったサン・ルームにはまだ残っていた。
その傍らで仙蔵は、
ティー・タイムにやってきた遠慮のない客たちの食べ・飲み散らかしたあとを呆れ呆れ片付けている。
あっと言う間に使用人モードを取り戻してしまった仙蔵を、はわずかばかりつまらなく思った。
とうに冷めてクリーム・ダウンし始め、渋味を増した紅茶に往生際悪く口をつけ、
片付けを続ける仙蔵の横顔をちらと盗み見る。
端整な顔立ちをしている。
これでサーヴァントを自称するなど、そもそも無理があるというものだ。
“プシュケ”のティー・カップを名残惜しむようにソーサーへ戻し、
はなにやら勿体ぶった仕草で立ち上がった。
気づいて顔を上げた仙蔵に、はわざとらしくすり寄るとその腕に絡みつくように抱きついた。
「お嬢様」
は答えず、やや上目遣い気味にひたと仙蔵を見つめ続けた。
しばらくは黙り込んだまま、まるで睨み合うかのように視線を戦わせる。
たっぷり数瞬後、先に折れたのは仙蔵のほうだった。
「……で、なにを言いたい、
は満足そうに微笑んだ。
「仙蔵」
「なんだ」
「キスして」
さすがに仙蔵も虚を突かれたようで、不思議そうに目をぱちぱちとさせている。
は楽しそうにくすくすと笑いを漏らす。
「大人のほんとのキスよ、もう十八だもの。ちゃんと唇に」
「……一応聞くが」
「なあに?」
「それは命令か」
命令ならば背けないと、声に出しては言わなかったが、仙蔵の視線にはありありその意が宿っていた。
は首を傾げて少し考えてみる仕草をするが、やがてにこっと微笑んだ。
そのように控えめな笑みを浮かべてみれば、と数年前に儚くなったの母とはよく似ている。
「いいえ。ただのお願い」
「そうか」
こともなげに言うと、仙蔵はかすかに触れるだけのキスをの唇に贈った。
一瞬だけ口付けて離れると、は花の咲いたような満面の笑みを浮かべ、ありがとう、と囁いた。
「ねえ、私は本気なのよ。結婚なんかしない。お嫁になんか行かないわ」
「ほう」
「だからあなたたちも結婚しないでずっと私のそばにいらっしゃい。
 あなたたちの面倒は私が一生かけてみるわ」
「なんとも頼もしいお言葉だな、“お嬢様”」
「まかせて」
「その一生で一度くらいは“奥方様”と呼んでみたいものだ……」
「そんなに私を結婚させたいのなら、あなたたちの誰かがお婿に来ればいいわよ」
聞き捨てならないセリフを吐いて、は仙蔵の腕から呆気なく離れると、
さっさと身を翻してサン・ルームを出ていった。
仙蔵はやや狐につままれたような気分でのその背を見送った。
お嬢様のわがままなことは、出会った頃から今までも変わりがない。
それをきいてやるのも見守ってやるのも、そばにいる仙蔵たちだけの役目であった。
ときには(いや、しばしばかもしれない)理不尽な思いをさせられるが、なんだかんだそれがいやではない。
(他の誰ぞに渡してしまうのは惜しい立ち位置だ……)
恋人ではないが、ただの友人でもないが、ただの使用人でもないが。
説明のしにくいこのアンバランスさの正体を、仙蔵は明確には求めないことにした。
片づけを引き受けに来たメイドたちにあとをまかせ、仙蔵はのあとを追ってサン・ルームを出た。
肩に髪に、名残のようにからまったばらの香りが、夜の空気に散っていった。



企画「Yes, my Lord.」さまへの参加作です
言い訳と解説