忘 れ る



数えるまにまに視界からこぼれ落ちるほど、あまたの流れ星が空を横切った、ある夏の夜のことだった。
星の消える前に願い事を三度唱えられればそれは聞き届けられるといって、空を見上げていた生徒たちの誰もが口々に願いを叫んでいたそのとき、考えあぐねた果てに伊作が呟いた「世界平和……かな?」という言葉には誰もが大笑いを呈したものだった。
「ありがち」
「なんでわざわざ世界平和だ」
「しかも三度言えてない」
「伊作なら『不運退散』とかじゃないのか」
友人たちが腹を抱えて笑うのに、伊作は困ったように笑うばかりで反論をしなかった。
伊作らしい答えといえばその通りである。
敵兵だろうがくせ者だろうが、手を差し伸べれば助かる命を放り出すことを彼は善しとしない。
下級生たちの願い事に皆が気をとられ、話題が流れゆく中、
「……どうして世界平和なの?」
誰かがそぉっと、幽霊が囁くが如しに問いかけてきたので、伊作は思わずびくっと肩を跳ね上げた。
振り返った先に、寝間着に小袖を羽織った姿の少女がひとり、立っていた。
ほっそりと華奢な佇まいで、風になびいている髪も絹糸のように細く、月の光を受けてきらきらと透けて輝いている。
現実味なく幽玄なその立ち姿は神々しくもうつくしく、伊作はすっかり目を奪われた。
数瞬呆けて、あれ、誰だっけ、と混乱しつつも思考をどうにか取り戻す。
年の頃は同い年かせいぜい五年生ほどであろう。
くの一教室の上級生が忍たまたちの目に留まりにくい存在ということは事実だったが、いくらなんでも同学年の生徒に見覚えがないということは考えにくい、では五年生のくのたまだったろうかとぼんやり結論を導き出す。
それにしてもこのようなうつくしい少女を見知らぬとは、六年も学園に在籍しながらなんと目配りの足らぬことであったか。
己でなくても、悪友の誰かひとりくらいは気づきそうなものだろうに。
「……どうして世界平和なの?」
少女はもう一度そう問うた。問いかける唇が一音ずつを発する動きに視線が吸い付いてしまう。
なんという不思議な雰囲気だろうか。
一学年先輩に当たるはずの伊作に敬語を使わないだとか、あくまでも控えめな態度のためか不躾には感じないだとか、受ける印象を思うと五年生という学年の推測には少々の違和感が残るが、伊作はとりあえずそれ以上深くは考えないことにした。
頭の奥にわずかな引っかかりを残したまま、問いに答えようと少女に向き直る。
「……いいことじゃないか?」
少女は不思議そうにゆっくりと首を傾げた。
「それだけ……?」
「うーん、いや、いざ考えてみるとあまり具体的に願い事って思い浮かばなくて……」
流れ星にかける願いにしては意味が広すぎるし面白みもない、そうしてよく挙がる例のひとつ「世界平和」が咄嗟に出たようなものだった。
しかし、面白みがないと言いながら誰しも願わないわけではないだろう。
それならまあいいやと、伊作は特に訂正も反論もするのをやめた。
自分が言い控える分で下級生の誰それの願いがひとつでも多く叶えば、それもよいとも思って。
「願い事がないってことは、逆に言えばいま充分満たされているってことじゃないかな?
 だったらまあ、いくさなんかなくなって、そこらじゅう平和だったらあとはもういいかなと」
「……いくさがなくなったら、忍は失業でしょう?」
「なにも言わないでちょうだい……ってとこだろうけど……
 いくさのために立ち働くことばかりが忍のありようじゃあないさ。
 僕は保健委員だから、尚のことそう思ってしまうのかもね」
「保健委員」
「うん」
頷きながら、伊作は不思議な思いで少女を見やった。
まるで今初めて聞いたとでもいうような顔を向けられてしまった。
伊作が六年ものあいだ保健委員を勤めた挙げ句、現在は委員長であるということは学園中の誰もがよく知っている事実のはずで、それはくの一教室の生徒でも例外ではないと思っていた。
自分が必ず他人に知られているなんて自惚れていてはいけないなと、伊作は内心やや苦い思いである。
きまりの悪さを誤魔化すように、君ならなんと願うのと問い返してみることにする。
少女は目を瞠った。
「わたし?」
「なにかあるでしょう、女の子なら特にいろいろとさ」
ごく軽い気持ちで話を振った伊作だが、少女は難しそうに眉間にしわを寄せ、考え込んでしまった。
なにかまずい質問だったろうかと伊作は少々焦ったが、どうやら少女の様子は考えに迷うというよりも上手く口に出せず困惑しているといった風である。
伊作が場を取り繕うような言葉をかけるより先に、少女はなにか覚悟でもしたように重々しく口を開いた。
「……しあわせにしたい人がいるの」
囁き声で語られた願いは、伊作には少々意外に聞こえた。
しあわせにしたい、とは、流れ星に願いをかけるような「漠然と他力に頼ろう」という思いより、「自ずから言動して叶えたい」という強い意志があってこそ出る言葉だ。
己でどうにか、誰かをしあわせにしたいと願っているのに、力が及ばぬということか。
なにやら切ない話である。
「……想い人でもいるの」
言い当てられて気を害する人もあるから、遠慮がちに伊作は問うてみた。
少女はまた困ったように首を傾げ、伊作から目をそらした。
「……よくわからないわ」
「自分でない誰かのさいわいを願うというのは、尊いね」
「……それはきっとあなたも」
「あれ、いやあ、そんなつもりは」
一周巡って自画賛のような物言いになったことに気づいて、伊作は慌てて否定した。
少女はまだ困り顔である。
誰にも言えぬような事情でもあるのだろうか。
胸に秘めねばならないような、苦しい恋なのだろうか?
「……医務室には、恋のやまいに効くくすりはないけれど」
少女は目を上げた。
安心させるようなつもりで、伊作は微笑んだ。
「話くらいは聞いてあげられる。僕でよければね。いつでもどうぞ」
少女はまだしばらくのあいだ考え込んでいる風だったが、やがておもむろに踵を返して去って行ってしまった。
華奢で静かで、呼吸をしようが歩いて去っていこうがまるで空気すら揺らがないような、あの細い髪はおろか、その青白い肌さえも月の光が透かすのではと思うような。
どこかぼんやりとした様子の瞳は宵の空かそれを映す湖面の如く綺羅星をひとつ宿し、深く強さをたたえる視線に射竦められればきっと数瞬言葉すら失ってしまう……
なかば呆気にとられたようにちらと口を開けたままで、伊作はそれ以上声をかけることもできず少女を見送るにとどまった。
なにとはなしに不思議な、信じられないほど深く印象に残る、そんな一夜の記憶である。

忍術学園における授業の年間課程も夏に差し掛かれば中盤といったところ、六年生の場合は卒業試験と就職活動に向けた勉学と鍛錬、外部での活動が目立って増えてくる頃だ。
いくさ場各地での実戦実習に因る点の采配は例年大きいところだが、今年度教員陣はそれらがあまり滞ることに頭を抱えていた。
その原因とは恐るべき天候不良である。
たかだか悪天候と侮るべからず、目も開けておられぬほどの豪雨に見舞われ、鳴神は大盤振る舞い、木々もしなるほどの暴風が吹き荒れ、馬も臆して落ち着かぬので隊列は一向前へ進まず、いくさの真最中であった陣はどこもかしこも撤退を余儀なくされた。
休戦とあらば忍たまたちが実習を行うわけにはゆかず、仕方なしにすごすご帰校する、そのようなことがこの夏もう何度あったことか。
お前の不運が雨を呼んでいるのではあるまいかと、ふざけ半分でもそう言われてしまったときの伊作の心の痛みようときたらなかった。
見かねた留三郎が、いくらなんでも悪い冗談だと言ってかばってくれはするものの、自分でも奇妙に自信が持てないのがなんとも後ろめたいところである。
なにせこれまでも似たようなことが多々起きていた、やれ遠足だ、買い物だ、こっそりとデートだと喜ばしい外出であればあるほどその率が高かった。
此度はそういった楽しみなどありはしないが、ほかでもない卒業試験の参考になる実習が流れたとあらば由々しき事態と言わざるを得ない。
不運のためでなくとも、伊作自身の成績はどっしりと余裕をもって構えていられるほど優秀ではない。
評価を受けられる機会は多くあるならばそのほうがいいに違いないのだ。
「まったく、もう何度目になる」
「五度か六度はあったかな」
「なんらか起きる前触れ、凶兆ではあるまいか」
なんの他意も悪意もない噂をちらと耳にしても、伊作はなんとなく悪いことをしたような気分に陥った。
自分が悪く言われているのではと疑心暗鬼が芽を出すと、聞きたくない会話にも自然と耳が吸い付いてしまう。
かえって深々傷つくかもしれないと心では思いながら、伊作は噂話に聞き入った。
「こうも異様な事態が続くとは、よもやあやかしのしわざではあるまいか?」
誰かがふざけてそう言った。
「あやかし?」
「聞いたことがないか、『あめふらし』だ。
 人間に直接悪さをするではないが、やたらめったら雨を降らせる」
「『豆腐小僧』ばりによく意味のわからないあやかしだな……」
悪さをしないなら別段いてもいなくても、と噂を語る口々は笑った。
むしろ卒業できるか否かを左右する試験をつぶしてばかりなのだから、いないほうが助かるというものだ。
やや自意識過剰気味の心地で聞いていた伊作には、笑われてしまった『あめふらし』とやらが少々気の毒である。
いてもいなくても、むしろいないほうが……などと誰が言われたいものだろうか。
人間の世界と妖の世界では、役割の重さもまったくもって違うだろう。
雨が降るにもきっと理由やら事情やらがあるのだ。人間の世界においては、たとえそれが時と場合により恵みにも災害にもなりうるものだとしても。
『あめふらし』を内心で存分に弁護してやることで、伊作はひそかに心を落ち着けることができた。
授業ののち、いつも通りけんかを繰り広げて怪我を負った文次郎と留三郎を引きずって医務室へやってくると、伊作は愚痴をこぼしついでに『あめふらし』の話をふたりにも聞かせた。
「『あめふらし』か。初めて聞く」
「長次なら何かで読んで知っているかもな」
ふたりも初耳だったらしい。
頷いて、伊作は話題を引き取った。
「僕もその噂で初めて聞いたんだ。『豆腐小僧』は名前くらい知っていたけどね。
 ……なんだか、自分のことを言われているみたいな気分で聞いていると、
 まるで僕が『あめふらし』にたとえられているような気持ちになってしまって。
 確かに僕にはちょーっと雨男の気もあったかもしれないけど」
「お前の気にしすぎだ、伊作。言わせておけ、噂など取るに足らん。細かいことをごちゃごちゃと」
文次郎が一蹴し、留三郎は気の毒そうに笑みを浮かべる。
医務室の利用頻度があまりに高く、その事情も慮るべきものではないと知れているので、もう保健委員はよっぽどのことがない限り彼らの怪我を手当てするのに手を貸すことはない。
ふたりも見離されたことにとうに慣れた様子で、いつも互いに互いの手当てをするのだが、今日は『いてもいなくても』の気分を払拭するために自分が手当てをすると伊作が言って譲らないので、ふたりはせめてもの慰めとばかり、黙ってそれに付き合ってやることにしたのである。
「ま、『あめふらし』云々はともかく……試験が延期になってばかりなのは運が悪いよな、伊作だけじゃなく」
「そうだよ、わざわざ僕だけに結びつけるなんてあんまりだ」
「おまえが自分のせいではと悩んでいる姿を見れば、
 反射的にああやっぱりかと理解する癖がついてしまっているんだ、この学園の生徒は。
 前例がありすぎるのがいかん」
「やめてくれよ、僕だって好きで運に恵まれないで六年来たわけじゃないんだ」
不満そうにため息をつき、伊作はぶっきらぼうにハイ、手当て終わりと呟いた。
使い終わった用具をまとめると箱へ仕舞い、脇へ寄せる。
文次郎と留三郎は横目を見合わせて肩をすくめた。
「気にするなと言ったろうが。お前のせいじゃない」
「堂々としてろ、そのうちみんな噂にも飽きる」
『あめふらし』のせいにでもして忘れてしまえ。
伊作は渋々といった風で頷いた。
「……『あめふらし』には気の毒な話だけど、実際僕のせいじゃないしね」
伊作は医務室を出ていくふたりを見送って、ついため息をついた。
誰かが見ていれば必ずというほど「しあわせが逃げますよ」と言われる。
そんなに自分はふしあわせに見えているのだろうかと、周りの人の反応に傷つきたくもなるというものだ。
現実問題に意識を戻すと、誰のせい云々よりもこの悪天候続きは本当に何事なのかが気にかかる。
なにがしかの作為でもあるのかとつい思いたくなるほど、あまりにもわざとらしく天気が崩れるのが常なのだ。
黒雲のわき上がる様子は目にもありありと、あたりが翳ったと思えばもう雨が降り始め、冷たい風もとうにごうごうと渦を巻いている。
その場に佇んでいるのもつらいというほどにそれらが激しさを増すまで、ほんの数分かかるだろうか。
本当に不思議だ、こんなこともあるものなのだろうかと息をついたとき、医務室の外に新たに人の気配を感じて伊作は目を上げた。
控えめな歩調で近づいてきて、細いゆびでほとほとと明かり障子を叩く様子が陰となって伊作の目に映る。
どうぞ、と答えたのにも関わらず、その人物はしばらく入ったものかどうかと逡巡するような間をおいて、やっとのことでそろりと戸を引き開けた。
やって来た人物の姿を認めて、伊作はつい あ、と声をあげる。
今このときはくの一教室の生徒が身につけるあの桃色の忍装束をまとっているが、間違いない、流れ星の夜に会ったあの華奢な少女だ。
「こんにちは」
ふっくらとした唇が、目にも鮮やかにその五音を奏でたように伊作には見えた。
すべてのものの輪郭がくっきりと浮き上がる昼の光の中だというのに、少女の存在感は儚いほど繊細に思われて、伊作は少々戸惑ってしまう。
月の光よりも強い太陽光に、それも真夏のそれに透けたなら、そのままとけて消えてしまうのではないか。
「こん にち は、どうも……」
現実味のない心配に気をとられ、返した挨拶がどうにもたどたどしい。
そうしてしばらく少女の佇まいに見入っていた伊作だが、一瞬遅れて怪我かやまいかと保健委員のさがに目覚めてはっとする。
しかし、あの夜にいつでもどうぞと気楽に彼女を招いたことを遅れて思い返した。
その招きに従って伊作になにやらを話しにやってきた、ということであるなら合点がいく。
伊作が黙ってそれだけのことを考えているあいだに、少女のほうは話の続きを促されているものとでも思ったようである。
大きな目をゆっくりと一度瞬いてから、彼女はひそと囁いた。
「……世界は平和かしら」
「はっ?」
予想だにしなかった言葉の意味もわからず、素っ頓狂な声が出てしまって伊作は思わず口を閉じたが、あの流れ星の夜にあったやりとりの一部始終がふいにひらりと脳裏に翻った。
「……ああ、あの、願い事の?」
少女は答えない。
なんと答えたものだろうかとしばらく逡巡してから、伊作は口を開いた。
「……もしかすると君も聞いているだろうかな、
 この近隣で起きるいくさは、なんだか嵐にあってことごとく休戦になっているんだ。
 命に関わる戦いがないという意味では、平和な日が続いているかもしれないね」
「それは、いいこと?」
「うん、まあ、そうした意味に限っては」
歯切れの悪い伊作の答えに、少女は不思議そうに首を傾げる。
なにか疑問に思ったときにそうした仕草をする癖があるのかなと、伊作は彼女を見つめて考えた。
「なにか、いいことではない意味があるの?」
「いや、大したことでは」
「……言って」
静かでありながらどこか有無を言わさぬ口調に、伊作は圧され負けて頷いた。
「その、いくさの渦中で僕たちの試験が行われることになっているから……卒業のための。
 採点対象になるはずの試験がなかなか実施されてないってことでもあるんだ」
それだけちょっと困った、と伊作は呟いて何気なく目を上げる。
少女は相変わらず入口の一歩外に立ち尽くしたままだった。
まっすぐ伊作を見据えるその目に、驚きと動揺の色が宿っているように見える。
なにかまたまずいことを言っただろうかと、伊作は自分の言動を慌ただしく思い返した。
世界は平和だよと、嘘でも答えるべきだったか。いや、嘘だと思っているわけでもないが。
彼女の問いかけの意図はどうもよくわからない。
驚いた表情のまま、彼女はまるでこわごわと言ったふうに唇を震わせた。
「……いくさがなくなって、あなたが困るなんて」
「いや、いいことだとは思うよ。たまたま試験の対象が実際の合戦だったってだけの話さ」
少なくとも、いくさが取りやめになれば救われる人は大勢ある。
兵にとられた村々の男たちも、その家族も、巻き込まれる第三者たちも、皆いのちが助かる。
自然がまもられ、動植物のすみかが破壊されずうつくしいかたちのままでそこに残る。
下級生を相手にするような、できるだけ優しい口調を心がけ、伊作は「それはいいことだ」と賢明に彼女に説明した。
彼女はまだあまり納得がいかない様子ではあったが、とりあえずよしと言うようにちいさく頷いた。
話が無事に収束を見たことに伊作は安堵の息をつき、気を取り直して彼女を手招く。
「どうぞ、なにか話しに来たんでしょう。お茶をいれるよ」
彼女の返事を待たず、伊作は予備の湯呑みをひとつ出すと茶をいれにかかる。
そのあいだにおずおずと医務室へ入ってき、伊作のそばに座り込むまでの彼女の動作は焦れるようにゆったりとした優美さで、なんの音も立てず、やはりその空間も微動だにせぬようだ。
どこか現実味のない、紙一重を光が透かすような「薄さ」とでも言うべき印象がどうしても拭えない。
そうだ、それを透明感とか呼ぶのだと、一瞬遅れて思い当たる。
透明な感じ、空気のような水のような光のような、確かにそんなものでできていそうな少女だ。
このくの一らしからぬ感じはいったいなんだろうと、伊作はむず痒く思うのを誤魔化すように唇を引き結んだ。
「そうだ、このあいだ名前を聞きそびれていたよね」
「……名前?」
「うん、ほら、僕保健委員長だから、できるだけ生徒の顔と名前と所属が一致しているほうがいいんだ。
 万が一何かあったときのためにね」
少女は今度は、じっと伊作を凝視した。
腹の内でも探られているような居心地の悪さを噛みしめつつも、伊作は黙って視線に耐えた。
ややあってぽつりと、彼女は呟いた。
「……
?」
「こういう字を書くの」
彼女は人差し指で空に  と書いてみせた。
文字を認めてから、伊作は申し訳なさそうに謝った。
「ごめん、ど忘れしているみたいで。くの一教室の子だよね。学年は」
その問いにもはじっと伊作に視線を投げかけるばかりで、口を開こうとしない。
頑固そうには見えないのだが、なかなか扱いの難しい相手のようである。
こちらから聞いたほうが話しやすいだろうかと気を回し、伊作は更に問うた。
「五年か六年かな。でも六年なら」
見覚えがないというのは奇妙な話だからと言おうとするのを遮って、はしずかに「あなたと同じ」と言った。
「あれ、六年なの」
は静かに頷いて、湯呑みに口をつけた。
「あれ、じゃあ入学したときから一緒ってことだ、ホントごめんね」
伊作は再び謝ったが、は気にしたふうでもなく茶をすすっている。
どうも会話が成り立っていってくれず、伊作はにわかに焦り出した。
話題を戻そうと、伊作は思いきるように首を振った。
「……君の願い事の話は? その後」
がわずかに、ぴくと身じろぎをした。その格好のままでしばらく固まってしまって、微動だにしない。
いったいどれほどに話しにくいことを胸の内に秘めているというのだろう。
素知らぬ顔を装って、伊作は続けた。
「ああ、無理に話すことはないよ、お茶を飲みにきたということでも。
 遠慮しないで、また気楽に顔を出せばいいよ」
返事もせず、頷きも首を振りもせず、はゆっくりと湯呑みを置いた。
「……あなたに言われるまで気づかなかったのよ」
「……なにが?」
「想い人と言ったでしょう」
「ああ……」
の願いのゆくさきに、伊作がそんな名をつけてしまったようだ。伊作は肩をすくめて苦笑した。
「思い当たってみてそれで……やはり恋のようだった? しあわせにできそう、その人を?」
「どうかしら。わからないわ……」
が苦しげに唇を引き結んだので、伊作は腹のうちにの涙を覚悟する。
話題をそうしたほうへ向けたのも、そもそも医務室へ招いたのも、伊作自身のしたことなのだ。
せめてこれ以上につらい思いを強いることを言わずに済むようにと思いながら、伊作は穏やかに続けた。
「それが恋でもそうでなくても、誰かしら人を想うということだよね、しあわせにしたいというのは」
は頷いた。
「人はしあわせなときに笑うでしょう。
 その人の周りでは、笑うのが伝わってゆくようなのよ。
 顔は笑っていないときでさえ、思いやることが繋がってゆくの。
 不思議で、目が離せない……」
苦しそうに語尾がかすれる。絞り出すようには言った。
「……上手くいかないみたいなの」
「努力してるんだ」
「報われないのでは意味なんかないわ」
「そんな悲しいこと言わないでよ」
「……だって、上手くいかなかったのよ」
「まだこれから変わるかもしれないよ」
はまだ苦しそうに伊作を見やった。
助けを求めるようなその目は、やまいを得たり怪我を負ったりした人の表情によく見かける。
同じやまいでものそれは恋するゆえのものなのだろうが、果たして少しでも癒せるだろうかと伊作は思う。
「……その人はどんなことをしあわせと思うたちなの」
問うと、は考え考え、慎重そうに口を開いた。
「……自分のことではなく、ほかのことを先に考えるわ」
「へえ」
「だから何をしたらいいのかがよくわからない」
「……いっそ本人にそれとなーく聞いてみたら?」
「聞いたわ」
「なんて答えたの?」
ぽんぽんと続いていたやりとりがそこで唐突に断たれた。
は口をつぐんで、必死に俯いている。その肩が小刻みに震えた。
いまこの場にいちばん相応しい言葉を探してさがして、きっとなにも見つからないのだ。
道を見失った子どものように頼りなげに、頑なに口を閉ざして、はまだ、何も言わない。
長いながい時間が過ぎたような気がした。
沈黙が時間の錯覚を起こさせるようで、実際にはほんのわずかの時間しか経っていないだろう。
やっとがなにか言いかけるのを、伊作はもどかしい思いで待った。
しかし、やっとが囁いたのはまったく違う話だった。
「……次の試験はいつの予定?」
「試験って……どの試験?」
「卒業認定に関係する試験。合戦場へ赴いてのいくさ実習」
「そうだな」
思い返しながらその一方で、この唐突な話題転換の理由とはなんだろうと伊作は考えた。
これ以上は話したくない、話せないということなのかもしれない。
いずれにせよ突っ込んで聞くことのできる立場に伊作はないだろう。
誤魔化されたことにして、彼は素直に質問に答えた。
「いくさが再開するのを受けて日程が決まるから、休戦中のいまは定かでないんだけど。
 でも、いちばん戦局が激しい頃を選ぶと思うから……
 攻撃が開始されてから、場合によるけれど数日中ってところじゃないか」
「……そう」
は考えを巡らせるように少しばかり目を伏せてから、では、と答えた。
「次の試験の際、陣が撤退せざるを得ないほどに天気が崩れたら、それはそういうさだめであったということよ」
「……それは僕の運のなさゆえってこと、つまり?」
「そうじゃなくて。誰にも何にも関わらず、いくさがあろうがなかろうが、
 その日はそういう空になるさだめであったということよ。恣意的なものは何もないということ。
 晴れでも曇りでも、どんな空でもそうだということよ」
の言う意味を、伊作はすぐには飲み込めなかった。
さだめ?
恣意的なもの?
「……それじゃ、これまでのいくさ実習の折に嵐が起きてばかりだったのには、
 なんらか意図があったってことみたいじゃない」
は答えなかった。
伊作の脳裏に、知って間もない言葉がひらりと翻る。
『あめふらし』。
なにかを思いつきそうな、なにかに思い当たりそうな、そんな気がしたその瞬間、がさっと立ち上がった。
話を終えたつもりで医務室を出て行こうとしているのだ。
そちらに気をとられ、はっきりとした輪郭を描きそうだった伊作のその思考はぱっと霧散してしまった。
「お茶をご馳走様」
「あの、……」
引き留めようとして、伊作は思わずの名を初めて呼び捨てた。
が驚いたように振り返ってやっと、伊作はそのことに気づいてかあっと赤くなる。
「いや、ごめん、ええと」
しどろもどろの伊作を、はしばらくじっと見返していたが、やがてふっと表情を和らげた。
伊作の目の前で、は初めて笑みと呼べるような顔をしたのだった。
頬が薄赤く染まり、はにかんだように目を細めて。
光に透けるような、まぼろしのような存在感が、そのとき少し薄らいだ。
ごく近くで似たような生活を送るうちのひとりという、ありふれてはいるが厚みや重みがちゃんとある人間だと、初めて思えたのである。
「試験がうまくいくといいわ」
嬉しそうに微笑んだまま、はそう言って医務室を出て行った。
「待って、……」
伊作は慌てて立ち上がり、後を追おうと医務室の外へ走り出た。
目の前には委員たちで丹精しているちいさな薬草畑。
その上の天で、それなりに好天気の空が崩れはせず晴れのまま、ほそく雨を降らせ始めた。
伊作は驚いて、右の廊下を見、左の廊下を見、立ち尽くす。はどこにもいなかった。
……?」
ささやかな雨の音にも掻き消えてしまうような小声で、絞り出すようにして名を呼んだ。
返事はない。
「伊作先輩?」
思いがけず呼ばれて振り返ると、委員の当番に来たのだろう、乱太郎が寄ってくるところだった。
「どうしたんですか?」
少々不審そうな口調は、またくせ者でも来たのですか、と問いたげである。
「……なんでもないよ、何も……」
言えることなど何も見つからず、伊作はそれきり口篭もった。
乱太郎は不思議そうに伊作を見上げていたが、やがて薬草畑へと視線をやって、
「あれ、ここだけ雨なんですねえ。
 私たちさっきまで手裏剣の演習場にいたんですけど、そこからここまで、雨なんか降りそうもなかったのに」
おかしいですね、と囁いた。
「通り雨でしょうか」
「通り雨……」
「すぐ止みますよね」
乱太郎は何を気にかけるふうでもなく、伊作の横をすり抜けて医務室の中へ踏み入った。
「誰か来ていたんですか?」
出されたままの予備の湯飲みを見て問うたらしい。
伊作は医務室の中を振り返った。
先程まで確かにここにいて、厚さも重みも、人間らしいものを感じたのに。
「伊作先輩?」
からだのちいさな一年生がひとりいるだけで、医務室はいつもよりも妙にがらんと広く見えた。
何を訝しく思うことがあるだろうか。
少しばかり、不思議な雰囲気の、そんな語り方の印象的なひとが訪ねて来ただけのことだ。
「なんでもないよ、乱太郎……急に雨が降り出したから、様子見に出ただけさ」
「そうですか?」
「うん。悪いね、そこ、いま片付けるよ」
「手伝います」
医務室へ戻ろうとする伊作のうしろを見て、乱太郎は あ、と声を上げた。
「雨が、向こうに行きます」
「ん、どういうこと?」
伊作はまた薬草畑のほうを振り返った。
畑にだけ降っていたほそい雨が、まさに「向こうへ行く」といった風に、奥へ奥へと移動して去っていったのである。
薬草畑のうえはすっかり晴れて、葉や花の上にしずくが残るばかりだ。
雨はすっかり視界から去って、今ごろは学園の外へでも移っていったのだろうか。
その日、医務室での委員会業務を終えると、伊作は長次を訪ねていって『あめふらし』について何か知っているかと問うた。
長次も特に思い当たらぬようではあったが、しばしごそごそと蔵書をあさり、なにやら一冊抜き出すとそのページを繰り出した。
何の書籍やらわからぬが、それによれば『あめふらし』とはいわゆる『狐の嫁入り』を指す語ということだ。
ふつうは、日が照っているのに雨が降るというなんとも不思議な天気のことを言うが、狐火が連なって嫁入り行列の提灯のように見えるという怪異なる現象のこともさす。
医務室の外に唐突に降ったあの雨がまさにそれだと思い返し、なにやら腑に落ちた思いがする。
狐にでも化かされたかと問われ、苦笑いをして誤魔化す。
長次は静かに書籍を閉じた。
「伊作にならありそうなことだ」
「長次までそんなことを言う」
「すまん。だが悪い意味で言ったつもりはない」
お前は心根がやさしいのだと長次は付け足した。
狐の嫁入りとは喩え語であろうが、と更に言い置いて口元でかすかに笑う。
「狐はともすればひとよりも情に厚いというからな」
あれやこれや、助けてまわっているうちに、ひとに化けた狐の一匹くらい助けているやもしれぬ。
「……想われたのではないか?」
長次なりの冗談だろう。
「まさか」
伊作はとっさに否定をしたが、と交わした言葉の数々が思い出されてならなかった。
しあわせにしたい人がいる。
はその人に、何をしあわせと思うのかを問うたと言っていた。
(どうして世界平和なの?)
自分のことよりもまず他のことばかり願うというその人がなんと答えたのか、は教えてくれなかった。
(いくさなんかなくなって、そこらじゅう平和だったら……)
いくさといういくさを退けたあの恐るべき嵐。
それらが本来のさだめをねじ曲げ、なにものかの意図で引き起こされていたというような意味の言葉。
「まさか」
伊作は呆然と、同じ言葉を繰り返した。
長次はただ静かに伊作を見やっていたが、それ以上深く問うことはなかった。
その日以降、数日にわたってわずかの雲もかからぬような晴天がつづいた。
これを好機と悟ったのだろう、休戦となっていたいくさが次から次と衝突を再開した。
それにともない、延期となっていた試験も再開すると知らせを受けたとき、伊作は試験の心配よりものことばかりを考えていた。
医務室で言葉を交わしたあのとき以来、は一度たりとも伊作の前に姿を現してはいない。

ながく休戦を強いられたあいだに、どの城のどの陣も戦力の充実をはかることに成功したようだった。
戦局は日に日に熾烈さをきわめ、押しつ押されつを繰り返しながら両軍ともじりじり戦力を削ってゆくばかりの日々が続く。
六年生の忍たまたちはそれぞれに割り振られたいくさ場へ赴き、与えられた任務を着実にこなしてはいたものの、これまでにないほど激しさを増したいくさの現状を目の当たりにすると誰もひそやかに胸を痛めずにはおられなかった。
求められている分のはたらきをみせることは怠らなかったが、日を追うごとに増えゆく怪我人を伊作はどうしても無視することができず、抱え持ってきた救急用具とその場で見繕うことのできるありあわせの用具とを利用してかなう限りの治療にも励んだ。
見かけた怪我人のすべてに手を伸べることはできないと何度自分に言い聞かせても、到底力の及ばないことを悟るたびに悔しさに身を裂かれるような思いがする。
それでもできる限りのことをしようと治療に夢中になることで、伊作は無力感を打ち消そうと必死になった。
時折ふと気のゆるんだときには、このいくさ場のどこかに、また別の戦いの渦中にいるはずの友人たちの無事を祈る。
誰も彼も、いのちさえ無事であったなら本当はそれでいい。
戦いの勝ちにも負けにも、それほど強い興味は持てない。
忍のわざを学ぶ学園に身を置いておきながら、このようなことを表立って人に言えるわけがなかった。
それでも、学ぶほど、知るほどに、伊作の内を占める思いは強く大きく育つばかりである。
陣の隔たりなく、あちらの兵でもこちらの兵でも怪我をしていれば治療を施してまわり、汗だくになりながら伊作は空を仰いだ。
すぐそばには争いあう人々の喧騒。
人間の小競り合いなどまるで関係ないといった風で、晴れ上がった空のなんと清々しく皮肉めいた青さだろうか。
「今日も、暑いな……」
そういうさだめの日であったということだろう。

任務として課せられた調査を続けるかたわら、伊作はまた両軍の兵が入り乱れて倒れたらしい現場へ差しかかった。
移動中の小隊同士が森の中でかち合ってしまったようだ。
この暑さの中を怪我をそのままに放っておくのは危険が過ぎると判断し、伊作はとりあえず任務の目的を横へおいて、治療をすべく怪我人の群れへと駆け寄った。
いくさの現場においては、助けるいのちを選ばねばならないこともある。
その苦しさをのどにつかえさせながらも、伊作は歯を食いしばって治療にあたった。
痛みに喘ぎ呻く兵たちを安心させるように、大丈夫だと何度も繰り返してやりながら、伊作はそのとき周囲への警戒を一瞬、忘れ去った。
は、と気づいたそのとき、背後に迫った兵が自分に向かって刃を振り上げたのを伊作はやっと視界の端に認めた。
六年をかけて学んできた判断力、瞬発力が悟らせる──逃げられない。
死ぬのか。
死ぬんだ。
志もなかばのままで。
否、志すらどちらを向くべきなのか、結局決めかねたままだった。
瞬きを一度するほどのわずかの間もあったかどうか、いまわの際とも言うべく瞬間に、伊作はぼんやり ああ、空が青いと思った。
──その刹那。
どん、と地の底が揺らぐようなとてつもない音があたり一面に響いた。
視界が一瞬で白に染まる。どこからきたものなのか、目を射るような閃光である。
目を眇めながらも、伊作はたちまちのうちにはっきりと覚醒した。
死ぬなどというわずか数瞬前の思考が、遠い昔のできごとのように現実味なく翻る。
とんでもない、この眩しさは、耳から耳へ貫いたような轟音は、伊作が生きていることの証明に他ならない。
とっさに伊作はその場を飛びのき離れた。離れてみてそして、何が起きたのかをやっと悟った。
背後に迫った兵が振り上げた刃に、鳴神が雷を落としたのである。
閃光は稲光、轟音は雷鳴であったのだ。
ほんのわずか、手を伸ばせば触れるほどすぐそばに雷が落ちたというのに、伊作はまったく無傷であった。
衝撃に貫かれた兵は力なくその場にくずおれたきり、ぴくりとも動かない。
はっとして、伊作は慌ててその兵に駆け寄った。
かすかだが息があり、脈も認められ、命に別状はなさそうである。
ほ、と息をついたとき、すぐ周囲を取り巻いていたはずの争いの喧騒の様子が様変わりしたのが聞こえた。
慌てふためき、逃げ惑うような気配がする。
伊作はそっとその場を離れ、いくさの様子をうかがいに森のはずれへと急いだ。
中途、まぶたに頬に、ぽつぽつと雨粒が降り当たるのを感じて空を見上げる。
まるで真昼の、百鬼の道ゆきか。
あまりにも不自然に、唐突に、黒雲がたちこめ空の青を食い尽くしてゆく。
ほうぼうから撤収の声があがる。
それと前後するかのように雨足は急速に強まって、打たれれば痛みを感じるほどに勢い激しく降り始めた。
風が吹き荒れ、水を吸って重さを増した衣服が冷たく肌にまとわりつく。
「……また休戦なのか」
雨に濡れながら、伊作は呆然と呟いた。
ふと、なにか凛とした気配を背後に感じて伊作は振り返った。
視線の先、森の木々のあいだに、が立っていた。

「……放っておけなかったの」
「……なにを」
「あなたが危なかったから」
「僕が」
「鳴神があの兵を打たなければ、あなたはいのちがなかったかもしれないわ」
目の前でついさっき起きたことを、伊作はまぶたの裏にありありと思い返した。
「あれは、君が」
はじっと伊作を見つめてくるばかりで、何も返事をしなかった。
「ほんとうは、いけないことなの。空はなにものにも平等でなければならないわ。
 特定の誰かひとり、何かひとつに肩入れをして、空のさだめを変えてはならないの。
 天には天の、地には地の、人には人のさだめの巡りがあって、
 それらは互いに偶然関わりあうことはあるけれど、故意に影響しあうことはゆるされない。
 ……互いのゆくさきを変えてしまうことがあるから」
はそこで言葉を切った。
その禁忌を、は破ってしまったのだ。
そうしなければ、の目の前で伊作はいのちに関わるほどの怪我を負う、それがさだめであったから。
「……どうして」
はかすかに、よく見つめていなければわからないほどわずか、目を細めた。
そうして切なげに、まっすぐに伊作を見つめる。
初めて出会ったその日すでに、この目に射竦められれば数瞬は言葉を失うだろうとさえ伊作は思った。
のうつくしいことにはあのときもいまも変わりがないというのに、伊作は言葉を失うどころか、言い連ねることをやめられそうになかった。
「どうして。だって、君は学園の生徒で。
 それは、僕にはまるで覚えのない、不思議な人だと思ったけれど、でも」
その言葉はいま、には責めに聞こえているだろう。
できることならそれ以上彼はなにも言いたくなかった。
は反論もせず、ただつらそうに押し黙ったままで聞いている。
「なんで。どうして……」
言葉尻にいきなり空虚に、吐息が混じる。伊作はぐっと、覚悟を決めるように息を飲み込んだ。
胸が苦しい。
「……どうして僕なんかのために」
「……それは、言ってはいけないの」
暮らす世界の違うもの同士が、これ以上関わりあってはならない。
「……それも禁忌?」
「そう、それも」
「……せっかく……」
言いかけて伊作は絶句した。
せっかくともだちになれたのにと、そう言おうとした。
けれど口を突いてその言葉が出ようかという瞬間、伊作は躊躇ってしまった。
そんなことを言いたいわけではない。
もっと相応しい言葉が、ぴたりと当てはまる言葉があるはずなのに。
考えて考えて、伊作はその言葉を、見つけだせなかった。
苦し紛れに伊作は、せっかく知り合えたのに、と呟いた。
話ができたのに。
少しぎこちなかったかもしれないけれど、胸に秘めた言葉を打ち明けられるほど、あのとき互いに近くにいたのに。
聞いては、ちらとまぶたを上げた。
切ない視線はそのままに、少しだけ、甘やかな何かがその表情を横切った。
「そうね」
ほとんど聞こえぬような声で囁いた。
「そうね。やっと……」
二人は二人とも、そこで言葉を失ってしまった。
あいだに横たわる距離がこの上もないというほど遠く思われる。
あのときのようにのそばへ行きたいと伊作は思ったが、足が動かなかった。ただただ、苦い思いを噛み潰しながら、そこへ立ち尽くす。
やがて落ち着き払った声で、は言った。
「……わたしはこれから、罰を受けることになるわ。
 天をつかさどるものがしてはならないことを、ずっとしてきてしまったから」
「どうして……君はとても尊いことをしたじゃないか」
「……私も人間だったなら、そう誇れるのでしょうけど。
 天では愚かなことなのよ。己の勝手で采配を振るということは」
「……そんな」
「あなたがそう言ってくれることが慰めだわ。
 わたしたちは天のさだめに従って、日を照らし地を干上がらせることも、
 雨を降らせ水を溢れ返らせることもするけれど……
 人々が平和の中で笑って暮らしているのを見守っているほうが私はずっと好きよ。
 波乱のない退屈な空ばかり描くことになるけれど……」
言葉の余韻まで雨の中にかき消えてしまうと、はぱっと、思い切ったように目を上げた。
そして伊作に向かって精一杯微笑んだ……つもりなのだろう。
伊作の目にはそれが、泣きそうなのを堪えて無理をしているようにしか映らなかった。
「私は、自分のしたことを悔いてはいないわ。あなたが無事でよかった。
 ……今後はこうして助けることはできなくなるから、くれぐれも気をつけてね」

「お別れよ」
……!」
駆け寄ろうとして伊作が身を乗り出したそのとき、の姿が煙のように掻き消えた。
驚いて思わず立ち止まってしまった伊作の目の前にはまたふいに現れ、何が起きているのかを伊作が理解する前に、その唇に口付けた。
あまりの出来事に、伊作の脳裏は真っ白になった。
呼吸が、心臓の拍動が、時間が、世界中のなにもかもがそのとき止まったようだった。
唇が離れると、息の音も聞こえるほどに間近で見たの瞳から、涙があふれる様子がいやにゆっくりと目に留まる。
うつくしいひとはたとえ泣いていてもうつくしいのだと、伊作はぼんやり理解した。
こぼれつづける涙を拭いもせず、はまた伊作に微笑みかけた。
『狐の嫁入り』──『あめふらし』──晴れているのに、雨の降る空。
笑っているのに、泣いているひと。
やっと笑顔が見られたと思ったのに、その笑みは悲しくて切なくて、伊作の胸のうちはこれでもかというほどにがく苦しく締めつけられた。
「──わたしのことは、どうか忘れて……」
ほとんど息のようなかすれた声でそう言ったきり、の姿は空気にとけるように消えてしまった。
引き留めたい衝動が、を抱きしめようとして伊作の腕を突き動かしたが、わずか一拍、間に合わなかった。

呼んでも誰も応えない。
雨の降る音だけがしとしととあたりを取り巻いている。
……!」
いくさの陣はどこも退いたようだった。
雨はしばらく伊作の頭上に降ったあと、ゆっくりゆっくり、どこへともなく去っていった。
ずぶ濡れの姿で伊作は、嘘のように雨雲が晴れてゆく空を見上げた。
そこにもう彼女はいないのだろう。
いま遠く、どこかで低く鳴り響いた、あれは雷鳴だろうか。

ひと月後、伊作は忍術学園の医務室にいた。
常のように保健委員長としてつとめているわけではなかった。
いくさ実習のあいだに運悪く雷に打たれて倒れたところを、見回りに来た教員に拾われたのである。
やっと目覚めた伊作の脳裏からは、その実習のあいだとそれ以前との記憶がいくらか飛んでしまっていた。
任務の内容にも、自分の手跡で書き付けてある調査結果の帳面にも、まったく覚えがない。
手当てを済ませ、新野医師の診察も受け、床に起き上がれるようにもなり、記憶が曖昧であるほかは異常がなさそうだと判じられてやっと友人たちの見舞いが許された。
揃って医務室を訪れた彼らは開口一番、伊作の運の悪さを忌むように言い募り、からかい、笑い飛ばした。
我々が不運を退散してやるから、お前はそれで溜飲を下げたつもりになれ、ということらしい。
遠まわしな親切であって決して悪意ではない、それはいつものことで、伊作も承知のうえだ。
その会話のあいだで伊作は、悪天候のためにどのいくさもまた休戦となり、試験も延期となったということを聞かされた。
「まったくかなわんな、こうも嵐が続いたのでは。
 日常必死で点を稼いでいてもそれが食われるような気がしてならん」
優秀な成績を余裕をもって保っているように見える仙蔵が案外切実そうにそう言ったので、伊作はなんだか安心して気が抜けてしまった。
「よりにもよって仙蔵がそう言うなんてね」
「私だって心配に思うことくらいあるさ。人生はままならぬものだ」
「なんとかなるって、学園長先生だっていつも言うじゃん、『忍はガッツだ』って」
小平太がけらけらとお気楽そうに笑い飛ばしたが、その横で長次がもそもそと呟いたのをちゃんと聞き留め、それを大雑把に『通訳』する。
「なに、『あめふらし』?」
「……『あめふらし』はどうなった、伊作」
少しばかり声たかく、長次が自ら問い直した。
その語に聞き覚えのあった文次郎と留三郎も、興味を引かれた様子で伊作をかえりみるが。
「なに? それ」
伊作はきょとんと、くびを傾げた。
「雨を降らせるしか能がないというあやかしだと言っていただろう」
「いくさが全部流れるのも、『あめふらし』とやらの仕業ではないかと」
覚えていないのかと文次郎と留三郎が問うたが、伊作にはさっぱり心当たりがない。
「そんな話をしたんだっけ」
「お前がしたんだ、俺と文次郎がそれを聞いた」
「ごめん、覚えていないや……長次にも僕話したのかな、それ」
長次は頷いた。
「『狐の嫁入り』のことだと、書物にあった」
「晴れ空に降る通り雨のことか?」
「そうだ」
いま初めて聞いたらしい、仙蔵と小平太も不思議そうだ。
「どうやら『あめふらし』に気に入られたようだったろう」
「僕が? そんなこと言ったの」
「言った」
「……試験が雨でダメになっているのは僕の不運のせいだと自嘲してたってこと?」
長次は何か物言いたげな目で伊作を見やった。
ほんの一瞬訪れたいびつな沈黙が、伊作に知らせたのは否定の意だったろうか。
場にいた誰もがその間を不思議に思ったとき、それを打ち消すように長次は小さく息をつき、
「……伊作がそう言うなら、そういうことなのだろう」
それ以上なにを言おうともしなかった。
文次郎と留三郎が逆に食いつく。
「だから、お前のせいではないと言ったんだ、記憶をなくしてまで気にするな」
「こんな偶然がこの先ずっと続くわけがないだろう。
 たまたまそういう時期だったんだ、そのうちちゃんと試験は受けられるさ。
 全員。無事に。最後まで」
「うん……でも」
伊作は顔を上げると、友人たちの肩越しに覗く空を見やった。
すぐにも雨の降り出しそうな、不安定な曇り空である。
いま、あの曇り空の下のどこでも──人のいのちの奪われるような争い事は起きていない。
「……世界は平和なんだね」
そのあやかしのおかげで。
一同がぱちくりと目をしばたたかせた。
「流れ星にかけた願い事、おかげでこんなに簡単に叶ってしまった。
 きっとやさしいあやかしだな、『あめふらし』って」
なんと答えたものか、皆が一様に目を見合わせあったが。
「……雨を降らせるだけで悪さはしないという話だからな」
「この夏はずいぶん暑い。
 例年なら旱魃が案じられる頃だったろうが、
 村々も田畑も、この雨続きで助かっているだろう」
「試験がないのは困るが、いくさがないのは確かに平和ということだろうしな」
友人たちが口々に言うのを聞いて、伊作は笑って頷いた。
「うん。いくさに荷担するばかりが忍のありようじゃないさ」
「いさっくんは忍者にならなくても、お医者になるって道があるしね」
「いやあ、それはわからないけど……」
困ったように頬を掻きながら伊作が目をそらすと、その先で長次と目が合った。
長次はなにもかも知っているとでもいうような、鷹揚な笑みを口元に浮かべてみせる。
「不可思議だが、害にならぬようなつかのまの雨だ」
「なにが?」
『狐の嫁入り』、と長次は答えた。
「きっと、人を好むあやかしだろう。
 ……狐の情愛こまやかなことは、ひとにもまさるというからな」
「え?」
「さしずめ、『あめふらし』に愛されたということだ、伊作」
伊作はぽかんと口を開けた。
「長次はロマンチストだなあ!」
小平太が楽しそうに、長次を軽くひじで突いた。皆もなにやら、照れたように笑っている。
「伊作ならありそうなことだ。雨に好かれるとは」
「そうだよなあ、雨男の気があると自分で言っていたしな。そういえば昔から、
 遊びに出るのでもデートに行くのでも大体雨に降られていなかったか」
「ついでに相手の女にも『フラれて』帰って来……」
「ちょっと、ほんと昔の話でしょうそれ、忘れてほしいんだけどなあ!」
伊作は必死で話を遮った。
楽しそうに伊作をからかいながら、悪友たちは邪魔をしたなと医務室を後にした。
急に訪れた静寂に、伊作は居心地の悪い思いで背を丸める。
なんだか急に、晴れやかだった心の内に雲が立ち込めたようで、落ち着かない。
友人たちが訪れたのと入れ替わりに新野医師は席を外しており、いま医務室には伊作ひとりきりだ。
しばらく伊作はそうして、静寂の中にじっと身をひたして待っていた。
誰を、何を待っているのかは、伊作自身にもわからない。
やがて誰かが廊下をやってくる気配がし、ほとほとと引き戸を叩いた。
どうぞ、と伊作は声をかける。
戸が開いて、顔を覗かせたのは乱太郎だった。
「失礼します。伊作先輩、起きていらしたんですね。当番に来ました」
「うん、ありがとう。もう普通に起き上がっていられるよ。
 明日にも退院かな、お許しが出ればね」
「無理はダメですよ。あ、新野先生は……」
「用事を済ませにちょっと外していらっしゃるよ」
「わかりました」
乱太郎は引き戸を閉めに一度廊下のほうを向き、あ、とちいさく声を上げる。
「今日は雨がこっちに来ましたね」
「ん、どういうこと?」
「あの、たぶん通り雨です。
 このあいだは最初にこの薬草畑のあたりに降って、ずーっと向こうへ移動していきましたよね」
乱太郎は薬草畑の奥のほうを指差した。
意味が飲み込めず、伊作はかすかにくびを傾げた。
「……いつのことだっけ? それ」
「あ、そうですよね、先輩が忘れてらっしゃる期間のことでした」
すみません、と乱太郎は肩を竦める。
乱太郎がすまなさそうにすることは何もないのにと、伊作は少々申し訳ない思いだ。
場を誤魔化すように乱太郎は静かに引き戸を閉めた。
「……なにか、大事なことを、忘れてしまった気がするんだけど」
誰に言うでもなく、伊作は呟いた。
乱太郎は黙ってその場に立ち尽くす。
きっと何とも答えようがなくて困っているのだろう。
後輩を困らせていると思うと伊作も心苦しいが、言葉が勝手にこぼれるようでどうしようもなかった。
「忘れてしまったということだけはわかるのに、それがどんな記憶だったのかはさっぱりなんだ」
もうなにがなんだかわからないやと、伊作はため息をついた。
苦しくのどがつかえて息も震え、目が潤む。
せめて後輩には涙を見せたくなくて、伊作は唇をかたく引き結び、目を閉じた。
「……忘れたくなかったのに」
せんぱい、とか細い声で乱太郎が呼んだ。
下手に慰めることはできないと思ったようで、何か言いたそうにしながらも、結局口を閉じてしまう。
せめても自分にできることをと、乱太郎は健気に「お茶をいれますね」と言って、衝立の向こうにかがみこんだ。
まだ一年生の後輩に気を遣わせたことがまた申し訳なく、思い切らなくてはと伊作は悪あがきのようにまたため息をついた。
しあわせが逃げますよとは、乱太郎も今日は言わない。
「そういえば、あのとき誰か、お客さんが来ていましたね」
衝立の向こうから、不自然なほど明るい声が伊作にそう言った。
「私が来る前に医務室を出られたみたいなので、私は会ってませんけど。
 そのあと雨が薬草畑の向こうに移動するのを見たので、
 なんだかそのお客さんが雨と一緒に外に帰っていったみたいに見えて、面白かったです」
「へえ……」
そうか、と伊作は調子を合わせるように精一杯明るい声で答えた。
今日は向こうからやってきたという通り雨は、いま医務室の上へ及んで屋根を叩いている。
「本当にあからさまなくらい『通り雨』って感じの降り方だねえ」
「珍しいですよねえ」
はい、お茶が入りましたと乱太郎が言うのを合図に、伊作は立ち上がって床を出た。
「あれ、そっちに持っていきますよ、お茶」
「いいんだ、寝てばかりもいられないもの」
「ほんとに無理はしないでくださいね」
「大丈夫、大丈夫」
いさく、と名前の書かれた湯飲みを受け取る。
ふと見ると、乱太郎は予備の湯飲みにひとつ余分に茶を用意していて、それをかたわらに置いた。
「……これ、なんだい?」
「あ、お客さん用です」
「お客さん?」
「はい」
乱太郎ははにかんだように笑った。
「今日は雨が向こうからこっちに来たので」
問い返すように伊作はくびを傾げた。
「屋根を叩いて、お邪魔しますって言ってるみたいだから……」
乱太郎の言葉をゆっくりと噛み締めるように聞いて、伊作は天井板を見上げた。
ときどきこのあたりから、どこかのくせ者ならば顔を見せることもあるのだが──
「そうかあ」
お客さんか。
なにを思い出したわけでも、思い当たったわけでもない。
しかし、伊作の身体のどこかに、凝り固まっていた違和感がほどけてすとんと落ちたような気がした。
雨音はいまも、屋根を叩きつづけている。
そこを通り過ぎるまでのほんのわずかのあいだだけ、屋根を叩いて語りかける、通り雨。
たえまなく響くその音はやさしくも、切なくも聞こえた。
「……怪我なんかしていなくても、用事もなくてもさ……お茶でも飲みに来ればいいよね」
「はい」
名前の入っていない湯飲みに視線を戻して、伊作はふっと微笑んだ。
どうぞここへ来て話して、やさしいあやかし。
僕はきっと、この雨を待っていたのだろうから。