遣らずの雨


窓の外にしとしとと音が聞こえてきて、ああ、雨かと気がついた。

いつのまにやら出入り口扉から蔵の中にさすあかりもずいぶん薄れていたし、

ひとりで残ってずいぶん長いこと作業をしていたけれど、そろそろ切り上げどきなのかしらと思う。

主に男子生徒達が使っている学舎とその敷地、

そのなかでも厳重な管理と警備を常にされているという焔硝蔵で、

は事務作業とも言える仕事に取りかかっていた。

はくの一五年生で火薬の取り扱いのすべてを任されている委員であるが、

実のところくの一教室の火薬委員にはほとんど委員会作業と言える仕事が回ってこない。

大体の管理は男子生徒のほうの火薬委員がやっているが、その大きな理由のひとつは恐らく、

適任であろう管理者が男子生徒達を主に教えている教員であることではないかとは考えている。

くの一教室五年生でこの一か月に使用した火薬の出庫伝票の月末締め精算をしていたのだが、

微妙に数字が合わずに計算を何度かやり直していたところ、このような遅い時間にまでなってしまった。

おまけに雨である。

くの一たちが生活する敷地までは少々距離もあり、屋外を通る必要がある。

あーあ、絶対濡れる、は思って憂鬱になる。

朝からなんとなく湿った空気だったものの、今日は髪も割と気に入るかたちに決まったというのに、

びしょぬれになってしまうのでは意味もなにもあったものではない。

一度集中力が途切れると、また正しい方向へ意識を向けるのがどうしてか難しくなる。

雨、雨、雨……ああ、帰らなくちゃ。

ここを片付けて──計算は途中だけど経過を覚えておいてあとでやり直さなくっちゃ。

火気は御法度のこの場所で明かりを採るには扉を開けておくくらいしかすべがないのだが、

この雨の中であまり長いことそうしていると肝心の火薬が湿気る。

切り上げるべき時間であるという巡り合わせなのだろう。

そういえば肩は凝ったし、目も疲れているし、おなかもすいた。

はため息をつくと帳簿に今一度さっと目を通し、散らかした書類を拾い集め、あたりを片付けにかかった。

書類や帳簿は濡らすわけにいかないから、これをかばって自分が濡れなければならないのは確実だろう。

このあたりでヘマをやらかすと、巡り巡ってあの暑苦しい会計委員長からの鉄槌が下るに決まっている。

このところ憂鬱なことばかり……はまたため息をついた。

思い出すのも重苦しいようなことが二週ほど前にあったばかりで、そのときは散々泣いて授業も一日サボってしまった。

それでなくても、ある意味では授業の単位絡みのトラブルで泣く羽目に陥ったのだから、

まる一日の授業分、足すことの実習ひとつ分、は点を失ったことになる。

山本シナ師範は点には厳しく、チラともおまけをしてなどくれなかったが、

事情はわかったふうにの言い分を辛抱強く聞こうとしてくれた。

乙女心は複雑よね、などと悪戯っぽく言うとウインクをひとつ残し、山本師範は最後には微笑んで許してくれたのである。

あらかた片づけを終えて荷物をまとめたとき、ただでさえ薄暗かった蔵の中が更に暗くなった。

入口扉からさすあかりが人によって遮られたのだ。

は目を上げ、息をのんだ。

外からの光を逆光気味に背に受け、蔵の中に座り込んでいるを見下ろしているのは、

五年生忍たまの火薬委員、久々知兵助であった。

「……あ」

彼は意表をつかれたように、元々丸い大きな目を見開いた。

どことなく気まずい空気がお互いのあいだに流れた。

会話の糸口を掴もうとは必死に思考を回転させたが、考えれば考えるほど混乱の深みにはまるようであった。

「……扉が開いているようだったから、様子見がてら雨宿りをしに来たんだけど」

邪魔だったかなと控えめに問う彼に、はふるふると首を横に振った。

噂をすれば影とはよくいったもの。

“あのこと”を思い出していたそのときに、わざわざ顔を出すのが兵助だとは出来過ぎた話だとは思った。

少々雨に当たったらしい、兵助は湿った髪のすそを指で荒く梳き、汗のように肌に貼り付いた水滴を拭った。

「暗いな。目を悪くするよ」

「……もう終わって、帰るところだったから」

「止むまでもう少しいたら?」

何気ない提案の意味するところはごもっともとは思うが、なるべくならすぐさまこの場を去ってしまいたかった。

この二週間というもの、すれ違うことすらないようにと気を張って避け続けていた相手に

今こうして正面から向かい合うことになるとは、皮肉である。

とはいえ、委員の中でも割と責任ある立場を負っている兵助と

焔硝蔵で鉢合わせる可能性は考えるまでもなく高い。

もしかしたら、自分はこの状況を望んでいたのかもしれない。

認めたくはなかったが、偽り続けてきた本心が望んでいると自身で本当は気がついているはずだった。

動揺しているに気付いているのかいないのか、兵助はしばらく黙ってを見下ろしていたが、

おもむろに蔵の中へ入ってくるとの斜め向かいによいしょと腰をおろした。

の混乱は度を増すばかりである。

兵助はが手にしている書類の束をチラと見やった。

「月末精算?」

「……そう。合わなくて」

「こんな時間までかかったのか」

見せて、と彼は手を出した。

会話では場が保たないと判断し、は少し渋ったあとで結局書類と帳簿を兵助に手渡した。

「……ふーん……石火矢でも使った?」

は頷いた。

伏し目がちに帳簿と書類を眺める兵助を、はその至近距離からじっと見つめた。

相変わらず、羨ましいくらい長い睫毛が目に留まりやすいことだ。

ちょっと前までなら。

考えないようにしていたことを、本人が目の前にやってきたことで気が緩んでしまったのか、は考えた。

ちょっと前までなら、長い睫毛が羨ましい、楊枝が何本乗るかしらなどと軽口を叩けば、

彼はいちいち拗ねたり怒ったりしてくれていたのに。

「……ああ、これさ……ここの計算が」

「え?」

「同じ分量の調合を複数作ることになってるけど、全部一度に計算して必要数で割って出さなかった?

 本当は個別に割り算したのをあとで合計しなくちゃいけないんだ。

 計算が合ってても、やり方によって若干数字が変わるから、それが誤差になる」

正しい計算式でやり直すと、と兵助は呟いて、傍らにあったそろばんを引き寄せた。

その指が器用に珠をはじいて、正しい精算を導き出していく様には見入った。

(指、結構しっかりしてて、長いんだ……知らなかった)

その手に最初に触れられたとき、なんだか大人の男の人の手のようだと思った、その記憶が甦った。

じっと見つめるうち、知らず知らずには距離を詰めていたようだった。

ほら、これで合ったと顔を上げた兵助の額と、のこめかみとが軽くぶつかり触れ合った。

「あ」

顔を上げて初めてその距離に気がついたらしく、兵助は少し驚いて小さく声をあげた。

は慌てて身を起こし、知らないふりでそっぽを向いたが、頬にかぁっと熱が集まることばかりはとどめようがない。

が赤くなったのを見て、兵助は気まずそうに手元の帳簿に視線を落とした。

「……あ、ありがとう」

もういいからとは帳簿を返すよう言葉に意味を含めて告げた。

兵助は微妙な間をおいて、ああ、別に、大したことじゃないしと呟き、

に押し付けるように乱暴に帳簿を突き返してきた。

辛うじてはそれを受け取ったが、それまで兵助はにそんな乱暴な仕草を見せたことがなく、

は驚いて彼に視線を戻した。

兵助は不機嫌そうにから目をそらしている。

本気で怒ったり、不機嫌になったりしてみせることも兵助は一度もしたことがなかった。

ただただやさしい人と認識していた相手が初めて見せた表情を、は恐いと思った。

に視線を戻さないままで、兵助が静かに口を開く。

「雨、止まないな」

答えることもままならず、唇を噛んでは俯いた。

兵助はちらりと視線だけをかえりみたが、またあいたままの入口扉のほうへ視線を戻して、続けた。

「火薬が湿気る」

蔵いっぱいの火薬がすべてダメになってしまったら計り知れない損害だと呟くが、

実際にはその程度で使い物にならなくなるような甘い管理をしているわけではない。

兵助は兵助なりに、この気まずい沈黙をどうにかして掻き乱すすべを探しているのかもしれないとは思った。

気まずいのは、のせいなのである。

兵助がなにを思って、がいるこの場所に一緒に座り込んでいるのかがにはわからなかった。

その真意を知りたいと思う気持ちは強いくせに、本当に知ってしまうのは恐い気もするとも思う。

自分の身勝手な感情がただ恥ずかしく、早く雨が止んでここを出られたらとは念じた。

「……三郎と雷蔵が」

兵助が唐突に切り出した。

「最近妙によそよそしいし素っ気ないって言っていたけど。なにかあったの、さん」

冷たい声が一息に告げた言葉に、は血が凍ったかと思った。

ショックのあまり声も出ないなんてことが、自分の身に起こるとは思わなかった。

なにか弁明の言葉をひねり出そうとして、中途半端にあいた唇が震える。

なにを言っても兵助には聞き入れてもらえないような気がした。

のおののきを兵助は悟ったはずだった。

けれど彼は、言うのをやめようとしなかった。

に向き直り、知ってなおを責め立てようとする。

兵助がを“さん”などと他人行儀に呼ぶことなどどれくらいぶりであったか。

「二週間くらい経つのか。結局、実習は単位を落としたんだってね。

 五年もこの学園で学んできて、くの一を目指そうって人が、考えられないよな。なぁ、さん」

たかだか実習くらいで、と彼はいかにも嫌味たっぷりな言い方で付け足した。

「……それもさ、その実習の相手、わがまま言って別の奴に変えてもらったんじゃなかったっけ。

 それなのに結局、やっぱりダメです、私には出来ません、って。甘いと思うな、さん」

言うだけ言って、兵助はまた不機嫌そうに顔をしかめ、のほうを振り返った。

は声もなく、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。

兵助は呆れたと言いたげにため息をついた。

「……言われて泣くくらいならさ……知らんぷりして避けて通るなんて真似、しなければいいんだよ」

俺の言っていること、間違ってる、と聞かれ、はそれでも素直に首を横に振った。

兵助の言うことは正しいのだ。

自分が間違っていることはにだってわかっていた、けれどそれでもそうせずにいられなかった。

感情はときどき、思考の言うことを聞かなくなる。

泣き続けるを、兵助はしばらくじっと見つめていた。

「……そろそろ、話してほしいんだけど。俺は避けられる覚えなんて、なにひとつないから」

は涙を拭って、兵助の言葉に頷いた。

ただ気まずくて、合わせる顔がなくて、兵助には非はないけれど、避け続けて嫌な思いをさせたろう。

その理由を、は二週間のあいだ、ほとんど誰にも話すことをしていなかった。

五年ともなればそろそろ嫌でも慣れた感のある実習であった。

授業時間外、真夜中に密やかに行われるくの一たちのその実習に、忍たまの何人かが付き合わされる。

大抵において忍たまたちが悪い思いなどするわけのないその実習は、

睡眠時間を奪われるとはいえろくな抵抗もされることなく、彼らにすんなりと受け入れられやすい傾向にあった。

一対一で向き合う忍たまを、くの一たちはいつもくじ引きという運を天にまかせたやり方で決めていた。

ももう何度も重ねてきた実習で、いつもどおりに相手の忍たまを翻弄して終わらせることができるだろうと踏んでいた。

けれど、引いたくじが示した相手の名を見るなり、は狼狽して声を失った。

その身になにが起きてもほとんど動じることのないが、泣いて喚いて嫌だと訴え続けたその相手が、

五年生忍たまの久々知兵助だったのである。

くの一の級友達は、恋人が相手ならむしろ喜ぶところなのじゃないのとを慰めたが、

は頑なに嫌がって実習を拒否し、動揺の過ぎるあまりか食欲も失せ眠れぬ夜が続くという始末。

山本師範も見かねてを呼び出し面談まで行ったが、

今回限りという条件をきつく申しつけた上で、実習の相手を選び直すことをに許したのだ。

一方、すでに実習の日時と相手の通知を受けていた兵助は、土壇場になっての実習の相手が変更になり、

兵助の手を煩わすことはなくなったという知らせを受けて少なからず動揺した。

どういうルートから情報を得るものか、

耳ざとい三郎が“が相手を変えてほしいと懇願したらしい”という、聞きたくもない話を兵助の耳に入れた。

それだけで言いようのない不安に襲われ、ショックを静めることもできず。

を気に入っているらしいと学園中で囁かれている忍たまがの実習の次の相手に当たったらしいと聞いて、

追い打ちがかかるかのように更なるショックに見舞われた。

実習当夜は眠りになどつけるはずもない。

明らかな睡眠不足、整わない体調を誤魔化しつつ授業に参加した翌日、

の次の相手に選ばれた忍たま当人がのいない場所で彼女を大声で悪し様に罵っているのが耳に入り、

ついカッとなって彼らしくない大喧嘩を繰り広げ、内申点に減点を食らう羽目になった。

その喧嘩の経緯で、がぎりぎりになって実習を拒否し、くの一の屋敷へ逃げ帰ってしまったということはわかり、

その点でだけは安心したものの、の数日間の言動は兵助にはきわめて不可解に思われた。

本人に事情を聞いてみようと思って会える機会を待っていたが、

いつもすれ違うタイミング、食堂にやってくる時間帯には兵助の前に現れることはなかった。

不安が胸中に立ちこめるのに耐えきれず、兵助は友人達にそれとなくの話を振った。

彼らは兵助がまったくに会えずにいたあいだにも何度か姿を見かけることはあったというが、

態度がよそよそしく、挨拶や二言・三言の会話もそこそこに逃げるように去ってしまうのが常だったという。

睦まじく微笑ましい恋人同士だったはずの兵助ととのあいだに一体なにが起きたのか、

発端はあの実習だろうと見当はついたものの、兵助本人にも心当たりはまったくなく、

事態は迷宮入りしていたのである。

だからこの雨の中、とこうして会うことができたのは彼にとっての幸運ではあった。

けれどこの二週のあいだに味わった理不尽な思いはつのりつのって怒りへととってかわってしまった。

帳簿の計算を手伝うなど、話の取っ掛かりを探すまでの口実に過ぎない。

タイミングが訪れるまで、時間が潰れるのなら話はなんだってよかった。

が口を開き、兵助にとって納得のいく説明が出てくるまでは、を帰すつもりは彼にはなかった。

涙にくれる恋人を、本当はやさしく慰めてやりたいと思うのが彼の性格である。

怒ってみせるのも乱暴な仕草になるのも、兵助本来の態度ではなかった。

が怯えていることだって、本当はわかっている。

は俯いたままひっきりなしに涙を拭い続けているので、その表情は彼の目からは伺えなかった。

しゃくり上げ、苦しそうに息を吐き、は震える唇で、言葉を紡いだ。

「だって……」

だって、はのお得意だと兵助は小さく息をつく。

すべての説明が“だって”で足りてしまうことも一度二度の話ではなかった。

兵助がなにも言わないので、は不安そうに、恐る恐る視線を上げた。

押し黙ったまま無表情で、けれど兵助がの言葉をただ辛抱強く待とうとしているのがにもわかった。

はまた迷うように視線を振り、仕方なさそうに口を開いた。

「……嫌だったんだもの」

「それはわかってるよ。なんで嫌だったのかを聞きたいんだけど」

「……それは……だって……」

「それはだって、何」

は言葉を詰まらせた。

いつでものペースにまかせてくれていた兵助にこうも急かされると、妙な焦りを覚えてしまうのだった。

言えば言ったで、兵助の機嫌を更に損ねてしまうかもしれない。

不安はも同じだった。

「……俺じゃ嫌だったっていうのは、」

「違うの! それは、」

兵助が言いづらそうに口を挟むと、はぱっと顔を上げて即座にそれを否定した。

あまりきっぱり違うと言われたので、兵助は目を丸くして驚いてしまった。

崩すつもりのなかった無表情が消え、この瞬間空気が少し和んでしまったことを知る。

「そういう意味じゃ、なくて……」

言いながら、の目にまた涙が浮かぶ。

零してなるかと言いたげにはそれをぐいと拭い、精一杯の思いを伝えようと言葉を探す。

「……実習なんかじゃ、嫌だったんだもの。せっかく、」

ずっと想い続けていた人が振り向いてくれたのに。

片想いの長さに理想を押し付けすぎていやしないかとは思っていたが、

想像以上と言っていいくらい兵助はやさしくて、時間をかけてを大切にしようとしてくれる。

それが、こんなにも呆気なく、感情の伴わないきっかけで縮まるのがにはたまらなく嫌だった。

一緒にいる時間を大事にしてくれる兵助の思いやりを無駄にしてしまうような気がしたのだ。

囁き声のの断片的な告白が短くも終わり、二人のまわりには雨の降るしとしとという音だけが響いていた。

俯き、また止まらなくなった涙を拭っているを、兵助はじっと見つめていた。

「……でもさ」

兵助が静かに言ったのに、はゆっくりと顔を上げた。

「俺だって、やさしいだけじゃないから」

は知らないかもしれないけど。

言われた言葉の意味には血の気の引くような思いをしながら、

兵助がまた名前で呼んでくれたことに、は飛び上がらんばかりの歓喜を覚えた。

複雑に入り交じるふたつの感情を、は言葉にも表情にもすることができなかった。

自分からはどうすることもままならず、はただ兵助の出方を待っていた。

「俺はさ──」

兵助がいきなりの腕を引いた。

「怒ってるんだよ。

兵助の腕の中に倒れ込んだは、耳元で聞こえた兵助の声の恐ろしいほどの冷たさに、

けれど、もう、どうなってもいいと、思ってしまった。

は震えながら、しかしはっきりと頷いた。

唇が塞がれ、舌を吸い出され、ぎゅっと瞑っていた目を薄く開けたときには背中に床の感触があった。

誰かが来てしまうかもしれないと、は不安そうに視線をあいたままの入口扉のほうへ泳がせた。

「誰も来ないよ。こんな雨の中」

冷えた空気に肌を晒され、視線がその上をはい回るのを感じては身を縮こまらせた。

「気になるなら、目を閉じていれば」

首筋に、喉元に降りてくる口付けを、その温度を感じながら、は顔を逸らし、目を閉じた。

人が来るかもしれないから、高い天井や棚の隙間の暗闇から無数の視線を感じるような気がするから、

そんな理由で目を閉じるのではないけれどと、は頭の中で自分に言い訳をした。

まぶたを閉ざして訪れた暗闇の中で、は兵助の存在だけをその身に感じていた。

他のものなんてなにもいらない。

「──兵助、」

名を呼んだ声が自分のものとは思えないほど心許なく細く響き、は泣きそうになった。

呼ばれて兵助が顔を上げたのがわかる。

目を閉じ、暗闇に閉じこもったままのの唇に、身体中が溶けてなくなってしまいそうなほど、

やさしいやわらかい口付けが落とされた。

兵助の声が低く、と呼んだ。

耳に心地よく響くその声が、ただを安心させ、身体も心も幸福感で満たしていった。

背に腕を回してしがみつくと、思っていたよりもずっと逞しい腕がの身体を抱きしめ返してくる。

お互いの呼吸、時折漏れる声、すべてをただ単調にしとしとと続く雨の音が掻き消していく。

誰も来ないよ、こんな雨の中。

兵助はそう言ったのだった。

(でも、兵助は、来てくれた……)

それが偶然でも必然でも、もうどうでもいい。

迫っては引いていく熱にの意識は絡め取られ、やがて溶けて崩れていった。



やや慌ただしくことが済み、は兵助に背を向けて乱れた装束を着直していた。

髪をほどいて指で荒く梳いていると、背後で兵助の立ち上がった気配がする。

彼は手早く装束も着直し、何も言わずにさっさとをおいて立ち去ろうとしていた。

「兵助……」

まだ怒っているの、とはには聞けそうもなかった。

そう聞くことで話を蒸し返し、更に兵助を怒らせてしまうような気がした。

雨はまだ止む気配もなく、いっそう強まっているようにすら思われる。

兵助は入口に立つと、肩越しにを振り返った。

不安そうに、心細そうな目で兵助を見上げてくるその目は、まだ行かないでと懇願しているようだった。

普段なら負けてしまいそうな誘惑にも、兵助は乗る気にならなかった。

柄にもなく恋人を乱暴に扱ってしまったこと、意地になってを責めてしまったことが尾を引いていた。

こじつけるように抱くことで、当たり前に仲直りをするべきところを誤魔化してしまったような気がしたのである。

の頼るような目を見れば心は揺らいで仕方がないが、卑怯な手を使った罰と思い振り切り、

兵助はから目を背けた。

「……俺、雨宿りしに来ただけだから」

でも止みそうにないし。

言い訳がましくそう呟いて、兵助は雨の中に飛び出した。

そのまま走り去ってしまう背をただ見送るしかすべがなく、

残されたは身体にまだ残る兵助の気配に切なく唇を噛みしめた。



身なりを整え、兵助が計算をし直してくれた帳簿と書類をまとめて抱え、は雨の中を帰ろうと心を決めた。

書類は濡らさないようにしなくてはと考えを巡らせながら焔硝蔵を出、

まだ入口扉の小屋根の下に守られながら、扉を閉めて厳重に鍵をかける。

さて、覚悟、と雨に濡れる学園を見渡したそのとき、目の端に見慣れない色が映る。

焔硝蔵の壁に立てかけられたそれは、

がこの場所へやって来て扉を開けたそのときには確かになかったもの──傘だった。

は驚いて、その傘をそっと手に取った。

使われた形跡は全くない。

──扉が開いているようだったから、様子見がてら雨宿りをしに来たんだけど──

兵助の声が耳の奥によみがえった。

(兵助……?)

やさしい恋人の性格にはすぐに思い当たった。

火薬委員でも重役に等しい兵助には、

が月末締め精算でそのうち焔硝蔵に現れることくらいは予想がついていただろう。

を待ち、なにとはなしに焔硝蔵の見える位置にいたのかもしれない。

やがて雨が降り出し、彼はきっと、恋人が帰り道で濡れることを心配したのだ。

(……自分で使えばよかったのに)

現れたときすら、わずかとはいえ彼は雨に濡れた姿だった。

雨の中を傘を抱えて走るなどと、誰かが見ていたらきっとわけがわからなかっただろう。

怒っていると言っていたのに、その心の端々ではいつもを思いやっていてくれる。

決して押しつけはしない、さりげないその心遣いに、はクスリと笑いを漏らした。

(へんなひと。……一緒に帰ればよかったな……)

はそっと、傘を抱きしめた。

恋人を大事にするばかりに自分を後回しにしてしまう、

兵助が濡れて風邪を引いていなければいいけれどとは思う。

しとしとと飽きるほど響き渡る雨の中に傘をさし、はくの一教室のほうへ向かって歩き出した。

降りしきる冷たい雨から、兵助が守ってくれているような気がして──

つい緩みそうになる頬を誤魔化しきれず、は幸福感にひたって微笑むのだった。