育花雨


冷え切った雨が木々の葉を打つ、初夏の放課後のことである。

五年ろ組の教室で、八左ヱ門に声をかけてきたのは級友の不破雷蔵であった。

「あれ、その鳥、連れてきてたの?」

雷蔵の示すのは、八左ヱ門の手のひらの上に無造作にのせられた、白いもこもことしたものである。

八左ヱ門はそれをひょいと、目の高さまで持ち上げてみせる。

「だって放っておけないだろ。危険が迫っても飛んで逃げられないんだぞ」

「そりゃあ、そうだけど……飼育小屋においとくとかさ」

「……じゅんことかきみことかに食われても困るし」

せっかく助かった命なら、悪あがきでも長らえたいよな、なぁ鳥。

八左ヱ門の手のひらにちょこんと座っているのは、

左の羽根に大怪我を負った、真っ白な小鳥である。

先日、飼育小屋で委員会の作業にあたっていたところ、

委員会の一年生である三治郎と虎若が大慌てで八左ヱ門を呼びに来た。

引っぱられていった先には彼らの所属である一年は組の全員が揃っていて、

不安そうに怪我を負った鳥を囲んでいた。

その場で一縷の望みというやつを十一人分も託された八左ヱ門は、

治りようのない怪我であると一目見て判じることができても、

安楽死をさせてやるのがいちばんいいだろうとは言えなかった。

医務室で手当てをしてやり、授業でも実習でも可能な限り連れ歩いて面倒を見ている。

おかげで鳥はかなり八左ヱ門に懐き、可愛いしぐさも見せてくれるようになっているのだが、

いまだに彼は鳥に名をつけたり必要以上に構ってやったりはしていない。

「ま、一度手ェ出したんだからさ、今更やめないって」

「でも……治らないんじゃ、どうしようもないじゃない。

 いつも連れてるわけにはいかないし、虫獣遁に使えるわけでもないし」

「そーなんだよなー。困ったなー」

口で言う割に困った素振りは微塵も見せず、八左ヱ門はさっさと立ち上がると教室を出る。

「はーち! ねー、どこ行くのって」

「委員会! の、前に、医務室でこいつの手当て」

振り返らずにひらひらと手を振って見せ、雷蔵のため息を背に受けながら八左ヱ門は医務室へ向かった。

教室の並ぶ棟や演習場近辺からは少々離れた、学園の端とも呼べる位置に医務室はある。

端といえども、学園の敷地の広大さは気の遠くなるほどのものであるから、

全体から見ればそこも相当内側に守られた場所ではあった。

保健委員会で管理している薬草園が広がり、

四季折々、不思議に匂い立つ薬草のむれが風に揺れるのを見るのは、

こうした学園に似つかわしくないと思いながらものどかでなかなかよい気分である。

そんな中にぽっこりと、有毒植物・猛毒植物が混じっていたりするのだから侮れない。

生物委員会の活動拠点である飼育小屋は、割と保健委員会のなわばりに近い場所に位置している。

自分たちはともかく、動物たちが毒にかぶれては困る。

委員長が不在に等しき生物委員会で、八左ヱ門はすっかり委員達のまとめ役となっていて、

諸処・こまごまと気を配る日々の連続であるが、

もう名物と囁かれるほどに毒虫も毒蛇も毒蛙も毒サソリもえっちらおっちら家出を繰り返す。

一年生率の高い委員会であるのがまた少々頭痛の種だ。

できれば、危険な生物の世話は高学年だけで受け持ちを済ませてしまいたいところだが、

なにぶん人手が泣きたくなるほど足りない。

夜中の見回りに一年生をかり出すのは可哀相な気もしていたが、

これも修行や経験やであると自らにも言い聞かせて当番を組んでいる現状である。

委員会活動も動物も嫌いではないのだが、気の滅入ることも面倒なこともそこそこは多い。

顔を出さない委員長をときどき恨めしく思う。

鳥は手の上、やっと医務室に辿り着き、八左ヱ門はあいた手で戸を引こうとした。

「失礼しまー……」

途端、その内からのどの奥で噛み殺そうとして抑えきれなかったような、くぐもったうめき声が聞こえた。

異変、違和。

中で何が起きているのか。

戸を引くことを躊躇っていた八左ヱ門に、中から声がかかる。

「あー、誰!? 誰でもいいから早く中入って、ちょっと手伝って!」

保健委員長の善法寺伊作の声であるようだった。

呼ばれるまま、八左ヱ門は戸を引き、医務室内へ一歩踏み入った。

衝立の奥から伊作がひょいと顔を出した。

「わぉ、竹谷か! ちょうどいいや、すまないけど、彼女、おさえててくれない」

伊作が衝立の内側を示す。

寄っていって覗き込むと、寝乱れたどころではないほどに荒れた寝床に息も絶え絶えに横たわる人があった。

一瞬、彼は目を疑った。

その人──瞬時の印象では女だろうと思った──には、色がなかった。

白い寝間着はまとっているというよりも身体に巻き付けているというほうが正しいというほどで、

帯紐が辛うじてその役を果たしているから、胸元も足元もぎりぎりのところではだけずに済んでいる状態である。

きれいな真白い肌に脂汗をびっしりと浮かべ、その着物も湿って見える気がした。

乱れた髪に隠れて表情はよくわからないが、歯を食いしばっている様子は明らかに痛みに耐えている姿である。

八左ヱ門から言葉を奪ったのは、その髪だった。

若い女であることは疑いようもなかったのに、胸元まで伸びた髪は色がどこかに失せて真っ白なのだった。

「はい、あと、あと! いまは手当てなの!

 竹谷、彼女をおさえてて。右半身ね。左に負担かけないように」

「あ、はい」

八左ヱ門はとりあえず傍らの座布団を寄せてきて鳥をそこに座らせてやると、

横たわる白ずくめの女に向き直った。

荒い息を吐き出す唇だけが妙に赤く見えて、一瞬目を奪われる。

その横顔を改めて見つめて、気がついた。

くの一教室六年生の、

実習で外へ出て、大怪我を負って帰ってきたという話だけは聞いていた。

それもかなり以前の噂であったのに、まだ医務室で寝込んでいるらしいところを見ると、

その怪我の程度も相当ひどかったのだろう。

右半身、と言われたことを念頭に、とりあえず右の手首を押さえつけてみる。

伊作の様子を伺うと、彼はの左の手首から指先までをぐるぐるに巻いている包帯をほどきにかかっているところだった。

「悪いね、竹谷……怪我、かなり痛むらしくてね……手当てのたびに暴れてさ」

「余計なこと、言うもんじゃないわ……」

荒い息の下から、が切れ切れに抗議を寄越す。

「はは、ごめん。でも、元気なこと言うじゃないか、安心したよ。

 ……あとちょっとだから。頑張って、

は返事をしなかったが、反応を返すように首を巡らせた。

その拍子に、八左ヱ門と目が合う。

それだけで、八左ヱ門はぴたりと射竦められて動けなくなってしまった。

「……あんた、五年生の……ええと……ちょっと待って……どっち?」

「なんすか、どっちって」

「ろ組でしょ……鉢屋っていうのがいるじゃない。

 竹谷と鉢屋って、名前が似てるのよ、ときどきごちゃごちゃになるわ。竹谷って呼んだ、善法寺くん」

「そうだよ、生物委員の苦労人」

「あ、やな呼び名」

「不運委員長よりいいじゃない。はい、薬塗るよ、、我慢ね」

伊作の言葉につられたように、両の腕はの腕を押さえながら、八左ヱ門は何気なく、

手当てをされるらしい左の手に目をやった。

そして、その怪我を認めた瞬間、背筋に冷たいものが走っていくのを感じた。

がのどの奥で呻き、次の瞬間には弾けるように悲鳴が上がっていた。

体重をかけて押さえつけていたはずの腕が、身体が、とんでもない力で八左ヱ門を押し返そうとする。

八左ヱ門は慌てて、改めてを押さえつけにかかった。

右の腕をとどめただけでは手当ての助けにならないことに気付くと、

八左ヱ門はの肩から足から、左手以外のすべての抵抗を腕の下に必死で押さえ込んだ。

、もうすぐだよ、もうちょっとね、頑張って」

伊作の声も緊迫しているが、さすがに手際がよかった。

逃げようとする左の手をつかまえ、薬を塗り、布をあて、包帯を巻く。

手当てのすべてが終わったとき、伊作はほっと息をつき、八左ヱ門はぐったりと肩を落とした。

当のは、気を失いかけているのか、荒い呼吸に胸を上下させるばかりでぴくりとも動かない。

「いや、竹谷、助かったよ。体格いいのが来てくれてよかったぁ」

「……いつもこうなんですか」

「うん、まぁ、保健委員の下級生が数人がかりでね。それでも、ときどき足りないこともあるよ」

伊作は床の敷布を新しい清潔なものに取り替え、そこにを寝かせるようにと八左ヱ門に示す。

言われたとおりにしながら、八左ヱ門はを見下ろして複雑そうに唇を引き結んだ。

「御苦労様だったね、こっちきてお茶でも飲んでいって」

「はぁ、どーも……」

気を失ってではあるがが落ち着いたのを見届け、伊作と八左ヱ門とは彼女の枕元を離れた。

茶をいれながら、伊作が静かな声で問う。

「……事情、知ってるかい?」

八左ヱ門は答えずに、ただ首を横に振った。

「……実習の内容はね……僕らも知らないんだ。彼女は話そうとしない。

 は、まぁ御存知の通りで、優秀なくの一なんだけど……今回は失敗だった。

 学園に帰り着いたときには、死にかけてたよ、ね……」

思い返しでもしたのか、伊作は俯き加減に、厳しい目をしていた。

「拷問にあったのか、……辱められたのか……身体中怪我だらけ、傷だらけ。

 ほとんどはどうにか治ってきたところだけど、……あの、左手の小指だけは……」

失われたものが戻ってくるはずはない。

の左手の小指は、第二関節から先が叩き切られた状態だった。

「……残酷なことを、するよ、ね……そういう奴も、世の中にはいるってことだ。

 を雇った先の城主に、送りつけられたんだそうだよ」

主語はないが、失われた指先の末路であることはその口調から知れた。

「恐かっただろうな……どうにか正気を取り戻して目を覚ました頃には、の髪は真っ白になってた。

 きれいな髪だって、……惚気てたのにね、あいつも、珍しく。

 はい、お茶どうぞ」

湯呑みを受け取りながら、ちくりと内心をちいさな痛みが突くのを八左ヱ門は知った。

くの一教室の生徒達は上から下まで美人が多いと忍たまたちにもそこそこの評判だが、

滅多に忍たまの前に姿を現さないくの一六年生の噂となれば格別であった。

は忍たまの六年生に恋人がいるということもあって、その中では比較的噂の的になりやすかった。

だから八左ヱ門も、とその恋人を揶揄して美女と野獣、

などと笑い混じりに噂されるのを、何度も耳にしたことがある。

「……ところで、竹谷。なにか用事があった?」

「あ。そうだ、鳥」

八左ヱ門は放りっぱなしだった鳥の存在をやっと思い出した。

座布団の上でいい子で待っていた鳥をすくい上げ、こいつの手当て、と示してみせる。

「この間連れてきた鳥だね? 回復してるみたいじゃないか、ちょっと触ってみてもいいかい?」

「あ、気ぃつけてくださいよ、こいつ人を突く癖があっ……」

「イテ!」

八左ヱ門が注意し終わるのを待たず、伊作は鳥に手を出し、見事につつかれた。

「……警戒してるんすよ、小さくても手負いの獣だから」

伊作は切なそうに鳥をちらと見やったが、触るのは諦めたようだった。

「……大怪我を負って、空も飛べない白い鳥、か」

なんだか彼女みたい。

縁起でもない伊作のたとえにも、八左ヱ門は反論できそうもなかった。

実力あるくの一と評価の高いも、こんな目に遭ったあとでまたくの一の仕事に戻れるものだろうか。

鳥の手当てを終える頃、衝立の奥でが目を覚ました気配がした。

伊作が様子見に、ひょいと覗く。

、夕餉の頃にはなにか食べられそうかい?」

「……食欲はあまりないの」

「そりゃあ、そうかもしれないけど。少しずつ栄養とらないとね」

「わかってるわ」

はぁ、と大きく息をついたのが聞こえた。

「竹谷、まだいるの?」

「あ。はい」

呼ばれて、八左ヱ門も衝立の奥に顔を出した。

「世話をかけたわ。ありがとう」

「……や、別に……」

八左ヱ門が緊張気味に居住まいを正したところ、はふとその肩に目を留めた。

「それ、なぁに……? その白いの……?」

「は? ああ、これ。鳥です」

「とり?」

「身動きとれなくなっているところを、拾ったんです」

「ふぅん……?」

怪我をして動けなくなっていたのを、とは、

事実そうして医務室から出られないを前に、とても言えなかった。

の目がありありと興味の色に輝いたのを見て、

八左ヱ門はかがみ込むと手の上に鳥をのせての目の前におろしてやった。

「怪我をしてるの……可哀相に。ああ、ふわふわしてる。可愛い」

が嬉しそうに右の手を伸ばそうとしたので、八左ヱ門は思わずさっと鳥を引っ込めてしまった。

「なに? 独り占めなの」

「や、こいつ人をつつく癖があるんです」

「いいわよ、突き傷のひとつやふたつ、増えたって大差ないわ」

冗談に聞こえない冗談に反論などできるわけもなく、

八左ヱ門はまるで恐る恐るというように、鳥をまたの目の前に差し出した。

はなんでもないことのようにスッと指を出し、鳥の頬をいとも簡単そうに撫でた。

「……大人しいじゃないの」

「えー? あれぇ……僕はダメだったよ、……?」

「それは、ご愁傷様」

伊作がぐっと言葉に詰まったのを見ても、

ひとり立場の低い後輩である八左ヱ門は笑うこともできず、突っ込みを入れることもままならない。

「可愛い。この子、名前は?」

「つけてないです」

「怪我が治ったら、放すの?」

「さ、ぁ……先の話だから」

ふぅん、とは抑揚のない声で呟いた。

そのまま、八左ヱ門がろくろく抵抗もできずにいるのをいいことに、

鳥を右の手で器用に預かって、胸元にちょこんと乗せる。

「ふふ。くすぐったい。怪我が痛そうね、おまえ。竹谷は優しい?」

「なんすか、俺が意地の悪いみたいな言い方?」

「ああ、意地の悪いのは鉢屋のほう?」

「……や、別にそんなことは……たまに性格悪いかもしれないけど」

聞くと、はおかしそうにくすくすと笑った。

決まり悪そうにたたずむよりほかがない八左ヱ門の横で、

伊作は呆気にとられたようにを見つめていた。

鳥の手当ても済み、八左ヱ門は委員会へ向かおうと医務室を辞したところで伊作に呼び止められた。

伊作は声をひそめて言った。

「ありがとう、竹谷。委員会の前だったんだろ? 手間取らせたね」

「いえ、別に……」

「雨、止まないな。天気が悪いと、怪我に響くことがあるんだよ。今日はつらかったかもね、彼女」

「はぁ……」

立ち去るタイミングを逃した格好で、八左ヱ門はただ伊作の言葉を待った。

しばらく言い淀んだあと、伊作は苦く笑いながら言った。

「あの、竹谷……もし、君が迷惑しなかったら、たまにその鳥、貸してくれない?」

「は?」

「いや、が気に入ったようだったから。……仕方ないことかもしれないけど、ずっと元気がなくてね。

 久しぶりにあんなに笑ったところを見て、安心というより先に驚いちゃったよ」

「ああ、そゆことですか」

「うん、手当てのついででもいいからさ」

「いいすよ、俺は別に」

「本当、ありがとう!

 慰めに、少しでもね、なればいいなと思って。……あいつ、見舞い……一度も来ないんだ」

あいつ、というのが、の恋人を指しているのだとは、八左ヱ門にもすぐにわかった。

の恋人、そして、伊作の親しい友人である。

その彼──六年生である──とは、恋人同士というよりもまるで戦友同士のようであった。

組んで任務に出ようものなら、ものの一度の失敗もないとは有名な話だ。

八左ヱ門はただ、その噂、評判、評価、名高く囁かれるそれらをすべて、

できうる限り聞き流すように努めていた。

此度こうして、思いもよらぬきっかけでと関わることになるとは、少々皮肉だ。

決して親しくはない、わずかの繋がりがあるでもない、

まさか名を知られているとも思っていなかった、それほど遠い存在だったは、

それでも八左ヱ門にとっては少々特別な立ち位置を持つ相手であった。

だからこそ、これ以上はないと無意識に避け続けてきた。

それなのに。

結局、八左ヱ門は、鳥を連れてたびたび医務室を訪れ、を見舞うという約束を交わしてしまった。

一度そうすると自分で言ったのだから、いい加減に断ることはしない。

「はーあ、なんだかねー? 参ったね、鳥、おまえも雨の日は傷が痛むのか?」

八左ヱ門は肩の上でくくる、と鳴いた鳥に話しかけた。

「俺も、痛いよ……たぶん」

のどの奥に苦く甦る記憶に、八左ヱ門はため息をついた。



八左ヱ門が三年生だったときのことだ。

三年ともなれば、そろそろ忍たまとしての自覚も芽生えてくる頃である。

八左ヱ門も友人達もその例に漏れず、熱心に夜間の自主鍛錬に励むようになっていた。

その日は朝から空がどんよりと曇っていて、いつ雨が降ってもおかしくないように思われた。

おおよその生徒がその夜は屋外での鍛錬を取りやめたようだったが、

八左ヱ門はあまり気にかけず、生物委員で世話をしている動物を見回るという名目ももって、

厚い雲に月明かりも遮られた下を駆け回っていた。

しかし飼育小屋をあとにした頃にはとうとう雨が降り出して、

八左ヱ門は鍛錬を諦めると急いで長屋へと走った。

人の声がしたので──八左ヱ門はふと、雨の下、それでも足をとめた。

あとから彼は、そこでとまらなければよかったと、何度か悔いることになる。

長屋の一室から姿を見せたのは、一学年上のくの一、だった。

寝間着の上に小袖を羽織っている。

普段きっちりと結い上げられている髪は肩に背に踊り、まるで別人のような印象を彼に与えた。

実のところ、話をしたことすらもない相手である。

遠くで見かけるだけ、食堂の端と端にいるだけ、その程度。

しかしほれたはれたとはまた別に、八左ヱ門はをを見かけるたびにいつも目を奪われていた。

これ以上の説得力を持つ理由などないと断言してしまえるほど、

他の理由などくだらない言い訳に成り下がって聞こえてしまうほど、

ただただひたすら、は美しい娘だったのである。

学園中がについて、高嶺の花と囁いていた。

まだ四年生の彼女にはすでに非の打ち所のない色気が備わっていたし、も自分自身でそれを知っていた。

五年生や六年生まで、年下のくの一にいいように振り回されていることもあったほどだ。

いつも威張り散らしている先輩がやりこめられる姿を見るのは、

八左ヱ門たちにとっては愉快やら、少々複雑であった。

この世で同じものを食らい、同じ空気を吸って生きているとは、到底思えないような相手だったのである。

まるで現実味のない存在であるに、八左ヱ門は勝手に夢を見ていた。

雨に濡れた夜の学園、ひやりとした空気の内にひとりたたずむ娘。

八左ヱ門は自らが雨にさらされていることなどもう気にもとめず、そこに見蕩れた。

彼が美しいと思うもの、人知れず想っているものが、目の前にたしかに存在している。

それだけのことに彼は心打たれた。

思いも寄らないところでを見かけたことに、八左ヱ門はそのときは偶然に感謝した。

しかしその一瞬あと──彼は凍りついた。

の出てきた部屋の戸が内側から開き、中から六年生がひとり、顔を出した。

八左ヱ門は瞬時に、認めたくない事実を悟ってしまった。

例の“実習”が終わったところを、彼は目の当たりにしてしまったのである。

は振り返ると、六年生の側に戻っていった。

なにか二言・三言話をして、その六年生はの唇に口付けを落とした。

耳の奥から外へ響いてきそうな己の鼓動に脅かされる。

その後、どうやって長屋の自室に辿り着いたのか、八左ヱ門は覚えていなかった。

いったい何が起きたのか、確かに自分の目で見たものが信じられなかった。

ただ、自分が身勝手に抱いていた世界が、砕け散ってしまったことだけを知った。



(よぉく考えりゃあ、当たり前のことだ。四年生くらいなら、そういう実習も始まるし)

二年経ってやっと、思い返してもそこそこ平静でいられるようになった。

まるで神聖視、身勝手に胸の内に思い続けてきた美しい少女が、

とうに“女”の顔を持っていたことを知らしめられた、その瞬間。

彼の感情のどこかに、ひび割れが入ってしまったのだ。

それから彼は、とはできうる限り関わるまい、近づくまいと努めてきた。

いつか感情も風化し、忘れかけて、知らないうちに距離が開いて二度と会うこともない、

そうなってしまえばいちばんいいと思った。

それなのに。

鳥が彼の肩の上で身震いをした。

寒いのか、痛みに震えたのか。

首のあたりを撫でてやろうと手をやると、くちばしで鋭くつつかれた。

「ッて! こら、俺だよ。いつも餌やってんだろ、忘れるなよ……」

呟くように話しかけながら、八左ヱ門の思いは少しずつ沈んでいった。

関わるな、近寄るな、忘れてしまえ、消えてしまえと、そう思いながら、

その思いをいつまでもずるずると引きずり続けて餌をやり、育ててきたのは八左ヱ門自身だった。

思ってもないほど育ってしまったその感情が、いまになって彼を突き動かそうとする。

「あーあー。人間って、めんどくさ……」

おまえら、ほんとにシンプルでいいな。

苦笑した。

鳥は首を傾げ、くくる、と鳴いた。

突かれた指先に、じわじわと血がにじむ。

時間をおいて、いまごろになって襲いくるちいさな痛み。

望む望まないに関わらず、そういうこともあるものだと、八左ヱ門は思った。

本当は、どうせなら……幼い憧れくらいはきれいなままで置いておきたかった。

いずれ身体も心もなにもかも、この手で汚すさだめとあらば。




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