枯野幻想
ぼんやり、と。
視界が定まってきて認めたのは、見慣れぬ天井であった。
察するに、どこやらの民家。
ことの顛末を思い返そうとする。
なにゆえこのような場所にいる。
任務の最中であったはずだ──いや、それも終わったか。
そうだ。
だんだん思考もはっきりとしてきた。
山奥深くへ入り込んだはずだった。
暑さの夏が過ぎ、美しく枯れる秋も見送り……そう、もういつ雪が来ようとおかしくない。
(不本意ながら)山で育った彼は、山麓の村々や町よりも山のほうが早く冬を迎えることを知っている。
木々も草もない荒れた斜面にさしかかり、何かの拍子に、足を滑らせた。
切り立った崖の底、一瞬で脳裏に刻まれたあの恐ろしい虚空の光景がまざまざと甦る。
しかし今己は生きている……では、崖下へ落ちずには済んだ。
あの高さ、落ちて生きてはいられまい。
今更ながらに彼は少しほっとした。
そのとき。
ことり、と何か小さな音がした。
誰かがここへ入ってきた、と彼は認識した。
咄嗟に身構えようとし、初めて、己の身に起こっている違和を感じ取る。
「……動いてはいけませぬ」
細い女の声が彼の耳に届いた。
次いで、視界に現れるその姿。
つやつやとした黒髪が肩に流れ、雪のように白い肌に際だつ。
薄く色づいた唇が誘うように言葉を紡ぐ。
「お目が醒めましたな」
「……ここは」
「危ないところでございました」
彼の問いに答えず、女は言った。
足音も衣擦れの音すらもさせず、舞うように、女は彼の横たわるそばへやって来て膝をついた。
「お身体は痛みませぬか?」
「痛みはないが、この、右手」
彼はきつくきつく握りしめたままの右の手を、布団の中から女の目の前へ引きだした。
己で握りしめているわけではない。
ただ右の手をひたすらぐっと力を込めて握りしめており、たやすく指を開くことができないのだ。
「これは、どうしたことか……」
「いけませぬ」
ぴしゃり、と女は告げた。
「よろしいか、忍のお方。その手、どんなに痺れようとも、決して開いてはなりませぬ。お命に関わりまする」
「は……」
彼は目を白黒させた。
手を開いた途端に毒虫でも飛び出すとでも宣うか。
女はその白い指をそっと、彼の握りしめられた拳にそえた。
「御名は」
「……利吉」
「利吉殿」
女は初めて微笑んで見せた。
「私めが、必ず助けて差し上げまする」
言うと、女はわけのわからぬままの利吉に、いきなり口付けた。
「! ちょっ、と……」
それは、困る……大切で大切でたまらないというのに、今になってやっと、恋人の存在を思い出した。
ああ、これだから、己という男は。
女は利吉の制止をきかない。
その舌が利吉の唇を割って入る。
抵抗しようとも、右腕が──言うことを聞かない。
身じろぎしようとしたそのとき、のどの奥に胸焼けを起こしそうな強烈な甘みを感じる。
利吉の思考が混乱極まったところで、やっと女は離れた。
「……な、なにを、飲ませた」
「お聞きになったところで……」
袖口で口元を隠し、女は呟いた。
「慣れぬ味でございましょうが、お力を戻していただくには、……これくらいしか」
そう言って女は立ち上がり、すぐに戻りまする、と告げるとまた外へ出ていった。
入口戸が開くたびに吹き込む風の冷たさは、冬の近さを如実に物語る。
室内はあたたかく火がおこされ、居心地の良さは朝寝のまどろみの中のよう。
しかし、常に力が入り緊張し通しの右腕が、利吉の意識をひたすらに我が身へ引き戻す。
開くな、と女は言った。
決して開くなと。
利吉はそっと、恐る恐る、握りしめた指を外へ開いていこうと試みた。
ところが、開くなと言われようと、自らの意志でどうにかなるような状態ではとてもないことがすぐに知れる。
右手は頑なに握りしめたまま、動こうとはしないのである。
いったい何が起こったのだ。
風変わりな怪我でも負ったか。
思えども、足を滑らせた以外に我が身に起きたことなどなにひとつ思い出せはしなかった。
しばらくするとまた女は戻ってきて、何も言わずに利吉に口づけると、
あの苦く思われるほどのねっとりとした甘味をそののどへと流し込んだ。
あまりの甘さに利吉は咳き込む。
「……愉快そうではありませぬなぁ」
「当たり前だ……」
ぜいぜいと息をしながら、利吉は女を睨み上げた。
一体なにものなのか。
「好い人が、おいでなのでございましょう」
「……は?」
「そういう顔をしておられまする。見も知らぬ女に接吻されるいわれはないと」
言い当てられて、利吉は少し拗ねたように唇を噛んだ。
女は愉快そうに笑う。
「あの御方……美しい女人であられましたなぁ」
「……知っているのか」
「一度お見かけ申しました。利吉殿と御一緒に散策をしておられ……確か、御名は、殿」
利吉は目を丸くした。
その思考を見透かすように、女はにこりと笑った。
「そう呼んでおられました、お優しいお顔とお声。心洗われるようなやさしい光景でございました」
「……もう三月も逢っていない」
「それは大変」
早く上がっていただかねばと、女は言った。
上がる?
なんのことだと利吉は問おうとするが、そのいとまを待たず、女はまた立ち上がって外へ出ていった。
忙しないことだ。
それにしてもあの女、のことまで知っている。
密かに己の周りを調べ上げでもしたかと利吉は疑うが、どうもなにか違う気がしてならなかった。
己と敵対する立場のものではなさそうだが、あの女はただ誰やらの手先で、
出ていっては利吉の様子をつぶさに報告している相手でもいるのやもしれぬ。
甘い毒を口移しに与えているとも考えられる。
しかし……
利吉はそこで、ただ考えるのをやめた。
思い浮かぶのは、やさしい恋人の顔ばかりだ。
いつもいつもいつも、待たせてばかり。
考えるたびに狂おしいほど愛おしいのに、じゅうぶんにその愛を与えてやれぬ恋人。
文句ひとつも言わないで、必ず微笑んで見送ってくれる。
それに甘え続けているのだということを、利吉も頭ではよぅくわかっていたつもりだった。
必ず帰るからと約束をする。
保証は何もないが。
最後にしばしの別れを惜しみ、口付けて、ほとんど無理矢理のように、手を離す。
感情に引きずられてしまっては、きりのつかないことになる。
思いを断ち切り、無事で戻ることを自分に言い聞かせ……見送るの視線を背に痛いほど感じつつも、
いつも利吉は振り返らずに歩いていくのだ。
振り返れば、戻りたくなってしまう。
ところが、この任務の前に別れたときは少し違った。
の滞在する忍術学園の門の前、夜も更け月明かりばかりがあたりを照らす薄闇の中、
彼はチラと、ほんの少し──曲がり角を曲がるその前に、恋人を振り返ったのだ。
利吉が振り返ったことに気付かず、は学園の中へ戻るところだった。
こちらへ向けたちいさな背を丸め、震わせて。
その手が持ち上げられ、そっと顔を覆ったのが見えた。
──泣いているのか。
心の臓を撃ち抜かれた心地がした。
笑顔で見送ってくれる、文句も恨み言もわがままも言わないその内心に、どんな感情が渦巻いていたことか。
利吉のそばにいるときも、一度だって悲しみにくれて涙を流すことなどなかった。
その優しさに、いつも甘えてしまってすまないと、逢うたびに利吉は謝っていた。
するとは、どうかお気になさらないでと、またあの微笑みを浮かべる。
御無事でいらしたのだから、それ以上嬉しいことなどありません、と。
己の言動の、なんと浅はかであったことか。
本当はなにひとつわかっていなかったのだ。
が責めないのをいいことに、それに甘え続けていると思うばかりで、
それがどういうことなのかを本当に考えたことなど一度たりともなかったのだ。
この任務が終わったら──無事に帰ったら。
に言わなければならないことがある。
必ず生きて戻らねばならない。
そのためには。
いい加減しびれが走り、力一杯に握りしめた手指を解いてしまいたい衝動に利吉は駆られた。
必死で己に抗っているところへ、またことりと音がして、女が戻ってきた。
「利吉殿、……お起きになられますな、まだお力も戻っておられぬはず」
「一刻も早く戻らねばならない。が、……待っている」
女は複雑そうな顔をして利吉を見つめた。
「この右の手を、なんとかしてくれ……もう辛抱ならない、どうしたらいい。これは、怪我か? 一体どうなっているんだ」
「……その前に、もう一度」
女が近づき、口付けようとするのを利吉は拒んだ。
「いけませぬ、利吉殿。殿の元へ一刻も早くと思われるなら!」
「どういうことだ! 何もかも私にはわからない! ここはどこで、お前は誰なんだ!」
「……私めは……」
女は言い淀んだ。
しばらく黙り込み、覚悟を決めたように、小さな声で言った。
「……覚えてはおられぬはず。利吉殿は、とらわれた私めを助けてくださったのです」
女は顔を上げ、まっすぐに利吉を見つめた。
利吉には、覚えのない顔であった。
まるでこの世のものではない、生きたものの美しさとは到底思えぬような美しさ。
「殿と御一緒のお姿もお見かけして……おふたりのお幸せそうに寄り添うさま。
この山の中、利吉殿を見つけたとき、今度は私めが御恩をお返しする番と、そう思ったのでございます」
言葉を失った利吉に、女はまた口付けた。
甘い味が利吉ののどを締めつける。
離れたとき、女は寂しそうな顔をした。
「……山は、冬が近うございます。蜜の宿る花など探しても、簡単に見つかるものではございません……」
これが精一杯でございました、どうかお許しをと女は言った。
そして、細い両の手をのばし、利吉の視界を塞いだ。
一瞬たじろいだ利吉の耳の、まるで内側で響くように、女の声が言った。
「利吉殿、よろしいか……私めがこの手を離しても、あなた様は右手を開いてはなりませぬ。
見える景色に驚いてはなりませぬぞ」
どういうことだと、問おうとした利吉の唇が、一瞬軽く塞がれた。
甘い味は流れてこなかった。
「またお逢いできて、嬉しゅうございました。殿に、早く逢いに行って差し上げて下されませ。
……お二人の御多幸、心より」
途端、利吉の視界がさぁっとひらけた。
「………!! う、わっ……」
がら、と岩の崩れるような音がした。
目の前は岩壁。
足場がない。
右腕は突っ張った状態で痺れている。
どこぞの山小屋か民家か、敷かれた布団の上に起きあがっていたところであったのに。
己の置かれた状況を、利吉はなんとか理解した。
右の手を、見上げた。
岩壁から突き出している、蔓のようなしっかりした木の根につかまっている。
何もかもをやっと思い出した。
足を滑らせ、己は崖へと転落しかけ……咄嗟にこの木の根を右手でつかんだのだ。
身体はぶら下がり、右腕だけで全体重を支えている。
足元を見やると、吸い込まれそうな底が木々の緑を敷き詰め口をぱっくり開けているように見える。
そこへ落ちれば確実に死ぬだろう。
何時間、ここへぶら下がったままであったのか。
決して右の手を開いてはならぬという女の声が脳裏に甦った。
あの忠告に抗って、右手を開いていたら……?
ぞっとして、断ち切るように利吉は上を見上げた。
落ちかけはしたが、這い上がることもじゅうぶんできるだろう。
身体に力が入るかどうか……左の手も別の根につかまり、右腕に力を込めてみる。
思ってもみないほど鮮やかに、身体はすいすいと岩壁をのぼることができた。
落石しなさそうなしっかりした足場を確かめ、木の根をたよりに崖上へのぼりきる。
助かったことがわかった瞬間、どっと疲れがこみ上げ、利吉は地に四肢を放り出していた。
上がった息がおさまらない。
利吉は仰向けに寝転がり、うっすらと目を開け、高い空を仰ぎ見た。
その刹那、視界を横切る、黒いひらひらとした影。
がばりと身を起こす、その影を目で追う。
──蝶だ。
黒い大きな蝶が、冷たい空気を裂くようにひらり、ひらり、と舞ってゆく。
利吉の視界を遮るようにちらちらと、この冬最初の雪が降り始めていた。
火鉢に火をおこし、ここへ来て初めて迎える冬になにとはなしに感慨を覚えていたは、
ふと、なにかの予感か、気配か──感じて、振り返った。
部屋の中には自分以外の誰もいない。
冬用の厚地の小袖をはおり、はそっと部屋を出た。
不自然に明るい午後である。
元気の有り余る忍たまたちは、雪で遊びたくてうずうずしていることだろう。
今はまだ授業が行われている時間だ。
薄く積もった雪に、はそっと足跡をつけた。
きれいな最初の雪をあまり荒らすと子どもたちが可哀相だからと、敷地の端、壁沿いばかりを選んで歩く。
冷えて赤くなった指先をこすりあわせ、暖をとろうと試みるが、無駄な行為のようである。
吐く息が白くくもってまた消えていくのを見て、は微笑んだ。
何も意図せず、足は学園の門へ向かう。
気味が悪いほど静まり返った周囲。
雪の白がそれを際だたせているようにも感じられた。
門がそろそろ見えるかという頃、はそちらから歩いてやってくる人影を認めた。
予感は当たった。
「……利吉さん」
呼ばれ、利吉は改めてに目を留めたようにはっとして、何か言おうとしたが何も言えず、口を噤んだ。
は黙って、恋人の言葉を待った。
しばらく逡巡し、覚悟を決めたように、利吉は恋人を呼んだ。
「……」
今度ばかりは責め立てられるだろうと、利吉は思っていた。
そして、それが当然のことだ。
にばかりつらい思いをさせる。
待つのも、心配をするのも、寂しい思いをするのも、みんな。
だから、が口を開いたとき、かすかにその口元が笑みを浮かべているのが、利吉には夢まぼろしのように見えた。
「……初雪ですね」
利吉は驚いて、え、と問い返した。
「もう子どもでもないのに、どうして最初に降る雪には、こんなに胸が高鳴るのでしょうね?」
呆気にとられた利吉をよそに、は微笑んだままで続けた。
「なんだか、雪が、利吉さんを連れてきてくれたように思われて」
そこまで言って、はやっとおかえりなさいと利吉を迎えた。
文句も、恨み言も、わがままもない。
流した涙を悟らせもしない。
たまらなくなった──利吉はに駆け寄って、その細い身体を思うさま抱きしめた。
「……ただいま。やっと帰ったよ、……」
「はい」
が腕の中でまた笑った。
やさしい体温が利吉の腕にじわりと伝わってくる。
それだけで、もう、なにもいらない。
「お仕事、お疲れさまでした……」
は小さい声で、今度は少し心配しましたと言った。
「え?」
「……こんな、長いお留守、初めてで……だから」
囁いたあとで、はあっ、と声をあげ、慌てて弁明を始める。
「あの、お仕事に文句を申し上げたいわけじゃなくて! ……嫌味に聞こえました? ごめんなさい」
謝るのは己だと思っていた利吉は、逆に先に謝られてしまってたいそうばつの悪い思いをした。
申し訳なさそうな顔のを見て、困ったようにかすかに笑った。
「いや……謝るのは、私のほうだから。長いこと留守にして……つまらない思いばかりさせる」
「いいえ……そんなこと」
「が責めてこないのをいいことに、甘えてばかりでなどと。口先だけわかったようなことを言って」
はきょとんとして、目をぱちくりとさせた。
「……利吉さん? いったいどうなさったの」
今までそんなこと言わなかったのにと言いたげに、は素直に驚いてみせた。
それがまた、なんとなく利吉の立場を危うくさせる。
己はどれだけ無神経な男であったかと、利吉は自分にがっかりしてしまった。
「嫌だ、利吉さん。落ち込まないでくださいな」
はくすくすと笑いながら、利吉の背をぽんぽんと撫でた。
「御無事で良かった。山田先生も、今度の仕事はばかに長いななんて仰るから……
なにかあったんじゃないかと気が気じゃなくて。本当に良かった」
利吉の肩口にすり寄って、は嬉しそうに微笑んだ。
「ねぇ、お嫌じゃなかったら、次の時間の授業に付き合ってくださらない?
一年は組の子たちがお相手なの。雪合戦をしたくて」
授業で堂々と雪合戦とはと利吉は苦笑する。
離れている間も恋人は相変わらずだったようだ。
「いいけど、集中砲火を食らいそうな気がするよ」
「あら、上級生お相手よりよっぽど純粋な雪合戦だと思います。
五・六年生なんて、雪の中に火薬でも混ぜそうな気がしますもの。それよりは楽しめますでしょう?」
この学園がわかってきたじゃないかと、利吉は思うが少し苦い思いである。
どう考えたって普通の学園ではないのだから。
寄り添って立っている間に一瞬会話が途切れて、目線が絡む。
が珍しく怖じ気づかずに見上げてくる意図に利吉はしばらく経ってやっと気がついた。
口付けの催促なんて、珍しい、ような……
珍しいどころか、滅多に見られたものではない。
利吉がちょっと赤くなったのを見て、はやっと伝わったのね、と言いたげに目を伏せた。
それが合図のように、利吉はそっと、恋人の唇に口付けを贈った。
ずっと立ち話のままであったのにやっと気がつき、二人はひとまずの部屋へと向かうことにした。
なにげなくぽつりぽつりと会話をしながら、が歩いてきた足跡を踏み返すように歩いていく。
「……そういえば、利吉さん」
が思い出したように言った。
「あの蝶、どうしたでしょうね……」
「え?」
わからずに問い返す利吉を見返しもせず、はどこか思いを馳せるようにぼんやりとしたままで続ける。
「前にお見えになったとき……夏の終わり頃。一緒に少し遠出をしましたでしょう?
あのとき、蜘蛛の巣にかかった蝶を、利吉さん、放してやったじゃありませんか」
ほら、あのときとは振り返る。
途端、利吉の脳裏に鮮やかに甦る記憶があった。
「あ……!」
「思い出されました?」
に言われて初めて、利吉はそのときのことを思い出した。
数日続けての休みが学園の休暇とも重なり、利吉はを学園の外へ連れ出した。
町へ出てみる途中、景色の美しさに惹かれてが道を外れたがるのに着いていき、
二人が見つけたのは見事な蜘蛛の巣にかかった大きな黒い蝶だった。
──あら、蝶が……あ、動いた
──かかったばかりなんだな……身動きが取れないほど絡まってはいない
──蜘蛛の巣の御亭主は、お留守のようですね?
──放してやろうか
蜘蛛にとっても死活問題だろうけれど、などと言いながら、
利吉は丁寧に蜘蛛の巣を指でつまみ、蝶をそこから放してやった。
よろよろとしながら蝶は草の上で羽を休め、不安定そうにやがて飛び立った。
脳裏に甦るのは、右腕一本で崖にぶら下がっていたあのとき、あのあと、視界を横切った黒い蝶の姿。
では──あの蝶が?
文字通りの死の淵に必死でしがみついていた己を、助けてくれたのか?
──蜜の宿る花など探しても、簡単に見つかるものではございません……
女の言葉がふいに甦った。
口移しで与えられたあの甘い味は、では?
「利吉さん? 利吉さん。どうなさったの」
黙り込んだ利吉を、が心配そうに覗き込んだ。
──殿に、早く逢いに行って差し上げて下されませ。
悲しく微笑んだ、人にあらざるもののような妖しさを併せ持つ、しかし美しい顔。
は利吉を気にしながら、あ、と顔を上げた。
つられて利吉も空を見上げる。
また雪が降り始めていた。
「……夏の終わり頃で、草木も花も枯れていく季節でしたものね……どのみちこの雪では、もう」
が言わずに飲み込んだ言葉が、利吉の胸に迫った。
少しでも長らえようと、あたたかい土地へ飛ぶこともできたはずなのに。
冬の到来近い山に留まり、ないに等しい花の蜜を集めてまわり、
それを死の淵にいる恩人に惜しげなく与え……早く恋人に逢いに行ってやれと言って、笑った。
最後の口付けは、蜜を与えるためでは、きっとなかった──
利吉は、目の前の恋人を見つめた。
雪の降る空をただじぃっと見つめている。
寒さに赤くなった頬、表情をくるくると良く映す瞳。
あたたかな体温を持つ、生きてそこにあるものの美しさがにはある。
そのそばへ行けと、背を押された。
逢えて嬉しかったという言葉と、触れるだけの口付けを残して。
学園のどこやらから、授業の終わりを告げる鐘の音が聞こえた。
ははっとして、あら、大変と慌て始める。
「次の授業の支度をしなくちゃ、利吉さん、急いでくださいな」
はよたよたと走り始めた。
そのあとを追って利吉も早足になる。
やがて授業の名のもとに、雪合戦に出てくる子どもたち。
まっさらな雪に覆われるこの場も賑やかな笑い声にあふれることだろう。
まだ誰も踏み入らないそこを、利吉は振り返った。
自分との足跡だけが、時折点々と黒い土を覗かせている。
まるで遠く並び連なる墓標のようだと彼は思った。
「利吉さん! 早く」
「ああ、……今、行く」
思い断ち切りきれぬまま、利吉はの元へ走り出した。
利吉の走るそばからのび続く、黒い小さな葬列を、舞い落ちる雪が隠していった。
閉