夏の長期休暇が終わって久しぶりに顔を見たとき、

ちゃんは急激にきれいになっていて、大人の女の人みたいに見えた。

なんだかちゃんがいきなり遠い人になっちゃったような気がして、私はちょっとだけ、戸惑ってしまった。









百 年 の 恋 も さ め て し ま う









声をかければいいのにといさっくんあたりは私にいつも言うんだけど

(逆の立場だったら私がふっかけても絶対いさっくん行動しないんだろうになー)、

ほら、よく言うんじゃん?

見てるだけで幸せになるってやつ。

ちゃんは私にとってそういう人だったから、これ以上どうにかしようとは私は全然思わない。

同じ年のくの一教室の生徒で、忍たまの中にはちゃんに憧れてる奴が結構多いと聞いてる。

なんてったってかぁわいいもんね。

あの顔でにこーってされたら、溶けちゃうよ。

そして、誰に対してもその“にこーっ”を惜しみなく連発するのが、ちゃんの人気の秘密じゃないかと私は睨んでる。

一年生なんかいつでもでろでろだ。

まだ子どもだから、みんな無邪気で下心もなくて、素直にちゃんに好きーってぶつかっていく。

ちゃんは他のくの一と違って意地の悪いことしたりしないしね。

ちゃんもそんな素直で可愛い一年生が好きーっ、なんだそうだ。

端で見ている上級生達はちゃんの特別の好きが欲しいってことには、きっと本人、気付いてない。

えーと……ちょっとにぶい? のかな。

まぁ、いいや。それは。

こういうふうに話して聞かせているとさ、誰でも同じとこに引っかかるらしいんだけど、

私とちゃんは別に友達じゃない。

大きい学校の大勢の生徒の中で、顔だけ知っている人って、いるじゃん? それ。

たまに目が合って、ちゃんは得意の“にこーっ”を挨拶代わりに炸裂させてくれる。

私はそれを見て一日気分がいいってわけ。

六年生は特に人数少ないし、くの一教室なんてそれに輪をかけて少ないし、

同じ学年・同い年ってだけで、顔と名前くらいは自然と覚えちゃったりする。

このあいだ図書室で長次と喋ってたら(長次はうるさそうにしてたけどいつものことだから気にしなかったんだ)、

ちゃんが借りる本持ってそばに来たんだ。

“こんにちは、中在家くん、七松くん”って、ちゃん言ったもんね。

あれは、ちょっと嬉しかったなぁ。

一方的に知ってるだけじゃなかったってことくらいは、喜んでもいいと思うんだよね。どう?

そんなわけで嬉しかったって、そのままみんなに言いふらしに行ったんだ。

“言いふらし”てるって言ったのは、私じゃなくて仙ちゃんだけど。

仙ちゃんはいつも、くの一を評価するような口振りでちゃんのことを話す。

“なにせあのというくのたま、見目の良さにかけては一級品だ。

 さぞかし凄腕のくの一に成長するだろう。そうは思わないか、小平太?”

ああ、仙ちゃんのマネってのどが詰まりそうになる。

うん、でも私もそう思うな。

一流のくの一にはたぶん必須の、冷酷さとか斬って捨てる潔さみたいなものは、ちゃん持ってない気がするけど。

ただただ単に、やさしい可愛いいい子なんだ。

ろくに話もしたことがない私が、ちゃん自慢をするななんて、言われそうだけど。

でもその仙ちゃんも、結構ちゃんのこと気に入ってると思うんだ。

仙ちゃんはモテるらしいから女の子には不自由してないだろうし、ある意味徹底した性格してる。

徹底してるってのは、もんじのギンギンとはちょっと違う意味なんだけど。

言い寄ってくる女の子はいっぱいいるけど、みんなと一定以上の距離を持っておこうとしてるらしい。

このあいだ仙ちゃんにそういう話をしたらキョトーンってされちゃったから、無意識なのかも。

でも、仙ちゃんがちゃんに持ってる気持ちっていうのは、その……恋、ていうのとは違うと思う。

“お前はどうなんだよ、小平太?”

もんじはよくそういうふうに聞いてくる。

他のみんながちゃんを可愛いと思ってて、好意を寄せてるのを知った上でわざわざ私に聞くんだ。

もんじのずるいとこは、みんながそう思ってるからって言い訳の裏に、自分もそうなんだってことを隠すとこだ。

“人気者に懸想する奴等は辛ぇよな”とか言いながら、顔に出さずにライバル増えたなって数えてる。

ギンギンはどこ行ったの、って聞くこともできるけどさ、もんじ自身がいちばん困るんじゃん、そういうの。

もんじはもうわかっててどうしようもないとこまで行っちゃったんだ、恋に落ちるってそういうことだ。

って、このあいだボソッと長次が言って、聞いてた私といさっくんは点目になった。

長次、たまにそういう不思議なことを口にするんだ。

でも、それを聞いていさっくんはちょっと勇気づけられたみたいだった。

みんなそれなりに、どうしようもないとこまで転がっちゃった気持ちを抱えてる。

それが人を好きになるとか、そうじゃないとか、三禁がどうとかは別にしてね。

私は得意で答えられるよ、私のはそういうのとは違うんだ! ってね。

そしたらもんじはいつも決まって、なんか嫌そうな顔をするんだ。

ライバル減ったんだから、いいんじゃんって思うけど、もんじは嫌そうな顔をする。

もんじにしてみたら、私がずるく見えるのかもしれない。

私だってちゃんがすごくすごく好きなんだ。

誰が相手でも差別しないでやさしくするとこ、おひさまみたいな笑顔、

いつでも風みたいに軽やかそうな足取りとか、髪の先っちょを指でくるくるする仕草なんかも全部

(あ、ちなみにちゃんは“髪の毛くるくる”の癖に自分で気付いてないと思うんだよね!)。

人に言わせれば、これが恋に落ちるってことなんだ、きっと。

でも同じ言葉でひと括りにするのに、私はなんだか抵抗があるんだ。

つまり……えーと。

なんて言ったらいいのかなぁー……

つまりさ。

高嶺の花って言葉があるじゃん。

ちゃんはまさにそれ!

手の届かないような、雲の上っていうの? そういうお高い人じゃないのはもちろんだよ。

誰とでも仲良くできるのは、ちゃんの人間ができてるおかげだ。

だから、声をかけたらきっと“にこーっ”って答えてくれて、仲良くなることもできるはずだよ。

でも、私はちゃんにそれを求めてるわけじゃないんだ。

難しいなー。ここまでわかる? 私の言ってること?

今の世の中さ、戦があっちこっちにあって、みんなで喧嘩してるじゃん。

私らはそれに殴り込みかける専門家になろうとしてるところ。

ここはそういう学校だもんね。

六年もいるんだから割り切ってるし自分なりに納得してるさ。

そこには問題ないんだけど。

そうやってあっちで斬り合い、こっちで爆発、どっちでも血が流れて人がいっぱい死んで、

それくらいで今生きてる人間みんながだめになっちゃうとは私だって思ってないけどさ、

この両目に映るくらいの狭い世界はみんな壊れてなくなっちゃうんじゃないかって、思うことはある。

そのときに、もしかしたら私も死んじゃうようなそんなときに。

私の目に映る、両手でつかんでるこの世界が最後の日を迎えるときに、

最後にそばにいる人がちゃんだったら、すごい幸せだと思うんだ。

最後に聞く声が、最後に見る顔が、最後にすれ違う肩が、ちゃんだったら。

ね? 考えただけでこう、うっとり? しない?

これさぁ、だぁれもわかってくんないんだよねー。

喋るの苦手なりに精一杯頑張って伝えようとするんだけど、結局いつもだめだからさ。

あんまり人に言わなくなっちゃったんだ。

結局さ、恋って呼べるかもしれないけど、ちゃんは憧れの人のままでいいんだ。

私が身勝手に想いを寄せるだけの相手で構わないんだ。

それは、ちゃん本人に対しては失礼なことだよね。

私の求めてる部分だけ頭の中に貸してくださいって言ってるんだからさ。

知ってるよ、ジコマンゾクっていうんだ、そういうの。

……そっか、もんじはそれに最初から気付いてたのかもしれないな。

もんじはちゃんのこと、口に出しては言わないけどまっすぐ想ってるはずだから。

こういう都合のいいこと言ってる奴がよりにもよって仲いい奴の中にいたら、気分悪いだろうな。

謝ったほうがいいっかなぁー……いや、それは勘違いだなぁ。

もんじは一回も、ちゃんのことが好きだなんて言ったことないし。

私もこんなんだしなぁ。

つまり、暗黙の了解だから、表立っては何事もないってことになってるんだよ。

そんなことについて謝っても見当違いってやつじゃない?

だから、うーん、現状維持だよなぁ。

私ってさ、考えるのも苦手なんだよね。

だから、知らないうちに余計なこと言っちゃうこと、きっとあったと思うんだ。

いつか暗黙だったいろんなことも笑い話のタネになるくらい時間が経ったら、

そのときはみんなに謝ってみよっかな。



その、ちゃんに関するニュースは、いさっくんが保健室から持ってきた。

保健室には新野先生が持ってきたらしい。

夏の長期休暇が終わって、またみんな同じように学園に戻ってきて訓練や実習の日々。

でも、私たち六年生は卒業を控えてる。

卒業後にどうするのかっていう、まぁ、進路相談? 決定? みたいなのを、

そろそろ具体的に計画しとかなきゃいけない時期で。

忍にもいろいろあるからなぁ、山田先生の息子さんの利吉さんなんか、

私らと三つしか違わないのにフリーなんかで成功してて稀な人だなと思うけど。

誰でもああはいかないよ、そりゃそうだよ。

どっかの城に雇ってもらったら、先輩や同級生と敵対することもあるだろうなぁ。

そういうこと思うと、学園で友達つくってワイワイって生活と忍の育成訓練を並べてやってるこの学校は、

ちょっと矛盾してて苦しいよなって思ったりする。

でも、そんなのは自分の弱い気持ちが責めることのできる相手を見繕ってるようなもんで。

現実はそんな世迷いごとを言う間も聞く間もないんだ。

合戦場で敵として出会ったら、必要なら戦うよ。

ちゃんが相手だったらとかは、考えたことないけど。

それこそどうしようもない話でさ。

私にとってちゃんは現実味のない人なんだ。

いや、そこにちゃんと存在してる人だってのはわかってるよ、そういう意味じゃなくて。

だってさぁ、……憧れってそういうもんじゃない?

私はちゃんの人間くさいとこをなにひとつ知らないし、知ろうと思わないんだ。

あくびをするちゃんとか、くしゃみをするちゃんとか、居眠りして怒られるちゃんとか、

正直言って忍の任務をこなすちゃんとか人を殺すちゃんとかも、考えられないんだよね。

合戦場で会うとか、そういう例え自体あり得ない話。

会うわけないじゃん。

ちゃんはこの学園のくの一六年生で、みんなの憧れの存在で、私も憧れてるひとり。

それ以上の存在ではないし、これから先もそのままだろう。

んで、卒業して別れたら二度と会うことはなくって、思い出の中に咲き続けるきれいな一輪の花になるってわけ。

私、これまでまともに女の子を好きになったことってないんだけど、

初恋ってこれくらいきれいでもいいんじゃないかと思ってるんだ。

そこへこれなら、もってこいじゃない?

思い出にちゃんが咲いてくれたら、私はそのあとどんな人生を送ってもその花は守り続けるだろう。

戦って人を騙して欺いて、傷つけて殺して、そんなことやってる頭の中でも、

ちゃんの花は返り血も浴びず一片の汚れもないままで咲き続けてくれるだろう。

そして本当にそうなるんだってとこに、ばかみたいだけど、疑いをかけたことがなかったんだ。

びっくりした。

戸惑うってこういうことらしい。

長期休暇があけて初めて、食堂でちゃんを見かけたんだ。

これまでだってよくあることだった。

いちばん会いやすいのって、やっぱ食堂だし。

私らはいつもどおりみんなで固まって隅っこの席に陣取ってて、

ちゃんはくの一教室のほかの子と一緒に食堂へやって来たばかりだった。

あ、ちゃんだ、って。

いつもどおり、一日ゴキゲンになれるあの“にこーっ”が見たくてさ。

ふっと目をやったんだ。

そしたら、ちゃん、休みの前に見たときとなんか違って見えたんだ。

こういうの、言葉ではなんて言ったらちょうどいいのかな。

なんか、首を傾げたり、目を細めたり、身振り手振りのたんびに、キラキラーって星が飛んで見えるわけ。

そう、輝いてる! これだ。なんだ、文字通りだなぁ。

キラキラして見えたんだ。

つや出しにハチミツでもぬったのかってくらい。

昼飯の盆を持ってちゃんがくるってこっちを向いたとき、カチって目が合ってさ。

ちゃん、得意の“にこーっ”って、やってくれたんだけど……

なんて言うんだろ。

恥ずかしそうなっていうか、照れてるっていうか、うー……は、はにかんでる? っていうの?

そういう顔をしたんだ。

ほっぺが赤くなって。

私らみんな、ポケーッとしちゃってさ。

仙ちゃんがボソッと、“……はどうしたんだ。ばかに愛想ふりまいて”って言って。

もんじはたちまち不機嫌になった。

もんじはさ、私ほど頭悪くないから。

……や、本気本気。冗談で言ってるんじゃないよ。

きっと、もんじはいさっくんの話聞かなくても、なんとなくわかったんだよ。

いさっくんは、ちゃんの顔を見て、自分が聞いた話の裏付けが取れたような気持ちになったらしい。

言いづらそうに話し始めたニュースはおめでたいことだったんだけど、私はほんとは、聞きたくなかったんだ。

身勝手はわかってるよ。

でもこれまでもずっと身勝手にちゃんの一部だけをずっと好きでいたんだ。

どうしたらいいってのさ。

“……、卒業後はくの一にならないんだって。嫁ぎ先……夏休み中に決まったそうだよ”

いさっくんはつらそうだった。

でも、いさっくんが言いづらそうにしてくれたのは、もんじと私のためだったみたいだ。

明確にちゃんに恋してたのは、五人中二人だけだったみたいでさ。

いさっくんとちゃんは結構喋ってるとこ見たことあったし、私が知ってるよりは仲良かったんだろうな。

きっと、仲良しの人たちが雁字搦めに陥ってるのを見てて、いさっくん、どうしていいかわかんなかったんだろう。

まぁったく、やさしい奴だよなぁ……

参っちゃうよなぁ……

もんじはこれで確実に失恋だったけど、誰も何も言わなかった。

ほら、暗黙だから。

みんなわかってたけど、表立っては何事もなかったはずだったから、何も言えなかった。

でもそのときはそれが良かったんだよなぁ、きっと。

何も言わないことがやさしいことって、あるじゃん。

一方の私は、ほんとはものすごく、落ち込んだ。

……女々しいと思う? 実は今も結構落ち込んだままなんだ。

だってさぁ……予想外だったんだよなぁ。

まさか。

恋に落ちるちゃん──なんてさ。

誰かのこと考えて星キラッキラさせて、お花飛ばしてさ。

卒業してもちゃんはちゃんで、そのままで生きていくってのはわかってたよ。

でも考えたくなかった。

私は私の知ってる限りのちゃんに勝手に恋してるのが楽しかったんだ。

それ以上も以下も必要なかったのになぁ。

知ってしまったら、考えないではいられないじゃんか。

嫁いで、旦那さんに可愛がってもらってさ、子どもなんかできちゃったりして、おかーさんとか母上とか呼ばれたりして。

うわぁ、ないない。無理無理……

世界の終わりの日に一緒にいようなんて、思えっこない。

百年の恋もさめるっつーの。ね。

ちゃんは特別の、たったひとつの好きをあげる相手を見つけてしまったんだ。

あの“にこぉー”っておひさま笑顔は、もう私たちを分け隔てなく照らしてくれるわけじゃないんだなあ。

それは、アレだ、幻滅ってやつだ。

ちゃんが人間になっちゃった。

私は想う相手を見失ってしまった。

思い出に花は咲いても、それは永遠じゃなくてすぐ枯れてしまうんだろうな。

初恋もきれいなばかりではいてくれないらしい。

ああ、上手くいかないもんだ……

こういうのも、失恋なんて、呼んでいいのかな。

なんて言ったら、もんじがまた、小平太、お前はそれだから、って、怒るんだろうか。



図書室でぼんやりしてた。

ちゃんがお嫁さんになるって話を聞いてから、なんかいろいろ身が入らない。

頑張ってるもんじは立派だ。

仙ちゃんのピンポイントを狙ったからかい言葉はものすごく、えぐい。

それに耐えてる時点で立派すぎる。

ギンギンって、疲れるんじゃないかなぁ……

もんじが好きでやってるんだから、別に私が気にする必要とか、ないんだろうけど、さ。

ギンギンやって疲れることで、忘れようとしてるのかもしれない。

だとしたら、もんじってほんと、素直じゃない奴だよなぁ。

不器用でさ。

でも、そういうとこが私らみんな、好きなんだよね。

いさっくんはわかりやすく気を遣ってるけど、それが気に障るらしくてもんじの八つ当たりの的になってる。

ときどき、私にもなんか言いたそうな目を向けてくるんだけど、言ってくれなきゃわかんないんだよな。

いさっくんの目はときどきすごく恐い。

やさしいってのは恐いんだって、初めて知ったのはいさっくんを見てからだ。

もちろん、いさっくんには悪気は全然ないんだ。

でも、やさしいってのは的確すぎて、負った傷に素直にしみこみすぎてさ。

傷をえぐるような仙ちゃんの言葉よりも、やさしく思い出させるいさっくんの言葉のほうが、ときどき痛い気がするんだ。

ごめん、いさっくん。

忘れた頃に、笑い話にしてしまえる頃に、やっぱ私、謝ることにするからさ。

長次は相変わらずだ。

少なくとも、私の目には変わらないように見える。

長次はときどきやっぱり、わけがわかんない奴になる。

説明しないから、私みたいな単純なおつむしてるとよくわからなくて聞き返すことになる。

そのうち諦めて長次は何も言わなくなった。

ほんとは、つかず離れずみたいなさ、なにも言わないで好きなだけポケーッとさせてくれる長次の近くが、

今はものすごく、らくちんだ。

図書室にいても本なんか読まないけどさ。

あーあ。

なんか、失恋てもっと苦しいっていうか……このへんがさ、胸のあたりがさ。

ずきゅーぅんってするもんだと思ってたんだけど。

ショックはショックだけど、なんか想像と違って呆気ない。

その呆気なさに、私は更にショックを受けていたりした。

どうなっちゃうんだろう、私は?

そう思ったあとで、どうしようもないことに気がついてさ。

るーぷるーぷるーぷ。

恋はするもんじゃなくて落ちるもんだ。

長次の受け売りだ。

落っこちたら仕方ない。

底に竹槍なんか仕掛けられてたらひとたまりもないよなあ。

貫かれて痛い思いして死んじゃうかもしれない。

はい上がれないような深い淵だったりして。

落っこちたら、仕方ない……後悔しないように藻掻くしかない。

落とし穴が相手なら、それに抗う術を身につけようとするのが忍だけど。

むしろ落とし穴を掘って相手をはめてやろうとするけどさ。

けど、気持ちは別物だよ。

穴掘って罠仕掛けてなんて、口で言うほど簡単にはいかないよな。

はーっとため息をついたら、後ろで図書委員やってるきり丸が長次になんか言ってるのが聞こえた。

“七松先輩、どうしたんスか。ため息ついて黙り込んでるなんて天変地異の前触れっスよ”

失礼な奴だなあ。

と思ったら長次が帳簿でぱこんときり丸の頭をはたいてくれた。

手を汚さずに逆襲完了。

そのあとに続いた声にびっくりするまで、私は自分できり丸を追っかけ回す気力もわいてこなかった。



「あら、本当。七松くん……元気なさそう」

聞き覚えのある声だった。

振り返ったら、ちゃんが立ってたんだ。

ちょっと心配そうな目をしてる。

ちゃん」

「考え事?」

「うん、ちょっと。大したことないんだけどさ」

へへっ、と笑ったら、ちゃんもちょっと笑ってくれた。

最近あの“にこーっ”っていうのを、あんまり見かけなくなった。

代わりにちゃんは目を瞠るような変化を遂げたんだ。

目の端にちゃんを見つける日々を相変わらず送っていたのに、

そのとき私は、ちゃん、きれいになったなぁ、なんて呑気なことを考えた。

ちゃん、卒業したら嫁に行くんだって」

「え、うん……誰かに聞いたの」

「いさっくんに聞いた。いさっくんは新野先生から聞いたみたいだった」

「善法寺くん? ……そっか」

ちゃんは合点がいった、みたいに頷いた。

「おめでと! ちゃん、いい嫁さんになるよ」

「……うん、ありがとう」

「最近キレーになったもんね。旦那になる奴、いい人なんだね」

「うーん……?」

ちゃんは照れて、疑問系でそう言って誤魔化してしまった。

でも顔が言ってる、嬉しい縁組みなんだって。

そばでまともに話すのは、本当はこれが初めてだ。

会話らしい会話、したことなかったんだよなあ。

近くで見たら、可愛いのはもちろんだけど。

見たことのない表情をいっぱい持ってることに今更気がつく。

本当のちゃんを知って、本当のちゃんを好きになることを遠ざけてた私は、もしかしたらばかなんだろう。

こんなにいい顔いっぱい、するのにな。

きっと、ちゃんが今誰かを好きになっていなくても、知っていたら眩しかった。

憧れはやっぱ、輝いて見えるもんだよな。

私は半分くらい呆けて、とんでもないことをすぱっと言ってしまっていた。

ちゃん、私、ちゃんのことが好きだ」

図書室にいたのは私たちと長次ときり丸の四人だけで、なんか、空気が音立てて凍ったのがわかった。

わぁ、後の祭りってこのことか。

私の頭はどこまで行っても楽天主義みたいだった。

「好きだ。ずっと好きだったけど今も好きだ。嫁に行くって聞いてもやっぱ好きだ」

「……七松くん」

「別にだからどうしろって言ってるんじゃないよ。でも、頭の中で想ってるだけじゃ、終わらないじゃん」

ちゃんは口を噤んで苦しそうな顔をする。

これも初めて見る顔だなぁ。

そして、私はちゃんの“にこーっ”以外の顔も欲していることに気がついた。

ああ、私、なんかすごいぞ。

憧れに恋するのも楽しいもんだけど……失恋率低いしね。

でも、本物のちゃんもやっぱり、いいなぁ。そりゃそうだよなぁ。

成就はしないかもしれないけど。

百年の恋もさます勢いは、本物の恋にしかないだろう。

私はこの先自分が堂々と告げることができるだろう自分の気持ちに期待して満足して、にかっと笑った。

「だからさ、ちゃんとおめでとーって言いたいんだよ。

 頭の中でうじうじしたまま、本気のお祝いって言えないって私思うんだよね」

ちゃんはちょっとびっくりした顔で、でもほっぺを赤くして、小さく頷いた。

「お祝いさせてよ。これから先、ちゃんが楽しく毎日暮らせるようにさ。

 私だって嬉しいんだ。本当だよ。ちゃんを好きになれて良かったって思うんだ。毎日楽しかったから」

ちゃんは泣きそうな顔をして、でも涙は一生懸命我慢して、うんうんって頷いた。

「おめでと! 幸せになれよ!」

うん──ちゃんは聞こえないくらい小さい声で言って、口元を抑えてとうとう泣いてしまった。

あーあ、泣かせるつもりじゃなかったんだけど、

でも泣いた顔も可愛いからいいやって、男って本気でそう思えるもんなんだなあ。

きり丸がまた長次になんか言ってるけど、

聞き耳立ててみたら「すっげぇ、七松先輩かっこいいっスねーっ!」って感動口調だったから、うん、許す!

長次が今度はきり丸をなでなでしたのが見えた。

おお、きり丸居たたまれなさそうだ。

なんかあいつには悪いことしたなぁ、強制的に巻き込んじゃったよ。

一年は組から噂になるかもなあ。まぁいいか。

かっこいい七松先輩で広まってくれればね!

ちゃんは、幸せになる、って私に約束をした。

そうだよ、私が好きになった人だもんね。

あのおひさまみたいな笑顔、曇るようなことがなきゃいいんだけど。

ちゃんは人間になったから、私の頭の中でいかにも偽物っぽい花を咲かせることはなくなっちゃっただろう。

いきなりの告白をちゃんがちゃんと聞いてくれて、私の気持ちは行き場を失わないで済んだんだ。

言ったじゃん、やさしい子なんだって。

良かった、これで私は腹の底から、ちゃんにお祝いを言える。

卒業したら、やっぱり会うことはないだろう。

私は忍になるし。

だから私はいつか来る先、憧れも暗黙もみんな忘れた頃、笑い話になる頃を待つことにする。

二度と会わない初恋の人が、どこかであのおひさま笑顔でいることを祈ってる。