楽園
「……半助さん」
「やぁ……すまないね、こんな時間に」
「どうなさったの」
夜も更けた頃、恋人の思いがけない訪問。
は驚きながらも慌てて彼を招き入れようとした。
これから眠ろうとでもしていたのか、寝間着姿は夜の空気にさらされては頼りないほど肌寒そうに見える。
早くに両親を亡くし、村落の大人達皆の子として育てられたというは、
かつて親子仲良く暮らしたはずのその家に今はひとりで暮らしている。
が腕を引いてくれるままに、半助は家の中へ一歩踏み入った。
「驚いた、こんなに早くお逢いできるなんて」
まだ素直に驚き混じりには言った。
以前の別れ際、次は何か月後になるか、まだはっきりとはわからないけれどと彼は言い置いて去っていた。
それから今日まで、ひと月だ。
それほどあいだがあけば恨み言を言われても仕方のないところだろうに、は嬉しそうである。
逢わない時間が数か月あることにはもう慣れてしまっているふたりだ。
「うん……ちょっと、逢いたくなってね」
「そうですか」
少し照れたようには微笑んだ。
いつもどおりに茶をいれてくれるの姿を、半助は複雑な思いで見つめていた。
は彼がなにをしに来たのかを知らない。
「お仕事、終えられたのですか」
「ああ、まあ……そんなところ」
日常ずっと仕事の中にいるのだというようなことだけを半助はに伝えていた。
その仕事が忍という死と隣り合わせの危険極まるものだということ、
子どもたちに忍の心得を教授していること、具体的な事情はなにひとつ話したことがない。
も、半助がわざわざ言わずにいるところへ踏み込んで問いただそうとする娘ではなかった。
「……こちらは、相変わらずかい?」
「ええ、何も変わりません。村のみんなも元気にしています」
「そう、それはなにより」
湯呑みに口をつけ、薄く微笑んだ半助を、はじっと見つめた。
その目に何か不思議な色を見てとって、半助は顔を上げる。
は俯き、絡みそうになった視線をわざとらしくそらした。
「どうかしたかい?」
「半助さんの仰ることはね。そのまま受け取ってはいけないのです」
どきり、と心臓が音を立てたのを半助は聞いた。
ときどきはやけに鋭い。
その鋭さが発揮されるのは、いつも半助が後ろめたい思いを抱いているときだ。
恋する女の勘と、ただそう呼んでしまうのは、味気のないように半助には思われたが。
は俯いたままで、口元に笑みを描く。
「……お別れを、言いに来て下さいましたのね」
静かにはそう言った。
しばし、時間が止まる。
まったく、君にはいつも敵わない──半助の思考は自嘲気味だ。
「覚悟は、しておりましたから」
「……気取らせていないつもりだったんだけどね」
「半助さんは、顔が正直ですもの。言いづらいことがあるって、戸口に見えたときからそんな顔していらしたから」
「はは……参ったね、どうも」
苦笑した。
「……仕事でね。どうしても、抜けられない……」
やっと手応えがつかめてきたところだ。
やたらめったら手のかかる生徒達が、やっと三年生。
ここからは命をかけることを教えなければならない。
己の命を賭けること、他人の命を手にかけること。
生き死にの左右を教えようという人間が、他にうつつを抜かしているわけにはいかないと、半助は思っていた。
真剣に向き合うべき相手は誰かと半助は自問し、ではないほうを選んだ。
成りゆきをただ言葉にしてしまえば、たったそれだけのこと。
「……承知です。私は存じ上げませんけれど、大変なお仕事に就いていらっしゃるのだとは、思っていました」
涙も見せず、恨み言も言わない。
それがいちばんいいと思った通りの反応を、は半助に返してくれた。
卑怯な男の言い訳とは一緒にしないでほしいと彼は思う。
良くも悪くも、の心が己にかかったままであってはほしくなかった。
できるのなら、まるで関わりなかったように、見も知らぬ赤の他人になってしまいたい。
きれいさっぱり忘れてくれたら、それがいちばんいい。
それは、愛していたのは、本当なのだから。
いちばんいいと言いながら本当にそうなったら、半助のほうには心残りができるのだろう。
思うそばから、望み通りにことが運ぼうとしているのにがチラとも未練を見せてくれないことを、
半助はわずか、ほんの少しばかり、寂しいと思った。
矛盾している己の本心がただただ愚かしい。
まだまだ修行が足りませんな──なんて、同僚の軽口と生徒達の笑い声が脳裏に甦ったりして。
はまだ顔を上げず、繋いだ左右の指の先を少しもじもじとさせた。
その顔に、少しだけ緊張の色が走る。
「……半助さん、私……」
半助は答えず、の言葉を待った。
沈黙がに先を促す。
ややあって、はそのふっくらした唇をおずおずと開く。
「……最後に、もう一度だけ、抱いてくださいませんか……」
思いがけない言葉に、半助の時間だけが、今度こそ止まった。
持ち上げていた湯呑みを取り落としそうになった彼のそばに、が慌てて寄った。
いきなり縮まった距離に、ふたりがふたりとも、今更ながらに緊張する。
抱いてくださいませんか。
の言葉が耳の奥に響いた。
最後に、もう一度だけ……
ただの男としてに逢えるのは、これが最後だ。
そしてもう二度と、狂おしいほど誰かに恋い焦がれることなどないだろう。
愛していると、何度言っても言い足りないなんてことは。
他の誰かを相手にしても。
半助はの腕を引き、そのたおやかな身体をきつく抱き寄せた。
有無を言わさぬように唇を奪う。
最後だ。
これが最後だ。
今宵だけだから。
力にまかせ、半助はの身体をそのまま横たえ、己の身を重ねた。
愛しい女を夢中で愛しているはずの思考の裏で、憎らしいほど冷静に彼は思った。
ああ、これでは、卑怯な男と一緒にするなと、言える立場もありゃしない。
関係を重ねてきた歳月のあいだ、ただの一度たりとも乱暴な男でなどなかった恋人の荒い愛撫に、
は息を弾ませながら必死で耐えた。
表情には快さより苦痛が浮かぶ。
最後の最後にすまないと思いながらも、美しい肌をいじめて乱していく己の行為を半助は止めることができない。
愛し合うなどと口ではおきれいな言い方をしてみたところで似つかわしくなどないだろう。
熱に潤んだその芯を貫いた瞬間、の目から涙が溢れたのが、半助の視界に映る。
己はこの涙を忘れることなどきっとできない。
愛した女の記憶に苛まれながら生きていく──卑怯な男には似合いの罰だ。
悲鳴のような声が細く、半助の名を呼ぶ。
応えるように口づけると、の腕が首に抱きついてきた。
最後に、はこんな思い出を欲しかったわけじゃないだろうに。
だからといってやさしい言葉をかけようなんてことはただの残酷だ。
はっと、が何かに気をとられたようにわずかばかり身をすくめた。
その表情を、驚愕とたとえるか怯えとたとえるか──なにが相応しいかはわからなかった。
震える唇が、声にならぬ声で告げた。
あ、い、し、て、い、る、わ。
その刹那の出来事。
のどもとに、かたく冷たい感触を覚えた。
反射的に半助の身体は動いていた。
抹殺せよ──
気付けば腕の中で、女は息絶えていた。
あんなにも愛したその顔、その目尻を、頬を、はらはらと流れた涙が今は静かにとどまる雫。
「あ……?」
血塗れのののどもとを、呆然と見やった。
思考回路は混乱しながら、半助はそれとはまるで逆に迅速に行動を開始していた。
申し訳程度に衣服をまとい、村落を走り抜ける。
土地勘に劣る己が不利には違いない。
月が隠れてくれたことが幸と出ることをただ祈る。
走って、走って、走って、追ってくる気配が遠のき、かき消え、やがて己の存在にすら気が回らなくなっても、
半助は夜のあいだを縫って走り続けた。
忍術学園の学舎が遠くに小さく見えた頃、空はすでに白み始めていた。
一晩でどれほど走ったのかは想像もつかない。
身体だけが緻密な計算をしたように、学園へ向かっていることを悟られぬような回り道を選んでいた。
汗だくの額を拭い、清流でのどを潤すとどっと疲れが押し寄せた。
水の冷たさがのどを通り抜けて胃に達するのが感じられた。
内側から感覚が覚醒していく。
考えることを拒否している己を半助は自覚する。
ことの真相にはとっくに気がついているというのに、それを認めるのを恐れている。
おさまらない息を飲み込むように、半助は項垂れ、自らを抱き寄せるようにその場にくずおれた。
忍とは、こんなにも己を雁字搦めにとらえていくものなのか。
押し寄せる記憶の波を追いやってしまいたかったが、最後の最後には耐えきれなかった。
その苦さに、重さに、彼は唇を噛みしめた。
あのとき、のどもと感じたかたい冷たい感触は、はがねの感触であった。
己の手にもすでに慣れた忍具である、苦内の切っ先。
の手がその柄を握りしめ、半助に突きつけていたのである。
その手が容赦をしなければ、今頃息絶えていたのは彼のほうだ。
命の危機を知った身体は条件反射で、力弱く抵抗の意志のなかった敵をねじ伏せた。
苦内を握るの手をそのまま逆向きにひねり返した。
半助の身体に隠れた位置で、はのどを貫かれ、その命は絶たれた。
まだ村落から抜けきらぬあいだ、背後に聞こえた遠い喧噪は明らかに混乱を極めていた。
恐らく、策に食い違いが発生したのだ。
悪あがきのように考えることを遠ざけたがりながら、半助はそれでも、その結果を見出すことをやめなかった。
恐らくあの村落は、どこぞの忍たちによって偽装されつくられた村で──
命を狙われる理由には半助とて心当たりがありすぎる。
ここまでのおおごとに発展しながら追っ手が忍術学園に及ばなかったことから、
半助の正体が忍であるという以上のことは、これまでの歳月で彼らは突き止めることができなかったのだろう。
慎重には慎重をと、通う道々警戒を怠らなかったことが今こんなかたちで幸いと出る。
彼らは半助を村落へと引き寄せる要素を自分たちで作り上げることに成功した。
その役に選ばれたというくの一が、彼らの頼みの綱だった。
彼を愛し、彼に愛される娘の役。
自身が半助に手を下す策ではなかったはずだ。
仲間に合図もせず、のどもとでの静かな攻防すらも知らせることもしなかった。
が息絶えたのに仲間達が気付いたのは少し遅れてから──その遅れが半助に逃げ道を与えた。
そして己は今ここにある。
傷も負わず、命も失わず。
(……)
さいごの瞬間に、は声なく囁いた。
“あいしているわ”
のどもとに突きつけられた苦内には、殺意は宿っていなかった。
ふいに彼は、以前の逢瀬の際のを思い出した。
──ねぇ、半助さん。私、とても幸せな気持ちなんです。今ここで死んでしまっても、決して不幸じゃありません。
──縁起でもないことを言わないでくれよ、せっかく久しぶりに逢えたのに。
──でも、思うこと、ありませんか? このままひとつに溶けてなくなってしまってもいいなんて。
──ちょっと難しい感覚だなあ。
──いいんです、わかってくださらなくても。でも、もし同じことを思ってくださったら、
──ないと思うけどな。……でも、私が同じことを思ったら?
──そのときは、ゆっくり、殺してくださいね。あなたの手で。
──嫌だな、ぞっとするよ。
──どうせなら、死ぬ瞬間までずっとゆるりと、あなたを見つめていられたらいいと、思ったのです。
はなにを思ってそんなことを言ったのだろうか。
今となってはわからない。
たった一瞬で奪ってしまった恋人の命。
その身体を乱したまま清めてやることもせず、己の保身のために躊躇いなく離れ、
去り際に一瞬たりと振り返ることすらしなかった。
(……)
名付けようのない想いがただただ、のどの奥からこみ上げる。
地面がぐらぐらと揺れているような錯覚を覚え、身体を支えていられなくなり、半助は地に倒れ伏した。
土と枯れた木々の匂いがする。
今になってやっと、半助は泣いた。
こぼれた涙を土が吸い取った。
“あいしているわ”
標的であるはずの男を、禁じられていると知りながら、は愛してしまったのだ。
くの一であり続けることができなくなり、迷い悩んだ挙げ句に、きっとひとりの女に立ち返ることを選んだ。
とうとう訪れたそのときに、は躊躇わず任務を捨て、愛する男を生かして逃がした──
そして自分は命を落とす。
愛した人に殺されるなら本望だなどと、誰がそんなきれいごとを言えようか。
あたりは徐々に明るさを増した。
半助はしばらくその場に伏して、声も立てずに涙した。
愛していたのは、本当だから。
心残りも、できるじゃないか……
学園へ戻ってからの日常は、情けない己を痛めつけるのにはちょうどよく物騒だと半助は思った。
先生と呼ばれそれに応えてやる。
ありったけの情熱を注ぐと、その分がちゃんと帰ってくるようになった。
吸収のこつをつかめば生徒達の成長は早い。
半助は生徒のため、生徒のためとばかり没頭するようになった。
自分の世話は最後で構わなかった。
いろいろなことを、そうしているうちは忘れられる。
部屋に一人でこもっているときなどは、感情の波が己を苛む。
身体も心も極限まで酷使し疲労させることを彼は己に課した。
忍としてだけ存在する己にまた少しずつ彼は慣れ、身の内に宿る何かがかたく凍りついていくのを傍観した。
なにも感じない、忍のわざにだけ長けた道具とでもなってしまえばいい。
割り切りきれない己は忍としては明らかに未熟だと、半助は己を容赦なく罵倒する。
忍としてのあり方に翻弄されて命を落としたを、けれど愚かとは呼べなかった。
麻痺しかかった感覚で、彼はぼんやりと思う。
知りたくはなかった。
愛した人はただ愛した人の姿のままで記憶に留めておきたかった。
忍の任務で荒れ廃れてゆく己の内にまだ残る人間らしいなにかを、そのまま預けることができる相手。
愛おしくて、大切なひとだったのだ。
真実の愛なら、その人の抱えるなにもかもすべてを飲み込んでなお愛し続ける──人々の口はお気軽に言うけれど。
己の愛しただけを知っていられたらそれでよかったのにと、半助は都合よく考えた。
ああ、夢を見すぎだ──が演じていたうわべだけ欲して、なにが愛していたのは本当……、だ。
自嘲気味にそう考え、彼はまた明日の己を痛めつけることに思いを馳せる。
自暴自棄? それがどうした。
凶暴な思考回路を正すこともできない半助の意識を、ほと、ほとと指先で障子の枠を誰かが叩く音が現実に引き戻す。
このような夜更けに、ひとりの生徒の気配である。
「先生──起きていらっしゃいますか」
頼りない少女の声。
障子を開けてやると、くの一教室三年に所属する生徒がひとり、頼りなさげに立っていた。
「……どうした、授業でわからないことでもあったか?」
「は、い……」
半助は少女を部屋へ入れてやった。
彼女は部屋の隅に所在なさそうに座り、繋いだ指先をもじもじとさせて……言った。
もうすぐ、実習で外へ出るのです。
少女の消え入りそうな声を聞いたそばから、半助は彼女の用向きを悟ってしまった。
ああ、なんて因果だ。
「先生……私、初めては、好きな人が、いいんです。お願いです、一度だけ、抱いてくださいませんか……」
ちいさな身体を震わせて、精一杯、少女はそう言った。
半助はいたずらな巡り合わせを呪わしく思う。
忍のあり方に翻弄されて。
この娘も半助に投げ出し任せようとしているものがある。
俯く姿も、聞こえないほど小さな声も、かつて愛した女に重なって見える。
それが己を駆り立てるようで、半助は少女から目をそらし、背を向けた。
「……部屋に帰りなさい。夜も遅い」
「遅い時間を選んで参りました。山田先生が外出でお留守のときを待ってまで」
親切心で、教師としての立場で、言っているわけではなかった。
頼むよ、今ならまだ間に合うんだ。
少女が引き下がってくれることを半助は願ったが、無駄であったことを悟った。
少女は向けられた背にすがり、泣き声で囁いた。
「お願い、先生……私、先生が好きなんです……」
半助はめまいを覚えた。
ああ、もう、いいよ。
どうでもいい。
こいつも構わないと言っているじゃないか。
半助は肩越しに、冷たい目で少女を見下ろした。
捨てられたねこのような──きっと今の彼女の目がそんな感じだと思った。
「……どうなっても知らんぞ」
「はい…… はい……!」
まだ成長しきらない、汚れを知らないその身体を、半助はほとんど無理矢理のように押し開き暴いた。
身の上に降る辱めに少女はただひたすら耐えている。
か細い声で彼を呼んだ。
先生、先生、先生、……好き。
やりきれなくなる。
知りたくはなかった。
ああ、この子は。
では、ないというのに。
己の本心が求めているものなど、知りたくはなかった。
いつまでもいつまでも、同じところへ固執し続けている己を知りたくなどなかった。
自分を抱く男の目が、自分の中に別の誰かを探している。
明確ではなくとも、少女は半助の視線の中にそれを見てとったのだろう。
ことが終わり、気を失っていた彼女は目を覚まし起きあがると、躊躇うように身なりを整えた。
傷ついた顔をして、なにも言わず目も合わさないまま、半助の部屋を出ていった。
忍たまたちの授業内容は少しずつ過激さを増した。
近々、殺人をおかさなければならない任務をあずけることになりそうである。
複雑な思いであるのは誰も一緒だ。
例のくのたまの任務は成功に終わったと半助は聞いて、ほっとした。
それ以来彼女は、半助とは少し距離を置くようにしているらしい。
このまま風化してしまうのが下手な波風が立たなくていちばんいいだろうと彼は思った。
思ったあとで内心で苦く考える。
自分はいつもこうだ。
そうなればいちばんいいと言いながら、ほらまた、心残りができたじゃないか。
廊下をすれ違う少女達、まだ男も知らない、汚れもない少女達の中に、己が失ったものを探す。
未練がましいと言ったらない。
あり得ないことだとはわかっているが、もし、失ったそれを見つけたら、
そのときは忍の理のなかから何を持ってしても引きずり出して生かして逃がしてやろうと思う。
彼は今もまだ、己自身はその理から抜け出すこともできぬまま、すれ違う少女達にふと目を留める。
探しものは、まだ見つからない。
閉