優しのゆび


「うっ……わぁぁぁぁぁー!」

悲鳴ではない。

歓声である。

ある昼下がりの保健室での出来事だ。

授業や実習で怪我をした生徒がそれを癒すためにやってくる場所で、

普段から校医の新野医師と保健委員の当番生が詰めている。

四年は組へやって来た時期外れの編入生、斉藤タカ丸。

騒ぎの発端は彼だった。

四年生の合同実技実習で、ほとんど恒例のように素人同然のタカ丸は怪我を負ったのである。

彼の編入当時、お家の事情から抜け忍として命を狙われている可能性があったタカ丸だが、

護衛に名乗りを上げた平滝夜叉丸とそのクラスメイトの綾部喜八郎、

滝夜叉丸とことあるごとに競い合っている田村三木ヱ門の三人が今も腐れ縁気味にタカ丸の世話を焼いている。

元よりの気さくな性格から四年は組でも年齢差の割に親しまれているタカ丸だが、

食堂やら風呂場やら合同実習やらでなにとはなしにつるみがちなのは、

それぞれ著しく偏った部分に得手を持つこの三人である。

学年どころか学園中から癖のある生徒と認識されているそれぞれであるがゆえ、

それに動じず構わず接することのできるタカ丸はしばしば敬意のこもった賞賛をあびた。

さて本日の騒動に話は戻る。

生傷の絶えないタカ丸は例によってまた新しい傷を負い、授業を途中で抜けることを命じられ、

手当てのために腐れ縁三人に連れられて保健室へやってきたのである。

そして、タカ丸はそこで運命の出会いを果たす。

「あら、いらっしゃい」

もも色の忍装束はくの一教室に在籍する生徒の証である。

ただし、そこにいたのはタカ丸が今までに出会ったくの一達より格段に大人びた少女で、

恐らくは幻の上級生くの一だと彼はとっさにひらめいた。

「ええと、その制服は四年生ね。ごめんなさい、私あまりこちらの校舎に来ないものだから」

彼女は四人を保健室の中へと招き、タカ丸に傷口を見せるよう指示すると、

迷ったように全員の顔を見比べて必死にそれぞれの名を絞り出そうとしている様子である。

普段なら私の名を知らぬとはと憤慨するだろう滝夜叉丸がやけに大人しいので、タカ丸はそろっと横目で彼を見やった。

不機嫌な顔をしているかと思いきや、口元には微笑すら浮かべているではないか。

さすがの滝夜叉丸も、委員会の委員長と年上の女の人には弱いのかとタカ丸は悪気なく考えた。

「なんの。お気になさることはありません。私の名は平滝夜叉丸」

名を聞いて、くの一はぱっと明るい顔になる。

「ああ、学園一の戦輪の名手!」

滝夜叉丸はすっかり気をよくし、でれりとしまりのない笑いを浮かべた。

逆にカチンときたらしい、ムキになって言うのは三木ヱ門であった。

「わっ、私は田村三木ヱ門!」

「あなたも知ってる! 過激な火器の扱いにかけては学園ナンバーワン!」

今度は三木ヱ門が満足そうに息を吐いて笑った。

(おやー……すごいなぁ、二人ともにこにこさせちゃったよ)

扱いの難しい生徒という意味でも学園一を争えそうな二人とも評判なのに。

タカ丸はほほぅ、と感心の目でくの一を見た。

「……これが所謂“喜車の術”の導入ですよタカ丸さんお勉強になりましたね」

耳元で句読点ひとつ入らないだだ流しのセリフを囁かれ、タカ丸は一瞬わかりやすくびくっとはねた。

相手がつかみ所のない雲のような性格の喜八郎であったから尚のことタチが悪い。

「何を失礼なことを言うか喜八郎!」

「そうだ! 先輩は心からそう言ってくださっているというのに!」

何から何まで張り合っている二人が絶妙のタイミングで反論した。

「喜八郎……綾部喜八郎くん! 作法委員の?」

「はいそうです」

「お噂はかねがね! あなたのところの委員長がよくあなたの自慢話を聞かせてくれるの」

くの一は可笑しそうにくすくすと笑った。

微笑んだときに眉尻が少し下がるのが可愛らしい人だとタカ丸は思う。

見れば喜八郎も、いつもどおり涼しげな表情のなかに少し照れが混じった顔をしている。

恐らく四年生の三人よりは年上だろうこのくの一は、他人との距離のとり方を実によく心得ている。

髪結いとして客を相手にやりとりを経験してきたタカ丸は、

彼女の駆使する相手に添うような心の寄せ方に非常な感慨を受けた。

「ちなみにこちらは御存知ないでしょう。先日途中編入してきたばかりの斉藤タカ丸さんです」

滝夜叉丸に示され、タカ丸は控えめにぺこと頭を下げた。

「いいえ、知ってるわ! 髪結いさんでしょう、後輩達がお世話になって」

「あ、いえいえどうも……」

「確か、四年生に編入なさったけど、十五歳……?」

「あ、そうです」

「じゃあ同じ年ね」

くの一はにっこりと笑った。

「私、くの一教室六年生のです」

「あ、どうも……四年は組の斉藤タカ丸です……」

一度紹介を受けたあとにも関わらず、タカ丸はまたしてもぺこと頭を下げた。

惜しげなく笑ったの眉尻がまた少し下がる。

それで困った笑みや苦笑に見えないのが不思議なところだ。

可愛く笑う人だなぁと、タカ丸はまた素直に同じことを思った。

「やけど混じりね、火薬を使ったの? 治るまでには少し時間がかかるかもしれないわ」

は少し困ったような顔をした。

校医の新野医師は席を外しており、保健委員は今この場に誰もいない。

「せめて善法寺くんが来てくれたら、かなり適切な処置ができるのだけど……」

保健委員長は休み時間のその都度に、保健室に近い場所にいれば必ず顔を出すらしい。

もう授業終わりの鐘も鳴る頃だから少し待ってと、が言い終わる前に鐘の音が響いた。

先輩はぁー」

「あら、先輩なんて呼ばなくても。同じ年なのだし」

「でも、俺四年ですから」

タカ丸はそう言うと、なんとなくを真似たように眉尻を下げて笑ってみた。

自分の場合は困った笑みになってしまったらしい。

がなんだか気遣うような表情を浮かべたので、おや失敗、とタカ丸は内心で舌を出す。

誤魔化すように話を続けた。

「先輩は、授業は?」

「ええ、実習が近いので、準備期間で自由行動を許可されているの」

ほー、と行儀よく正座して並ぶ四年生三人が反応した。

喜八郎ひとりは落ち着きなくきょろきょろと保健室内を見回している。

その意図がどこにあるか分からず、彼をあいだに挟んで滝夜叉丸と三木ヱ門は少し困惑気味である。

とりあえず応急処置だけねと口では言いながらも、

さすがに手際よく手当てを始めるをタカ丸はなにげなく見つめていた。

傷口を角度を変えて見ようとが首を傾げたとき、背にかかっていたその髪が、ぱらりとその頬にかかった。

言わずもがなである。

タカ丸は瞬間、目を奪われた。

「うっ……わぁぁぁぁぁー!」

悲鳴ではない。

歓声である。

はびっくりして顔を上げ、何度かこの光景に立ち会ったことのあるらしい三人はまたかと諦め気味に目を見合わせる。

「ええと……お薬、しみた? ごめんなさい」

「違います! うわぁぁぁ!」

怪我の痛みも何も忘れ、タカ丸はがばっとに食らいつかんばかりに距離を詰めた。

「ああ! なんっってきれいな髪!」

初対面しばらくの女性に対しては不躾が過ぎるほど近い距離で、タカ丸はまじまじとの髪を見つめた。

泣かんばかりに目はキラキラと、組み合わせた手は願いをかけるが如し。

やがて廊下を慌てて走ってくる音がし、いったいどうしたと保健委員長が顔を出した。

噂の編入生が同級のくの一に迫っている姿を見て、一瞬彼の時間が止まる。

「先輩! 俺もうあなたみたいな人を待ってたんですホント!」

「え……ええーと……?」

少し引き気味に、はいつの間にかギャラリーに加わっていた善法寺伊作の姿を認め、助けを求めるような目を向けた。

伊作はそれで我にかえる。

「ほ、ほら、が困ってるじゃないか」

「あ、善法寺先輩〜」

一言はさむとタカ丸は何事もなかったかのように伊作をかえりみ、こんにちはと頭を下げた。

拍子抜けしそうになりながら、伊作は保健室に踏み入った。

「また怪我したの、斉藤」

「はぁ、やっぱり初心者だと四年生からでも厳しいですよねぇ」

「そりゃあそうだよ。、僕がやるから」

伊作はと場所を変わり、タカ丸の手当てにまわった。

さすがに保健委員長の手並みは他とは違う。

補佐にまわったに的確な指示を与えつつ、てきぱきと手当てを進めた。

は包帯やら薬やらを用意しながら、所在なく座ったままの四年生三人に声をかけた。

「お昼よ、食堂に行ったほうがいいわ。それに、ここはもうすぐ六年生の巣窟になるから」

避難しなさいと苦笑する。

効果てき面の忠告に、三人は素直に立ち上がる。

「ええー、俺だけ置いてけぼり? 俺も避難したいよー。今日のCランチ俺の好物だよー」

「わがまま言わんでくださいよ、タカ丸さん」

「やけどはあとが残ったらのちのち厄介なんですからね」

めっそり、とへこんだタカ丸に滝夜叉丸と三木ヱ門はどこか楽しそうに言い、続けて喜八郎が

「いいじゃないですかタカ丸さんそのあいだ先輩を口説いていれば」と畳みかけ、

聞いていた伊作がぎょっとしたように顔を上げた。

、何されてたの」

「変な言い方しないでくださいよ、善法寺先輩……」

同級生達を見送りつつ、髪がきれいだったからとタカ丸が小声で言い訳するのを聞くと、

伊作はああなんだ、と途端に興味を失った。

は斉藤とは初対面なの? 彼の癖だよ、それ」

「六年の巣窟メンバーには立花先輩もいますかねっ!?」

タカ丸はふん、と気合いの入った鼻息を出した。

「いるよ、いつもの委員長メンバーだから。もんじと、仙蔵と、こへと、長次。留もすぐ来るって言ってたし」

「うるさくなるわねぇ」

「ま、今日はここで休んでいる病人、いないからね」

「怪我人ならいますけど〜」

タカ丸が苦い顔で挙手をし、がまたくすくすと笑った。

伊作の言うとおり、ひとりふたりと六年生委員長メンバーが集まり始めた。

手に手に昼食の盆を持ち、混み合う食堂と離れた場所で好き勝手にのんびりしようという目論見である。

「おう、。来てたのか」

「実習じゃなかったのか、お前」

「ええ、……明日の昼、発つわ」

口々に問う文次郎と仙蔵に、薬品が欲しかったからとは答えた。

仙蔵は少しうんざりした目でタカ丸を見、お前もいたのか、髪結い、と呟いた。

「はいー、怪我しちゃって」

「……火薬不足に加え方向音痴の大国火矢ってところか」

「おおっ、さすがは学園一の火薬の使い手! すごいついでに髪触らせてください、先輩!」

「大国火矢に大した火薬は使わんだろう。どさくさまぎれに妙なことを言うな」

散々タカ丸の餌食になったことがあるらしい、美しいストレート・ヘアの持ち主、仙蔵はつれなく言い捨てた。

ちぇ、とタカ丸はしばししょんぼりしたが、割とアッサリ、思いきりよく立ち直った。

「じゃあやっぱ先輩の髪ですねー! お願いですってー!」

「えー……ええと……」

「女の人の髪に軽々しく触るのは失礼ってわかってますけど、俺髪結いですから! これが仕事ですから!!

 決して下心なんかないですから──!!」

「当たり前だッ!!」

下心、の一言に文次郎が牙を剥いた。

文次郎がタカ丸をそのままやりこめるあいだ、また廊下が騒がしくなり保健室への来客が増え、

結局は委員長六人全員が揃ってしまった。

そのあいだにはとうとう言い負かされて、タカ丸のために髪をといてやる羽目になった。

委員長達は親しい少女の珍しい姿にじっと見入っている。

「ああー、至福……いいですねぇ、女の人は飾り甲斐あるし。ホントはすそがちょこーっと傷んでるのが気になるけど〜」

「斉藤くん。黄泉の国垣間見てみる?」

「いいやいやいや!! 遠慮します!」

はぁー、ともも色のため息をついて、タカ丸はまさになんの下心もなしにの髪に擦り寄った。

がぞわりと身体を震わせ、手当ての続きをしていた伊作はその手を止めると

遠慮なくタカ丸の頭にばっちんと突っ込みパンチを食らわせた。

「いさっくん、グッジョブ!」

小平太がぐっと親指を立て拳を突き出し、伊作はさらりとうんと頷いて何事もなかったように手当てに戻った。

「……髪結いが天職でしょうに、斉藤くん」

が静かにそう言った。

「あは……やっぱそう思います?」

「乱太郎くん達から、お家のお話も伺ったけれど」

「ああ、まぁ、父さんもじーちゃんも忘れてたくらいですから、忍の仕事……」

懐から櫛を取り出し、タカ丸はの髪にスッとさし入れた。

「な・なんか、くすぐったい……」

が身をよじったのを見て、一同がなんとなく気まずそうに目をそらす。

おやぁ、とタカ丸は目の端にそれを認めて面白がった。

なんだ、みんなこの人のことが好きなのか。

はわざとやっているわけじゃないだろうが、思わせぶりなセリフを平気で吐いた。

「斉藤くん、手加減して……あんまり人に触られるの、慣れていないの」

「はーい。やさしくしますよ〜」

さすがはくの一といったところかと思いながら、タカ丸も悪のりして応じる。

包帯を巻く伊作の力加減が増したと思うのは気のせいではなさそうだ。

しかしあまり意地の悪いふりをしても、六年生を相手にしてはあとが恐い。

タカ丸は手早くの髪をまとめ、きちんと結い直してハイ終わりと告げた。

「先輩、今度本当にちゃんと髪結わせてくださいよ。ほら、どっか出かけるときとか、デートの前とか!」

六人を遠回しにからかうつもりで、タカ丸は明るく言った。

がぴくりと何か反応を見せ、あれ、なんだか──タカ丸は少し焦る。

予想した結果ではなかった。

よく見ればだけでなく、六人もタカ丸を少し責めるような殺気をまとっている。

気配が読めるほど忍上手ではないタカ丸だが、自分に向けられた悪意くらいはわかって然りだ。

あれ、どうしたのと、問える空気でもない。

誰もが何も言いかねるところ、いちばん気を遣ったらしいが口を開いた。

「……じゃあ、実習から戻ったら、お願いしようかな。髪、切るつもりだったの」

「え、き、切っちゃうんですか。それはもったいない気がするなぁ……」

「ずいぶん長いから、重くなっちゃって。それに、近々……失恋する予定なの」

「え……」

困惑するタカ丸に構わず、は立ち上がった。

「よろしくね。食堂に昼食をもらいに行くけど、斉藤くんもここで食べる?

 Cランチがいいのよね? 残っているといいけど」

「あ、どうも……」

「善法寺くんは?」

「うん、に任せるよ」

が何事もなかったかのような顔で出ていってしまい、ぽかんとしたままタカ丸はしばし何も言えなくなってしまった。

文次郎がチ、とわざとらしく舌打ちした。

「馬鹿者、お前、斉藤」

「……なんか、悪いこと言いました……ね、俺」

原因がわからないながら、タカ丸はまためっそりと落ち込んだ。

はくの一としては失格なんだよ」

留三郎はさらりとそう言うと、なんでもないことのように飯を掻き込み、また言った。

「実習の標的の男に惚れちまったんだ。いずれ自分で殺すとわかってる相手にな」

「ええ? それは……」

「学生の実習ったって、命かかってるからさー。私らもちゃんには何度も忠告したんだけどな。

 自分でもわかってることをわざわざ私らに注意されて、いっぱい泣いて泣いて、諦めきれなくってさ」

ももう、自分でどうしようもないところまで行ってしまったのがわかっているから。

 ……明日から何度目かの実習に出て、上手く運べば今回でこの任務は終わるはずなんだ」

小平太、伊作が話を引き取り、仙蔵が結ぶ。

「それでは失恋、というわけだ、わかったか、髪結い」

「……はい」

事情を知らなかったとはいえ、デリカシーのないことを言ってしまった。

はきっと傷ついただろうと、タカ丸は心を痛める。

だからといって謝ることが正しいわけではなくて……タカ丸は考えた。

俺が先輩にしてあげられること。

手の中に残る櫛を見つめた。

「……勿体はなかろうが……」

ふいに、ずっと黙りこくっていた長次が言った。

初めて聞いた長次の話し声にタカ丸はわかりやすく驚いて顔を上げる。

長次は特に動じた様子もなく、続けた。

「……実習から戻って、が望めば……あいつのいいように、してやってくれ」

「下手な慰め方すんじゃねぇぞ」

脅しをかけるように、文次郎がどすのきいた声できっぱり告げた。

女の人は、失恋したら髪を切るなんてよく言うけれど。

その想いを受け取って、実際にはさみでそれを断ち切るのは、髪結いなのだ。

タカ丸は久しぶりに、自分の手の上に戻った髪結いの責任の重さを感じた。

髪に触れる技術でも、客をリラックスさせる話術でもない。

想い断ち切り、鏡の中に新たな自分の姿を見つけたとき、あの人が心っから笑って見せてくれますように。

タカ丸はそう思った。

「……愛されてますねぇ、先輩」

ぼそりと呟いた同年の後輩の言葉に、六人はきょとんとした。

あれ、無自覚だったのかなとタカ丸は意外に思った。

しばらく彼らは黙ったままで目をそらしたり見合わせたりしていたが、

廊下の外にの戻る気配を認めると、してやったりとでも言いたげににやりと笑った。

「愛? フン、軽いな」

文次郎が挑戦的に言い捨てた。



翌朝、タカ丸は起き出してすぐに自分の身なりは簡単に整え、髪結いの支度をして長屋を飛び出した。

くの一屋敷へ勝手に入ることは禁じられているが、タカ丸は躊躇しなかった。

流行に敏感なくの一たちに招かれ、タカ丸はしょっちゅうくの一屋敷へ足を踏み入れていた。

中の構造は大体わかるが、仕掛けられた罠に引っかからずに進める自信は正直いってないに等しい。

そこは四年とはいえ入学したての初心者だから。

「誰です、そこ」

思ったよりも呆気なく山本師範に見つかってしまい、タカ丸は覚悟を決めて考えてあった言い訳を並べ立てた。

「あの、僕は、四年は組の斉藤タカ丸です。

 先輩に髪結いの用事を頼まれたのでお邪魔しました……あの、実習の前にと仰って……」

「私は聞いていませんけどね。まぁ、いいでしょう……」

仕方なくといった様子で、山本師範は招き入れてくれた。

別れ際、きれいにしてやって頂戴ね、好きな人の前では女はいちばんきれいでいたいものだから、と彼女は言った。

さすがにくの一の先生にはも隠しきれなかった様子だ。

悩んで迷って苦しんで、くの一としての任務を全うする方の選択肢を、は選んだらしかった。

「……先輩。朝早くにお邪魔します、斉藤タカ丸です」

「斉藤くん?」

驚いた声が障子の向こうから聞こえ、躊躇いなく開けられた。

「あら……どうしたの」

「えと、髪、結いに来ました。……お出かけの前に」

は何か言いたげに、少し低い位置からタカ丸を見上げたが、何も言わずに彼を部屋へ入れた。

鏡の前にを座らせ、その髪をとき、櫛を入れた。

「……みんなから実習の話を聞いたのね?」

「はい。聞きました」

正直にタカ丸ははっきり答えた。

「ばかだばかだと言われたのよね、特に潮江くんとか七松くんあたりに遠慮なく罵倒されて腹立っちゃった」

「はは……あ、ちょっとはさみ入れますよ」

枝分かれして傷んだ髪のすそをちょんちょんと切った。

「器用ね」

「そりゃ……髪結いですから。天職って言ってくれたでしょ、先輩」

「そうね、そういえば」

「俺、まだ頭のどこかでは髪結いになるんだと思ってます。こんな学校にいても」

「……忍をやめても立ち帰れるところがあるのは、いいことだと思うわ」

は口元に薄く笑みを浮かべていた。

ああ、こんなときまできれいな人だと、タカ丸は少し切なくなる。

「山本先生も、きれいにしてあげてって言ってくれました。

 先輩、俺に任しといてください。世界一きれいにしてあげるから」

「ふふ。カリスマ髪結いさんの腕を疑ったりはしないわ」

「うん、信じてくれてオッケー。着物、何色?」

「これよ、今着てるこのままで行くの。

 桜色のグラデーションに白抜きで花模様、可愛いでしょう? 気に入ってるの」

「へぇー、きれいだね。女の人らしい色」

そうでしょ、と言っては嬉しそうに笑った。

過酷な実習に発つ直前とは思えないほど普通だ。

いつの間にか敬語を使わずため口をきき始めていた自分に、タカ丸は気付いていなかった。

「着物が淡色だから、髪には少し派手な色を差したほうがいいかなぁ。いろいろ持ってきたんだけど──」

「わ、見せて」

タカ丸が抱えてきた道具のうち、飾りや紐が入った箱を引き寄せる。

は楽しげにそれを覗き込んだ。

「先輩も、女の子だねぇ。くの一の子たち、その箱見るの好きでさぁ」

「そりゃあそうよ。玉手箱みたい」

「開けたら年食っちゃうよ、それじゃあ……」

二人は楽しそうに笑い合った。

実習の役どころは町娘と聞き、タカ丸はそれらしく髪を結って、

と一緒にかなり真剣になって悩んだ挙げ句選んだ飾りをあしらった。

「どうもありがとう、斉藤くん」

「いいえー、何ほどもお役に立てませんで」

「そんなこと……」

は目を伏せ、静かに微笑んだ。

タカ丸は何か言おうとしてちょっと口をぱくぱくとさせたが、結局何も言えないことに気がついて、そのまま押し黙った。

のその表情には、言葉にしなくても伝わってくる何かが宿っていた。

「……本当に、ありがとう。切ってしまう前に、斉藤くんに結ってもらえてよかったかもしれないわ」

「そ、そうかなぁ。そう言ってもらえると──」

照れ笑いを浮かべ、タカ丸は頭を掻いた。

「……帰ってきたら、また、お願いね」

「うん。準備して待ってるから。気をつけてね、先輩」

「ええ、精一杯……やってくるわ」

道具を片付けて部屋を出、廊下を少し行ったところで、の声がわずか、囁いたのが聞こえた。

「……わかったような顔をしないでいてくれて、ありがとう」

タカ丸は振り返った。

部屋の障子は閉め切られ、タカ丸の感覚では誰の気配もつかめはしなかった。

無人の廊下を行く。

くの一の屋敷を出て忍たま長屋に戻ると、

ちょうど早朝訓練と朝一番のけんかを終えたらしい滝夜叉丸と三木ヱ門に出会う。

タカ丸にとってはいつもと変わりのない、すでに慣れ当たり前と化した一日が始まる。



はたったの三日で実習を終えて戻ってきた。

くの一としてはかなり優秀なのだと、タカ丸は委員会で年下の先輩・久々知兵助に聞いて知った。

六年生の委員長達がずいぶんにご執心でというのは学園中の噂ではあるのだが、

愛では軽いと文次郎が大口を叩いたとおり、彼らの素直な愛情表現は恋愛感情のそれとは少々違うようだ。

性別を越えて抱いた信頼と仲間意識。

十歳の頃から六年間も顔を合わせてきたお互いなら、幼なじみと言えなくもない。

遠慮も少ない間柄で、彼らはお互いによいところは高めあい、悪いところは誤魔化し言葉に頼らずに指摘する。

言われて腹が立ったのだとが言ったのをタカ丸は思いだした。

確かにいちばん気遣いなんてことをしなさそうなのが文次郎と小平太だ。

自分でもわかりきっていたことを言われて、どうしようもなくなった感情は行き場を失っていただろう。

ひとりで腹の底に想いを抱えて、この三日でことが済むまでどんなに苦しかっただろうと、タカ丸はを想った。

そうやって忍の仕事への理不尽を思いやり、人の感情を大切に考えたがる自分は、

やっぱりまだ忍ではないのだなと考える。

人間らしく思いやる感情を誰しも持ってはいるけれど、

きっとのまわりにいる人たちはそれを押し殺すことをしっかり覚えて徹底している人ばかりなのだ。

弱音を吐けない環境が耐性の強い人間を作り出すかもしれないけれど、

だとしたらタカ丸が早朝を訪ねていったことは、にとってはマイナスだったろうか。

ぼんやり堂々巡りの考え事を巡らすタカ丸は、の実習があけて以降初めてと行き会った。

先日負った怪我の治療のためタカ丸は保健室へ通っており、はその前の廊下に立っていて、

相変わらず彼女を取り巻く委員長組六人と一緒に何かを話し込んでいた。

は実習前と特に変わらず、話しながら笑ったり、楽しそうに相槌を打ったりしていた。

無理をしているように、タカ丸の目には映る。

六人が先にタカ丸に気付き、続いてがゆっくりと彼を振り返った。

たったの三日少々で、少し痩せたんじゃないかと彼は思った。

「おかえり、先輩! 無事でよかったね」

「うん、なんとか」

ちょっとかすっちゃった、とはタカ丸に歩み寄りながら、左腕に巻かれた包帯を示した。

「まだまだね」

「そんなことないって。くくち先輩から優秀なくの一だって聞いたよ」

「ふふ、やさしい子だものね、久々知くん。短所には目を瞑ってくれたんでしょう、きっと」

「まさかぁ」

保健室でのやりとりより明らかにフレンドリーになっている二人に、見守る六人は訝しそうな視線を送る。

「……そうだ、あの、髪……ありがとうね。斉藤くんに結ってもらってすごく上手くいったみたい」

「あー……そう……?」

「……世界一きれいだよ、だって。斉藤くんと同じこと、言ってくれちゃって……」

自分の手にかかり今はもうこの世にない人の声を、は思い出してしまったのだろう。

話す声が消え入るように弱くなり、耐えきれずには泣き出してしまった。

「わっ、わぁっ、先輩〜」

タカ丸は慌てて、よしよしととりあえず俯くその髪を撫でた。

「だいじょーぶ、だいじょーぶ……」

は小さく頷いた。

「女の人にはね、好きな人の前で世界一きれいになれる方法があるんだ。

 それが手伝えて、すごいよかったと思ってるよ。ね」

嗚咽を噛み殺し、答えることのできないはまた頷いた。

タカ丸はそれに頷き返す。

「ごはん食べて、お茶飲んでさ、そしたらまた……髪、結わせてよ」

何度でも言ったげるよ、先輩、世界一きれいだよ。

嘘じゃないよ。

俺に任しといて! ね!

カリスマ髪結いの力説に、はまだ目に涙をたたえながら、それでも顔を上げた。

「……ありがとう」

微笑んだ。

眉尻がほんの少し下がる、あの可愛らしい微笑。

「あ、笑った! よかったぁ」

タカ丸が素直に安心した様子を見せると、はごめんねと言って涙を拭い、また微笑んだ。

の後ろでは馴染みの六人が白けた目でタカ丸のほうを見ている。

俺らの前では涙ひとつぶ見せもせん、あの強がりが、と文次郎が吐き捨てたが、タカ丸には聞こえなかった。



その日の夕刻、タカ丸はまたの髪に櫛を入れた。

ときどきはさみを入れて長さを変える。

ねぇ、先輩、重いところ、俺が切って軽くするから、先輩が抱えていたいものは無理に捨てなくていいよ。

だいじょーぶ、だいじょーぶ、世界でいちばんきれいにしてあげるから。

それが俺の仕事なんだ。

誇っていいかな。

は鏡越しにタカ丸を見つめた。

「……私、今のこの長さ、涼しくて気に入ったわ」

「ん、でしょー? ありがと!」

俺の力作、なんてったって世界一。

聞いては心から嬉しそうに微笑んだ。