声にもならない


あとにも先にも──と、彼は言いたかった。

今の状況をたとえるならその言葉が当てはまる気がしたのである。

この世の中から音が消えてしまったのかと思うような静寂が横たわるなか。

いや、それとも俺の耳がどうかしたのかもしれないなと、彼──食満留三郎はそう思った。

耳どころか感覚すべてがこの静寂にゆるやかに殺されていってもおかしくないのが今のこの状況、

あとにも先にも、である。

いつもと変わらない放課後のはずだった。

もう少ししたら夕餉の時間を告げる鐘でも聞こえる頃だろう。

現状おかしいことになっている己の耳がちゃんとそのときはたらいてくれるならの話であるが。

感覚が麻痺してやがて死んでいくというよりも、

感覚が各々感じるべき外側からの刺激について興味を失ってしまった、というほうが正しいかもしれない。

彼のすべての神経は今、目の前にいるひとりの女にだけ興味をそそいでいて、

世界中の他のすべては無価値無意味と化してしまっているのである。

特別親しかったわけではなく、実はろくに話もしたことがない。

同じ学年のくの一というだけで多々関わる機会があったことは否定しない。

けれど情報としてこの女についてわかっていることは性別──見てかくあるとおり──と年齢、

それにという名だということ程度であった。

成績がどうとか、実習任務がどうとか、委員会がどことか、

学園に存在する生徒としての最低限の情報すらも彼は把握していない。

いつもはくの一教室の他の生徒と一緒にいて、その中に埋もれている。

多くの人に混じるといきなり存在感の薄くなる娘で、

たとえば己らの少々よこしまな話題の矛先が目の前を過ぎる同年の少女達に向いていようとも、

なぜだかの名は話題の中に挙がることがなかったりするのである。

誰もこいつを知らないんだろうかと、留三郎は常々不思議に思っているほどだ。

けれどそのはずはないのである、他でもない己だけはのことを知っている。

滅多なことではひとり行動を起こさない娘だが、ときどきひとりで歩いていたりするのを見かけると、

周りを人が取り巻いているときにはまったく気付かなかった深い存在感を感じ取ってはっとする。

気配を殺すように印象を殺しているのだろうかと彼は想像してみたが納得はいっていない。

よく見るととても美しい娘なのである。

友人達といても口を開くところをあまり見たことがなかったが、

物静かで思慮深そうで、この年齢のわりにやけに落ち着いているなと思わされる。

自制が強いのかもしれないが、だとしたらそれは任務の際に技能としてよくよく生きることだろう。

目鼻立ちは整ってはいるがその印象は大人しく、目を留めずにいられない華やかさとは縁遠く思われる。

彼に言わせれば、が美しいというのはつまり見かけのことではないのである。

話をすることもなく、相手のことを密かに知りたいと画策するでもなく、

ただ日常でわずかに互いのゆくあてが交錯することがあるならばその都度なんとなく気にかけて、

漠然となんていい女だろうかと思ってはいい気分でその日は暮れてゆく、

そんなことがいつからどれくらい続いているのか留三郎はすでに覚えてなどいない。

誰かをこのように気にかけるということはともすれば恋愛の芽生えではないかと思わないでもなかったが、

あまりにが留三郎から距離のある存在であり続けていたがため、

理想を押し付けて想ってしまっているような、またそもそもが恋に恋する程度のことのような、

そんなあやふやが先に立って留三郎自身が己の感情の転がる先を見据えかねていたのである。

なんとなく気にかかる相手というそれだけで今のところ彼は満足していた。

そのうち話をしたりする機会でもあれば、あやふやな己の感情もゆくさきを定めることができるだろう。

彼はそう考え、いつもどおりの日常を今日までもずっとずっと、繰り返してきたのであった。

そして今、あとにも先にも、と彼は考える。

目の前の女はなに一言も彼に言うことをしていない。

そろそろ作業を切り上げようかと、用具倉庫でひとり委員会の仕事を続けていた留三郎は振り返った。

開けたままの倉庫扉からは暮れていく日が赤く射し込んで、

まるで一瞬異界に溶け込んだかのような錯覚を思い起こさせた。

眩しいと目を眇めたとき、おぼろげな異界の光景に人影がふっと現れたのである。

留三郎は目を瞠った。

用がなければ他の生徒が来るはずのないこの場所に、よりにもよってが迷い込むとは考えられなかった。

心臓が一瞬、どくんと跳ねたのを彼は自覚した。

赤い光を背に負ってかげのさした顔は、間近で見ても相も変わらず美しかった。

言葉もない──あとにも先にも、どちらへも行くことができない。

平気そうな顔でを見下ろす裏で、留三郎は考えを巡らせ続けた。

沈黙が訪れる。

はまっすぐにただ彼を見つめ見上げ、唇を引き結び、何も言おうとしないでいる。

あとにも先にも、俺はどっちへ行きたいと思っているんだろう。

頭のどこかがはじき出した結論がさせたことなのか、彼は思いがけずじり、と一歩へ近づいた。

の表情は変わらない。

なにも言わず、その目になんの感情も映すことなく。

何か用事か、要るものでもあるか、問えばいいのに留三郎もやはり言葉を失ったままであった。

人とのあいだに起こる沈黙を彼は気まずく思うたちであったが、

なぜかとのあいだに今起こっているこの静寂なる世界は居心地が良いように感じられた。

互いを取り巻いている世界の何もかもがざあっと遠ざかっていったようだった。

なんの前触れも予兆もなかった。

は彼を見上げたそのままの顔で、ぽろりと涙をこぼした。

気にかけていた女が目の前でいきなり泣き出せば、

任務でもない限り取り乱すのが普通かと彼は不自然なほど冷静に考えた。

言葉もなく、が己の目の前へやってきた目的はこれで果たされたのである。

しばらくそのまま滂沱してから、はやっと気がついたようにはっと少し口を開いた。

の細い指が涙を拭ったのを留三郎は見たが、はいっこうに泣きやまなかった。

留三郎の前で泣くつもりはなかったのかもしれない。

見られたくないと言いたげに深く俯いたが、ぱたぱたと落ち続ける涙が土蔵の土を濡らしていく。

言葉にもならないほどの万感の想い──あふれ出したそれは涙になって流れていく。

留三郎はふっと息をついた。

が少し目を上げる。

まだ涙が宿ったままのその目と視線が絡んだ。

留三郎はの顔を覗き込み、なにもかもわかっているから、そう言いたそうに少し口元で笑い、

その至近距離でをちょいちょいと手招いた。

は驚いた顔もしなかった。

招かれるままに一歩二歩と留三郎に近づき、引き寄せられるように彼の胸に倒れ込んだ。

留三郎は躊躇いもせずに、ごく自然にの身体を抱きしめる。

耳元でがほっと息を吐いたのを留三郎は感じた。



(ずっと好きだったの)



沈黙は沈黙のままに横たわり、寄り添ったままで二人はなにも言わなかったが、

互いのあいだには確実に同じ想いが行き交い通じ合った。