マイナス事情


滅多にない幸運だと思った。

滅多にないどころの話じゃないと本気で思った。

というか今も思っているんだけど。

けれどこのことを知ったみんなは、揃ってうわ、不運、ていう顔をした。

みんな僕のことをなんだと思っているんだろう。

しまいには怒るぞ。

このこと、というのは、ええと、順を追って話すとするとね……

その、ふられ覚悟の告白を、受け入れてもらえたってこと。

医務室で二人きりになってしまって、僕がひとりで舞い上がってしまっていただけなんだけど、

その勢いと、場の空気がそういう方向に向いているような気がしたのとで、

まさか今日告白するなんて僕も思っていなかったんだけど、唐突にそういうことになってしまった。

いや、ほんと言うとね、最初はダメって言われたんだ。

彼女、ええと、さんていうんだけどね、私なんか、ていう言い方するんだ。

自分を卑下しなきゃならないようなところのなにひとつない人だというのに。

これまでも何人かの忍たまとお付き合いがあったらしいことは僕だって知っている。

それを僕は、ただ遠くから見ているだけだった。

恥ずかしいことに、自分で努力して彼女との距離を詰めようなんて考えもしなくって。

偶然に偶然が重なって……僕の場合偶然が重なると悪い目に遭うことのほうがなんだか多いんだけど、

さんは最後には折れて、よろしくねと言ってくれた。

まともに返事もできなくて、あとから思いだして落ち込んじゃったなぁ。

思えば、さんは割と六年忍たまと仲のいい人で……あ、さん自身も六年生なんだ、くの一教室のね。

で、六年の忍たまとも友達づきあいがあって、よくこっちの校舎や長屋に足を運んでいた。

文次郎や仙蔵なんかは実習で組になったこともあるらしくて、そのよしみか結構フレンドリーだ。

今後そんな姿を見たら、僕はやきもちを焼くんじゃないだろうか?

恋人という揺るぎない立場にいるはずの僕が他の誰かに妬くだなんて、おかしいけど……

つまり、僕の自信のなさの表れなんだろうな。

信じられない、夢みたいだって、今だって思っているんだから。

そんなわけで、僕はこのところ、こう……ふわふわしている。

足元もおぼつかないというのはたぶんこういうことのことをいうんだろう、まさに。

ふわふわ……で、転んでしまったり、落とし紙をばらまいちゃったりして。

保健委員のみんなにはずいぶん世話になっちゃったなぁ。

気をつけなくちゃ。

でも、いろいろ面倒ごとや失敗も多いけど、それでもひっくるめて毎日幸せな気持ちでいられるのは、

さんのおかげかなぁなんて思ったりもする。

毎日授業が終わったあと、委員会のあと、食堂で会ったとき、などなど、空いた時間に話をするだけだけど。

最初は断られたというのが本当は少し気にかかっていて……

僕に同情してくれて付き合ってくれているとしたら、なんだかなぁとも思っていたんだけど、

さんは会うたびはにかんだみたいに笑ってくれるから、僕はすぐにそんなことも忘れてふわふわに戻ってしまう。

夕食の時間、文次郎はすごく不機嫌そうな顔で、おい、伊作、危ういぞ貴様、なんて言った。

失礼だな。

僕だって自分から危ういところへ転がっていく気は毛頭ないさ。

ああそうとも、普段からないさ!

なんっかそうなりがちだけどさ。

「なにが危ういっていうんだ。あんなやさしい人を相手にしてひねくれてるな、文次郎は」

「惚れた弱みの色眼鏡か、御機嫌なこったな! お前の噂を何一つ知らないな、さては」

噂。

くの一にまつわる噂なんて中身がよかったためしがない。

この六年間で耳にしてきた様々なえげつない噂話がささっと脳裏を駆けめぐった。

けれど、さんに限ってまさか、そんなことはないだろ。

「知らないけど、それがなんだよ。なにか問題ある?」

精一杯そう言った僕の顔にはでも、不安が出てしまっていたらしい。

聞いていた仙蔵があわれそうに眉根を寄せて、でも口元できれいに笑った。

僕に答えたのは小平太だった。

「あいつ、危ないよ。伊作死んじゃうよ」

「死っ!?」

突拍子もない単語が出てきたので、慌てて問い返したけれど声が裏返ってしまった。

ああ、なんか不覚……

「な、なんでそんな、さんと一緒にいるからって、死ぬとか、なんとか……」

僕は助けを求めて視線を彷徨わせてみた。

長次をひたと見つめてみたら、彼はよく見ないと気付かないほどわずかに眉尻を下げ、ぷるぷる震えだした。

「なにその不吉な反応は!?」

仙蔵だけがおかしそうにくっくと笑い出し、他の皆はすぃ、と僕から目をそらしてしまった。

長次はひとりぷるぷるしている。

食事を終えて部屋に戻ろうとは組長屋の廊下を歩いていると、正面の曲がり角から留が顔を出した。

「お。伊作、今戻りか」

「留こそ、今から夕食? 遅いね」

「ああ……委員会でな……アヒルの頭がな……」

留が乾いた笑いを漏らしたのが恐くて、僕はその謎の言葉の真意をとうとう聞けずじまいだった。

黙っている僕に構わず、彼が口を開いた。

「暗い」

「は?」

「カオが暗い。どうした。潮江にでもいじめられたか」

留は冗談で言ったんだろうけど、僕は正直落ち込んだ。

「あ、まじか。ははは」

「笑い事じゃないって……」

ほんとは文次郎だけじゃなくってみんなにいじめられたよと、僕は呟いた。

彼らからダメージを食らったのは間違いないから、

多少誇張表現になってもまぁいいかと細かいニュアンスは気にしないことにした。

「あの……留さ、さんのこと、どれくらい知ってる……?」

「あー、の話ね。お前がいちばん知ってるんじゃないか?」

「そう思いたいけどさぁ……なんか、噂が……って」

「噂」

留は小さく呟いて、ぽかんと僕を見つめたきりしばらくなにも言わない。

じりじりするのをこらえつつ、なんだよと聞き返すと、留は怪訝そうに僕の顔を覗き込んだ。

「……お前、もしかして知らないでに手ェ出したのか。大したもんだな」

「手っ!? だっ、出してないよ!! まだ!!」

「そうかそうか。これから出すのか」

「っ!? ……!! ……!?」

「冗談だよ。言葉にもならねぇか」

留はからからと悪気はなかったというふうに笑った。

結局僕は友人全員からいじめられたことになるんじゃないだろうか。

泣きそうだ。

「そうか。まぁ、俺が知ってる話でいいなら聞かせてやっても構わんが、うーん……

 お前には楽しい話じゃないぞ、多分」

「いいよ。知りたいよ」

「そうか? じゃあ……」

「あ、ごめん、食事まだだっけ」

「ああ、それはいいんだけどさ」

留はちょっと視線を落として、考え顔のまま口を開いた。

「つまり……にはこれまで何人かの男がいた。それはお前も知ってるだろ。

 遠くから眺めながら彼女が幸せならいいんだとか黄昏てた、あのころの相手たちだよ」

「そ、それはいいから……!」

「はは、悪い。で……そいつらとと、でもほとんど長続きしてないんだよな。

 せいぜいほんの何か月か。別れた原因とか、聞いたことないか?」

「な、ないけど……でも! さんのせいってわけじゃないだろ? 彼女、あんなに……」

「あんなに?」

「か、かわいい人だし、やさしいし、くの一には珍しいくらい素直で、穏やかで、女の子らしくて、それから」

「ああ、惚気は勘弁な。お前ひとりで幸せだな、結構結構」

「うっ……留が乗せたんじゃないか……」

「お前が乗ったんじゃないか」

留は愉快そうにそう言うと、僕を品定めでもしてるようにじっと見回した。

「うーん……お前、今幸せそうにしてるしな……」

「な、なんだよ」

「怪我もしてないし病気もしてない……疑ってもない。言っていいのかな」

「なんだよ! 気になるだろ!」

「五年の冬頃にと付き合ってた奴は」

留は遮るようにぴしりと言った。

と一緒に町に出た帰りに、

 学園までの道にある下り坂で思いっきり滑ってコケて頭を打って伸びた上、アキレス腱が切れてた。

 もちろん、完治するまで実技授業はお預けだ。お前がドクター・ストップかけただろ」

アキレス腱を切った奴には確かに覚えがある。

そうだ、あれは冬だった。

「六年の春にと付き合ってた奴は、

 が風にすっ飛ばして木の枝に引っかけちまったリボンをとってやろうとその木に登って、

 強風食らって地上十数メートルの高さから真っ逆さまに転落した。

 やっぱり頭を打って伸びて、そいつは尺骨を折った」

尺骨を折った奴にも覚えがある。

そうだ、あれは春だった、桜が咲いていたから。

……あれ。

なんか、ちょっと、不穏な空気が。

留の言いたいことがわかってきた気がする。

「六年の夏、この間までが付き合ってた奴は、が調理実習で作ったモチを欲しがって喜んで食ったが、

 15の身空でのどにモチ詰まらせて呼吸困難に陥った挙げ句酸欠で気絶してどういう符合かまた頭を打った。

 もう少しで窒息死するところだったと聞いてる。そんで伊作」

うん、それも覚えてる。

今年の夏はすごい暑かったから、汗だくで処置したんだ。

吐かせるのにかなり手間取って、どうしようもなかったから口に手突っ込んでモチ引っぱり出したんだもの。

あのとき、たしか僕、彼のアゴ外した気がする。

ええと……つまり。

「今、六年の秋、はお前と付き合ってる。不運の申し子と呼ばれ……」

「呼ばれてない! 呼ばれてない!!」

「……まぁ、それはどうでもいいが、ことあるごとに巡り合わせの悪いお前と、

 付き合った男みんなに不幸を招いたと言われてるがくっついたから、

 学園中で今度はお前が噂のターゲットになってる。善法寺伊作なら、実際死んでもおかしくないと」

「ひっど! みんな僕のことなんだと思ってるんだよ」

「だから、不運の申し子……」

「呼ばれてないったら!!」

いくら留でも怒るときは怒るぞ、僕だって!

言ったら、でも全然恐くないと言われた。

なんだよもう!!

「まぁ、そう怒るなって。

 大体、嫌な偶然が確かにずいぶん重なっちゃあいるが、自身が悪いわけじゃないからな。

 どれにも関わり合いになっちまってるからそういう噂もあちこちで聞くけど」

マイナスとマイナスが一緒になればマイナス度合いが深くなるとみんな思ってるんだろ、

なんて、留はなんだかぐっさり痛いことをさらっと言った。

……僕、マイナスなのか……

「全然知らなかった、僕」

「……かばってやれよ。惚れた男がそれでみんな逃げたんだぞ。

 今となっちゃあ疫病神扱いだ。は、つらいだろうよ」

「うん……そうだね」

「その点、お前ならむしろ安心だろ。危ない目に遭うのも茶飯事だ」

「っ、と、留っ! 黙って聞いてれば〜〜!!」

「ははは! じゃ、食堂に逃げるとするか」

達者でな、なんて言葉を残して、留は走っていってしまった。

くそ、慌てる子どもよローカで転べ、だ。

まぁ、どう考えてもあいつは子どもの範疇じゃないけど。

あーあ。

……聞かなきゃよかったかなぁ。

知ってしまったら、意識しないでいられない気がする。

僕って顔に出るタイプらしいし……さっきも暗いとか言われちゃったし。

話はずいぶん長引いてしまった。

留、食堂行っても食べるもの残ってるんだろうか。

あいつ名前通りすごい食べるし。

悪いことしちゃったな。

あとでお礼言って、謝っとこう。

もう長屋の外はとっぷり暮れている。

さんの話をずっとしていたら……なんだか、顔が見たくなってしまった。

うーん……くの一の屋敷かぁ。

忍び込まないと会えないだろうな。

行ったらびっくりするかな?

さんに会うより先に、山本先生に見つかったりしたらどうしよう。

内申下げられるだろうなぁ。

そう思いながら、それでも僕の足はいつの間にか、くの一教室の敷地のほうへ向かっていた。

月明かりだけが頼りだ。

これが任務中なら邪魔だけど、さんに向かっている道を照らしてくれるなら……なんて、

柄でもないくらいロマンチックな想像をしてしまったりして。

ああ、ひとりで恥ずかしい。

さんは、だから最初はダメって、僕の告白を断ったんだろうか。

付き合う人ごとに嫌な思いをしてきているんだから。

相手が僕ならむしろ安心、と留は言ったけど、

相手が僕ならむしろ、これまでの彼らより多くドジな姿を見せることになりそうだし、かえって不安にさせる予感がする。

……うん? 自分で自分の不運を認めてしまったぞ。

今のなし。

前言撤回。

大丈夫、こんな幸せなことってないじゃないか。

僕は幸運だよ。

それはまさにそのとき裏付けられた。

くの一教室の敷地へたどり着く前に、さんが歩いてくるのに鉢合わせたからだ。

うわぁ、なんていい日だ!

僕は噂なんか信じない!

さん!」

「……善法寺くん? ……こんばんは」

「やぁ! ……散歩?」

さんは普通の着物姿だった。

ああ、なんだか幸せなオーラが身体にしみてくる気がする。

不運の申し子なんて呼び名は今日で絶対返上!

いや、もしかして僕また自分で不名誉な呼び名を認めた?

撤回撤回。

「善法寺くんは、どうしたの?」

「え? ええと……その」

頬が熱くなる。

恋人同士になれたからって、いきなり照れずに向き合えるってわけじゃない。

僕は少し口ごもったあとでなんとか、顔が見たかったんだと言うことができた。

さんは少しぽかんとしてしまったけど、嬉しそうに笑ってくれた。

ああ、可愛いなぁ。

理性がなくなったら、今の僕は骨が抜けてでろでろに溶けるに違いない。

理性理性! 支えていなくちゃ。

それから僕らは、学園の敷地内をゆっくり歩きながら、他愛のない話をした。

なんでこんな日常的な内容の会話が、こんなに幸せに思えるんだろう。

さんと会ってからの僕はなんだかいいことずくめだ。

それこそ、そう……恐いくらい。

いいのかな、こんなに、僕ばかり幸せな毎日で。

同じことをさんも思ってくれていたら、僕はもうそれだけで満たされてしまう気がする。

手を繋ぎたいなと思ったら、自然と指先がさんの腕を探していた。

無意識に近い積極性、自分で自分にびっくりだ。

さんは少し恥ずかしそうに俯いてしまった。

ああ、もう、もう、何もいらない。

さんの手を引いて、見慣れた学園の中を歩いている。

月明かりだけが頼り。

おかげでお互いの顔が青白い。

ちょっと照れて赤くなってもわからないんじゃないかというくらい。

僕はきっと夢中になっていたんだろう、なにかに足をとられて転びかける。

咄嗟にさんを巻き込むまいと手を離してしまった。

「わ、びっくりした。ダメだなぁ、僕、注意力が散漫になってる」

「善法寺くん……大丈夫? 怪我は?」

「ないない、大丈夫。これくらい、ほんと、日常茶飯事でさ……」

留が言っていた悔しい言葉を自分で繰り返すとは思ってなかった。

留のせいじゃないのはわかってるけど、今だけ逆恨みだ、ばか、留。

またさんの手を引こうとしたら、彼女は一瞬、びくっとして手を引っ込めてしまった。

「……さん」

「あ、あの……ごめんなさい」

消え入りそうな声で彼女は言った。

目元が潤んでいるのがわかる。

泣きそうになっている……きっと、噂されている過去のことを思い出したんだろう。

僕が転びかけるのなんか、まぁ、今は認めよう、いつものことなのに。

それが自分のせいだと思っちゃったんじゃないだろうか。

これ以上近寄ったらダメだなんて、考えてるんじゃないだろうか。

「……あの、さん、僕、あの……嫌な話だと思うんだけど、聞いたんだ、噂とか……」

彼女は怯えたような目で僕を見上げた。

君を遠ざけようとして話題にしたんじゃないんだ、僕は慌ててそう言った。

「あれ、全然、君のせいじゃないじゃないか。気にすることないよ。

 ……僕なんか、さんと仲良くなってから、毎日いいことばかりに思えるよ」

「でも……」

「でももなにも……ほんとにそうなんだし。今も、すごく……幸せっていうか……」

月明かりの中でも頬が赤くなるのはわかるってことを僕は知った。

さんは茹で上がったみたいにかぁっと赤くなった。

僕と一緒にいるときに、こんな顔をして見せてくれるなんて。

本当に、僕のこれまでの不運は一体どこに行ったんだろう?

なにが疫病神だ、無責任な噂!

僕にとってはさんはまるで幸運を運んでくれる福の神。

……もうちょっと可愛いたとえが出ればいいのに。

蜘蛛の糸? 青い鳥? うううん ダメだ……

仙蔵あたりだったらすごいたとえを見つけてきそうなものだけど。

でもま、それは多分僕には似合わないんだろうな。

さんがいてくれるから、さぁさよならだ、不運を嘆く僕!

実にさわやかな気持ちで、身体中いっぱい満たされて、僕はさんに笑いかけた。

少し風が強くなってきたのが気になって、彼女に風邪なんか引かせちゃたまらないと思い……

(そのあと風邪を引いた彼女を看病する僕の図を想像して一瞬躊躇ってしまったのはここだけの話にしといてください)

僕はさんにそろそろ戻ろうか、と声をかけた。

風がごぉっと音を立てて木の葉を巻き上げていく。

そのとき、砂かなにかが目に入ったのか、さんがちいさく悲鳴を上げて、後ろにふらっとよろめいた。

「あ、危ない……」

咄嗟にさんを支えようとして、僕はそっちに一歩、踏み出した。

そうしたら。

ねぇ、留の話を覚えている、あいつが言ってたさんの前の恋人達のことを。

冬、春、夏、そして秋、彼女は今は僕の恋人。

恐ろしいことが起こった。

僕はその全貌を、実は今もって知らないんだ。

知らないというか、自分のことながら目撃しなかったからというか、衝撃のせいで覚えていないというか……

目の前にちかちかっと、火花が散ったのを僕は見たんだ。

よく頭を打ったら星が飛ぶとか、小鳥が飛ぶとか、そういうたとえはあるじゃない。

まさか本当にそういうものが見えるなんてと、僕はそう思っていた。

でも、実際、本当に火花が散ったんだそうだ。

火花なんてレベルじゃないな。

ここからは僕も聞いた話なんだけど……

僕、転びかけたって言ったじゃない?

何かに足をとられたんだけど、あれ、緩んだ縄だったんだ。

その縄は、ここから先は立入禁止、という意味で張り巡らされているものだったのだけど、

授業でどこかのクラスが使ったあとで緩んだままにされてしまったんだろう。

膝よりもずっと低い位置でぷらぷらしていたその縄に足をとられ、転びかけ、

僕が踏み込んでいたのはよりにもよって……埋火の演習場だったのだ。

う・ず・め・び。

わかる? 要は、地雷のことなんだけど……

よろけたさんを支えようと一歩踏み出して僕は、埋火を一個踏んだらしい。

さんはそのままよろけてしりもちをついたおかげで無事だった。

そして僕は……いつもどおり、医務室にいる。

ただし、まぁ、患者として、ね。

聞いたところによると、僕が踏んだ埋火は仙蔵が調合して授業で埋めたまま放置されていた

スペシャル☆バージョンだったそうだ。

威力火力ともに申し分なくスペシャルの名に間違いのない代物で、

普通だったら踏んで生きてはいないだろう。

そりゃ、普通の埋め火だって踏んだら大体の人は死ぬだろうけど、

よりにもよって“仙蔵が調合したスペシャル☆バージョン”だもの。

余談を挟んで申し訳ないけど、☆が入ってるあたり悪意を感じる名称だと思わない?

ものすごく憎たらしいよなぁ。

わざわざ僕の通るとこに埋めとかなくてもいいじゃない、ねぇ。

でも……僕は御承知の通り、生きている。

新野先生が感心を通り越して呆れの入った声で仰った、いやぁ、奇跡だねぇ、なんて。

悪友達がにこにこしながら、代わる代わる見舞いに来てくれた。

彼らの言うことには、このうえなくひどい目に遭っても幸運ってところがポイントだ、だって。

スペシャル☆な埋火を踏んでも生きているところと言われればそりゃその通りだけどさ。

ほんとに、あいつら僕のことをなんだと思って……ああ、も、いいや……

もちろん、無傷だったわけではないんだけど。

でも、命に引き替えればね。

全身火傷と全身打撲のミックスくらいはなんてことないよね。

死んだら生き返らないけど、怪我は治るもの。

火傷は難しいけど、まぁ処置次第ってこと。

だてに六年、保健委員やってないからね!

たまには自慢になるでしょう?

しばらく僕は医務室で寝泊まりをすることになり、授業でやった分のことは留が律儀に教えに来てくれた。

横で世話をしてくれている保健委員の後輩達は、

一緒に食満先生の御講義を拝聴してちょっとお利口さんになったんじゃないかな。

あとから乱太郎に聞いたら、あの日授業で埋火の演習場を最後に使ったのは一年は組だったそうだ。

土井先生と山田先生も見舞いに来てくれたうえ平謝りをしてくれた。

いやぁ、なんか、逆に恐縮です、先生方。

そうして包帯ぐるぐる巻きのミイラ状態から少しだけ脱した頃のこと、

僕はずっと気になっていたことを、思いきって留に向かって聞いてみた。

留はちょっと複雑そうな顔をした。

「……大泣きしてたぞ。あれだけの埋火踏んづけて命があるんだからむしろ幸運だと何度も言ったんだが」

「……さんが責任感じること、なにもないのにね……」

学園ではまた噂が出てきているんだそうだ。

やっぱり犠牲者が出た……なんて。

聞き捨てならないな。

ぴんぴんしてるところを見せて、根絶やしにしてやらないと。

「……会いたいな。もう一か月くらい会ってないや」

それとも、さんはもう、僕の顔なんか見たくもないんだろうか。

そう思ったら、さんとぐんと距離が縮まったあの日からの幸せな気持ちが、

急速に冷えて縮こまっていくのを感じた。

やっぱり、さんは僕に幸せをもたらしてくれる人。

会いたいな。

その呟きを、留は聞き入れてくれたらしい。

さんを説き伏せて、医務室まで連れてきてくれた。

さんは僕を見るなり、床に伏してぼろぼろと泣き出してしまった。

「な、泣かないでよ、さん」

彼女はごめんなさいを何度も何度も繰り返した。

なにを言っても泣きやんではくれなかったけれど、久しぶりに顔が見られて嬉しいと、

まだ恥ずかしくて結構苦労したけれど、ちゃんと伝えることができた。

できるなら笑顔がいいんだけどな、なんて言ったら、困らせてしまった。

しばらくは留に頼んでさんを連れてきてもらっていたけれど、

包帯が取れて起きあがれるようになってくると、彼女は少し安心したみたいだった。

毎日の放課後に来てくれるようになり、並んで留の授業を聞いたりして一緒に過ごした。

その時間は、本当に本当に、僕にとっての幸せそのものだったんだよ。

人が聞いたらささやかすぎるなんて言うかもしれないけど。

しばらくそうして医務室に転がっていて、やっと“退院”の日がやってきた。

とはいえ、保健委員長の僕が医務室から離れることはないと思うんだけど。

用具委員長が器用な手先で手作りしてくれた松葉杖をついて、僕はひょこひょこと学園の敷地を横切っていった。

留は松葉杖の調子を見ると言って付き添ってくれたけれど、割とすぐに要領は飲み込めた。

さんは、僕が出てくるのを外で待っていてくれたらしい。

学舎の上の階の窓からは、悪友達と噂を囁いた皆々の目が僕の様子を物珍しそうに見下ろしていた。

ふんだ、暇人め。

見ろよ、僕は無事だし、これが原因でさんと別れたりなんかしないんだからな。

冬も次の春も夏も、ずっと僕がさんのそばにいるんだ。

マイナスとマイナスを足したらマイナス度合いが深くなるだけかもしれないけど、

マイナスとマイナスを掛けたらプラスになるんだぞ、文次郎に聞いてみろ。

なんならそろばん借りてこい!

さん! ただいま」

やめときゃよかったのに、僕はベスト・コンディションをアピールしようとして……調子に乗ってしまった。

両脇に挟んだ松葉杖の片方を、手を振るような気持ちで足元で振ったのがいけなかった。

要領を掴んだとはいえその日初体験の松葉杖だ。

僕は呆気なくバランスを崩した。

少し後ろを歩いていた留が慌てて走ってきたけど、さんが駆けつけてくれるほうがはやかった。

さんは前によろけた僕を支えようとして、どうしたことか自分もバランスを崩してしまった。

僕はまだ充分には自由のきかない状態のまま、さんと一緒に思いっきり転んでしまった。

ただ転ぶだけならいつもの不運で片づいたと思う。

でも……

「ぜ、善法寺くん……」

さんは真っ赤になっていた。

さんが倒れた上に僕は重なるように転んでしまい、

その拍子にどういうわけか唇まで重なってしまったんだ、たった一瞬のことなんだけど。

「わ、わぁっ! ごめん! ごめんなさい!! これははずみで……てか留、起こしてよ!

 僕まだ自分で起きられないんだからッ」

「……結構いい眺めだぞ。やってりゃいいじゃねぇか」

「留〜〜〜!!」

暇人ども、よく見とけと思ったのが悔やまれたよ。

僕とさんは学園中の好奇の視線の中、留が手を貸してくれるまでのあいだじゅう、

サービスショットを披露し続けるハメになってしまった。

さんは怒ったかなと思ったけど、ぺこぺこ謝ったら笑って許してくれた。

それで、僕とさんは、お付き合いを続けている。

うん、今もだよ。

今日ももう少ししたら、くの一教室の演習が終わる時間なんだ。

そうしたらきっと、医務室に顔を出してくれるよ。

さんに関する悪い噂はなんとなく消えたし、彼女もいつも楽しそうにしていてくれる。

僕のドジも相変わらずだけど、さんと離れることは今のところ考えられないよ。

まぁ、僕がいきなりふられるなんてことにならなきゃね。

その仲良し計画の第一段、名前で呼び合うことっていうのを、今お互い頑張っているとこなんだ。

あ、やっぱささやかだと思う?

うん、そうかもね。

でもね、僕はやっぱり、同じことをいつも思うんだ。

さん……えと、と、一緒にいると、毎日幸せだなぁって。