笑えない


「人も引いたかな。今日はそろそろ仕舞いにしようか」

「はい」

「ずいぶん冷え込むようになったよなぁ……」

「もう冬ですもの。いつ雪が降ってもおかしくないわ」

「そぉかぁ……」

厚い雲がところどころを遮っているから距離感のわかる濃い夜空を、タカ丸は見上げた。

吐く息が白い霧になって、一瞬あとに闇夜に溶ける。

鼻先や耳や、唇が真っ先に冷えてきた。

ぶるりと震え、タカ丸は寒い寒いとわめきながら足をじたばたとさせた。

「ほら、早く入ってくださいな。家の中が冷えてしまいますでしょ」

眉を顰めて彼を催促するのは、つい最近彼が迎えた愛らしい花嫁である。

彼女は名をといい、もとはタカ丸が主人をつとめる髪結いの店の得意客であった。

当初はこのうえなくしっとりと美しい黒髪で彼は彼女の存在を記憶し、それに惚れたも同然であったのが、

店主と客として会う回数が重なるにつれて想いも距離も少しずつ縮まっていったのである。

「うん、今行くよ」

ごめんねと笑みを向けると、は早くしてくださいねと念を押してから先に家の中へ姿を消した。

その背を見送りながら、タカ丸はふっと息をついた。

さりげない呼吸のつもりが、冷えた空気がそれをみるみる露わにして惜しげもなく消していく。

求婚はまるで命懸けだった。

タカ丸が自分の内に宿る勇気と呼べるものを片端からかき集めてなんとか言葉に昇華したその申し込みは、

まだ恋人ですらなかったになぜだかすんなり受け入れられた。

実際のところはそこから“結婚を前提にした”お付き合いが始まったのであって、

一緒に暮らし始め夫婦らしい関係に落ち着いたついこの間までにゆうに丸一年半くらいはかかっている。

漠然とではあるがずっと欲しかったものが、やっと自分の手のなかにある。

のことを思うたび、彼はいまだにじわりとにじんでくるような幸福感に酔いしれる。

朝、目覚めの前のまどろみのとき、

先に起きだしたが家の仕事を始める音をどこか遠くおぼろげに、しかし心地よく聞く。

店の準備のためただでさえ朝の早いタカ丸よりも、は必ず先に起きている。

つらくないか、無理はしなくていいからと何度か言って聞かせたが、別に無理なんかしていないとは言う。

彼のもとへ嫁してくる以前は朝寝の時間も愛していたそうだが、

世紀の髪結い師の妻ともなれば、それに相応しくきびきび起き出すことができてしまうのだという。

自身がなんだかそれを信じられないことのように語るので、

タカ丸もそれ以上無理はするななどとは言えなくなってしまった。

三代にわたってカリスマと名高い髪結いの店は連日女性客で大賑わいの大騒ぎを起こし、

日々忙しく立ち働くタカ丸をはなにくれとなく手助けし、こまごまと世話を焼いた。

身近にという若い女性がいることで、タカ丸は客達をこれまでとは違った角度から見ることもできるようになり、

髪結いの店とその店主の評判は更なる輝かしい評判を呼んでいる。

仕事を終えて店仕舞いをし、家の中に落ち着いてやっと二人きりのゆっくりとした時間が訪れる。

夕餉を味わいながらの会話はその種も尽きることがなく、

面白可笑しい脚色をくわえて独自の口調で語りかけるタカ丸に、は涙の出るほど笑わされたりもする。

惜しげもなく満面の笑みをこぼすが可愛くて仕方がなくて、

タカ丸の口調は徐々に熱を帯び、とっぷりと夜が更けたのにもお互い気がつかないこともしばしばであった。

薄闇の中でのやわらかな肌に触れるとき、彼はまるでこわれものを扱うかのようにそっと、

緊張に近いほど気を遣ってしまうのをいまだにやめることができない。

初めてのその夜に、が他の男を一人たりとも知らないということを閨の中で聞かされて、

タカ丸はうっかり素っ頓狂な驚き声をあげてしまった。

悪いことをした気などことの最中には微塵もなかったそのくせに、

そんなことを聞いてしまってはなんだかタカ丸は謝らずにはおられなかった。

の目の端に浮いたままの涙の珠は清らかな輝きをたたえ、タカ丸になにものかを訴えかけた。

ああ、おれは、この子を守ってあげなくちゃ。

愛情以外になんの根拠もなかったが、彼はただひたすらに、純粋にそう思った。

同じ家に一緒に暮らし、寝食を共にし、お互いを愛し思いやり、

そうして時を過ごすのは、最初のうちはなんだか照れくさくてわずかばかりぎこちなかったが、

今になってやっとそれが少しほぐれ、触れ合い関わり合いも自然なやりとりに思えるようになってきた。

このまま二人でずっと一緒に暮らして、店を切り盛りして、何年か経ったら子どももできるかもしれない。

愛おしい人とのあいだに築く幸せな家庭。

自分の子どもなどと、今の時点では想像もつかないところだが、

その子を見てもタカ丸は同じことを思い真摯に誓うだろう、おれはこの子を守ってあげなくちゃと。

がタカ丸のそばに暮らすようになって、彼の身のまわりは劇的と呼べるほどの変化を遂げた。

日々何気なく通り過ぎていったはずのちいさな出来事が、かけがえのない思い出に化けることもある。

そんなことの繰り返しにタカ丸は目をみはり、世紀の大発見だとばかりににまくし立てて語り、

はそれを聞くと一緒に喜んだり笑ったりしてくれる。

幸せっていうのはきっとこういうことだ、これから先ずっと、年を重ねてお互いに老いていって、

よぼよぼしたじーちゃんとばーちゃんになっても一緒にいよう、

おれはきっといつだって、君と一緒にいられて幸せだよと、心の底から言えるだろう。

上肌を愛撫していくような、煙るような“幸福感”の抱擁に、タカ丸はなぜか身震いをした。

首を傾げる。

きっと寒さのせいだろうと思う。

は家の中で、いつまで経っても戻ってこない夫にやきもきしているかもしれない。

風邪を引いたら困るなどというお約束の心配は勿論のこと、

タカ丸以上にタカ丸の手指を大切にしようとつとめるは、髪結い師の妻の鑑ともいえる。

性格の悪いことだとわかっていながら、タカ丸はときどきのその心配を身に受けてみたくて、

わざと体調の悪いふりをしてみたりもする。

心配顔でタカ丸に本気の心配を寄せるを見ていると、愛されていることを普段以上に実感できるような気がして、

冗談だよと暴露するとの雷が落ちるのもわかっていながら、彼はこのちいさないたずらをやめることができない。

黙っていれば済むことかもしれないが、可愛い愛おしい妻に、些細ながらも嘘をついておくのは心苦しいのである。

まっすぐすぎてが困ってしまうほど、タカ丸は素直にその気持ちをに言葉で伝えるようにしているし、

自分に非があるときなら躊躇わずにそれを認めて謝ることができる。

真摯に誠実に接することを心がけているおかげか、

はタカ丸に対してなんの疑いも持ったことはないようであるし、嘘をつくこともない。

この点に関しては賭けても構わないと豪語できるほど、タカ丸には自信があった。

愛している、愛されているということが自分にもたらすとんでもなく大きな力を、

タカ丸はと過ごしてきたこの数か月で身に染みて実感していた。

ほんの数か月前の話でしかないというのに、がいなかった頃のことは思い出すことができないし、

どうやって暮らしていたのかと疑問にすら思うほどである。

たった一人の女性が己のすべてを支配し尽くしてしまっていることを、タカ丸はもう何度となく認めていた。

この人のためになら、おれはなんにだってなれる、本気でそう思った。

思ったあとで、必要のない思いであることを悟った。

愛して愛されて一緒にいるだけで、自分ととはすべて満たされるのだということに、

彼はすでに気がついていた。

そろそろもしびれを切らす頃だろう。

夕餉の支度も万端整い、あとはあるじの帰りを待つばかり、といったところか。

さぁて、家に入ろう……タカ丸は踵を返した、そのとき。





「忘れるな」





キンと冷たい夜の空気の中に不協和音を巻き起こしたような、

鮮明にして不愉快な低い響きが、思ってもないほどはっきりと彼の耳のうちにこだました。

はっとして彼は振り返る。

大仰なその仕草は、彼が身のうちにひた隠しにしている“そのこと”を思えば誉められたものではなかった。

視線の先に広がるのは、眠りを前に夜に沈んだ町の姿。

誰一人として、タカ丸に警告など寄越せそうな者はない。

タカ丸はしばらくどうしていいかわからないといった様子で、立ちつくすよりほかはなかった。

やがてぎゅっと唇を噛みしめて俯く。

やりきれないような顔で、声を絞り出した。

「……わかってるよ」

握りしめた拳がぶるぶると震える。

寒さのせいなどと、己を誤魔化すためのわざとらしい言い訳に過ぎなかった。

“忘れるな”。



斉藤タカ丸は優秀な忍であった祖父を持ち、自身も忍の術を指南する学園で学んだ経歴のある現役の忍である。

父の営む実家の髪結い処を離れ、遠い町へひとりやってきて自分の店を開いた。

もともと腕も良く、忍としての技術を学ぶよりもよっぽど長い時間を費やして修行していた髪結いのわざに、

人々の評判はすぐさま集まり店はあっという間に繁盛の様相を見せ始めた。

髪結い師としての地位と評判が高められ大きく膨らめば膨らむほど、

裏の顔を隠すのには好都合な状況が構築されていく。

人々は彼をカリスマ髪結い師の斉藤タカ丸と認知し、その信頼も徐々にあついものとなっていったが、

タカ丸が陰でどれほど凄惨な事件に関わっているか、時にはどれほど冷酷な判断を瞬時にくだすものか、

誰一人として感付くことはなく、誰一人として想像だにしなかった。

ある日、彼は髪結い店の常連である一人の少女に心惹かれているらしい自分に気付く。

その感情に恋という名が思いあたれば、今更ばかばかしいと思ってしまうほど気恥ずかしくも、

こみ上げる甘酸っぱい思いに心ときめくのを止めることもできず、

いつの間にか店主と客という立場の差を忘れ、己が身を置いている複雑な状況すらも忘れ、

彼女と親しくなるにはどうしたらいいのかと真剣に頭を悩ませるようになってしまった。

ありったけの勇気を振り絞り、当たって砕けろとばかりにいきなり求婚してしまい、

それが受け入れられたことに舞い上がっているあいだ、彼は忍としての己をすっかり失っていた。

愛おしいものが身近にあるということ、些細なちいさな幸せを噛みしめて日々を過ごす彼には、

まだ忍として抱えたままの仕事があった。

忘れてはいけない、おれは忍なんだと、彼は自分に無理矢理言い聞かせるようにして任務に向き合った。

本当なら、恋心などという感情は、押し殺して封じ込めてしまったほうがよかった。

彼はがむしゃらに任務をこなし、なにもなかったような顔をして、妻に愛情を傾けた。

ひとりの男としての己と、忍としての己とのあいだで、彼は揺れに揺れた。



「わかってるよ」

誰にともなく、タカ丸は言った。

まるで投げやりな、独白のような強い語調は、白い霧になってやがて闇夜に消えた。

「わかってるよ! おれだってわかってるよ……」

に黙っていながら、彼が裏で片付けた任務の記憶が、怒濤のように押し寄せた。

殴り、踏みつけ、蹴り倒し、奪い尽くしたあとでそのすべては火の海の中に沈んでいった。

なにが正義なのかは彼にはわからない。

ただ忍として彼に与えられた仕事は思考の余地を許すことはなく、

自分が属する方が正義と思い込むことでしか正常な精神など保っていられそうもなかった。

ひとつの仕事を終えて町の日常に戻り、の笑顔に会い、お帰りなさいと迎えられる。

愛おしい妻を抱きしめようとするその刹那、タカ丸は怯える。

おれの手のひらはまだ、血にまみれてはいなかったか?

を汚しはしないだろうか?

まったくの錯覚であることは百も承知だが、彼は思わずにいられなかった。

少々疲れているのかもしれないと、そう思うのは己に対する誤魔化しにすぎない。

に嘘をつき続けていることがただ苦しかった。

(おれはこの子を愛してはいけなかったんじゃないか……?)

思っては打ち消すのを繰り返す。

何度同じことを考えても、を愛おしいと思うその感情はとどめようがなかった。

身を引くのがいちばんいいと思っても、それに従うことはできない、それは、今も。

「これで最後にするんだ」

俯いたまま、タカ丸はかすれた声で言った。

「最後だからな! おれは、……!」

忍をやめるんだ。

叫ぼうとした。

そのとき、家からが顔を出した。

「タカ丸さん? 早くしてって言ったのに。お食事が冷めてしまいます」

泣きそうな顔をしているタカ丸に気付き、はどうしたのと、家から出てきて彼に歩み寄ってきた。

やめるんだと、そう言いたかったのに。

君のためなのに。

それなのに、どうして君が、それを遮るんだよ、

たまらなくなった。

タカ丸は近づいてきたをきつく抱きしめた。

「……タカ丸さん? あの……」

彼の腕の中で苦しそうに身じろぎをして、は心配そうな声を彼の耳元に囁いた。

すっかり冷え切っていたタカ丸の身体に、の体温がじわりとにじんで伝わった。

そんなつもりはなかったのに、彼の目には涙があふれ、止まらなくなった。

「……笑えないんだ」

「え?」

わけがわからないと言いたげに、は問い返した。

「笑えないんだ。君の前で」

タカ丸は苦しそうに息を継いだ。

白い息を吐き出しながら、彼は一緒に何か言おうとして、……言えなかった。

(君の笑顔に笑い返そうとしても、おれは笑えないんだ。おれのどこかは、嘘で凍りついたまま……)

最後の任務の期日はもう数日というところまで迫っている。

なにもかもを終えてただの髪結いに戻ったとしても、に彼の抱えていたものすべてを打ち明けることはできない。

のことは愛し慈しんだその手で、別の命は奪っていたなどと、口が裂けても言えようものか。

そうしてはなにも知らず、髪結いの斉藤タカ丸を変わらずに愛し続けるのだろう。

睦まじい夫婦の暮らしを送り、子どもを授かることもあるかもしれない。

夫がその内に隠し秘めている薄暗い混沌の存在にすら気付くことはなく、

の目に映る、の知る限りの彼だけを、誠心誠意を込めて愛していくのだろう。

幸せなのだと微笑むに、タカ丸はいつでも笑い返してやろうと思う。

けれどその内心にはに黙り、隠し、欺いているものが黒々と渦巻いている。

口に出した途端にタカ丸ととのあいだの世界のすべてを崩壊させてしまうことができるような、

そんなものをタカ丸は一生抱いたままで、の隣で生きていくのである。

時折には、愛している、おれも幸せだよと、そんなことを口の端では言いながら。

「……タカ丸さん。大丈夫よ。ずっとそばにいるわ」

の慈愛に満ちたやさしい言葉が、彼の感情を逆撫でしていった。

あたたかで思いやりに満ちた言葉が、ときどきどうしてこんなに痛みをもたらすのか。

「大丈夫よ。愛してるわ」

彼はうんうんと、頷いた。

言葉にはならなかった。

ちらちらと、小粒の雪が舞い降り始めた。

は視線だけ薄闇の夜空へ向けた。

「タカ丸さん。雪よ。もう冬ね」

「……うん」

「お店の前に、雪だるまをつくってもいいかしら」

「……うん」

「……もうおうちに入りません?」

「……うん」

頷きながら、タカ丸はまだを抱きしめたまま動こうとはしなかった。

立ち尽くす二人の髪に肩に、ちらちらと雪が留まっては溶けていった。