二度とかえらぬ
学園を通して依頼を寄越してきたのは、近隣の町を治めるちいさな城のあるじだった。
城主の座についてまだ一年も経とうかどうかという若い殿様には、美しい妹姫がいる。
任務とは、その姫君の護衛役であった。
実際のところは護衛役に留まらず、話し相手だの遊び相手だの、外出の供だのと、
こまごまとした用も言いつかるとのことであった。
平和な土地の平和な城で護衛といってもたかがしれているのであるから、
成り行き上そうなってしまうということだろう。
給金の額もこのささやかな規模の依頼にしてはかなり潤ったものであるうえ、
六年生の誰かにという漠然とした指定しかないこの件には立候補が殺到するだろうと思われた。
ところが、誰ひとりとして名乗りをあげるものがない。
しかたないなとやっとのことで重い腰を上げたのが、七松小平太だった。
実際に城へやって来てみて、勤め始めて一週間ほど。
給金の額は実に妥当であったと、彼は思い始めていた。
「これ、小平太、小平太! どこにいるのです」
「はいっ、ここ、姫君」
小平太はどこからともなく、姫の背後に降り立った。
馴れ馴れしい口調でものを言うことを聞きとがめるものは今はない。
振り返って小平太の姿を認めた姫君は、満面の笑みを浮かべると嬉しそうに数歩、彼に駆け寄った。
「兄上にお許しをいただいたら、遠駆けに連れていってくれますね?
今時期は緑が眩しくて、それはそれは素晴らしい景色と聞きます」
「うーん、許してくれるかなあ……?」
「説き伏せてみせます!」
馬丁に申しつけて馬を出しておくようにと言い残し、姫君は嬉しそうに身を翻した。
御年十五、同い年である。
兄である殿様とは年子で、城中の人からの愛情を一身に受けて育ってきた。
天真爛漫で純粋。
同い年とはいえとても学園のくの一六年生と並べて考えることはできない。
(ああは答えてみたけど、まあ、許してくれるんだろうなー……)
小平太の読みが外れたことはない。
妹姫に対しては胸焼けがするほど甘い城主は、大体のおねだりを押され負けて承諾してしまうのだ。
馬の用意はしておいたほうが無難だろう。
小平太は厩舎のほうへ向かって歩き出した。
この一週間、護衛と呼べる仕事はひとつも舞い込んでいない。
平和も平和、ぼけそうなほど平和で、気を張っていても最後の最後は拍子抜けして終わってしまう。
任務に従事する時間の大半は、だからこうして姫君の遊びの相手をさせられているばかりだ。
お姫さまにしてはやや冒険が過ぎるようなことに、やたらめったら付き合わされる。
昨日は町娘のなりをして、こっそりと城を抜け出し、お忍びで人気の髪結いどころに行くと言ってきかなかった。
同じパターンで行き先が違うだけだったこともある。
連れ回されて団子屋、小間物屋、芝居小屋。
自分には慣れた光景が姫君にとっては初めて目にするものであることもしょっちゅうで、
姫君は面白がって目をきらきらとさせながらくたくたになるまで町を歩き回る。
殿様にばれたら大目玉であるが、姫君自身は己の楽しみのためには平気で嘘をつけるらしい。
愛すべきかわいい嘘ではあるが、護衛役の小平太としては歓迎ならないはずである。
小平太を高給で雇っているのは殿様であるが、直接小平太を使うのは姫君のほうだ。
このわずかに思える差が実は途方もなく大きい。
ときどきは抵抗らしいことも口走ってみるが、大体は小平太も言い負かされて付き合うはめになる。
日常ならば楽しくてよいのだろうが、姫君がとどまるところを知らずに求めるようになってきたら、
小平太がこの任務を終えたあと、お目付役が替わったあとにどうなるものか、やや不安な感があった。
「小平太。お待たせしました。兄上は許してくださったわ、日暮れまでに戻れと仰って」
「ふーん。じゃ、行くかぁ……」
「一緒に乗せてくださる?」
「どーぞ」
小平太はひょいと姫君を馬の鞍に座らせ、自分もその後ろにひらとまたがった。
「さーてと、どっちに行こっか、姫君?」
「川のほうへ! 上へのぼっていったら、きっときれいだわ。さかながいるかしら?」
「うん、いるかもね」
よしと一声、小平太は手綱を操ると馬を軽快に走らせた。
「姫君、ちゃんとつかまっててよ。横座りは危ないからな」
「大丈夫よ、しがみついてるわ。姫君なんて呼んじゃダメ」
誰かが聞いていたら困っちゃうわと、姫君はおかしそうに笑った。
ああ、また始まったぞと、小平太は思う。
しがみつく、の、名目で、姫君はしっかりと小平太に抱きついた。
髪から立ちのぼるほのかな香り、たおやかな身体の感触に一瞬うっとりとしてしまう。
自制がきかなくなってくる、その状態が小平太はあまり好きではなくて、
なるべくならそうなる前に御遠慮願おうと逃げを決め込むことにしていたが、
この姫君の接触はなかなか執拗で手が込んでいる。
走る馬上で身をよじるわけにもいかない。
小平太の変幻自在の体術を持ってすれば、曲芸めいた馬の操り方も様にはなろうものだが、
姫君を腕のうちに抱えたままではそうもいかない。
(どうしたもんかなー……まあいいけどー……)
楽観的には考えるものの、まさか一城の姫君ともあろう人が、
このように積極的に好意を示してくるものとは小平太は思っていなかった。
姫君は小平太に恋心を抱き始めている。
それは、恋愛対象になる異性が極端に少ない環境にあって唐突に現れた小平太を前に、
最初のうちは慣れない意識程度のものでしかなかった感情であろう。
しかし姫君はその意識を自分で信じ込み、思い込み始めてしまった。
これが恋というものなのね、と。
思い込んだら一直線、姫君は、行動的だった。
ただの一夜で姫君の気持ちは小平太に猛進し始めたらしく、
小平太は護衛役についた翌日にはすでに町を連れ回されていた。
言葉の端はし、目線にこもる熱、そこに芽生え始めている恋慕の情というものを
姫君は隠しだてなどしなかったし、あからさまであるがゆえ小平太にも簡単に見てとることができた。
小平太にしてみれば役目が終われば城を出ていく身であるし、
一介の忍に恋するなど誇り高き一城の姫君にあってよいことではない。
しかし育ちのよさがそうさせるのだろう、
姫君はごく素直で感情に正直なふるまいをとり、
小平太がやってきてからというものほとんど彼にべったりなのである。
忍として忍の任務をと思ってやって来た結果がこれでは、報酬が高くなければやってなどいられないだろう。
「きれい! 花が咲いてる」
「うん、今たぶん、ちょうどいい季節だ。これからもっと咲いてくるかもね」
「すてき」
姫君は小平太の腕の中で、きょろきょろと視線を巡らせた。
「馬こわくない? 姫君」
「まさか、こわくなんかないわ! 姫なんて呼ばないでと言ったでしょ、小平太」
「じゃあ、さま」
「様もいらない」
「えー……うーんと……じゃあちゃん」
「まぁ、いいわ」
なにかをやり遂げたかのような息をつき、姫君──はまた小平太にしなだれかかった。
次はなんと言ってくるか、小平太は少しばかり気構えをしていたのだが、
打って変わって彼女が黙り込んでしまったので、
沈黙をわずかに居心地悪く感じながらもただひたすら馬を走らせることにした。
ものの十数分で、広い砂利の川辺へたどり着いた。
川向こうには森が広がっている。
「いーい、ちゃん。ここが、この川が、君んちの領地の端っこに当たる場所なわけ」
「そうなの?」
「うん。今はちゃんの兄ちゃんが殿様になって頑張ってるだろ。
目立って敵対してる国もないし、町の人も少しずつ暮らしやすくなったと思ってるみたいだ。いいことだよ」
「そう! それならよかった──私、政はなにひとつわからないから」
「ちゃんの兄ちゃんも、
そう言ってずっと庶民の生活ってやつを勉強するのに城を出てただろ。
きっともっといい殿様になるよ」
ちゃんも、人を使う立場にいる人なんだから、頑張らなくちゃと小平太は続けた。
は一瞬、その言葉に目をみはると、なにか言いたげな顔をする。
そのことに小平太も気がつきはしたが、何も言うことはしなかった。
先に馬からおりるとを抱き留めておろしてやった。
は何も言わずに、すたすたと川のほうへ歩いていく。
奇妙に感じながらも小平太はその背をただ見送り、自分は馬に水を飲ませてやることにする。
そのまま届く距離の木に馬を繋ぎ、振り返ると、は川中の石にぴょんととびうつったところだった。
「ちゃん、危ないって。呼んじゃダメとか言われても一応お姫さまなんだからさ」
「知ってるわ」
は次々と、近い距離の石へと移っていく。
御転婆もここまで来れば大したものだと小平太はため息をついた。
「なー、ちゃん。いい加減にしとけって。
あーあーそんなとこまで行っちゃあ……もー、ちゃんと戻ってこれんのかよ、そっち結構深いんだぞ!」
は振り返った。
その目に涙が浮かんでいることを認めて、小平太は口をつぐんだ。
「……帰りたくないの……」
ぽろりと涙が落ち、その頬を伝った。
小平太はじっと口を閉ざし、の次の言葉を待った。
「……兄上は御立派よ。
父上が兄上に実権も財産もすべてを譲渡なさったとき、領地の一帯はひどい有様だったと聞くわ。
それを、一年も経たないうちに少しずつ少しずつ、いいほうへと変えていったの。
尊敬してるし、大好きな兄上よ。でも」
はそこで一度口を閉ざした。
苦しそうに俯くと、またぽろぽろと涙があふれる。
小平太は微動だにせず、じっとそこに立ち尽くして待っていた。
「……お嫁に行けって……知りもしない男のところよ。
一国の姫君には当然の覚悟だと、つとめだと言うのよ。
私がその男のところへ嫁ぐことで、この国には計り知れない潤いがもたらされるのですって。
私だって頭ではわかってるの……でも、私は、私が好きなのは、」
よどみのなかった語り口がそこでふつりと途切れてしまった。
顔を上げたは、まっすぐに小平太を見つめながら、それでも先を言えずにただ涙を流した。
小平太は困ったように眉根を寄せて、頭を掻いた。
「……ちゃん、兄ちゃんの言ってることは、間違ってはないと思うよ」
「わかってるわ……でも、私の気持ちはどうなるの」
「うん」
うん、と小平太はもう一度続けた。
がやたらと城から出たがり、遊び回りたがる理由はそれだったのだ。
自分の力だけでは抗いきれない現実から、は小平太の手を借りれば逃げ出すことができた。
町に出て、遊び呆けて、の顔に浮かぶ笑顔は本物だった。
小平太の脳裏に刻み込まれたこの一週間ほどの記憶は、弾けんばかりのその笑顔ばかりであった。
「ちゃん。とりあえず、危ないよ。戻っといでよ」
「嫌、戻りたくないの」
「無理矢理城まで連れ帰ったりしないよ。
馬だって今休憩してるとこだし、日暮れまではまだ間があるよ。
全部聞いてやるよ。でもそこだと危ないだろ、狭くて座れもしない」
「嫌ったら嫌!」
「む、わがままだな」
小平太はずかずかとを追って石を渡り始めた。
逃げようとして、はまた危なっかしい足取りで別の石へとびうつろうとする。
「逃げるなってば! 危ないんだって、そこにいろ!」
「嫌!」
なおも足掻こうとするの様子がさすがに頭に来て、
小平太は持ち前の身体能力を発揮してあっと言う間にに追いつくと、
が次に渡ろうとした石に先に着地した。
「あ、……!」
驚いて身を翻そうとしたが、たちまち狭い石の上でバランスを崩す。
「きゃあ!」
「わっ、ちょっと……!」
慌てての腕を引いた小平太だが、一瞬遅かった。
もつれ合うようにして倒れ込んだ先の川面に、二人はざばんと飲み込まれてしまった。
ややあって小平太が顔を出し、を引き上げてなんとか立たせる。
水深は腰の深さほどであるが、川に落ちるなどには初めてのことであった。
苦しげにげほげほと咳き込み、小平太の胸にすがり、その腕に支えられながら立っているのがやっとである。
ずぶ濡れになった現状では、泣いているのか、ただ濡れているだけなのか、もはやわかりはしなかった。
を見下ろして、小平太は思わずふっと笑ってしまった。
くつくつと笑いを漏らす小平太を、はそろりと見上げた。
頼りなさげなその表情にすぅっと引き寄せられたように、
小平太はほとんど何も考えないでと唇を合わせていた。
「小平太……」
「今だけだよ」
は小さく頷いた。
水に濡れて冷え冷えとするはずが、その頬には熱がともりほんのりと朱を帯びている。
「……私は、忍だからさ。今だって臨時の任務で来てるだけだ。
期間が過ぎたら、城を出ていくよ。ちゃんともお別れだ。
そうしたらたぶん、二度と会うことも、ないと思う」
は悲しそうに首を横に振った。
消え入りそうな声で、行かないでと呟く。
濡れてつやを増した髪を撫でてやりながら、小平太は子どもをあやすようなやさしい声で言った。
「だめだよ。ちゃんが一城の姫君って立場に縛られてるように、
私も忍のあり方ってものに縛られてる。それは私が望んでそうしているところだけれど」
はまた顔を上げた。
小平太は場違いなほどにこっと、に笑いかける。
「だってさぁ。お姫さまと忍者のたまごじゃ、なーんにも様にならないよ」
それに、初恋は叶わないようにできてるモンじゃない、と小平太は続け、ぽんぽんとの頭を撫でた。
風邪を引く前にまず川から出てしまおうと小平太はの手を引いた。
しかしは川の中に立ち尽くしたまま動こうとせず、俯いたまま、呟いた。
「……叶わなかったかもしれないけど、報われたわ」
小平太は意外そうに、くるりと振り返った。
「ありがとう小平太。
私、今日のこと、一生忘れない。
お嫁に行っても、もっと大人になっても、小平太がいつか私のことを忘れてしまっても」
「……うん」
答えると、はやっと目を上げて、小平太の記憶と同じような笑みを浮かべた。
その頬に伝う滴が、涙なのかどうかがわからなかった。
ずぶ濡れの身を寄せ合いながらまた馬に乗り、城への道をとぼとぼと戻った。
はもう抵抗もせず、嫌という素振りも見せず、小平太に無駄に抱きついてこようともしなかった。
私は大丈夫だったろうかと、小平太は今更思った。
一生忘れないと言って笑ったに、うまく微笑み返してやれていたのだろうか。
城へ帰りつき、ずぶ濡れの小平太と姫君を迎えたのは、執務で多忙であるはずの殿様本人だった。
「……これは一体何事か、七松小平太?」
呆れ半分、怒り半分の様子の殿様に小平太は頭を垂れた。
「申し開きは何も」
「違うの、兄上、私が川に落ちそうになったところを小平太が助けてくれようとして……」
「監督不足だな。違うか」
「は……」
「兄上!」
「おまえは黙っておれ、。捨て置ける事態ではないわ、なにが護衛か、目付役か!
……それに、小平太。おまえがを馬に乗せて川辺へやって来、
ここへ戻るまで一部始終を見届けた者がある」
ざわりとしたなにかが肌を舐めていくのを小平太は感じた。
言い訳はしない。
覚悟も、とうにできていた。
小平太は顔を上げぬまま、唇をきつく噛んだ。
「我が妹はいま婚礼の支度をすすめている最中であるぞ。
まさかそれを知らぬなどとぬかしはせんだろうな、小平太。
女の涙にほだされたか、しかし誉められた判断では決してあろうはずがない。
一介の忍ごときが、よりにもよって婚礼を控えた姫に手をつけるとは身の程知らずも甚だしい!」
「兄上!」
が悲鳴のような声をあげた。
「貴様には罰を与えねばならぬ。
そこの者! その鞭を持て。私が直々に手を下してやろう、ありがたく思え」
「兄上! おやめください、私が悪いの……!」
「」
馬丁が掲げた馬用の鞭を手に、殿様はを振り返った。
「……おまえにも罰が必要だ、。
一国一城の運命をも担う立場の姫ともあろう者が、なんという軽率な真似をしたものか。
おまえにはおまえ自身がどういう存在であるのかという自覚が足らんのだ。
よいか、よく見ておくがいい」
抵抗の素振りも見せない小平太の両の腕を、二人の男が拘束した。
その背に向かい、殿様は鞭を構えた。
「おまえの考えなしの、軽はずみの行動は、人のひとりも簡単に痛めつけひねり潰す結果をも招くのだ!」
振り上げられた鞭が、唸りを上げて小平太の背を打った。
びしりと身のすくむような音が響く。
「うあ……!」
痛みには慣れていると自覚のあった小平太も、思わず声をあげ、歯を食いしばる。
着物の背は裂け、血がにじんでどす黒く染まっていく。
は泣いて喚いて小平太に駆け寄ろうとするが、侍女達が数人がかりでやっとそれを押さえつけた。
「小平太! 小平太! 兄上、やめて! やめて、嫌ぁあ!」
あまりの凄惨な光景にはやがて気を失ってしまい、そこで小平太の身に降る罰も終わりを遂げた。
手当てをしてやれと言い残し、殿様は地に崩れ伏した小平太に背を向けた。
「悪く思わないでくれよ……」
囁くように残された一言を、朦朧とした意識でどうにか聞き届け、小平太は安堵の息をついた。
これ以上、ここで勤めを続けることはなくなったはずだ。
気を失って倒れ、部屋へ運ばれていく様子を視界の端に認めた、
それがの姿を見た最後だった。
「ああああああイテテテテ、ちょ、いさっく……」
「ひどい怪我! 鞭で打たれたって!? 馬用の!?」
「しょーがないじゃん……」
「そうだけどさあ! もー! なんて仕事だ、まったく!」
自分のことのように、毎日同じ話題でぷりぷりと怒る伊作に、小平太は苦笑いを漏らす。
学園への帰還後、小平太は一日に数度も医務室で治療を受ける身となっていた。
鞭打ったあとに重ねるようにして更に打たれた、その痛みは数日経ってもなかなか引いてくれない。
「なんで小平太も、こんな仕事受けたのさ! 君向きじゃなかったろう」
「いやぁ、そんなことないよ……」
あれは下手をしたら私を名指しで来ていただろうよと、小平太は呟いた。
伊作はふっとため息をつく。
「……卒業後もこうじゃあ困るよ。いつでも手当てしてやるわけにはいかなくなるんだからな……」
「ふふふ。わかってるよ。ありがと、伊作」
廊下がふいに騒がしくなり、ぱたぱたと走ってくる足音が医務室の前で止まると、戸を引き開けた。
「あっ、いたっ、七松先輩!」
保健委員の一年生、猪名寺乱太郎である。
「おー、どうした、乱太郎」
「こら、乱太郎。慌てる子どもはローカで転ぶ、だぞ! なんなんだ、そんなに慌てて」
「すみません、善法寺伊作先輩。あの、七松先輩に、お客さんがいらしているので」
「私?」
治療が済んで着物を着直しながら、小平太は問うた。
「はい、今、門のところに」
「ふーん、誰だろ」
立ち上がりながら小平太は呟き、伊作に治療の礼を言うと乱太郎について医務室をあとにした。
ずんずんと歩いていって、校門のところで馬を引いて待っているひとを認めると、小平太は驚いて目を見開いた。
相手も小平太に気付くと、困ったように笑みを浮かべる。
数日前まで小平太の雇い主であった男、年若いあの殿様であった。
「やあ、七松小平太。その後具合はどうだい」
「数日足らずじゃ痛みは引きませんよ。打った人が手加減てやつを心得てたおかげで、治りは順調だけど」
「……だから、悪かったよ」
「気にすることはないです。仕事だし、結構いい額もらったし」
にやりと笑った小平太に、殿様は苦笑する。
「しかしこちらは助かった。……思惑通りに、運びそうだ」
「姫さんは、結構ショックだったんじゃあ?」
「そりゃあショックだろうよ、あんな場面見たことなかったはずだから。
……それも、恋い慕う男が目の前で打たれるなんてね」
「ふ」
小平太はわずかばかり皮肉そうに笑った。
「よく言うよなぁー。こんな筋書き考えたの、あんたじゃないか。
姫さんはあんたのことを、尊敬してるし大好きだって言ってたのにさ」
「……あの日以来一変してね、口もきいてもらえないよ。
部屋を訪ねても、御簾をおろして衝立の向こうに隠れている有様だ、百年も昔の姫君かってね……」
「あははは」
「……でも……には必要だったんだ、意識の持ち様を変えることが。
自分が軽い気持ちでやったことが、人を傷つけたり窮地に追いやったりしてしまうということを、
は知らなければならなかったんだ」
「だからって、こんな猿芝居打たなくてもさ」
姫さん可哀相じゃんと、小平太は呟いた。
学園に舞い込んだ依頼は、表向きは姫君の護衛役、目付役を一定期間仰せつかるというものだった。
しかしその裏には、世間知らずの姫君にその立場を自覚させること、という目的があった。
表向きの任務の過程で姫君と親しくなっておき、その言動に振り回された結果、
見咎められて厳しい罰を受ける。
自分の身勝手に付き合わせたせいで親しいものが罰を受ける、
その様を見て姫君は自分の言動がどれほどの力を持っているのか、どんな影響を周りに与えるのか、
それを嫌というほど自覚するはずである。
それがこの任務における真の狙いであった。
姫君の見ている前で罰を受けなければならない、という任務内容に、
だから忍たまたちはたじろいだのである。
「……私だって、あんたの依頼じゃなかったら受けなかったと思うよ、先輩」
「はは……いまは、おまえが体育委員長やってるんだって?」
「そーそー。ま、こっちは、立派に跡目を継いでるつもりですけど?」
「……おまえのことは心配していなかったよ。
今度の依頼も、小平太が来てくれたらと、私は思っていた」
「やっぱ。だろうなーと思った! 名指しで来なかったのが不思議なくらいだったもんな」
「うん、そう期待していたんだ。
……こういう弟がいたらさぞかしうるさくて、賑やかで、楽しいと思っていたから」
話の展開が少しばかり別方向へそれた気がして、小平太は ん? と、首を傾げた。
答えずに微笑し、殿様は馬を引いて門の外へ出ると、その背にまたがった。
「もう行くよ。……元気なようで安心した。様子を知りたかったんだ」
「心配ないですよ。私の取り柄だから」
「うん、わかっていたんだけどね……」
もっと別の、と、言いかけて、彼はまた口をつぐんだ。
小平太はまた不思議そうに首を傾げる。
「……の婚礼は、来年の春になりそうだよ。
相手の男は私の知人なんだけどね、この間城に来たとき、
に一目惚れしてしまった、ぜひとも嫁にくれと地面に額を擦りつけてまで懇願されてね。
実のところ……我が城は決して平和なばかりじゃあない。
今はなんとか、ぎりぎりで保たせているけれど、……いつどうなるかわからないんだ。
の気持ちには反するかもしれないが、……いまのうちに、安全なところへやってしまいたくて」
「そぉ、です、か」
「さえ機嫌を直してくれればね……悪い奴ではないから」
「うん。お幸せにって。伝えなくていいけど」
察したのか、殿様は苦笑して、頷いた。
殿様と小平太が実は手を組んで芝居を打っていたことを、姫君に知られるわけにはいかない。
伝言のひとつも、小平太は預けるわけにいかなかった。
「……おまえが来てくれて、本当によかったよ、小平太。予期していなかったことまで叶った」
「なんですか、それ」
「……嫁ぐ前に、厳しい現実を知って大人になる前に、少女のうちに……初恋をさせてやれたから、さ」
目を丸くした小平太にまた笑いかけ、じゃあ、お大事にと言い置いて、殿様は馬を駆って行ってしまった。
巻き起こった風が小平太の頬を撫でていく。
来年の春、あの姫君が誰かの妻になる頃に、小平太は卒業を迎えてこの学園を出る。
彼はおもむろに、くるりと踵を返し、学園の中へと戻った。
歩きながら胸に焼きつく熱の正体は、初恋は叶わないものだという、自分が姫君に放ったひとこと。
この先は、この初恋を寄る辺として見知らぬ男の元に嫁いでいくのだろう。
夫となる男にきっと上も下もないほど愛されて、幸せだと思えたそのときにやっと、
忘れないと言ったあのときの記憶をは昔の話にすることができる、けれど。
ずぶ濡れになって微笑んだの姿が脳裏に浮かんだ。
あのとき、は本当は泣いていたのかもしれない。
小平太は苦く思いを噛みしめた。
は一城の姫君として、小平太は忍として、この先関わることなく生きていくのだろう。
自分に与えられた立場に縛られ、ついて回る力をおさえこみながら。
あのとき手を引いて一緒に逃げていたらと、思ったあとで小平太は諦め混じりに息をついた。
あの瞬間に同じことを考えていたとしても、きっと行動には出なかった。
小平太はの前で、どこまでも忍でしかなかったのだ。
あの一瞬の口付けだけが、それに矛盾している。
思い返したあとで、小平太はぶるぶると首を振った。
(忘れてしまえ)
自分に言い聞かせるように念じた。
(忘れてしまえ……誰が! 誰が、恋でなんか泣けるか)
思いを振り切って、小平太は勢い込んで歩き続けた。
暴れれば、腹が空けば、腹一杯食えば、眠れば、きっと忘れてしまう。
背の傷と痛みと一緒に、そのうちきれいさっぱり消えてくれるはずだ。
人のいない、だだっ広い芝生までやってくると、小平太は苦内を振りかざした。
ざくざくと、地面にそれを突き立てる。
小平太はひたすら地面に苦内を突きつけては振り上げ、そこにあいた穴を広げていった。
端から見ればなにかを殺しているようにも見えるかもしれない。
持て余し気味のこのあやふやな想いは、忍をやるには邪魔だった。
殺して埋めて、邪魔な想いは眠らせてしまえ。
今日のはまるで墓掘りだと、思ったところで振り上げた手が止まった。
思いもよらず、ぽろりと涙がこぼれてきたことに、小平太は静かに驚いた。
彼は苦内を取り落とした。
呆然と、土に汚れた手で、滴の流れる頬に触れた。
たった一瞬通じただけのそのことを、本当は忘れたくないのだと知った。
長いながいあいだ、日の暮れるまでを彼はそこでそうしていたが、
やがて数滴の涙だけをそこへ埋め、小平太は立ち上がった。
数歩行って、振り返る。
たぶん私も、一生忘れないからと、口に出さずに思うに留め、小平太はまた背を向けた。
彼は二度と振り返ることをしなかった。
誰ひとりもいなくなったそこへ夕闇が落ち、やがて夜へと飲まれていった。
閉