世界の終わりに君とふたりで

くらり、と眩暈がして、立っておられずにひざを折る。
ずきずきと締め付けられる額を押さえるようにゆびを当てる。
背にはびっしりと冷や汗をかいていた。
盛夏らしい暑い日である。
炎天下を歩いてくることについて配慮を欠いたつもりはなかったが、致し方のないことかと弱々しく息をついた。
そのとき、もし、どうしたのと、女の声が降ってきた。
どうやら目の前の家の住人が、気づいて駆け寄ってきたふうである。
少し具合が、と何とか答えたところで、それ以上まともに意識を保っていることができなくなった。
支えてくれる腕に任せ、暑さの中に沈んでいく感覚に身を浸しながら、目を閉じた。

目を覚ましてすぐ、あら気がついた、という声が耳に届いた。
「うちの前で倒れなすったのよ」
声のほうへ視線を巡らせると、よく日に焼けて肌の黒い女がにこりと微笑んだのと目が合った。
「このあたりの方じゃあないね。浜の女にしちゃあ色が白いもの」
くつくつ笑いながら女は言った。
手元はきびきび、茶をいれている。
「具合はいかが。こんな辺鄙なところへおいでなんて、どこを訪ねてきなさったの」
「……夫の実家を訪ねてまいりました」
「旦那さんの? あんたおひとりで?」
女は訝しげに振り返った。
年は四十も半ばを過ぎた頃だろうか。
内心では冷静に観察をしながら、横たわっていた身を起こす。
「なんて家? このあたりは、民家はそう多くないから、わかるかもしれないよ」
「はい……でも、今日はもうよろしいのです。
 体調を整えましてから、出直してまいります」
そう、と女は答えた。
しばし沈黙が降りる。
そののち女が、お名前は、と抑揚なく問うてきた。
と申しますと、静かに答える。
また沈黙が横たわった。
お世辞にも居心地の良い空間ではなかった。
互いが互いに、
どちらかの声がこの居たたまれない空気をかき混ぜてくれることを期待していたが、
二人とも相手の値踏みでもするように──腹の探りあいなどするように、
押し黙ったままで視線を戦わせた。
しかし奇妙にも二人は、互いに取るべき間合いをはかろうとしながらの
この探り探られをそれほどいやだとは思わなかった。
先に口を開いたのは女のほうだった。
「旦那さんの実家って、旦那は婿養子?
 女が一人で来るなんて、それにしたって度胸のいることでしょうに。
 旦那は一緒に来てくれなかったのかい」
は何か考えるように、視線を少し俯かせた。
言葉を選びながら、答える。
「訳あって……夫は実家へ帰ることができない身なのです。それで代わりに」
「……そぉなの」
「今は町の宿で私の帰るのを待っております……私の報告を」
「ふぅん」
女は興味なさそうな声色でそれだけ言った。
茶を入れた湯飲みをへと寄越し、自分もそばへ座り込む。
また静かな時間がしばし流れたが、ふたりの女はその時間を味わうように噛み締め、
感慨深げに佇んでいるのだった。
再び、女が先に口を開く。
「年はおいくつ」
「はい……二十と、三になります」
「そう。いいおうちのお嬢さんてかんじねえ」
は答えず、口元で静かに微笑んだ。
「旦那は何、実家に帰れないだなんて。なにをやらかしたの」
「……なにも」
「なにも?」
「……はい」
は答えるのに、ほんのわずかばかり躊躇ってしまった。
己がこのような受け答えをできる日が来ようとは、かつては思ってもいなかった。
「……夫が、自分で……そう決めたのです、帰らぬと。
 これは夫の性格のためでしょう……代わりに私が訪ねると申しましても、長らく渋られました。
 こうしてここまでやってくるのに、ひどく苦心いたしましたもの」
「頑固ね」
「はい」
はクスと笑った。
女もつられたように笑い、正座していた足を崩す。
「旦那はあんたに優しい?」
「……はい、とても……不器用ですけれど」
「ふふ、男はそんなもんよね。
 うちの主人もそうよ、まあ、海の男だしね」
「左様でございますか」
「やり方がね、ぶっきらぼうなのよね。
 女よりも仕事のほうが大事だと、不器用だからそのまんまの言い方しかできなくて。
 若い頃は、泣かされたわね……」
「……ご苦労、なさったのですか」
「今思えば大した苦労じゃないね、
 幸い、旦那も海境の神様にとられることなく今日まで無事でぴんぴんしているし。
 子どもにも恵まれて安泰ってとこよ。
 まあ……子どものひとりは、もう手の届かないとこに行っちゃったみたいだけど」
「手の、届かないところ……」
「……海の神さんに差し上げたもんだと思うことにしてたのよ。
 ……よくはわからないけどね、……どこかで生きてりゃそれでいいわ」
「左様で、ございますか」
が何か考え込むように視線を落としたのを見て、女は口をつぐんだ。
そのままじっと、を見つめる。
そのまなざしはなにか言いたげに、慈しむように優しげであった。
「……あんた、いま、お幸せなの」
は目を上げた。
問いの音で結ばない女のその言葉は、そうであってほしいと強く願うような響きでもっての耳に届いた。
はゆっくりと瞬き、微笑んで頷いた。
「はい。とても」
「……そう。それはよかったわ」
「はい」
は照れたように頬を染めて、慎み深く俯いた。
その仕草に女も嬉しそうに微笑んだ。
しばらくふたりは、そうして静かに言葉を交わし、日暮れ近くまでの時を過ごした。
仕事で海に出ていたという、女の夫が帰宅したのを機に、はおいとまいたしますと立ち上がる。
「具合はもういいの」
「はい、おかげさまですっかりと。どうもありがとうございました。
 お世話をおかけして、長居をいたしまして申し訳ございません」
「いいのよ、お互い様でしょ。あんた、お客人がお帰りになるのよ」
夫を呼ぼうとした女を、お気遣いなくとは慌てて引き止めるが、
呼ばれてのそりと、大柄な男が家の奥から顔を出した。
「お邪魔をいたしました、ありがとうございました」
夫君はにこりともせず、返事もせず、頷くような会釈をに寄越した。
女はその態度を咎め、夫のわき腹を小突く。
微笑ましい光景に、はクスと笑みをこぼした。
「そこまでお送りするわ」
「いいえ、もうこちらで」
「いいのよ、さっき倒れたって人をひとりで町へやれないわ。 そこの、外れまでよ」
「でも」
「いいのよ。名残惜しいじゃないの」
は不思議そうに女を見返した。
女ももっとなにか言いたそうにしていたが、結局何も言わずに苦笑して肩をすくめるばかりであった。
女の家を出ると、海のそばの村落であるはずがあたりは木々に囲まれて、
まるで山中深くといったありさまであった。
日は沈みかけ、木の梢に光を遮られた足元はすでに暗い。
気をつけて、足場が悪いからと女にぽんと背をたたかれ、はうんと頷いた。
木々がそろそろ途切れ、道が緩やかにくだり、その先に町の喧騒が見え始めるあたりに差し掛かると、
女はぴたと歩く足をとめた。
「じゃあ、ここでね。あとは大丈夫ね」
「はい。お世話になりました」
は深々、頭を下げた。
女は切なげに目を細めて、それを見守った。
「身体に気をつけて、元気で……またいらっしゃい。
 来年の今ごろならあんたもきっと落ち着いているでしょうよ」
女は意味ありげに呟いた。
は頬を赤く染め、目を丸くしたが、その表情のままでかろうじて頷いた。
「そのときはどうぞうちにも寄ってちょうだい、あんたの旦那も……みんなで揃ってね」
「……はい。必ず」
「気をつけて」
「はい。失礼いたします」
改めて丁寧に頭を下げ、は町へ続く道をゆるゆるとくだっていった。
女の見送る視線をいつまで背に感じていただろうか。
ほとんど町の入口へ足を踏み入れたというあたりで、
はすぐそばの茶屋の席に腰掛けている文次郎の姿を目に留めた。
文次郎はが戻ったのに気がつくと、なにか気まずそうな表情を浮かべながら立ち上がる。
は慌てた様子で文次郎に駆け寄ろうとして一瞬踏みとどまる。
すぐそばまで歩み寄ってきた文次郎を、は焦れたように呼んだ。
「……文次郎様!」
妻を迎え、文次郎は少し安心したような笑みを唇に浮かべた。
は慌てて文次郎の袖を引く。
「文次郎様、いま、そこまでお見送りに来てくださって……!」
はいまやってきた道を振り返って見上げた。
あ、と声をあげたそのときには、女の姿はすでになかった。
肩を落とすに、文次郎はいいんだ、と呟いた。
「……もう、合わす顔などないと覚悟は決めている。そう言ったろう」
「でも」
「いいんだ。……宿へ戻ろう。話は帰ってからゆっくり、聞かせてくれ」
は納得いかないと言いたげに唇を尖らせたが、
文次郎に呼ばれるままに、しぶしぶ彼について歩き出した。

もうひと月以上も前のことだ。
いつものように家の前を掃き清めていたは、
周囲の家の住人が落ち着きなくざわついて、一様に空を見上げていることに気がついた。
何事かと思ってそれに倣えば、なんとしたことか、太陽の端がわずかに欠けているのが目に留まる。
じょじょに時間をかけて、その欠損は幅を増し、少しずつ光の面積を削り始めた。
町の人々は動揺して泣き叫び、逃げ惑い始める。
この世の終わりじゃ、常世の黄昏じゃと、叫ばれた声がの耳の奥にこびり付いた。
逃げることも惑うこともできずに立ち尽くすを、背後から呼ぶ声があった。
たまたま勤務先の忍術学園から帰宅したらしい文次郎である。
不安げには、文次郎に駆け寄りその胸にすがった。
「文次郎様、空が、日があのように欠けて」
「ああ、俺も途中で気がついた」
「なんと恐ろしい光景でしょう!」
「……、案ずるな」
「お帰りくださってよかった……」
「ああ、……虫の知らせだ、まさかこうしたこととは思いもせなんだが」
昼日中にも関わらず薄暗さを増してゆく空を、
文次郎ととは寄り添いあいながらただじっと見守りつづけていた。
「世界が終わるのだと、誰かが仰っていました」
「……終わったら、また新しく始まるだろう」
「そうでしょうか」
「こうした天変地異の記録は古代からの文献にもまれに見られることだ。
 神話の時代に太陽神が墳墓にこもれば日は隠れたし、
 巫女王にいたっては欠けた日をその神通力で元に戻したというぞ。
 まあ、すべてが実話とは思わんが」
神がかり的な何かをまれな現象の中に見たからこそ・こうした寓話が生まれたのだろう。
文次郎の語るのにはじっと耳を傾けていたが、やがて静かに口を開いた。
「……ひとつの時代が終わって、また新しい時代が始まるのですね」
「そういう兆しと見て取ることもできるだろう」
「……もし、これが本当にこの世界の終わりなのだとしても」
「ああ」
「あなたと一緒ならば、こわくはありませぬ」
「……そうか」
しっかりと頷いたを、文次郎は力強く抱きしめた。
日はいよいよ、月の欠けるようにほそくほそくなってゆく。
不安そうには、文次郎の腕の中で呟いた。
「……文次郎様、もしも、もしもこれが本当に、世界の終わりではなく……
 あなたも私も、無事に生き延びて新しい時代の黎明を見ることがかないますなら」
「ああ」
「お願いがございます」
「なんだ」
「……約束を、どうか。
 かつて旦那様の治めていらしたお城と、私の実家の家と……
 それから、文次郎様のご実家の潮江のお家を、一緒に訪ねてまいりたいのです」
「潮江の家もだと」
「お帰りになるおつもりがないことは承知です、でもどうか、このような折です、約束してくださいませ。
 人の世の争いを見るにつけ……また、このような天変地異の目に遭ってみればこそ、
 ひとの命の儚いことがより重く迫って感じられます、ですから。
 このような事態を越えてなお生き延びることがこの命に許されているといたしますなら、
 そのときこそは……思い直してくださいませ。
 生きているあいだに、もう何度会えるかわからない人が大勢ありますでしょう。
 会えるものなら、訪ねてまいりましょう、私が、おそばに一緒におりますから」
ですから、とは祈るように続けた。
何かを答えようとして文次郎が口を開きかけたとき、
日はすべて欠けてあたりは闇に閉ざされた。
がひっとのどもとから悲鳴を絞り出す。
答えようにも、文次郎は迷っていた。
忍の道を志し、その道が確実に定まったと知ったとき……生まれ育った故郷へ帰ることはすまいと心に決めた。
そうして今まで、その決心を破らずに生きてきた。
任務のあり方によっては、己の関わるすべてのものに類の及ぶ心配がある。
ずっとずっとひとりでいれば、誰にも何にも、迷惑も心配もかけずに済む。
危険な目に遭わせることもない。
(……しかし)
文次郎は腕の中でぎゅっと目を瞑って震えている妻を見下ろした。
今の文次郎には、このの存在がある。
ひとりでい続けることを誓ったはずの己にも、家族と呼べるひとができた。
命を賭しても、身体を張っても護りたいと思う、ただひたすらに愛おしいばかりの相手が。
そのが、一緒に行くから帰ろうと言っている。
己を取り巻く状況は、文次郎がひとりの忍としての人生を踏み出した頃とはすでに違う速度で回っている。
なんと答えればいいのだろう。
己はいったい、どうしたいのだろう。
考えあぐねてまだ答えの出ない文次郎の耳に、のか細い声が届いた。
「あ……文次郎様、……日が、」
文次郎は目を上げた。
漆黒だった空に薄く薄く、光の膜が張り始めていた。
欠けていた太陽が少しずつ、新たに光を放ち始める。
(……新しい時代の始まり……)
先程の言葉が脳裏をよぎる。
見出しかねていた答えがそこに見え始めていた。

宿の部屋へ戻ってくると、
ただの帰りを待っていただけのはずの文次郎のほうが、
慣れぬ道を歩き続けたよりもよほど疲れた顔をして座り込んだ。
表通りに面した壁面には明かり障子が巡らされ、
薄い障子紙越しに沈みかけの太陽の光をふうわり、室内に取り込んでいる。
文次郎は重く身体を引きずるようにのろのろと歩いていって障子を開けて、そのすぐそばに座り込む。
庭と生け垣、日暮れを迎えた町の雑踏が広がるそこへ、文次郎はぼんやりと視線を投げかけた。
もう何年も帰らなかったものの、文次郎にとっては懐かしく見覚えのあるはずの場所。
は黙ったまま、文次郎の横顔を見つめた。
赤みがかった日暮れの光を浴びて、その表情は厳しさを増して見える。
しずしずと歩み寄り、は文次郎のすぐそばへ、膝を折って座り込んだ。
会話の起こらないそのあいだを、風が吹き過ぎ乱してゆく。
今朝別れてから再び二人でこの部屋へ帰ってくるまで、そのあいだにあったことを、
は話してしまいたかったし、文次郎はすっかり聞きだしてしまいたい思いに駆られていた。
お互いにとっていちばん心地よくその話題の滑り出すタイミングをはかり合ったまま、
しばらくどちらも口を開かなかった。
時間が過ぎて少しばかり日がかげり、吹いてくる風が冷たくなってきたと思った頃やっと、
文次郎は絞り出したようなかすれた声で、すまなかった、と呟いた。
「いいえ。私が望んだことです」
「……ああ」
「とても、さっぱりとした話し方をなさるお方ですのね」
「ああ」
「少し低めのお声で。やさしい響きの」
「海の男衆は気性が荒いからな……それを尻に敷くのに、女は怒鳴り散らして声を枯らす」
「私を見てすぐ、このあたりの者ではないとお気づきになられました」
「潮焼けしていないからだろ」
「はい、それに……お宅の前で、めまいがして……立っていられなくなってしまって」
「……倒れたのか?」
「あ、はい、あの、でも、ご心配なさらないで、もう平気ですから……
 すぐに気がついてくださって、ご自宅で介抱してくださったのです。
 そんな有様でしたから、尚のこと軟弱に見えましたでしょうね、きっと」
「……大丈夫なのか」
「はい、……病ではありませぬ」
は文次郎を安心させるように──はにかんだように、微笑んだ。
その笑みがなにか言いたそうにしているのを見てとって、
しかし何を言いたがっているのかはわからず、文次郎は不思議そうに眉をひそめた。
「お茶をご馳走していただきました。
 いろいろな……話をして。私の話も、……あのお方のお話も」
「……何を話した?」
「いま、幸せかと、お尋ねになりました……」
「……なんと答えた」
は慎み深く、目を伏せた。
「とても幸福ですとお答えしました」
聞いて、文次郎は頷くようなそうでないような曖昧な素振りで、ふ、と息をついた。
「……なにか言っていたか」
精一杯平気そうに問うたのだろうが、文次郎の声は少し緊張していた。
はそれに気づかなかった振りをしつつ、頷いた。
やがて、躊躇うように、一語を選びえらび、囁くように言った。
「お帰りのないご家族は、海の神のもとへいらっしゃると……そう思うことになさっているそうです」
「それはほとんど死んだようなものだな……実際ほとんどその通りと言ってもいいほどだ」
「……どこかで生きているのならばそれでいいのだと仰っておいででした」
文次郎は何も答えられず、口を閉ざした。
はまた、文次郎のその様子に気づかなかったふりをして、続けた。
「私など……文次郎様のお帰りを、ただじっと待ちつづけていたあの頃には、
 生きていてくださればそれでいいと思うことはできても苦しくて耐えがたくて……
 あのお方のようにしずかに思い切ることなど到底できませんでしたでしょうね」
三年も以前のことになってしまった、その頃のことを文次郎は脳裏に思い返した。
この任務さえ無事にやりおおせればのもとへ帰れるのだと念じながら、
数か月間離れて暮らしたことがあった。
その間の文次郎の様子について、はほとんど知らされることなく
ただじわじわと不安に駆られながら待ちつづけるよりほかになかったのだ。
「あのお方のように強くあれたら、どんなによいでしょう」
文次郎は苦々しく笑った。
「……俺は嫌だぞ」
「まあ。なぜです」
「昔を思い出す。よく叱られて家から追い出された」
休校日に急いで帰ったのに締め出されるようなことがあってはかなわんと、文次郎は苦笑する。
も静かに微笑んだ。
「悪戯がお好きでしたのね?」
「さぁな、知らん」
「文次郎様は、」
の口調が少し改まったので、話題が別のほうへ向いたことを文次郎は悟った。
はにこりと、楽しそうに笑う。
「お顔はお父様似でいらっしゃいますのね」
「……そうか」
は頷いた。
「でも、なにかお考えになりながらお話されているときのご様子などはきっとお母様似です」
「よく見ているな……」
のどの奥で笑う文次郎のその様子には、もう緊張は少しも宿っていなかった。
「あのお方は、……きっとお気づきでいらしたと思います」
「お前がそうと言ったのではないのか」
「……、なにも申し上げませんでした」
でもとてもよくしてくださいましたと、は微笑んで俯いた。
文次郎はふと、今日何度目かの不思議な感を覚えて、を見やった。
何か言いたそうにしているのに、思わせぶりに目を伏せるばかりで結局黙り込んでいる。
問いかけようと口を開いたとき、
意図して遮ろうとしたわけではないだろうが、が先に囁いた。
「……あのお方の仰っていたこと……
 家へ帰っては来なくてもどこかで生きていてくれればそれでいいと」
はまた、くすっと笑った。
「見聞きのできない、手の届かないところへ行ってしまっても、
 二度と会うつもりがなくても……それぞれにひとは生きて、ほかの誰かと出会って……
 またそこから続いてゆくものなのですね」
「……ああ、?」
はいったいなにを言い出したのか、なにを言おうとしているのか……
文次郎は推し量ろうとして考えをめぐらせた。
は楽しそうにくすくすと、笑いつづけている。
幸せかと問われて幸せだと答えた、まさにそれを証明するかのように、
そのくちびるからこぼれ落ちる笑い声は軽やかに文次郎の耳の奥に響く。
「……すぐに文次郎様にもおわかりになります……
 文次郎様ご自身が二度と会わないとお決めになって、離れてしまったおつもりでいらしても……
 それでも強くつながって続いているのです、家族というものは」
そしてこれからもずっと続いていくのでしょう。
は静かに唇を引き結んだ。
ふと、
文次郎の胸の内にいきなり、──確信が生まれた。
彼は呆然と目を見開いて、ただ妻を見つめた。
ずっと言いたくて言わずにいたことに夫が気づいたと悟って、
は顔を上げると嬉しそうに微笑んだ。
「また訪ねてくるようにと、言ってくださいました。──今度は文次郎様も、皆で、と」
必ずまいりましょうね、と微笑む妻を、文次郎は思わずつよく抱きしめた。