「食満!」
呼ばれて振り返ると、肩のうしろで待ちかまえていたの人差し指がぐに、と頬に食い込んだ。
くそ、こんな古典的な手にかかるとは。
「なんだよ」
「ひっかかった」
はにこにこしながら指を引っ込めた。
真冬の帰り道、高校の近くの古い商店に据えつけられた自販機の前。
特に約束をしているわけでもなかったが、部活や委員会のない日の放課後はそこで落ち合って一緒に帰る。
といっても、電車通学のを駅まで送って、徒歩通学の俺はダッシュで家までの道を戻るのだが。
それまで互いの存在も知らなかった俺ととが意気投合したきっかけは、夏の学園祭の準備だった。
準備に熱が入ると、帰宅時間が遅くなる日が続いた。
それでなんとなく駅まで送るようになり、あっというまに親しくなって、
学祭が終わっても夏休みを挟んでも、違うクラス同士の俺たちのあいだの習慣として残ったのだ。
「ほれ」
「なに?」
「やる」
カイロがわりに買ってあったホットココアの缶を差し出すと、は控えめに微笑んでそれを受け取った。
学校からここまで、ほんの数分走ってきただけのその頬や耳や鼻の頭はすでに赤い。
「ありがとう」
「おう」
はなんだかちょっと愛おしそうな仕草で、両手に包むように持ち上げた缶に頬を寄せる。
心地よさそうに目を閉じる、その表情に俺はたぶんすっかり見蕩れていた。
その格好のままでは目だけを薄く開けて俺を見た。
ただそれだけの、その視線が、心臓のど真ん中を撃ち抜いてゆく。
俺の頬や耳や鼻の頭やが赤いのは、きっと寒い中待ちぼうけたせいではない。
「今日、寒いね」
「あ、うん、だな」
「食満、手袋とかないの」
「あー、忘れた……」
はさっきまで愛おしげに両手で包み持っていた缶を惜しげなく無造作に開け、口を付けた。
誰に言うでもないような吐息混じりの声で、あったかい、と呟く。
ほっと息をついて見せたあとで、また視線だけを鋭く俺に寄越し、はおもむろにその缶をずいと差し出した。
「ん」
はいでもない、どうぞでもない、鼻を鳴らしただけみたいな、どこか横柄な態度。
多少のことなら流して許せるというくらい親しい仲でなければ、こんな態度は出てこないだろう。
何か試されているような心地で、俺はその缶を受け取った。
口を付けるその直前に、ほんのわずかだけ、躊躇いの心地が胸の奥を騒がせた。
別にそういうことじゃない、そういう意味じゃないと、きつくきつく念じながら。
そういうって、どういう、だよ。
心臓をばくばく言わせながらも、案外なにも気にしていない顔をつくるのは難しくない。
慣れていいことではないはずなのに、じょじょに慣れてしまった。
もう冷め始めているココアを一口だけ飲み下して、缶をに押し返す。
頭の中じゃと呼んでいるが、からかう奴がいると思うから、口ではと呼んでいる。
も俺を、名前では呼ばない。
「行くぞ、雪降りそう」
「うん、今日、寒いね」
さっき言ったのと同じことを、は繰り返して言った。
静かな動揺をあと一歩のところで隠しきれない、昔から態度までばか正直なところがある奴だった。
昔から──つまり、俺がについて知っているのは、半年前に出会ってから今までのことだけじゃあない。
俺がお前から目が離せなくなったのは、もうお前を知ってたからだよ、
なりふり構わなくてみっともなくなるくらい、好きだったことがあるからだよ。
「暦は春なのにな、もうすぐ」
「ほんとだね」
お互いの反応を確かめ合うようにして、中身のない会話を繰り返す。
今の時代以前に生きた記憶をこれっぽっちも持っていないを相手に、
俺はこうして半年ものあいだ、迷って躊躇って二の足踏んで、結局なにも言えていない。
俺だけが覚えている、それは、なんて孤独だっただろう。
「食満、牡羊座って言ってなかった」
「よく覚えてんな」
「星座占いやったじゃん」
「ああ、そうか」
「誕生日なんだよね、もうすぐ」
「うん」
数えで年を重ねない現代では、自分の生まれた日は特別な記念日だ。
漠然とでも覚えていてくれたことが妙に嬉しい。
なあ、
室町時代に生きた、忍の食満留三郎は、同じ時代に生きていたを好きだったよ。
お互いどうやって死んで、生まれ変わったんだろう。
俺の記憶も断片的だ。
だけど、と一緒にいてめちゃくちゃ幸せだった時間とか、いちばん大事なことは忘れていない。
「このあいだ前世占いっていうのやった」
「へー」
「食満もやったげる、質問に答えてね」
買ったばかりのスマホが使いたいらしい、は指先で占いのウェブサイトを探し始める。
前世占いか。
結果が忍者だったら、占いもばかにできないと思い直して、
朝のニュースの星座占いカウントダウンもちょっと信じてやることにしよう。
「えーとね、『あなたの前世は“金魚”です』。……金魚!」
はけらけらと笑い出した。
「金魚! 金魚だって!」
「ひでえ」
「あははははは!」
「そんな笑うな」
ばつが悪いってのはこのことだ。
ちょっと拗ねて見せても、すぐにつられて笑いたくなる。
人の態度をほぐさずにいられない明るいところとか、こいつのすごいところだったな。
姿かたちが今と昔でまったく同じというわけではない。
髪の色とか髪型とか、服装はもちろん、全然違うせいかもしれない。
でもで、そういう雰囲気でそこに佇んでいる、それが変わらない。
だからすぐにわかったんだ、半年前に声をかけられたとき、これが初対面じゃなく再会だってことが。
巡り巡ってまた同じ時代に、こんなに近くに、同い年の男女として生まれついて出会った、
これを縁だと思っちゃダメか。
俺は今日も、なにも言えずなにもできずに帰るのか。
駅までの道のりは、一歩一歩確実にうまってゆく。
いつもどおり、意味のない会話だけが時間の上に降り積もるうちに、いつも別れる駅前の交差点まで来てしまった。
赤信号に立ち止まって、が言った。
「ねえ、すぐ帰る」
問いの音をしていなかったが、俺にそう聞いたのだ。
「は」
「なんか用事ある?」
「いや」
じゃあ、とは俺を見上げた。
「ココア奢ってもらったから、なんかお返しするよ。コーヒーとかのほうがいい?」
信号が青に変わったが、は俺から視線をそらそうとしない。
俺が返事をするまで動かない気だ。
「……んじゃ、奢られる」
うん、とは頷いて、さっさと横断歩道を渡り始めた。
その髪に触れたくて、肩をつかまえたくて、手袋をしていない俺の手は突き動かされたようにぴくりと持ち上がる。
また昔のことを思い出す。
なりふりも構わなくてみっともないほど、のことが好きだった昔。
夜も眠れないだとか、食事も喉を通らないだとか、
冗談だろうなんて思っていたことをこいつはたやすく俺の身に起こさせた。
俺の気も知らないで、は目が合う奴誰にでも笑いかけたし、誰にでも愛想良く話しかけたし、
お節介だわ、余計な世話は焼くわ、こまごまと面倒を見るわ、俺の内心をこれでもかと言うほど掻き立てたのだ。
俺はひとり、と関わった学園中の人間に嫉妬しながら、自身のことは逆恨みした。
誰に対しても、俺に対しても、なんの他意もなくそうするが憎らしい気さえしたのだ。
そこまで好きだったのに、たぶんちょっと鬱陶しいくらい好きだったのに、
俺はただの一度も自分からに近づこうとはしなかった。
そばにいると苦しい、見ても聞いても苦しかったから、俺はから離れようとつとめていた。
そうしてのことで苦しむのは、ある意味では本当に幸いだった。
「めちゃくちゃ幸せ」だったのだ。
卒業まで六年間くの一教室に居座り続けたくせに、は早くから実家で農作業を手伝うという進路を定めていて、
それは同じ学年の忍たまたちのあいだでも有名な話だった。
だから俺は必死でと距離を置こうとして、忍としてあることに打ち込もうとしたのだ。
ギンギンうるさい忍者バカも、有無を言わせない幼児体質の暴君も、俺を巻き込まずにはおかない不運の寵児も、
こうなってみればありがたかった。
そうして卒業したあとの記憶は輪をかけてぶつ切り状態であまり鮮明ではない。
ただ、そのあとでに会うことはなかったと、そんな気がしている。
昔、俺はそうやってに背を向けた。
追いかけることをしなかったんだ。
「食満、コーヒー、どれ?」
「……なんでも」
「なんでもって、どれ」
「……甘くないやつ」
駅の中に設置された自販機の、缶をひとつ指さす。
は自販機のボタンを押し、あたたかなコーヒーの缶を取り出すと俺に差し出した。
呟くように礼を言ってから缶を開け、口を付ける。
のどが熱くなった。
吐息が白くくもって消える。
冷えた空気の中、まるで痛みのようにじんじんと、手の内に熱が疼く。
俺も、試してみようか。
昔の俺が頑なにやらずにいたことを。
に向かって、無造作に缶を差し出した。
もし、応じてくれたら、今度は言い訳を振りまきながら逃げるなんて真似はしない。
は上目遣い気味に、不思議そうに俺を見ている──やがて、おずおずそれを受け取った。
ありがとう、と呟いて、も平気そうな顔を繕って缶に口を付ける。
頬が薄赤いのは、まだ寒さのせいなのか、それとも。
こくん、とちいさくののどが鳴る。
そのままの恰好で、なにか考え込むようにため息をついた。
「食満、あの」
「言うな」
は弾かれたように顔を上げた。
少し傷ついたような怯えた目をしている。
そうじゃない、最後まで聞いて。
「今度は俺が言うから」
「今度は?」
「わかってるのにずっとなにもしなかったら、後悔するんだ」
断ち切れ、時代さえ越えて連綿と続いてきた、俺に染みついた逃げたがりの思考回路。
期待と不安の混じったような目が、それでもまっすぐに俺を見据えてくる。
逃げることなんてハナから念頭にもない、なんて強い目だ。
どんな敵でさえ、この目に射抜かれればきっと身をすくませた。
そうだ、俺はたぶん、この目がいちばんこわかった。

今初めて立ち向かう、
「あの」



「あのさ、……!」



“さよならジーン”