宵のみぞ知る  序


だから、それは、恋人だろう、と彼に問うと、彼は渋い顔をして考え込む素振りを見せる。

ややあって答える。

「いや、それは、違う……たぶん」

どう違うのかと更に問いつめる。

「いや……向こうは趣味だろう」

そして自分は本気になってしまっている。

分が悪いのは言うまでもない。

食堂という、夜でも明るく健全な社交場において。

声をひそめて似たような話を日夜繰り返すのは、六年生の委員長組であった。

趣味って言っても……と、伊作が我がことのように不満げに言う。

「だとしたらとんだあばずれだぞ、あの女。想うだけ不毛じゃねぇか」

言った相手が潮江文次郎だというだけで理由なく反論したくもなるが、

彼の言うことは事実部分においては間違っていない。

「……を悪く言うな」

低い声で呟いたのは、六年は組食満留三郎である。

「不毛だろうが騙されていようが利用されていようがどうでもいい。何度同じことを言わせる」

これは完璧にハマったな、と、友人一同は諦め半分にため息をつく。

いつもこの話題はこうして終わりを迎える。

「よくあんなの好きになれるよなぁ。あ、悪口で言ってるんじゃないけどさ!

 でも私はあの子はおっかなくてさぁ……」

小平太が顔をしかめたのに、ずっと黙っていた長次もうんと頷く。

それぞれがなんとなくその言に心当たりのあるような顔をする。

今年度のくの一教室で唯一六年生までの課程を脱落せず生き残ったくのたまがである。

年齢は彼らと同じ十五であるが、時と場合によってはとても相応には見えない妖艶さを纏うこともあり、

もうプロのくの一に引けを取らない仕事ぶりであると行く末を嘱望されている娘だ。

彼らはの実習授業の援護役をやらされたことがあり、その仕事ぶりを直に見ていた。

くの一と男忍者の間にある決定的な戦法の違いくらいは、

忍たまも六年生ともなれば理論上知っていて当然のことではあった。

天井裏に、壁の後ろに、床下から部屋の外まで、気配を絶って彼らは潜んでいた。

その任務の標的たる男が一時的に愛人を連れ込むための屋敷に、

その日の主賓として招かれる役がだったのだ。

もちろん、そこへ至るまでの裏工作は、その実習以前に周到に仕組まれていた。

どこへどう取り入ったのかなど、彼らは皆今となってはリアルに聞きたいと思えない。

任務ともなれば、は一流の役者であった。

耳が腐り落ちそうな甘いセリフを絶妙のタイミングで口にし、押したと思えば引いてみせる。

駆け引きの何たるかをよく心得た上でまるで遊んでいるような様子だ。

その日の役柄はまだ汚れきらぬうら若き乙女、睦言から情事に至るまで何一つ慣れぬ様子のうぶな娘。

男に身体を押し開かれて、迫り来る未知の感覚にひたすら恥じ入り目も合わせられず顔を覆う、

その仕草をチラとでも見る羽目になる同年の忍たまたちは、

演技と知りながら少女がその身体を汚されてしまう前に何とかしなければという

妙な正義感に一瞬駆られそうになるほどだった。

相当な腕前のくの一に育つだろうと言われるのも納得のその見目の麗しさ、声の涼やかさは任務の間もかき消えず、

彼らはうっかり見惚れ、聞き惚れそうになっていた。

その途端である、男の首が妙な方向へ傾ぎ、そののどからごぼっと何かが溢れるような音がした。

薄暗い部屋の中に浮かび上がったの白い肌に、ぱっと数滴血が散った。

鋭利な刃を手に、はやや面倒くさそうな仕草で男の身体の下から抜け出す。

一瞬の惨劇と男が上げ損ねた断末魔の叫び──掻き切られたのどから漏れる空気の音であった──が、

実習授業や任務といった言葉を忘れそうになっていた彼らを現実へ引き戻した。

標的の男はを部屋へ連れ込む際に強引な人払いをしていて、助けはひとりも来なかった。

援護役の彼らの出番などわずかも必要としないまま、その任務は終了してしまった。

彼らの忘れられぬ光景はそのあとだ。

みだれ髪を風が悪戯に弄ぶまま背に流し、顔と身体に散った血もそのままに、

は裸のままで彼らの前へ現れた。

何事もなかったかのように一言──この着物、気に入っているの、血で汚したくないわ──

標的の手で引き剥かれた着物を指先に引っかけて、乾きかけた血を手で拭おうとした。

見かねて自分の忍装束を着せかけてやったのが食満留三郎だった。

ありがとう、食満くん。

上目遣いに妖しい光を宿したの視線に、留三郎はそのとき絡め取られてしまったのだ。

学園に戻ってから、彼との間に関係ができるまで、そうそう時間はかからなかった。

「噂をすればお出ましだ、返り血の女神。崇拝者はお前だけじゃないだろうがな」

仙蔵の揶揄にも言い返せず、留三郎は食堂の入り口に一瞥をくれた。

が遅い夕餉に赴いたところであった。

学園にいる間中は、無害そうな忍装束に彼女も身を包んでいる。

しかし、後輩のくのたまたちと並べてみても、明らかには異質であった。

忍たまたちからすれば軽い畏怖の象徴となってもよさそうなところ、

ときどきその毒々しいほどの色香にわかりやすく惑わされるものも出てくることがある。

不思議なことは、くのたまたちは例外なく彼女を慕っているらしいということだ。

くの一としては大成功の存在感である。

食事を受け取って振り向いたは、恐らく計算してのことだったのだろうが、

まるで偶然、今気がついたというように隅に座る六人へ目を留め、少し驚いた顔をして見せた。

まぁそこにいらしたの、知らなかった、驚いたわ。

「こんばんは。すてきな夜ね」

すてきも何もあるかと、ぼそりと文次郎が吐き捨てた。

「御機嫌斜めの潮江くん。私がお嫌いのよう」

言いながら、しかしはくすくすと笑った。

馬鹿にされているような心地がして、文次郎はまた腹立たしく思う。

「ねぇ、食満くん」

来た、と誰もが身構えた。

「今夜はお暇? お部屋へお邪魔しても良い?」

ほんの少し、これも計算ずくの角度なのだろうが首を傾げて、はにっこりと笑みを浮かべた。

留三郎が断れないのをわかっていてそう問うのは、

いつもながらなんて底意地の悪いことかと眺めに徹さざるを得ない友人諸氏は思う。

留三郎は答えづらそうに素っ気なく、好きにすればいいと言った。

「まぁ冷たい仰り様。いつものやさしい食満くんは何処へ」

芝居がかった仕草で嘆いて見せ、は悲しそうに目を伏せた。

「いいわ、そんなつれないことを言う食満くんなんて知らない。別の人のお部屋へ行くから」

内心動揺する留三郎をよそに、は流し目を一同へ寄越した。

物色するように一瞬間をおいたあと、たまたまの目が留まったのは善法寺伊作であった。

それだけでの言わんとするところを察し、友人達は半ば慌てて反撃に出る。

「おいおいちゃーん。冗談よしてよ!」

「お前が食い散らかしてない貴重なエリアなんだここは」

小平太が伊作をかばうように言い、文次郎は歯に衣着せぬ勢いで食ってかかった。

「まぁ酷い、潮江くん。私、いつあなたにそんなに嫌われることをしたかしら」

「お前は虫が好かん! そんだけだ」

「もう少しやさしい言葉で言ってくれてもいいのに」

「俺はお前を過小評価はせん。舐めてかかって美味しく食われるのは御免だからな」

「うふふ。じゃあ、あなたが食べてみる?」

美 味 し い か も よ、と一音ずつはっきり区切っては言った。

とうとう我慢しきれなくなり、留三郎が口を挟む。

。いい加減にしろ」

「あら、食満くん次第よ」

「……好きにしろと言ったろうが!」

「招かれてみたかったのに」

ばか、と口をとがらせ、その割には楽しげにはやっと六人に背を向けた。

少し離れた席でひとり食事を始めたを認め、六人の間にやっとほっとした空気が流れる。

と対するときはいつも緊張し通し、というのが彼らの間の認識だった。



夜の遅い時間に、は留三郎の言葉に従ったのだろう、彼の部屋を訪れた。

恋人ではない。

だから、特に話もせず、素直すぎるくらいまっすぐに、はいつも訪問の目的だけを目指す。

細い腕が肩に、首に絡みついて己を引き寄せようとするその瞬間、留三郎はいつも目眩のような陶酔感を覚える。

これでもかと言うほど女らしいやわらかな曲線を描く身体を横たえて、

言葉などひとことすらも交わさず、狂ったように唇を貪った。

己の指が、舌が、少しずつの肌にもたらす熱を感じては、己も追いかけるようにその熱に染まる。

明らかに男慣れして、抱かれることに微塵の感動も見出さない様子のに失望したりはしない。

男子生徒たちの部屋がずらと並ぶ長屋の一室ということを自覚しているのかいないのか、

遠慮のない喘ぎ声をあげて貪欲にさらに奥へと求めてくる。

見回りの教師に見つかったら……などという不安が、ちらと留三郎の頭をかすめるが、

の細い腕、そのゆびが蛇のように彼の髪の中をまさぐり、他のことを考えるなと命じる。

頭の中がまっ白になり、燃え尽きたように──周囲の何もかもが見えなくなって遠ざかった。

「……は卒業したあとはどうするんだ」

「なぁに? 進路?」

「そう」

ことを終えて意識がやっとまともに戻って来、気怠い身体をお互いが抱きしめ合う腕にまかせながら、

留三郎はその場に似つかわしくないほど事務的な口調でに問いを振った。

「スカウトもいくつかあるし……フリーでという道も考えているし……

 細かいことを山本先生と相談しているところよ」

プロになるわ、とこともなげには言った。

胸元に心地よさそうにすり寄ってくるの頭を撫で、そのまま長い絹糸のような髪をゆびさきで弄ぶ。

どこか腑抜けたこの時間は退屈で、しかし妙に居心地がよい。

忍となればあまり縁のなさそうな、平凡な幸福感だなと留三郎はぼんやり考えた。

「自分で何かできることがあるって、すてきなことね」

は何か思いだしたように、彼の腕の中で思わせぶりな笑いを漏らした。

意味がわからない、という視線を向ける留三郎をは腕の中から見上げ、何の意味もないようにお互い唇を合わせた。

一緒に床にいる間に何度そうして口付けを交わすかはわからない。

相手のために時間を使う代償のように何度も口付けをするのは、二人の癖のようになっていた。

「子どもの頃から私は“こう”だったの。

 女って自分を切り売りすることが……そうやって稼ぐことができるのよね」

それで我が家は成り立っていたんだわと、壮絶の過ぎるような言葉も当たり前のようにさらりと口にし、

は寝返りを打った。

「この学校は寮があるし、家に帰らず自分に技術を持たせることができるわ。

 六年学んで自分の力を積み上げることもできたし、それで稼ぐことができることもわかったから。

 ぜひプロになりたいわ」

「ふーん」

そう話すの目は、言葉の重さの割にやけに希望に満ちたように輝いて見えて、

留三郎はなにか特別な返事をしたくともそうすることができなかった。

己の返事ひとつで会話の矛先を重いほうへ向ける必要はない。

しかしそれ以上なんと答えればよいのかがわからず、

不器用な彼はまた誤魔化すようにに口付けを贈り、その肌にゆびを滑らせた。

「えぇ……もう一回?」

面倒そうに言うが、は苦笑している。

一度高みまで押し上げられたの身体には簡単に火がついた。

留三郎の耳元を甘い吐息と泣くような声がかすめていく。

このまままた周りが見えなくなるのかと落ちかけた彼の意識を、

隣の部屋から聞こえてきた思いきりよい騒音が引き留めた。

察するに壁が叩かれた音だ。

さぁっと血の気が引いて、ぴたりと愛撫の手が止まる。

一瞬あとになって、微妙に覇気の欠けた怒鳴り声が聞こえた。

「……っおまえらぁっ、隣近所の迷惑考えろぉぉぉっ!!」

あら、潮江くんの声、とがあっけらかんと言った。

「……隣は伊作なんだがな」

「遊びに来てるのね? この夜中に……何人いるのかしら」

耐えられなくなっちゃうなんて潮江くんも意外とうぶね、とは笑って、床を抜けると壁際へ唇を寄せ、隣に返事を返す。

「潮江くんもこちらへ来る? 私、あなたには興味があるわ。

 一度に三人くらいまでなら上手にお相手できると思うんだけど、」

「お断りだ!!」

の言い終わるのを待たずに文次郎はそう叫び、

一緒に部屋にいたらしい他の友人たちの少々どぎまぎとした声がわずかに聞こえた。

──いさっくん、毎晩こうなの? 大変だぁ

──うん……まぁ……ねぇ……

──さすがだな不運委員長。返す言葉も見つからんよ

「フルメンバー揃って盗み聞きか」

たぶん長次もいるなと付け足し、そのうちそんなこともあるかと思っていた、と、留三郎はため息をついた。

「お前、声、少し遠慮しろよ」

「見つからないわよ」

悟られているとして、房中術の実習のつもりで見逃してもらいましょうと平気そうに言って、

はまた床のほうへと戻ると再開の口付けをねだった。

つい先程寄越されたばかりの隣近所の苦情などすっかりの脳裏からは飛び失せていた。

「……学園中に、一体何人、俺みたいな“遊び相手”がいるんだ、

「わからないわ」

多すぎてわからないのだとはは言わなかったが、留三郎には手に取るようにわかってしまった。

が性行為に頓着せず相手も選ばないらしいというそれだけで声をかける者も大勢いる。

「さすがに、三年より下には、いないわよ」

「……あんまり下の学年たぶらかすと、犯罪だぞ」

「誘われるのは私のほうなのに」

くすくすと楽しそうに笑いながらは言った。

「あなたのお友達も……あの五人の誰とも、一度も、ないわ。最近は、あなただけよ、食満くん」

「……ふーん」

本当かよ、と思っても口にはしない。

束縛できる権利など彼にはなかった。

「食満くんはやさしいもの。あなたに抱かれるの、私すごく好きなのよ。

 ねぇ、恋人なんかつくらないでね」

ずっと私のすてきな遊び相手でいてね。

内心のどこかが、かたく凍りついたような音を留三郎は聞いた気がした。

恋人なんかつくらないでね──それを、お前が、俺に言うのか。

求めれば求めた分だけ、は惜しまずに留三郎に許し与えてくれる。

それ以上の何を望むというんだと、彼は何度も自問した。

その身のすべてのみならず、心まで、などと。

高望みが過ぎると思った。

「考えたこともない」

「ふふ。よかった」

好きよ、と、その言葉の裏に何の感情も込めず、は留三郎に口付けた。

「俺もだよ。。好きだ」

社交辞令のように、まるで思いのこもらないような軽い言い方で、留三郎もそう囁いた。

抱きしめるたびに何度告げたかわからない想いを、今日もまた繰り返した。

伝わらないことは承知だ。

自分の力で生きていく術を身につけたことを喜び、卒業後の進路も明るいとは言った。

それを遮ってまで、くの一になるのをやめて己と一緒にならないかとは、彼には言えなかった。

まるで嘘めいた声で、好きだといい加減そうに囁く、それ以上のの負担ではいたくない。

重荷と思われるくらいなら、最初からの中に己の占める位置などなくていい。

食満くんはやさしいもの。

の声が脳裏に甦った。

の意志すら慮ることなく、身勝手で残酷な男でいられたらどんなにいいだろうと、

思ってはいけないことを思った。



翌朝、早朝の井戸端で身なりを整えるの元へ、隣の部屋に潜んでいたらしい五人が寝不足そうな顔でやってきた。

「おはよう、眠そうな顔を並べて」

は意味ありげに含み笑いをする。

忍としては何食わぬ顔をできて正解だろうが、文次郎は明らかに不機嫌そうな顔をして見せ、

伊作は居心地悪そうに視線をそらし、小平太は不躾なほどまじまじとを見つめた。

仙蔵と、やはり盗み聞きメンバーに加わっていたらしい長次はいつもと変わらぬ様子だ。

一段と目の下の隈が濃いように見える、文次郎が聞いた。

「あいつはどうしたよ」

「食満くん? まだ眠っているわ」

「お前も大したもんだよな……その上忍たま長屋の井戸端で堂々と」

「……だって、朝までいても良いって言ってくれたんですもの」

はほとんど悪気なさそうに肩をすくめると、何事もなかったかのように櫛で髪を梳き始めた。

呆れたようにに一瞥をくれ、文次郎は絞り出すように言った。

「……お前、いい加減にしとけよ」

「何の話?」

「あいつのことだよ」

「だから、何?」

本題に入りもしないうちから埒があかねぇと早々に話を放り出した文次郎に代わり、伊作が話を引き取った。

「……君のこと、好きなんじゃないか」

聞いた途端、は目をまん丸くして穴があくほど伊作を見つめた。

「なんて仰って? 善法寺くん」

「……! ああ、だから……!!」

「食満留三郎はに惚れているんだよ。そう言いたいんだろう、伊作」

核心を仙蔵に持っていかれ、しかし伊作は彼の的確なセリフに安心したようにうんうんと頷いた。

は怪訝そうに眉を寄せる。

「何の冗談?」

「冗談じゃないって! ちゃんこそとぼけんなよなぁ」

「別にとぼけてはいないわ。どうして?」

ああ、もうー! と小平太はぐしゃぐしゃと頭を掻き、それきり言うのを諦めてしまった。

は理解に苦しむと言いたげに、黙り込んだ一同を見渡し……最後に長次に視線を留めた。

長次は涼しげにをしばらく見下ろしていたが、やがて口を開いた。

「……の足を引っ張りたくはない……だから何も言わない」

「食満くんが?」

長次は頷いた。

早朝の井戸端を重苦しい沈黙がしばし支配する。

は長い髪を梳く手を休め、長屋の廊下へ視線を移す。

先程まで留三郎の腕に抱きしめられて眠っていた、その一室の明かり障子が見える。

彼はまだ恐らくまどろみの中。

は複雑そうに唇を引き結んでしばし──そして呟いた。

「……あのひと、私のこと、好きなの……?」

誰も頷かず、誰も答えなかった。

けれどその静寂は彼らの肯定をへ伝えた。

はそのまましばらく立ちつくしていたが、やがて何も言わずに櫛を懐へしまい、

長屋の彼の部屋へと戻っていった。

を見送りながら、残された五人は言葉には出さなかったが同じことを思った。

勝手に彼の想いを伝えてしまって、彼自身は怒るかもしれない……と。



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