宵のみぞ知る 破
一週間、二週間ほどののちのこと。
明らかに体調不良そうな様子で、留三郎は友人一同の溜まり場と化している隣室にいた。
部屋のあるじでもある保健委員長が義務とばかりに彼を心配する。
「なにがあったか正直に言ってくれないか。
風邪なんて言い訳は、悪いけど誤魔化しがあんまりあからさますぎて笑いそうになるよ?」
明らかな呼吸困難に陥り、時折手指が痙攣を起こす。
具合悪そうに留三郎は、たぶん、くの一教室のガキどもに盛られた、と呟いた。
「なんでおちおち食べるかなぁ……六年にもなって。察しがつくというものじゃない?」
「……の名を出しやがった……」
「ああ、……なる ほど」
留三郎の口からの名を聞いたのは久々だと彼らは思った。
あの井戸端での一件以来、は留三郎と少し距離を置くようになってしまったように端からは見えた。
それが彼らにとってこのところ目下の心配である。
もしや自分たちが破局を引き起こすことになるのではないかと彼らは心ひそかに案じていた。
元より付き合いがないと本人達が言っている以上は、破局と呼ぶのは相応しくないのかもしれないが。
「お前はが絡むと途端に無防備になりやがるな、情けねぇ」
「……黙れ、忍者馬鹿」
「んだと、この……」
いきり立つ文次郎の頬を横から軽く張り倒し、仙蔵がまぁ待てと遮った。
ばちーんと景気の良い音がして、不謹慎このうえなく小平太がわぉ、と目を輝かせた。
「このところ、はどうしている。一緒のところを見かけない気がするが?」
仙蔵がごく自然に、一同がずっと気にしていたことを問うた。
留三郎はチラと視線を上げて仙蔵を見たが、仙蔵はその視線に負けはしなかった。
「……俺も知らん。この一週間か二週間、話もしてない」
「えぇ、それは、……どうしてまた」
伊作がオロオロと横から口を挟む。
留三郎は今度は伊作のほうへ視線を流した。
「たまにあるんだ、そういうことが。大抵気まぐれなんじゃないか? 学校中に相手は溢れてるんだからな」
「……そんな言い方しなくても」
言い負けて、伊作はぼそぼそと口の中で呟いた。
場が一瞬気まずい沈黙に包まれたが、それを小平太の不自然に明るい声が破った。
「……あのさぁーっ。くの一ちゃんたちがさ、噂してたんだけどー……」
誰にも心当たりのない話らしい。
少しの興味混じりの視線が、小平太に集まった。
注目をくすぐったそうに、しかし小平太はあまり楽しくない話だと彼なりに言いたそうに続けた。
「盗み聞きだったんだよね。あの、不可抗力ってやつ? 塹壕掘ってその中にいたの、くの一たち気付いてなくってさ」
くの一教室の低学年メンバーが数人、噂話に花を咲かせていた。
ああ、女の子ってそういう話好きだよなぁと、小平太はその場を離れようとした。
しかしそこに知った名が出てきて、彼の耳は噂を語る声に吸い付くように聞き入ってしまった。
──やっぱり、いちばんは先輩よね。
──そうよ、憧れちゃう。
──くの一としても一流を目指せる実力!
──それに、ひとりの女性としても本当に素敵な人で……
へぇ、人気者なのかぁ、意外と……などと、小平太は素直な感想を思い浮かべた。
男の自分から見ればちょっと恐い相手、という印象のほうが強いのにな、と。
──この間、先輩に秘訣を聞いちゃった。
──ええ、なになに?
──あのね……手の上で転がせる男を何人か、キープしておくのよって……
伊作が顔をしかめ、うわ、ひどい言い様、と呟いた。
誰もが留三郎を直視できない空気が出来上がってしまっていた。
ここで終わりじゃないんだってと、フォローするように小平太が言った。
──なるほど、先輩、モテるもんね。
──そうよね、いつでも男に崇拝されてれば女ってきれいになるわ。
──最近は六年生の食満先輩とベッタリで……
──あ、でもね、食満先輩は違うんだって。
──違うってどういうこと?
──食満先輩は大人で、やさしいから、甘んじていてくれるだけだって。
──わぁ、惚気みたい。
──でもお二人、付き合ってはいないんでしょ?
──うん、恋人同士ではないって仰ってたけど。
──この頃先輩がすごくきれいなのは、それでも食満先輩のせいなのよね。
「……俺にどんなリアクションを期待してその話をしてるんだ……?」
毒素のための痙攣か、照れ隠しのための震えか、留三郎はぶるぶると肩をいからせ低い声で問うた。
「いやっ、落ち着いてよ! てゆーか、ほんとは、こっからが、言いづらい話で、さー……」
頭に犬耳でもついていれば下を向いただろう、小平太は少ししゅんとして見せる。
──でも、それなら、ここ数日の先輩の様子がおかしいのも、食満先輩のせいよね。
──あ、それ、私も思った。絶対そうよね。
──知ってる? この頃先輩、食満先輩を避けてるの。
──目も合わせないようにしてるよね。
──授業にも身が入らないみたいで……山本先生にも注意されちゃって。
──この間も偵察に来てたスカウトと、話が決裂しちゃったみたいだし……
──それって、悪影響……
──先輩がプロになる障害なら、食満先輩も、邪魔よね……?
恐ろしいことに、くの一たちはそこで呼吸を乱さずうんと頷き合ったのだ。
うわ、最悪、と小平太は気配を絶ってそろそろとその場を離れた。
「それで毒を盛るってとこに直結したのか……」
納得した、と留三郎は息をついた。
「くの一教室は人数少ない分結束がかたいからな」
「そうでなくとも、世の中の女の嫌がらせというやつは、大抵陰湿だ」
文次郎と仙蔵が素っ気ない感想を一言ずつ漏らす。
伊作は心配そうに、ていうか何を食べさせられたの、解毒できるかもよと悪あがきのように言ったが、
留三郎は誰の声も耳に入らない様子で考えを巡らせていた。
少しして、ぽつりと呟いた。
「……俺は特別の気を損ねるようなことをした覚えはないぞ……」
その呟きに聞いていた五人はぎく、と一瞬身じろぎする。
それだけならば見咎められることもなかっただろうが、うっかり小平太がうっ、とうめき声を漏らした。
たちまち留三郎のガンが飛ぶ。
「……お前ら、何か知ってるな?」
「いやっ、知らない知らないっ! ほんとに知らないっ!!」
「……いや、その反応からして不自然だし」
ああ、小平太、と皆が頭を抱えた。
「お前ら、いい加減に白状しろ……くの一料理の余り、口に突っ込むぞ……?」
そうしてつかまったのが心配して留三郎のそばにずっと座っていた伊作であり、
口元に毒の詰まった菓子を当てられ、口を割る羽目になった。
他の四人はぴくりとも動けずにその光景を眺めていたが、今度ばかりは不運委員長に心からの同情を寄せるとともに、
連帯責任であるはずの悪事をその口で白状する役をやらせることになった成り行きに少し後ろめたい思いを抱いた。
「……お前ら、余計なことをよくもまぁベラベラと本人の知らんところで……」
「だ、だって! あんまりじゃん、恋人つくるなとかさぁ!!」
「どっからどこまで聞いてやがったんだ、お前ら! 出歯亀もいい加減にしやがれ!!」
小平太が更なる失言を重ね、留三郎は全員に向かってくわっと牙を剥いた。
「に下手な人間関係は重荷になるだけだ! 遊び相手でちょうど良かったところに水をさすな!!」
「聞くに徹してやりゃあ好き放題言いやがって……
大きなお世話は承知の上だが元はといえば貴様のその考え方が根暗すぎるのがいかんのだとなぜわからん!!」
文次郎が身を起こし、あわや取っ組み合いの大喧嘩勃発かと思うところに天の助けか。
「食満くん? お隣にいるの」
「いいタイミングだな。女神の御降臨だ」
ぴたりといがみ合うのをやめた二人に仙蔵がにやりと視線を投げ、
ずっと黙って成り行きを見るに徹していた長次がスと障子を開けてやった。
「こんばんは、中在家くん。他の皆も御機嫌よう」
頷いて返事をする長次の後ろから、文次郎がなぁにが御機嫌ようだ、女狐が、とヤジを飛ばした。
「相変わらずの意地悪だこと。そう、食満くん、うちの子たちが失礼をしたそうね」
ごめんなさいとはいとも優雅に頭を下げて見せ、目を上げると皆に向かって意味ありげに微笑んだ。
「彼を借りていっても良い? それとも、この場に私を混ぜて下さる?」
「お断りだッ」
間髪入れずに文次郎が叫んだ。
「潮江くん、先日こちらの仲間に入らないかとお誘いしたときもお断りだ、と言っていたわ」
決めゼリフのようねと笑われて、
一同で盗み聞きをしていた際に耐えられなくなった文次郎の失態が、彼らの脳裏に浮き彫りになった。
五人をよそに留三郎は黙って立ち上がると部屋を一歩出、の横に立った。
「寂しいの。一緒に寝て」
「……お前はよくそういう歯の浮く言葉を素面で言えるよ」
「素直でしょう?」
悪びれなくにこっとするにため息をついて、じゃあなと留三郎は伊作の部屋の戸を閉めた。
「喧嘩?」
「いや……別に」
いつものことだと言うに留めたが、は特にその先を聞こうとしなかった。
「今日はね、だめなのよ」
「なにが」
隣の自室へと戻り、紙燭へあかりを灯すと二人はめいめい座り込んだ。
「殿方には一生わかり得ない、月に一度の面倒なお客。それとも案外血まみれプレイに興味……」
「………ああ、そ」
が調子づいて言おうとするのを留三郎は素っ気なく遮った。
「うんざりだわ。怪我もしてないのに数日貧血気味で」
「そりゃ、御苦労なことだな」
本当にねとはぐったり息をつく。
しばらくそれで会話が途切れたが、急に思いついたように留三郎が静かに聞いた。
「……じゃあ、なんで来た」
「寂しいから一緒に寝てと言ったじゃない」
「本気か?」
「本気よ」
「……へーえ」
「なぁに、その反応は?」
「……そんな可愛げのある女だったか?」
「まぁ、言うに事欠いてあなたって人は」
は拗ねた口調で顔だけぷいと横を向いて見せたが、しばらくすると静かに口を開いた。
「本当はね、他にも、……少し長くかかる実習に出るの」
「ああ、……?」
体調如何により、また実習が近い時期にはは留三郎から少し離れるようにしているらしかった。
いつか留三郎がその理由を聞くと、は肌にあとが残っていては困るからとしれっと答えたものだ。
女忍者を目指す者なんてそんなものかと思った最初の一度がその機会だったことを、彼は今でもよく覚えている。
に恋い慕う感情らしきものを覚え始め、
しかし身体を重ねることは幾度となくあっても想いは叶うことがないだろうと悟り始めた頃だった。
それから今まで、どれだけのことを何度諦め続けてきたことか。
勝手知ったる何とやらとばかり、は勝手に部屋の隅から布団を引っぱってきて敷き始める。
留三郎はただなんとなく、の姿を見ていた。
実習の内容はいつも聞かない。
仕事でも任務でも何でも、他の男と寝るのかと聞きたくはなかった。
どうせが戻ってきたあとで、その身体を抱きながら絶命しただろう男の残した痕跡を嫌でも見つけることになる。
を愛して抱きしめる己には禁じられるのに、通りすがるだけの男にはのその白い肌に赤を刻むことを許される。
頭ではわかっているものの、我が女神は不公平だと彼は思わずにいられなかった。
ほら来てと手招かれ、彼は紙燭の内でちいさく燃える火を吹き消し、のろのろと床へ入った。
「……いつもと逆じゃないか?」
腕を枕に貸せと暗に示され、その通りにしてやりながら彼は聞いた。
「逆って?」
「こういう時期は、来ないようにしてただろ」
「……そうね」
はぴたりとはりつくように留三郎の胸にすり寄った。
「寂しくなったって……?」
「ええ」
おかしい?
問われて、彼はいや、別にと答えたが、およそらしくないと内心では考えた。
この話が続くなら、空気ははりつめて重くなっていくだろうと彼は考えたが、はまったく違う話題を彼に振った。
「食満くんはぁ、三男?」
「は?」
「トメサブローでしょう」
「……上にトメタローとトメジローでもいると思ったか」
はくすくすと腕の中で笑った。
「ただくっついて眠るだけじゃあ物足りない? 胸に触るくらいなら構わないわよ」
「……お前はな……」
そればっかか、と彼は呆れたように言ったが、いつになくの物言いが愛らしく思われて語尾が笑い混じりになる。
「ねぇ、知ってる? 口は嘘をつくの」
「あ?」
「人間は嘘をつくの」
は彼に抱きついたまま目を閉じ、安らかそうな顔のまま静かに続けた。
「人の言うことは信じてはいけないわ。言葉はいくらでも嘘になるから。
でも、身体の上に起きていることは私の現実なの。痛いのも気持ちいいのもそうよ。
だから今のところ、食満くんは私にとっていちばん信頼できる相手なの。ねぇ」
言葉尻で問いかけながら、が薄く目を開けたのが、暗闇の中でも彼には見えた。
なんてきれいな女だと、まるで場違いだと思う裏で考えた。
「食満くんは、私のことを好きなの?」
目を上げた──視線が絡む。
言葉は嘘になると言いながら、は彼の答えをひたと待っている。
どう答えていいのかはわからない──しかし留三郎はなぜか、焦ることをしなかった。
「好きだよ」
飾ることも取り繕うことも誤魔化すこともせず、彼はただ、そう答えた。
「……そう」
「ああ」
何度も何度も、逢瀬のたびに告げてきた言葉。
いちばん重く響くはずのこの状況で言ったのにも関わらず、いちばん誠意のない告白だったろうと、彼は思った。
きっとこれが別れになるのだろう。
言葉でお互いを結ぼうとする、数多いる男のひとりに自分を貶めた。
叶うはずのない想いなら、早いか遅いかの違いだけで──いつかは破綻するものなのだから。
それが今夜だったというだけだ。
留三郎の内心には、抗いも後悔も諦めの感情すらも浮かんでは来なかった。
ただ、来るべき時が来たのだと受け止め、腕の中にの体温を感じるばかりであった。
その日を境に、留三郎の考えたとおり……は学園から姿を消した。
実習は即座に始まったらしい。
特にその動向を把握していようとも彼は思わず、怪我がなければいいがとだけぼんやり考えていた。
先日お節介を焼いてくれた友人達は、今度も壁越しに成りゆきを聞いていたのだろうが、
前回の失敗がこたえたのか口を出してこようとはしなかった。
時折寄せられるもの言いたげな視線だけが彼らの反応だったが、心配ならしてほしくないと留三郎は身勝手に思った。
特に同じは組の伊作は、もとの心根が優しいからだろうが、それとなく気を遣いたがってくれる。
有り難いような、放っておいてほしいような、そんな本心を留三郎は口に出すことができなかった。
一方の伊作も、何事もなかったように日常生活へ戻ってしまった留三郎に心配と少々の苛立ちを感じながら、
ただいつもどおりに彼に接するより他はなかった。
彼にとっては苦手意識しか持ちようのない相手であった。
それは、外から見るだけならば見目麗しく魅力的な女であると彼も認めるところではある。
彼女自身が仕向けることがなくとも、男のほうが放っておかないようなところがあるのだ。
がくの一の英才教育を受けており、目に見える魅力の大部分を自覚していて、
それをいいように見せたり隠したりすることで男に思うままの反応を起こさせているということを知っているから、
伊作にとっては危険人物に近い相手なのだ。
好印象を持っているとは言い難い相手に、身近な友人の心身が絡め取られていく様子は見ていて気分の良いものではなかった。
けれど、留三郎が悲しくなるほどを大切にしているのが、そばにいる身だからこそよくわかる。
実習に出ているとは聞いたが、せめて無事で帰ってくればいいと伊作は願っていた。
夜毎聞こえてくる隣室の様子は耐え難いものもないでもなかったが、
先日の夜、二人はとうとうなにか、決定的なラインを越えて距離を取ってしまったのだと伊作は感じた。
が戻ってきても、これまでのような関係には戻っていかないのかもしれない。
お節介は承知で思わずにいられない自分の性を少し恨めしく思いながら、
伊作はそれでも二人が最後の最後には上手くいってくれたらいいと、往生際悪く考えていた。
そんな折だ。
いつもどおりの授業といつもどおりの放課後、医務室で委員長の仕事をこなしていた伊作のもとへ、
足音けたたましく駆け込んできた生徒があった。
一年は組のトラブルメイカー三人組のひとり、猪名寺乱太郎。
「せっ、先輩っ!! 大変です、くの一六年の先輩が!!」
僕らじゃ運べないんです、他のクラスメイトが門のところで様子を見てますと訴えた。
息も絶え絶えになりながら彼は必死で走ってきたのだろう。
非常事態に思考する間もなく立ち上がる伊作の脳裏に一瞬浮かんだのは、一途にを想い続けている友人の存在。
乱太郎と居合わせた保健委員の後輩とに応急処置の用具と担架を持って着いてくるよう言い、
自身も救急用具を抱えて門前へ走った。
実習か、その帰りか、怪我を負ったのだろう。
それでなくて必死の形相でわざわざ医務室へ駆け込む者がいるはずがない。
命だけは助けなくては、間に合うようにと彼は強く念じた。
は苦手だ。
男をなんだと思っているのかと、憤りに似たものを覚えたことも一度ではない。
真剣な留三郎をからかって翻弄して、残酷な女だと思ったことだってある。
けれど、助けなくては。
それができるのはたぶん自分だけだ。
ひいては友人のため。
を今失ったら、留三郎はどうなってしまうかわからない。
悲しさも寂しさも苦しみも痛みも、今までと同じように押し殺して飲み込むなんて真似はさせたくない。
自分は好きになれない相手だが、彼のために助けなければ。
お節介もお人好しも世話焼きも過保護も、命が助かるなら悪くない。
僕のことならいくらでも煙たがるがいい、そう思いながら、一年は組が取り囲む門前へたどり着く。
仰向けに倒れているの前に跪く……ひどい有様だった。
いつだったかのの任務の援護役についたときのことを思い出した。
あのとき気に入っていると言っていた着物が血に染まり真っ赤になっている。
額に脂汗を浮かべてまるで虫の息に見えたが、はふっと目を開けた。
「……善法寺くん……?」
「シ、喋らなくていいから。すぐ医務室へ運ぶよ」
手元では的確な応急手当てを忙しくほどこしつつ、伊作はの言うのに答える。
はぼんやりとした口調で続けた。
「……これ、ほとんど返り血……怪我は、右腕だけよ。ただ、血、流しすぎたみたい……」
「いいから黙れ! 君にこれ以上何かあったら僕は留になんて言い訳したらいいんだ!」
「……別に、あなたが責任感じるところじゃないじゃないの……」
「いいからって、もう! 人の話は聞きなさい!!」
「いつも人の話聞かないのはあなたのほうでしょう……」
「ああもう君って口が減らない人だなっ」
いい加減いらいらとしながらに言い返す伊作の背後で担架が用意され、
一年は組の生徒達が不安そうに喧嘩腰の応急手当てを見ている。
はっとしたように、福富しんべヱと山村喜三太が声をあげた。
「け、食満先輩に言いに行かなくちゃ!」
「そぉだっ、心配してる……!」
走り出そうとする二人を、が待ってと引き留めた。
「あのひとには、言わないで……」
「な、なんでですかぁ?」
しょんぼりと振り返った後輩二人に、はちいさく笑って見せた。
「他のことで忙しいでしょう。保健委員に迷惑をかける以上のことはしたくない……」
「留が君のことを迷惑になんか思うはずがないじゃない」
担架を寄せながら伊作が口を挟む。
「いいから、言わないで……気が向いたら、顔くらい見せてくれるわよ」
はつらそうに息を吐いた。
「ああもう、やせ我慢しないで痛いと言えばいいのに! さ、運ぶよ」
嵐のように門前を去っていった保健委員一同に乱太郎も着いていき、
ひとり人数の欠けた一年は組はしばらく途方に暮れていた。
用具委員長の食満先輩とくの一六年の先輩といえば、学園でも有名な組み合わせだ。
恋人同士じゃないという不思議な噂を彼らも聞いていたので、仲良しの男女の友達なのかなと考えるに留まっていたが、
少なくとも食満先輩のほうは先輩を好きなんだよね、という結論にいつもおさまっていた。
好きな女の子が怪我をして戻ってきたら、すぐに駆け寄ってそばにいたいと思うのは当たり前なのに。
「ど、どうする、喜三太ぁ……」
「どうするっていっても……」
用具委員の後輩であるしんべヱと喜三太は困って顔を見合わせた。
一緒に一年は組一同で頭を悩ませるが、なかなかよさそうな提案が出てこない。
「……食満先輩は、でも、きっと知っておきたいよな。誰かが知らせるまでは知らないもんな」
きり丸がぽつりと呟いた。
「食満先輩もそのうちには噂か何かで先輩が怪我して帰ってきたって聞くかもしれないけど、
噂の代わりに俺らが言ったって、早いか遅いかの違いだけじゃん。
行こうぜ、そしたら、食満先輩だって気が向いたときに顔見せに行けるだろ?」
きり丸の言葉はその場にいちばん望まれていた提案だった。
そうだね、行こうと誰からともなく走り出す。
きっと、仲良しの先輩方二人にとって、自分たちのすることはいいことだと彼らは疑わなかった。
だから、食満留三郎を見つけてことの次第を報告したとき、彼がそうかと答えただけだったことに少しがっかりさせられた。
「御苦労だったな、わざわざ探してくれたんだろう」
「先輩、すぐ行ってあげなくていいんですか?」
「そうですよ、心配じゃないんですか?」
「心配だよ」
後輩達の素直でストレートな質問に、こともなげに留三郎はそう答えた。
じゃあなんで、と問い返すことができずに、は組のよい子たちは黙り込むより仕方なくなってしまう。
留三郎はわずかに笑みを浮かべた。
「……保健委員が手当てしてくれてるんだろう。じゃあ、大丈夫だ。伊作はいい腕してるからな、実際」
「でも……」
納得のいかない様子のしんべヱと喜三太に、やれやれと苦笑を返すと留三郎はその頭を撫でてやる。
「は周りの誰も信用してないが、俺が伊作を信じてる、大丈夫だ。
それに、今俺が行ったところで、にはしてやれることなんかないからな……」
少ししてから会いに行くよ、と留三郎は言った。
は組のちびっ子達がなにやらしゅんとしょげ返ってしまったのを見て、彼は少し申し訳なく思う。
きっと、を想う己の様子は一年坊主の目にも明らかなほどわかりやすくて……
好きな人の危機に早く駆けつけられるようにと、ただ一心に走ってきてくれたのだろう。
成績不振とよく言われるクラスだが、いい子揃いじゃないかと留三郎は改めてそんなことを考えた。
「……ありがとうな」
留三郎は一年生を相手に、深々と頭を下げた。
「えっ、ええっ、先輩!」
「やめてくださいよ、ちょっと……」
「……実習から生きて戻ったってだけでも、わかってよかった。知らせてくれて、ありがとう」
留三郎が顔を上げると、は組の面々は少し困ったような顔で彼を見返していた。
柄にもないことをしたかなと、彼は自分を少しおかしく思った。
なんとなく腑に落ちない思いで留三郎と別れ、は組の子どもたちはぞろぞろと廊下を歩いていた。
そこへ担任二人が慌てた様子でやってくる。
「お前ら、くの一六年のに会ったって?」
土井師範は口調まで少し慌てていて、なんだか悪いことをして叱られる直前のようだと子どもたちは身構えてしまう。
「怪我、どうだった」
横から山田師範が口を挟むが、彼の口調は落ち着いている。
学級委員長の庄左ヱ門が代表して答えた。
「先輩御本人は、怪我は右腕だけで、血のあとはみんな返り血だって仰ってました。
でも、失血が多かったみたいで、つらそうな御様子でした」
「そうか……あのがなぁ……」
山田師範の声に苦い口調が混じった。
「……先生。あの……」
「ん、なんだ」
元気のなさそうな生徒達の様子に気付き、二人の師範は一瞬目を見交わして子どもたちに向き直った。
「先輩は最初から、怪我して戻ったこと、食満先輩には知らせないでって言ったんですけど……
僕たち、食満先輩が心配してると思って、先輩の言いつけ破ってお知らせしに行ったんです。
でも、食満先輩はできることがないから今は行かないって言って……」
生徒達は気まずそうに、俯き加減でそう言った。
僕たち、間違ったことをしたんですか、先生。
余計なお節介を焼いてしまったのではと、子どもたちはしょげ返っているのだった。
担任二人は微笑ましく、思わず場に似つかわしくない笑みをこぼした。
「大丈夫だよ、お前ら、よく知らせたな。偉かったよ。食満もやっと安心しただろうし」
「まぁ、ひとりくらいは、先に職員室に知らせに来たほうがよかったかもしれんがなぁ」
笑い混じりでそう言われて、は組の子どもたちはやっと安心したように目を上げた。
時に忍には捨てるべき感情かもしれない、人を思いやりそのためにかけずり回ろうとする気持ち。
けれど二人の師範は、教え子達の心優しさを得難い宝と思うのであった。
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