宵のみぞ知る 急
日が暮れあたりを仄暗い闇が支配し始めた頃。
はやる気持ちを無理矢理に落ち着かせ、留三郎は医務室へと向かっていた。
一年は組の生徒達が必死の形相で己のもとへ来てくれたとき、本当は返事もしないで走り出したかった。
けれどがなんだか、それを望まない気がした。
誰を相手にしても、弱みを見せることを嫌がる女だ。
だから、寂しいからなんて理由だけで一緒に寝ろと訪ねてきたときには一体何事かと思ってしまった。
ほんの少し、本当にわずかばかり、が己に気を許してくれたのではないかと期待した。
己の美しさを知って周りを翻弄するには、本気で想いを寄せてくる相手など邪魔なだけだ。
だから、告げたそのときは別れの時だと留三郎は覚悟していた。
が心を開いてくれることを期待はしたが、別れは別れで彼は受け入れるつもりだった。
このままつかず離れずの関係になり、卒業する頃にはただの顔見知りほどには距離ができているはずだ。
だから彼は躊躇った──を見舞うことを。
重荷にしかならないとわかった遊び相手の顔など、は見たくもないのではないか。
なんとなく気配を抑え、忍び足になってしまう。
医務室からは伊作の声が細々と聞こえてきた。
他の者の気配はないから、の意識ははっきりとしていて、伊作と話をしているのかもしれない。
「災難だったね。先生方も驚いていらしたし」
「買いかぶりすぎていらっしゃるのよ、先生方は。同学年の他のくのたまが六年間で全員脱落したものだから」
かかる期待が大きすぎるのとが吐息混じりに囁いたのが聞こえた。
その声だけで、の生きている証明だけで、留三郎は胸が締めつけられるような思いがした。
「後輩達からも慕われているらしいしね。先輩大事さのあまり、留に毒を盛るくらいには」
「……あれは……悪いことをしたわ、食満くんには」
伊作がくすくすと笑う声が聞こえ、も笑ったようだったが、
怪我の痛みのためか苦しそうに息をついてその声は途切れた。
「……彼、心配してたよ。平気そうな顔をしようとするから、見ていられなかった……」
僕が心配すると余計なお世話に見えるらしいし、留は鬱陶しく思っていただろうねと、
伊作は何でもないことのように言って笑い、それを飲み込んだあと、静かに続けた。
「……恋人にはならないの? 告白もされたのに」
「いつも言ってくれたわよ、毎晩毎晩毎晩。聞いていたんじゃないの?」
「……聞かないようにしてたよ……」
きっと少し赤くなって、渋い顔をしただろう。
伊作の反応は留三郎にはなんとなく想像がついた。
「……でも、そうね……あのときは、少し。ドキドキしたわ」
は小さく、悪戯っぽい笑いを漏らした。
「留のことは、信じてもいいと、僕は思うよ。きっとおしどり夫婦になるのにな」
「一流の忍と一流のくの一のね」
「そうそう」
「ときどき敵対しちゃったりしてね」
「それは……」
否定できない、と伊作は言い負けて黙り込んだ。
「本気で誰かを好きになったことってないの。15年で一度も。だからよくわからない」
あくまでも明るい声で、はきっぱりとそう言った。
蚊帳の外で会話の中身を立ち聞きながら、留三郎は少し焦り始めた。
医務室へ入るタイミングをつかめるのかどうか。
このまま聞き続けたら、に合わせる顔がなくなってしまう気がした。
相反する感情がせめぎ合う。
会いたいと思う気持ちに素直になるか、思うからこそ引き下がるか。
彼の内心を見透かしたかのようにが言った。
「だから、食満くんにももう一度聞いてみたいのよね。彼、まだ私と会って話をしてくれるかしら?」
「もちろん。お望みなら今すぐにでも」
伊作が立ち上がる気配にはっとした。
今すぐにでもと伊作は言ったのだ。
すぐ外で立ち聞きをしている己の存在に、伊作はとうに気付いていたに違いない。
逃げたかったが、足が動かなかった。
逃げて問題の核心を後回しにしたいと思う自分の思考回路が情けなかった。
案の定、スっと医務室の戸が開いた。
「やあ、留。今来たの」
少しわざとらしく伊作は留三郎を見つけてそう言った。
中からの声が、ああ、知らせるなと言ったのに、と愚痴をこぼしたのが聞こえた。
「ね、留、僕新野先生に報告しなきゃいけないことが二・三あってさ。
悪いんだけど、ここ、居てくれない? はおおよそ手当て終わっているし、安静にさえしていれば大丈夫だから」
命には別状ないよと、声には出さずに伊作は告げた。
留三郎は思わず、ほっとして肩を落とした。
「ね、頼むよ。なるべくすぐ戻るから」
留三郎が承諾するよりも先にまるで決定事項のように、伊作は書類を手にして医務室から出てきた。
の手当てに奔走してくれた伊作には、どう返していいか見当もつかないような大きな借りができた。
留三郎は神妙そうに、わかったと頷いた。
すれ違いざま、ありがとうと呟くように礼を言うと、伊作は少し驚いた顔で振り返った。
「なんだ、気にすることないよ。大袈裟だな」
行ってくるねと手を振って歩き出した友人の背を見送り、留三郎は覚悟を決めて医務室へ踏み入った。
時には大勢の生徒を収容するはずのその部屋は意外に狭く思われる。
それが、恐らくは成長した己の視線からすれば狭いということかもしれないと思い当たった。
まだ低学年の頃、すでに保健委員道に一歩を踏み出していた伊作と一緒にこの医務室へやってきては、
薬戸棚の引き出しの数を目盛りに見立てて背を測ったりしたものだ。
今や戸棚の天板が目線より下の高さである。
衝立が部屋の一方に立てられており、留三郎の視界を遮っていた。
「……」
「なんて辛気くさい顔をしているの。命があったのだからいいじゃないの」
留三郎が衝立の奥を覗くと、うんざりとでも言いたげに呆れた声でが返事を寄越した。
包帯の白が痛々しいだろうと予想していたが実際にはそうでもなく、
視覚的なショックが少なかったことで留三郎は明らかに安堵し、単純な自分を少し情けなく思った。
先程狭いと思ったはずの部屋も、
横たわっているの姿がか弱くちいさく見えてしまっては心許ないほど広く思われる。
「顔色が悪い」
「そうね、かなり出血したから」
もう大丈夫よとはしっかりとした口調で言ったが、その声がわずかにかすれて力強さには欠けて聞こえた。
「ああ、食満くんの顔を見てやっと帰ってきた気がするわ」
「なにを言ってる」
ほっと空に息をついたを見て、留三郎は動揺を隠すようにスパッとそう言った。
あまり潔い物言いにが不思議そうな視線を寄越し、彼はばつの悪い思いで彼女から目をそらす。
「ね、横になったままでいるのがつらくなってきたの。起こしてくれない」
語尾で問わないの言い方は抗いがたい強制力を帯びる。
怪我人を動かすのは気が進まなかったが、自身が望むならば致し方ないと彼は従うことにした。
怪我をしたという右腕に負担をかけないよう細心の注意を払い、彼はを抱き起こした。
「ああ、めまいがする。血って大事よね」
「そりゃ、そうだろう……」
伊作が聞いたら怒り混じりの熱弁を半刻あまりは聞かされそうだ。
あいた左手指の先でこめかみをおさえ、は留三郎にしなだれかかった。
「やめておけ、絶対安静だろ」
「傷自体はそんなにひどくはないのよ」
誤魔化すようには言い、ぺろりと舌を出して見せる。
肩口にすり寄られ、留三郎はしばらく逡巡したが、最後の最後には諦めた。
寄りかかってきたままのの髪を、そっと撫でた。
またこんなふうに触れられるとは、期待していなかった。
声に出して言おうとしたが、すんでのところで言い淀む。
口にしてしまえば、また簡単に距離を広げる言葉のように思えた。
一度はこれで終わりだと諦めに近いところまで思い詰めたというのに。
に触れる指先が自分でもおかしく思えるほどやさしい仕草をしていて、なんだか悪あがきのようだと留三郎は思った。
指先ひとつでどうにかなる程度のやさしさに、が誤魔化されてくれたら。
「……プロへの道は、厳しいわよねぇ」
髪を撫でる留三郎の指に甘えながら、はしみじみとそう言った。
「笑ってしまうわ。ねぇ、食満くんも聞いて笑って頂戴。
善法寺くんにはそう面白みもない話だったようなのだけど」
なにがだ、と返事のかわりに、留三郎はのほうへ視線を巡らせた。
「何人も生徒がいるのなら、より条件に合う生徒がその任務にあたるのだけど、
今の六年には私ひとりしかいないから仕方がないのよね。
援護についてもらったことがあったわね、以前、あんな感じの実習だったのよ」
「……ふーん」
興味なさそうな声を精一杯装い、彼はそう答えた。
下手な返事をすれば、不機嫌な声色がたちまちに気取られてしまうだろう。
恋人でもない男が嫉妬の感情をおぼえるなど、調子づくのも大概にと彼は内心で己を戒める。
それともは留三郎の嫉妬を知れば、自分が男達を振り回し翻弄したと楽しみに思うのであろうか。
幸いか、は留三郎の思考に気付く素振りもなく、話を続けた。
「……今まで、こんなことなかったのよ、ね。自分でも驚いたの。
標的の男に触れられるのが気持ち悪く思えてしまって、まぁ、ばれてしまったのよね、怪しい奴と」
「……はぁ?」
「失敗したのよ」
「お前がか?」
「しゃくに障る言い方だわ」
でもその通りよ、このがあろうことか。
拗ねたような声で──しかしそれも得手の演技か──は言った。
「なんで」
「……そこがよくわからないのよ。善法寺くんに言わせれば──」
はそこで意味ありげに言葉を切った。
無言のまま、上目遣いで留三郎を見上げた。
なんだよ、と聞き返そうとして、彼は思わず言葉を飲み込んだ。
思い悩んだような、苦みを耐えているような、けれど無垢な瞳がまっすぐに彼に向けられていた。
演技でこんな顔ができるか?
はなにを言いたいのかと、焦る思考回路が計算を始める。
「……私にもわからないのよ」
繰り返しては静かにそう言った。
お互いになにも言わぬまま視線だけを交わし、しばしが過ぎた。
が先に目を伏せた。
「ときどき、食満くんのことを思い出したわ。あなたが変なことを言うから」
「変なことって……」
あの告白のことだろうと彼はすぐに思い当たった。
変なこと呼ばわりをされたことには少々引っかかりを感じたが、
せめて冷静さを保とうと、留三郎は内心で必死に舞い上がりそうな感情を抑えていた。
言葉で言われなくてもなんとなく感じ取ってしまうものはある。
は恐らくは、それを言葉に置き換えることに慣れていないのだ。
それを言うならば己だって慣れているわけではないがと、
感情を沈める手助けになりはすまいかと余計なことをわざわざ考えて一拍おき、
留三郎はの言葉を、表情と視線の意味を脳裏で反芻してみた。
できることなら、自分は口を出さずにいたかった。
がの言葉で伝えてくれようとするのなら、ただそのままに受け取りたかった。
「あなたのせいよ。調子が狂ってしまったのよ」
ドジは踏むわヘマはするわ、挙げ句の果てに任務は失敗するわ、お陰様で恐らく単位も落とすわ、
まるで保健委員ばりの不運。
身勝手にそう言って、は大きく息をついた。
「……あまり喋るな、。それ以上疲れてどうする」
回復すればどんな話もいくらでも聞いてやるからと、彼はを諭した。
先を聞きたい欲なら溢れんばかりであったが、彼はそれよりもまずの身体を心配した。
どうして俺はこう妙なところで冷静なのかと己に呆れ、ため息をつこうとしたのを飲み込んだ。
自身の意志にすら構わずに欲しいままに求め奪う、身勝手で残酷な男でいられたら……
何度も思ってはそこまでで諦めていたことを彼は往生際悪くまた思い返した。
けれど、そんなこと……やっぱりできるわけがない。
「また少し横になっていたほうがいい。もう伊作も戻るだろう」
「戻らないわよ。あの人が持って出た書類、白紙だったもの。気をきかせてくれたのよ」
私があなたと話したいと言ったから、とは呟くように付け足した。
「だからもう少しこのままいてくれてもいいでしょう」
「……怪我人に負担かけるような真似はしたくないんだが」
「寝返りを打てない状態でただ横になっているのだって疲れるのよ」
ばかね、と続けたそうには言って、床へ戻る気などさらさらないことを知らしめるかのように、
左の手で彼の肩に抱きついた。
近すぎて、の表情は彼の目には映らない。
留三郎はその心地よい体温とやわらかで華奢な身体とをじわと感じながら、ぼんやり想像を巡らした。
眠るように目を閉じて──己に縋り付くは遊び疲れた子どもが親の膝に甘えるような仕草に思われる。
怪我をしているのだから多少は普段と勝手が違うだろうが、
こんなにも隙だらけの姿をは他の誰に見せることがあるだろうか。
己の前でだけ、などと自惚れられるほど、彼は夢見がちな空想に耽ることはできなかった。
が小さな声で問うた。
「……心配した?」
「あ?」
「心配した?」
「……」
「私のこと、心配した? ねぇ」
にしては簡素な物言いである。
男から思うとおりの言葉を引きずり出す手練手管をは心得済みのはずだが、そんな工作めいた意図を言葉の裏に感じない。
わずか、ほんのわずかだけ隠れて聞こえるのは躊躇いの色。
時間をかけ遠回りをし、言葉を操る余裕が持てない。
まっすぐに聞けたとしても目を合わせることができず。
不器用な奴だと思い、そんな彼女が人一倍別人を演じる力に長けることを複雑に思う。
彼は素直に答えた──の内側にはきっとそれがいちばん響く。
「心配した。あたりまえだ」
「……そう?」
「そうだ」
はつとめて興味なさそうに言ったつもりなのだろう、ふぅん、と小さく答えて少し黙る。
その声がほんのわずかばかり明るく聞こえたことに、彼は気付かなかった振りをした。
は自分でもよくわからないというこの変化を、外から知らしめられるのを嫌うだろう。
大体のものごとにそれほど動じない自分を、留三郎は自覚している。
ねこの目のようにの態度が変わろうと、留三郎自身は一定のペースからほぼ外れないでいることができる。
だからは留三郎を、比較的安心して対することのできる相手だと認識していたはずだ。
留三郎はにとってほとんど唯一の、思い通りに動かすことの難しい相手なのだ。
あなたってそういう人なのよね、とでも言いたげな色たっぷりのため息をついて、は続けた。
「心配をしていたような口調には聞こえないわ。食満くんっていつもそう、なんだか余裕そうで」
「お前が思うほどの余裕はないぞ、たぶん」
「他の子はそうはいかないわ、必死になって食らいついてこようとするのが面白いのに、
あなたってなにをやっても取り乱してもくれないんだもの」
「……食堂あたりでお前と遭遇すると結構焦るぞ」
余裕そうなのはそっちだろうと留三郎は返す。
「そんなことないわよ、取り繕っているだけだもの。ねぇ、他の子の話をするのは嫌?」
いきなり虚をつかれたようになり、留三郎は言葉に窮した。
他の子、つまりの他の遊び相手のことを言っているのだろう。
誰々が当てはまるのかは知る由もないし、知りたいとも思わない。
「……あまりいい気はしないが、嫌がる権利もない」
「ほら、そういうところ。俺一人のものになれよ、みたいなことを言わないのよね」
「……言って欲しいのか」
「望んだら言ってくれるの?」
「……、無茶を言わないでくれ」
がおかしそうにくすくすと笑いを漏らした。
まだの顔を覗けるだけの距離はお互いのあいだにないが、
がこんなふうに素直に笑うことが珍しく、留三郎はくすぐったいような思いを抱く。
人が見かければ恋人同士の空間にも見えるだろうに。
「困ってしまうわ、こんなことを続けているわけにはいかないのよ」
がまだ笑い混じりに言った。
少しずつ、声音に真剣な色が混じる。
「前にも言ったでしょう。私、自分の力で自分を生かしてやれるということを身をもって知っておきたいの」
「……だから、プロになるんだろう」
「そうよ」
は言ってふっと息をついた。
さすがに長時間起きあがって話をしていては疲れるだろう。
「もう決めるべき時期ね。私はプロになるわ、あなたもそうね?」
「ああ、たぶん……」
言った声が未練たらしく迷って聞こえはしなかったかと、彼はひとりで少しだけ困惑した。
そのわずかの動揺が、こんな場合に限って、に悟られてしまった。
は顔を上げ、やっと視線を留三郎へと移した。
「やるだけやればいい」
「ええ。そうするわ」
「……精一杯やって飽きた頃に、嫁にでも来い」
を縛り付けるからと言わずにいるつもりだった言葉が、彼自身にすらなんの予兆もなくぽろっと出てしまった。
もの言いたげに彼を見上げるのその目に急かされたというのは言い訳に聞こえるのだろうか。
は聞いたままの顔で固まってしまった。
どう考えても言うタイミングを間違えていると、彼は言ったそばからどっと焦り始める。
はしばらくそのままで彼を見上げていたが、やがて視線を迷わせ、難しそうに口を閉じる。
俯き加減にばつの悪そうな顔をしながら、はごく真面目に、問い返した。
「……結構待たせると思うわよ?」
「……あ、本気にしてくれたのか……俺はてっきり」
「こういう冗談を言える人だとは思えないわ」
飽きた頃、と口の中で呟き、は留三郎の肩に頭を預けた。
「……二年くらいかしらね?」
「短いなオイ」
「待てる?」
「……いいよ」
「飽きないかもしれないわ」
「それはそれで、いいことだろう」
「そうね。」
は頷いたが、あまり納得のいった様子ではない。
の反応をなにも言わないままで待っていると、やがて彼女は更に苦々しい顔をして唇を噛んだ。
頬に薄く赤みがさす。
「驚いたわ。人が弱っているときに。卑怯者」
「……すまん、反論できん」
もういい加減寝ていたほうがいいと誤魔化し、留三郎はまた細心の注意を払ってを床へ横たえた。
彼の背にしがみついたままだったの左腕が、名残を惜しむように離れようとしない。
細い手首を引き寄せてそっと握ってやり、毎日でも顔を見に来るからと言うとは目を伏せ、頷いた。
周りの音が遠ざかる、一瞬の居心地の悪い間が訪れる。
ひとり気まずくて、留三郎は誤魔化すように口元で笑った。
なんだか情けない顔になってしまった気がした。
が見上げて、それを察したように薄く微笑む。
「なんだか妙ね。私たちっていろいろ、順番が真逆なのね」
「……そうだな」
だから今更、些細なじゃれ合い程度で照れていたりする。
背から離れた左手の指先で長い髪のすそをくるくるといじりながら、は居場所のないように首を傾げた。
お互いのあいだに言葉が失われたことをきっかけにするように、留三郎はの唇にちいさく口付けた。
軽く触れただけで離れると、は照れを誤魔化すように、珍しく満面に微笑んだ。
「可笑しい。でも、求婚されるのも、悪い気はしないわね」
「……素直に嬉しいと言え」
「まぁ 自信家」
別にそういうつもりでは、と逆にやりこめられて留三郎は最後の最後も反論の言葉を失った。
「……だから、あんまり、遊ぶなよ、他の奴とは」
「そうね」
言葉には出さないが悪戯っぽいの視線ははっきりと、妬いていたのねと彼に問うていた。
意地になったように留三郎はそれには答えず、保健室を出るきっかけを探して視線を巡らせた。
怪我人ひとりを残して去るわけにはいかないのだから、伊作が戻るまでは保健室にいなければならない。
「食満くん、手を握っていて」
「うん?」
「ひとりで寝るのって寂しいのよ」
以前も聞いたようなことをはまた言った。
平気そうな顔をしなければ、はそんな甘えたセリフを口に出すことなどできないのだろう。
切実な顔で、声で、本当に寂しい顔をしてなんて、とても無理なのだろう。
思いもかけないタイミングで時折、胸の内にこみ上げる甘ったるい思いに酔わされる……諦めるしかないではないか。
留三郎は軽くため息をついた。
「いいよ。お前が寝付くまでいるよ」
この空気にずっと身をさらしているのは確かに照れのあまりに居たたまれないが。
望むならいつまででもいるよ。
そんなことは、彼とてさらりと言えたものではない。
最後の一言を彼は言わずに飲み込んでしまったが、それでも安心したと言うように、
は留三郎の手を握り返し、目を閉じた。
いいよ、他に安心できる相手がいないなら。
俺がここにいてやるから、お前はなにも心配しないで眠ればいい。
卒業までの数か月はゆるやかに、しかし確実に過ぎていった。
が怪我をして戻って以降、留三郎ととの仲は明らかな恋人同士として認識されるようになった。
は他の男には目もくれぬようになり、嫌と言うほど纏っていた色香の毒々しさはかき消えた。
留三郎は変わらずにマイペースではあったものの、
やっと一段昇格できたことで時折ちいさな嫉妬の顔など見せるようになって、
潮江文次郎あたりにからかわれるようなことも増えた。
なによりも本人たちが関係を否定することがなくなったのである。
休みの日にに引っぱられて町に連れ出される留三郎の姿が見られることがあったり、
また六年生の委員長達がを交えて会話に花を咲かせるという光景も日常のこととなっていった。
卒業前の最後の長期休暇、正月の休みにが留三郎の実家に招かれていったので、
もしやするとはくの一のプロにはならないつもりではないかという憶測が後輩のあいだに飛んだが、
今度は留三郎に毒が盛られたりするような事態には陥らなかった。
誰の目にも、この二人が恋仲であることがお互いに悪影響であるようには映らなかったのである。
二人のどちらもが先を期待された優秀な生徒であったから、
きっと理想的な忍とくの一のカップルになるのだろうと誰もが想像した。
時が満ち、卒業認定を受けた六年生達が学園を出るその日。
身支度をすっかり終えた彼らは校門のそばにいて、
後輩達と別れを惜しみ六年間を過ごした学舎を最後に振り返っているところであった。
泣きじゃくるくの一たちをなだめ、はチラと恋人のほうを見やった。
癖のある委員長達の中ではかなりまともな部類であった留三郎は、
後輩の面倒見もよかったようでたくさんの下級生から慕われており、今も大勢に囲まれていた。
はくの一の後輩達にことわって場を離れ、留三郎へと歩み寄った。
「卒業おめでとう、食満くん」
「ああ、お前も」
彼は用具委員一年生たちの頭を撫でてやりながら、を振り返った。
留三郎にしがみついて泣いているのは、
が怪我をして学園に戻ったときに食満先輩に知らせなきゃと走り出した子どもたちである。
微笑ましい光景には笑った。
「ええ、ありがとう。これでもう私たち、プロの忍になったわけね?」
「そういうことになるな」
にはいくつか就職先を選ぶだけの余裕もフリーになる道もあったが、
“くの一をひとり”ではなく“ぜひ特にを雇いたい”と名指してきた城への勤務を受けることになっていた。
一度実習でが派遣された先であり、とても気易いところであるともその申し出を歓迎したのだ。
「頑張れよ」
「ええ、勿論。じゃあ、これで」
「ああ」
「お別れね。学園生活があなたのおかげでずいぶん楽しくなったわ。ありがとう」
「こちらこそ」
にこにこと笑い合う表情をちらとも変えずに、二人は別れ話を始めていた。
周囲で聞いていた誰もが、いきなりの展開にぎょっとさせられた。
「えっ……なに、二人、別れるの?」
横で聞いていたのか、思わず口を挟んだ伊作はこの期に及んでもとんでもないお人好しである。
「ええ、ずっとそのつもりでいたの」
「生きていればまたそのうち、会えることもあるだろう」
はなんでもないことのようにそれに答え、留三郎もその横で頷いた。
皆が呆気にとられている中、悪あがきのように伊作はまだ何か言おうと試みる。
「なんで……せっかく」
「なんでも何も」
「ずっとつるんでるわけにはいかないからな。しばらくは俺もも、必死こいて忍者しないと」
「そういうことよ」
あなたもそうでしょう、と聞かれ、伊作はそうだけど、と曖昧に呟いて押し黙った。
とうとう伊作は言い合いでに勝てないままである。
「そのうち、ね。いつかまた、逢いましょう」
「ああ、元気で。簡単に死んだりするなよ」
「勤務先は今のところは平和な土地だし、敵もない城だし、大丈夫よ。飽きるまでは気をつけるわ」
「そーか」
飽きるまでは、という物言いに、留三郎は苦笑した。
二人にしかわからない何かが今通じ合ったらしいことには誰もが気付き、
よくわからないが本人たちは納得しているらしいと思い知るや、口を出すことなどできなくなってしまう。
後輩達に教師陣、見送りの人々に手を振るとは潔く背を向けて、振り返りもせずに歩き出した。
その背が遠く小さくなるまで見送ってから、留三郎はさて、と伸びをした。
「こっちもそろそろ行くか……」
ねぇ、追いかけなくてよかったのと、まだ伊作は心配そうに言う。
「いいんだ。そのうち、あいつのほうから追ってくるさ」
伊作はわけがわからんと言いたそうに眉根を寄せ、自信たっぷりだなと文次郎が小さく突っ込みを入れた。
留三郎はおかしそうにふっと笑う。
「飽きた頃には、ちょっかいを出しに来るさ。追ってくる言い訳をつくっておいてやったからな」
仕事を放ってまでやって来たかった、会いたかったとはにはとても言えそうもないだろうと思ったから。
“飽きたからお嫁に来てあげたのよ、食満くん、そう言ったでしょう”
そうして唐突に姿を見せたに、留三郎はハイハイ、わかったと苦笑を返すのだろう。
今から想像がついてしまういつかの未来に彼は思いを馳せ、また笑いを漏らした。
ひとり楽しそうにしている留三郎に、友人達は目を見合わせるばかりである。
「じゃあな」
「お前らも元気で」
「生きて、また」
短くあっさりと別れを済ませ、彼らはそれぞれに目指すほうへと歩き出した。
晴れ空を見上げる。
門出にはよい日和だ。
笠をかぶり直し、留三郎は気持ちを切り替え、また歩き始める。
それから約束通りにほぼぴったり二年が経過した頃、正月休みに実家に帰省した彼の元を、ひとりの女が訪れる。
再会とそのあとの物語を、今はまだ詳しく話せない。
それはまた別の話である。
宵のみぞ知る 了
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