天井裏に覚えのある気配を感じて、チラと視線を上へやると、わずかばかりキシリと天井板が鳴った。
まさか誰かがし損じるでもない、への返事のつもりで踏み鳴らされたのだろう。
表から裏から、の周りはすでに彼らによって守られている。
全力で守ってやる、というあの言葉を思い出した。
口に出して告げたのは小平太だったが、皆の目が同じことを言っていた。
食満くんは本当は何人分妬いてくれたのかしらと思い出して、は少し笑った。
宵のみぞ知る 番外編 三
部屋には女中が入っていたようで、すでに布団が敷かれ、いつでも眠れるようになっていた。
は何気なく、月でも眺めようかといったふうに縁側へ続く明かり障子をすっと開けた。
幸い、庭に通じる逃げ道は塞がれていないようである。
はしばらく縁側へ佇み、ぼんやりと月を眺めて物思いにふけるふりをする。
“明日になったら、すぐにでも逢いに行くから、愛おしい人──”
人を恋い慕う表情を演じることを本当の意味で理解したのは、きっとつい最近のことに違いないとは思う。
今もどこかでを見守っているはずの留三郎をほんの少し恋しく思う。
理解があるから、大人だから、それだけで何もかも言わせずが我を通してしまうことが多い相手である。
留三郎は大抵いつでもわかっていてに負けてくれるのだ。
顔にも声にも出さない感情が、の知らないところでどれほど耐えることを強いられているか、
これまではあまり考えたことがなかった。
この任務が終わったら、少し思いやってやるのが親切だろう。
なにもかも──任務を終え、学園に帰り着き、それから──すべてを終えた頃には、
もしかしたらまともに立っているのも難しくなってしまうかもしれない。
人の命に無頓着になっていくのだと、後輩には言った。
それをは確かに否定することができない。
しかし、ずっと以前とはそのことについて抱いている感情の趣が少々変化した気がするのだ。
感情の揺れ動きを胸の奥にリアルに感じるようになった。
それを表面に出さないように苦心するようにもなった。
けれどそれが、自分の心が弱くなってしまったということだとはは思わなかった。
精一杯感覚を研ぎ澄ましても、学園随一の実力を誇る彼らが気配を絶ったところを感じ取るのは至難だ。
けれど、……彼らは確実にそばにいる。
いっそ爽快ですらあるほど、は不安感や恐怖を感じなかった。
肝要なのは実のところ、暗殺までの行程ではない。
己を囮にすることにも躊躇はない。
屋敷に仕えるものの中には、ただの女中や下男とは到底思えないほど隙のない者たちが数人見受けられた。
しかし彼らが周りに控えている気配もない。
が部屋へ戻ってくるまでのあいだに、文次郎以外の五人による大立ち回りがあったのだろう。
大立ち回りとは言うものの、そんなことがあったことにすらも、恐らく文次郎も気付かなかった。
プロの護衛の者を騒ぎにすることなく片付けてしまう、彼ら五人の実力も大したものと、
は思って口元にクスリと笑みを浮かべた。
そのとき。
背後にざわりと、不穏な空気を感じた。
一瞬表情をこわばらせてしまったことは、夜の寒さのせいにしてしまう。
“そのとき”が近づいている。
(まずは、殺さないこと──)
やることはほかにいくつかある。
少し冷えた指先、白い色を透かすかたちよいつめを、逆の手でそっと撫でる。
ぎしりと廊下が鳴った。
(来た)
すぅっと障子の開く音がした。
は不意打ちを受けたように、びくりと振り返った。
「あ、──あら、領主様? こんばんは……」
やや不自然に聞こえる、いかにも取り繕ったような挨拶を返す。
この夜更けに、領主が客の部屋を唐突に訪ねてくるのは確かに奇妙である。
領主は嫌らしくにやりと笑い、良い月の晩ですなと言いながら部屋へ踏み入り、障子を後ろ手に閉めた。
「そうですね、とても、きれいな──あの……あの──なにか、御用事でも?」
はどぎまぎと、受け答えながらそろりと肩をすくめ、怯え気味に領主を見上げた。
体格のよいと言おうか、でっぷりと肥えたと言おうか。
押さえ込まれて抵抗のきく相手でないのは一目瞭然である。
「しかし、……いけませんな。今夜は嫌に冷える」
領主はつかつかと部屋に踏み込んで来、が開けた明かり障子をさっと閉めてしまった。
咄嗟に身を守るように、は壁づたいに領主から距離をとろうとする。
獲物を追い詰めた蛇のような目で、領主は舐めるようにを見つめた。
「若い女性が、身体を冷やすようなことがあっちゃあ、なりません」
おろおろと、は視線を彷徨わせ、戸惑った様子を見せた。
「ところで、娘さん……宿賃を頂戴しておりませんでしたな」
「は、はい、それでしたら、」
の言い終わるのを待たずに、領主の腕がをぐいと引き寄せた。
「……あ!」
「せっかく、今宵ばかりの縁じゃあありませんか。なに、宿賃といっても、金子で頂戴する必要はない」
「なにをなさるの……」
「言わせますか、それを?」
脂ぎった顔にニタリと気味の悪い笑みを浮かべ、領主は軽々、
を抱え上げると敷かれていた布団の上に乱暴に横たえた。
ひっ、とちいさな悲鳴がののどから漏れる。
それを聞いて、男は満足そうに笑った。
「おやおや、震えている。可哀相に、すぐ忘れさせて進ぜましょう、なに、恐いことはない」
「い、嫌」
「なんと、一夜の宿を提供して嫌とはずいぶんな物言いじゃあありませんか、美しい娘さん。
きれいな肌をしておられる。あなたに想われているという男は、幸せ者ですなぁ。
この肌を知っているのは、その男ひとりしか、今はおらんのでしょう」
「やめて……」
押さえつけてくる腕には無駄に等しい抵抗をしながら、はかすれ声で懇願した。
目にじわりと涙があふれる。
暴れるあまりに髪は乱れて肩に胸にと散り、
着物の衿からのぞいた白い肌に絹糸のような黒が艶めかしく映えた。
男は興奮した目つきでを見下ろし、暴れるの身体をやすやすと押さえつけて、ひざから太股へと手を滑らせた。
きゃあ、とまたが悲鳴を上げる。
帯紐がほどかれ、その肌が暴かれそうになると、はいっそう激しく抵抗して無我夢中の様子で腕を振り回し、
そのつめが男の肌にささやかな掻き傷をつくった。
抗われることを逆に楽しむかのように、男は掻き傷に滲んだ血を拭い、
悲鳴を上げるの口を手で塞ぎ、覆い被さろうとした。
天井裏で、床下で、部屋の外で、その様子をじっと見聞きしているばかりの六人は、ただただ戦慄した。
目の前で起こっているのは一体何事か。
男が力弱い娘を押さえ込み、襲いかかる。
娘は泣いて喚いて必死で逃れようとしているものの、到底力は及ばない。
それがの仕組んだうち、演技のうちであることを、彼らはちゃんと知っているはずだった。
しかし。
あふれくる怒りを押さえ込み、が念を押したとおりに我を忘れぬよう、彼らはそればかりに必死だった。
全力で守ってやると言ったのは、その言葉に心から頷けたのは、決して嘘ではないのに。
の計画を無にしてはいけない、ただそれだけのために、
彼らは彼らの友人を、恋人を、目の前で見殺しにするも同然の気持ちで、ただ耐えた。
この部屋で、こんな光景が恐らくもう何度も繰り返されてきたのだ。
そのうちのひとりは、暗殺者であることを悟られ、追われ、致命傷を負わされ、死に至らしめられた──
学園の生徒が任務や実習の事故で命を落とすのは、よくある話というほど頻繁ではないにしろ、時折はあることだった。
それを悼む場に、葬る場に必ず居合わせるのが作法委員である。
くの一教室の後輩の死は昨夜の知らせだった。
死化粧をほどこしてやり、負っていた任務を受け、は今ここへやってきている。
──あいつは、一度もその感情を外に出していない。
留三郎の言葉を、仙蔵はふと思い返した。
冷静だと言われがちな仙蔵だが、どうしてこの状況で心底から冷静でいられようか。
自身が手を出さないで欲しいと望んでいるのは嘘ではないはずだ。
だから辛うじて保っている我慢であるが、前もってのの制止がなければ、彼はとうに飛び出していただろう。
(これがお前のやり方なのか)
だとしたら、お前はばかだ。
どうしてこんなやり方しかできないんだ、。
留三郎は仙蔵のごく近くに控えていた。
仙蔵の位置から彼の表情は見えないが、留三郎はチラともから目を離そうとしない。
彼にはわかっていることなのかもしれないと、仙蔵は思った。
後輩がやりそびれた任務を改めて請け負うこと。
後輩がその身に受けたはずの恐怖と、痛みと、重圧と、くの一としての責任と、
そのすべてを、は今追いかけて我が身に受けようとしている。
(……それが、お前の悼み方なのか。死んだ者を思うということなのか)
不器用な奴、で済んでたまるかと、仙蔵は内心で悪態をついた。
もう二度と、の任務の援護はしたくないと思った。
忍のプロを目指す者が思うには未熟が過ぎる考えだとわかってはいる。
けれど、そう思わずにいられないほど、今のは、仙蔵にとっての他人ではなかった。
恋い慕うのとは別の意味だが、大切な相手である。
(お前は望まないかもしれないが、、どうしても見ていられなくなったら、手を出すぞ)
とりあえずこの男、生かしてはおかない。
似たようなことを皆が考えていることに、仙蔵は気づけなかった。
己の感情を押し殺すことに、彼は今もって精一杯であったから。
「元気な娘さんだ。
暴れるのを大人しくさせるのも一興というものだが、お巫山戯はこのあたりで切り上げようじゃあありませんか」
どれ、と男は、傍らに放られていた紐を引き寄せ、
の手首をその頭上に押さえつけるとぐるぐると紐を巻き付けて縛り上げ、衝立の足にその端を絡めた。
周りを囲む六人は唐突に殺気立ったが、それでも場に飛び出すことだけはせずに済んだ。
涙に濡れたの目に、絶望の色が宿る。
「観念しましたかねぇ、娘さん。ああ、実に美しい。
籠の鳥というやつですよ、あなた。もう逃げられません、万事休す」
男はくくく、と笑いを漏らした。
口元を押さえつけられたままで、は涙したが泣き呻く声は漏れ聞こえはしない。
辛うじて腕に絡まっている程度の着物を男の手が嬲るように胸元から落とす。
は羞恥にかっと赤くなり、必死で顔を背けようとしたが、
男は面白そうにその顎をとらえて隠れることを許そうとしなかった。
「私はねぇ、娘さん、きれいな顔が歪んでいくのを見るのが好きなんですよ。
恐怖とか恥じらいとかね……そのうち、恐いのも恥ずかしいのもどこかに行って、気持ちよーく、なってきますよ。
身体っていうのは、正直でしてね……さっきまでこの世の終わりみたいな顔色をしていたのに、
いつの間にか熱に浮かれたような、実に艶めかしい顔で喘いでいたりするんですからねぇ。
女ってのは、わからないもんですよ、最初から素直になっておけばいいのにねぇ。
そんなのを一度見てしまったら、そりゃあ、病みつきになるってものでしょう」
ね、と共犯関係でも結ぼうとするかのようにに問いかけてみせ、男はにこにこと笑った。
場の重苦しさに反した明るい笑みに、はただ涙を流した。
「だからね、娘さん、一緒に楽しめたほうがいいでしょう、恐がることはありませんよ。
私は、……やさしいですから、ね。すぐに“よく”してあげますよ」
男はの喉元に口付け、肌を愛撫し始めた。
片方の腕はまだの口を押さえつけている。
“万事休す”──もしや、の計画はすでにどこかでずれてしまっているのではないか?
六人は我慢も限界に達した頃ながら、手を出すタイミングを計りかねていた。
手首を縛り上げられるというのは誤算ではないか?
いくら、男に隙をつくるためとはいえ、こんな陵辱を受け続けて今の今まで黙っているだろうか?
……泣いているではないか?
いくつもの自問を繰り返し、しかし結局、いや、はくの一だと、彼らは自答することになる。
実習も実践も、気が遠くなるほどの数を彼らはすでにこなしている。
けれど、その中でも今度の任務が最も苦しい経過を迎えていると彼らは思った。
身体中を弄られ、は唇を噛みしめて耐えているようだったが、
その息が次第に上がって、頬に熱がのぼってきているのがわかる。
室内の空気が温度を上げたように思われた。
声を殺すのにの口はずっと男の手に塞がれたままだったが、
やっとその手が離れると、はほぅ、と熱のこもった息をついた。
男は苦笑して、ほらね、と囁いた。
なおも身体の上を這っていく男の指や舌の感触に、はけれど時折悔しそうに声をあげた。
「ああ、」
「そろそろ身体に力も入らなくなってきた頃でしょう……」
男はぐったりとしてしまったの足を割り、あいだに身体を滑り込ませた。
もう我慢の限界だと、六人が飛び出そうとしたのはほとんど同時の一瞬だった──しかしその刹那。
「あ、……な、なにか……?」
男が急にから身を離したのである。
様子が変わった。
飛び出そうとしたのをすんでのところで彼らは踏みとどまった。
「な、なにを、これは、いったい……」
男は混乱した様子で、ぶるぶると身体を震わせている。
先程までの身体を散々辱めた手のひらに視線を落とした、その次の瞬間には、
男はばたりと前のめりに倒れていた。
と身体が重なるような状態だったが、はそのままふっと息をつき、
面倒くさそうに倒れ込んできた男に目をやると、遠慮なくひざで蹴りを食らわせて横に転がした。
手首を頭上で縛り上げられたままだったが、は上半身を少し起こすと、
自由にならない手で器用に首の後ろに引っかかっている着物の襟元を探り、
仕込んであったしころを取り出して拘束を断ち切った。
やっと自由になった腕を振り振り、は体勢を立て直し、乱れた髪を掻き上げる。
「……ああ、腕が痺れちゃった……時間稼ぎに時間がかかるのは当たり前だけれど、まぁここまでが長かったわ」
はぁ、と息をつくと、はとりあえず立ち上がって着物を着直し、帯紐をくるりと結んだ。
素っ裸で転がされ、動くことができなくなっている男をはしばし冷たい目で見下ろしていたが、
やがてぷっと可笑しそうに吹き出し、笑い出した。
「……嫌だ。滑稽」
屹立したままの男のそこを、は思いきりぎゅぅと足で踏みつけた。
男の鈍いうめき声が響く。
ここまでの展開を見守っていたのとは別の意味で、六人は凍りついた。
「……何があったか御存知? 領主サマ」
壮絶な笑みを浮かべ、はやさしい声で男に問いかけた。
「わからないでしょうね。私に夢中だったものね。領主様のお好みの女はどんなかしらって、結構思案したのよ……」
は満足そうにクスリと笑い、続けた。
「つめにね、薬を仕込んでいたの。いろいろな薬品をそれぞれの指に用意していたのだけど、
緊急の事態に陥るまでは、即死効果の見込める薬は使わないつもりだったわ。
ささいな掻き傷が命取り……ああ、でも、心配は要りません、痺れ薬ですから。
それが全身にまわるまではお付き合いしてあげようと思っただけのことです、もうしばしの命ですものね。
……ねぇ、お伺いしたいことがありますの、お答えいただけますわね?」
無様な格好を晒したまま女に足蹴にされ、今や震えおののいているのは男のほうである。
その答えを待たず、は男を踏みつけにしたままひざを折り、男の胸元をその片ひざで押さえ込むようにかがみ込んだ。
「一週間ほど前になりましょうか。ここへやって来た娘がいたはずです。
あなたを殺そうとして失敗し、追われて致命傷を負い、逃げることはできましたが命は落としました。
彼女は恐らく、ここへ簪を置いていったはずです。
あれはこの近隣の若い娘には割と名を知られている職人が手がけた、一品ものの簪です。
それ、今はどちらに? お返しいただきたいの」
男の身体は痺れ薬のために使い物にならない状態であったが、呂律もあやしい舌でかろうじて、
知らん、知っていても答える義理はないわと答えた。
声帯にまでしびれが及んでいるのか、声には張りがなく、あたりに響きもしなかった。
精一杯叫んだところで、聞き留める者もいなかろう。
は首を傾げ、少し寂しげに眉根を寄せた。
「あら……残念。では、しかたありませんね」
しころを仕込んでいた襟のあたりから、はまた何かを取り出した。
銀色に光る、長さ三寸ほどもある棒状の金属は、飾りのついていない簪の柄といわれればそのようにも見える。
「これ、何かおわかりになります? そう、針です」
は男の目の前にその針をかざし、それをつまむ指をこすり合わせるようにしてくるくると転がして見せる。
「こんなものでも、人間、簡単に死ねましてよ。ここがあなたの心臓の位置。
ここに針をこう、刺すんです。ほら」
ぐさ、と音も聞こえそうなほどに思いきりよく、は男の左寄りの胸に針を突き立てた。
しびれがのどのあたりまで及んだか、男はほとんどうめき声も上げられぬ状態である。
「少ぉしずつ、これを深く深く、刺していきます……ねぇ、まだ仰る気になりません?
舌くらいは動くでしょうに。ほら、心臓に達してしまいますわよ。ほら、ほら、ほら、もう少し……」
「わ、わかった、頼む、やめ、て、くれ……!」
「……最初から素直になっておけばいいのに、ねぇ、そうお思いになりますでしょ?
さっきそう仰っていたの、あなたでしたものね。私、あの言葉には部分的に共感もできるのです。
こんなのを一度見てしまったら、そりゃあ、病みつきになるってものでしょう?」
は刺さったままの針をつまみ、先程男の目の前でそうしたように、指をこすり合わせるようにして転がした。
男が情けない悲鳴を上げるのを聞き、は満足そうに笑った。
「教えていただけますね」
「ぶ、部下が、部下が持っている……」
「ふぅん……」
は男から目をそらし、少し考え込むような顔をした。
「部下って、どなた?」
「ああ、そ、その部下を、すぐにも、呼ぼう、だから……」
「あら、人を呼ばれては困ります。この場はあなたおひとりで何とかしてくださらなくちゃ……」
「じゃ、じゃあ、簪を取り返してこよう、それで……」
「まだ刺激が足りませんか、仕方のない御方。本当は、責めるより責められるのがお好きなのね」
男の言葉を無理矢理に遮り、は悪意たっぷりの笑みを浮かべると、また襟元から何かを取り出す。
そうして出てきたものを認め、男は身に何が起こるよりも前にわめきだした。
今度は、厚地の布に留められた無数の針──こちらは一寸ほどの長さ──が出てきたのである。
「……やっぱり、女性はいかなる時でも針くらい持ち歩いていなくてはね? ねぇ、こんなのは如何?
常々気になっていたのですけれど、眼球には痛覚というものがないとか」
はついと針を一本抜いて、また男の目の前にかざしてくるくるとやって見せた。
「……生きている人間を相手に試してみなくちゃ、痛いかどうかはわかりませんものね……
眼球ですもの。刺さる瞬間までが、きっとよぉく見えましてよ」
針の先をはゆっくりと男の左目に近づけていく。
男はわんわんと泣かんばかりに顔を歪め、声も声とは思えないようなわめきを漏らした。
「どうなさいます?」
「い、言う、言う……」
「本当ですか?」
針があまりに近づきすぎて、男は頷くことができなかった。
口をぱくぱくとさせるばかりでなかなか核心を言おうとしない男には苛立ったのか、
まだ男を踏みつけにしたままだった爪先にぎゅぅと力を込めてねじ込んだ。
「早・く・仰い。“こっち”に刺して欲しいの」
爪先をぎゅぅぎゅぅ押し付けながら一語一語を区切るようにはっきりとが告げると、男は観念したように目を伏せた。
「……そう、賢明なご判断です」
「わ、私の部屋の、手箱の中だ……掛け軸の後ろに、隠し戸棚がある……」
「まぁ、そうですか、御親切に、どうも」
はとんでもなく場違いな朗らかな声でそう言い、にっこりと笑うと廊下のほうへ視線を向けた。
「屋敷の中を実際に歩いていて、あの簪に心当たりのあるのはあなただけなの、お願いするわ」
明確に呼ばれたわけではなかったが文次郎はすぐ悟り、音もなく即座に場を離れた。
文次郎は死んだくのたまの後輩のことを、“頭の天辺で髪を結い、簪を挿している娘”という印象で記憶していた。
ほどなく彼の気配がそばへ戻ると、ほかの五人もやっと、部屋の中へ姿を現した。
己らも同じ男と思えば、のこの拷問の恐ろしさも身に迫って感じられるものであるが、
部屋の中央に裸で転がされている領主の姿は確かに滑稽ではあった。
は男から離れると立ち上がり、文次郎が差し出した簪を受け取り、じっと見つめた。
「……赤い珠、黄と緑の数珠繋ぎの下げ飾り」
「そろばんをはじいている最中に、これがチリチリ鳴りやがるんだ」
「気に入っていたのよ、あの子」
は口元で微笑み、くるりと簪を手の上で返す。
「……ああ、珠にひびが入って……せっかく、」
言いかけて、はそこで言葉を失ってしまった。
文次郎に一度、簪を突き返すと、はさっさと乱れた着衣を直し、撤収の支度にかかる。
一度ぴたりと閉じられた明かり障子が広く開けられ、月の光が部屋に色濃くさした。
逃走路に障害はなく、月明かりも今宵は邪魔になりそうもない。
六人が先に庭へ出、は部屋を出るその間際、転がされたままの男に向き直った。
「どうもありがとう、領主様、これであなたは用済みよ。
人のものを奪うというのも大概になさった方がよろしかったようね」
は荷に堂々と持っていた苦内を取り出し、握りしめた。
「き、貴様、くの一か……!」
なぜ、と問おうとした男の胸に、は躊躇いもなく穴を開けた。
血に濡れた苦内を拭い、口をぱくぱくとさせて酸素を求める男を冷たく見下ろした。
肺に穴があけば、そこから空気の漏れが起こり正常な呼吸運動ができない状態に陥る。
十数分にも及ぶ呼吸困難を起こしたのちに窒息をするという、
恐ろしく長い責め苦を味わったのちにやっと死が訪れるのである。
「即死はさせません、苦しいでしょうけれどお気の毒様、どうかお大事に」
さらりと言い放ち、は踵を返すと待っていた仲間に手を借り、軽々と塀を越えた。
降り立った先で、は改めて、文次郎から簪を受け取った。
「……よかった。これを探していたの」
「……こんなものから、忍術学園まで調べが及ぶと思ったか」
「まさか、思わないわ」
「じゃあ、なぜだ」
散々な目に遭ってまで取り返すほどのものなのか。
文次郎に責めるように問われ、は苦笑した。
「……意外と、ロマンチストなところがあるのよ。女の子ですもの」
寂しそうに微笑んだを、一同は不可解と言いたげな目で見下ろした。
「……とりあえず、追っ手は来ないはずだが、行けるところまで移動したほうがいい」
留三郎がをかばうようにその肩を支え、七人は闇の中を走り始めた。
町を抜け、山を抜け、もう忍術学園のほうがあの屋敷よりも近いだろうという地点まで来てやっと、
七人はわずかに休憩をとることにした。
森を少し奥へ行くと清流があり、が身体を清めたがったので、
何人かで見張りをし、伊作はの身体のケアをするべく支度をしながら待つことになった。
水を浴びて戻ってきたの手首を伊作は診たが、少しばかりあとになって残ってしまっていた。
「……痛々しい」
「このくらいで済んでよかったと思わなくてはね」
「まぁ、そうかも、しれないけど、さ」
実際に性交渉はもたずに済ませることができたのは、此度の任務で唯一彼らが救いと思えるところだった。
の演じたあの場が壮絶すぎて、彼らはここへ至るまでの道中、ろくろく口もきくことができなかった。
「……、あのさ、……あいつが暗殺の標的になった理由は?」
「お城の命令で買い付けた南蛮渡来の火器や弾丸を、伝票の数字を誤魔化して自らの蓄えにしていたようなの。
お殿様はとうにお気づきで、反乱の恐れのある危険分子とみなし……そんなところ」
処分されても仕方のないような野蛮な男だったけれどと、は付け加えた。
「……“大丈夫かい”?」
まっすぐに伊作に問われ、はしばらく黙って彼を見つめ返していたが、やがて薄く微笑んで頷いた。
「……いつもみんなにそう聞くのよね、善法寺くんは。意味があるのよね」
「意味なんかないさ……僕には、心配以外にできることがないんだ」
「私には、心配してくれる人が少ないから、それも嬉しいのだけど」
「ばかを言うな」
ひとりで無茶をしすぎなんだと、伊作はの頭をぐいと押しやった。
「君は、……いつもそうだ。留がどんな思いでいるか」
「それを言われると、少し、苦しいところね」
「そうだ。もっと苦しめ、ばか。心配させて。こんなに心配させて!」
「痛い、善法寺くん」
頭をぐりぐりとやられながら、けれどが笑うので、あたりの空気は少しばかり和やかになった。
「痛い痛い、ごめんなさい、もう無茶はしないわ、
でも今回のような無茶ならあえてやるのがくの一の仕事だと思うの」
「うるさい」
でこぴんをひとつ食らわせて、伊作はやっとを開放した。
「なんだぁ、そこ、バカップルみたいー」
「うるさい、小平太! 忍たまの中で保健委員に心配かけるワースト・ワンは間違いなく小平太なんだからな!」
「ええっ なんだその不名誉なの」
「ていうかみんなそうだよ! なんだよ! 僕が心配しかできないからって、遠慮しろっての!」
「誰もそんなこと思って無茶してるわけじゃないわ」
「わかってるよ! でも、」
伊作は思わず泣きそうになったのをぐっと噛みしめてこらえ、キッとを睨み付けた。
「でも、やりきれないじゃないか……僕は、最後に包帯を巻くだけだ」
伊作が黙って俯いてしまったのに、は困惑してしまった。
助けを求めるようにが視線を彷徨わせた先に長次がいた。
彼は何も言わずにしばらくをまっすぐ見返していたが、やがて静かに、口を開いた。
「心配はなんの役にも立たないと、言った」
伊作が何かに気がついたように顔を上げた。
長次の声は相も変わらずで聞き取りにくかったが、伊作もまるで救いを求めるかのように、長次の言葉をじっと待った。
「……伊作は、心配をかたちにするすべをもっている……口で言うだけではなく」
の手首にあてられた湿布薬と、それを巻いた包帯に長次は目をやった。
「皆がその治療のあとに、思う……自分を気にかける誰かがいることを」
「そんだけじゃん。死んじゃったあとだったら僕は用なしなんだ、
今日だって、なんとか無事だからいいってだけで……」
「……だから、お前が包帯を巻いたのを見たら、生きて帰れたことを実感できる」
伊作は聞いて瞠目した。
「学園中が多かれ少なかれそう思っている。お前に救われている奴が、お前が思うより大勢いる。
……そうだな」
最後の問いはに向けられていた。
はいきなり矛先が自分に戻ったことに一瞬戸惑ったが、控えめにうんと頷いた。
「……だからってさ……やっぱり、無茶はして欲しくないし……」
「……気をつけるわ」
ぶつぶつと愚痴るように呟く伊作に、はありがとうと囁いた。
伊作は呆気にとられたような顔でぽかんとを見やったが、はなんでもないことのようにさっと立ち上がった。
「……付き合わせた上、疲れているところを悪いけれど、朝までに学園に着きたいの、急ぎましょう。
夜が明けてしまうわ」
急かされて皆が立ち上がり、彼らはまた帰途にある人となった。
壮絶な任務明けとは思えぬほど、は皆とよく喋り、笑った。
普段のとはまた違う人のようである。
演技が抜けきっていないのだろうと解釈し、誰もそれをそれ以上に不自然には思わずにいた。
徹夜明けの早朝はなぜだか気分が高揚し、さわやかな気持ちになる。
誰もが少しずつ普段より妙に明るく振る舞う中、留三郎ひとりだけは物思いに沈んだように黙りこくって歩いていた。
今の今まで、口を開けばを困らせるようなことばかり言いそうで、
ただ見つめ続ければ周りも気にせず抱きしめたくなりそうで、留三郎はわざと自分を押さえつけ続けていた。
普通に生活をしていれば起きているはずのない時間に学園の外を皆で出歩き、
楽しくて、さわやかで、朝の空気が心地よくて──
普段は許されないことを堂々としている、なんだか、ほんの少し悪いことをしている気になる。
そのわずかな後ろめたさが、この奇妙にさわやかな愉快な心地に拍車をかけた。
スリルもあるが、快感もある。
皆が学園では見せないような顔で笑っていた。
けれど、その空気に留三郎はいまいち溶け込むことができなかった。
誰も何も感じないのだろうかと、不審にすら思う。
の緊張の糸は、いまだ張りつめたままなのだ。
ほんのわずか、針の振れ方が間違っただけで、ふつりと切れる寸前なのに。
学園の門は早朝であるというのに開け放たれていた。
サイドワインダーとすら呼ばれる職務に忠実な門番の姿も、忍犬の姿もない。
ははっと顔を上げると、わき目もふらずに駆け出した。
一体何事かと、一同はおろおろと目を見交わしたが、やがてそのあとを追って走り出した。
普段なら早朝の鍛錬をこなそうという者だけが起きているような時間だというのに学園内はざわついていた。
まだ寝間着姿のままで出てきてしまったらしい一年は組のよい子たちが、
と六年生の委員長達にまず目を留めた。
ぼろぼろのの姿に目を丸くして驚き、心配そうにざわつき、走り過ぎていったの背を見送る。
生徒達の注目の先にはくの一教室の生徒達がかたまっており、教員陣もほとんどが顔を見せている。
彼らが囲んでいるのは、質素な木製の柩である。
用具委員会で管理しているもののひとつだと、留三郎はそれを見てこの場に似つかわしくないほど事務的に考えた。
「! ……無事で、よく戻ったわ」
山本シナ師範がまず真っ先に、走ってきたに気がついた。
は肩で息をしながら、山本師範に返事すらせず、きょろきょろと辺りを見回した。
取り囲む生徒達の中に、あるひとりを見つけるとは駆け寄った。
息絶え柩に横たわっている少女と、恋仲だったという忍たま四年生の少年であった。
呼吸を落ち着けることもままならないの動向を、今や場にいる全員が固唾をのんで見守っている。
の真正面に立った少年は、唇をきつく噛みしめ、言葉にならない感情を必死でこらえているかのように、
まっすぐにを見据えた。
が今言わんとしていること、やろうとしていることに、少年はすでに感付いていたのかもしれない。
は懐から、そっと袱紗を取り出し、それを彼の目の前で開いた。
袱紗の中に大切にしまわれていたもの──あの簪を見て、少年ははっと目を瞠った。
「……あの子は、これを本当に大切にしていたの──あなたから初めて贈られたものだからと言って」
少年は震える手で、その簪に触れようとして、躊躇った。
もどかしそうにはその手をとり、簪を握らせた。
「あなたが決めなさい。あの子の思い出に、あなたが持っているの? それとも──髪に挿して、送ってやるの?」
厳しい口調で問われ、彼は握らされた手の中に、恐る恐る視線を落とす。
ひびの入った赤い珠が、無言のうちに彼に語りかけるかのようであった。
彼は簪をきゅっと、大切そうに握りしめた。
握りしめられた手の上に、ぽつりと涙が落ちる。
俯いたまま、彼は聞き取れないほどちいさなかすれた声で、ありがとうございます、先輩 と、呟いた。
彼はそのままの横を通り過ぎ、少女が横たえられた柩の傍らに立つと、その髪にそっと、簪を挿してやった。
今はもう血の通わないその手を握り、何事かを呟いた。
誰にもその声は聞き取れなかったが、好きだったよ と、唇が動いたのが六年生の彼らにはわかってしまった。
彼が少女の手を離し、最後の別れが終わると、柩の蓋がしずしずと閉じられた。
くの一達の泣き声が響く。
はその一団から少し離れた場所で、背を向けた状態のままひとりぽつりと立っていた。
泣きわめく少女達に六年生の六人もしばしは気をとられていたが、
留三郎はやがて立ちつくしたままのに歩み寄った。
ほかの五人も、それに気付くと控えめにそちらへ目を向けた。
は死んだような無表情のまま、俯きがちにただ立っている。
「」
留三郎が呼んだ。
は何も答えず、ぴくりとも反応しなかった。
留三郎はの頭をぽんと撫でた。
「。もう、いいぞ」
がずっと求めていた言葉のはずだった。
けれど、今の今まで、言うべきでなかった言葉である。
は無表情のままで留三郎をゆっくりと見上げた。
「もういい」
言って、彼は頷いてやった。
は虚をつかれたようにただぼんやりと、しばらく留三郎を見上げていた。
やがて、泣きそうにぎゅっと顔を歪めたが、は振り切るように踵を返し、早足で彼のそばから去っていった。
──意外と、ロマンチストなところがあるのよ、女の子ですもの──
冗談のようにが口ずさんだ言葉が、留三郎の脳裏に甦った。
「ちゃん、本当は、このために……」
小平太の呟き声が聞こえた。
誰もそれに答える者はなかった。
風が渦巻き、すすり泣く声も、ひそやかな話し声も、音という音を巻き上げて掻き消していった。
唐突な任務で学園を出た七人には、帰校した当日と翌日の二日間、臨時の休暇が与えられた。
とはいえ、ひとりは学園から姿を消しており、誰もその行く先を把握していない。
(朝の空気は、さすがに冷えるな……一晩中外にいると)
ただでさえ実習あけで疲れてもいる。
自分たちはともかく、は大丈夫だろうかと留三郎はぼんやりと明るくなってきた東の空を眺めた。
彼は長屋の屋根の上に胡座をかいて、一晩中そこにただ居続けていた。
もう何度目になるかわからないが、帰校したあのあとのことを思い返す。
が背を向けてひとりで歩いていってしまうのを、留三郎は見送るばかりで止めようとしなかった。
それからは今まで──夜になり、また朝日が射してきた今まで、姿を見せていない。
が背を向けて去ったあとで、それぞれに身体を休めるべく、六人は黙ったままなんとなく解散した。
湯を浴び、おろしたての着物に袖を通すと、
身体の疲れに反して心地よく目覚めたあとのようなこざっぱりした心地がした。
ろくな食事もとっていなかったはずが、あまり食欲はわいてこなかった。
睡眠も明らかに足りていないというのに、眠いとも思わない。
この任務に関わらなかった同級の者たち、また後輩達は、いつもと変わらない学園生活を彼の眼下で送っていた。
「留? おはよう」
ずっとそこにいたのかいと、聞き覚えのある声が彼の足元からかかる。
伊作が自室から出てきて、彼を見上げていた。
「……、帰ってきた?」
「いや、まだ」
「……どうして追わなかったの、君」
恐らくずっと聞きたかったのだろう、伊作は少し躊躇いがちな口調で呟いた。
元々が少し中性的に見える顔立ちをしている友人は、白い朝日を浴びていやにきらきら輝いて見えた。
留三郎は眩しそうに目を眇め、ふっと笑った。
「追ってどうする」
「……薄情者」
「はは」
笑うところじゃないんじゃないかと、伊作は少し怒ったように言った。
いやいやと留三郎は苦笑しながら答える。
「……ひとりにならんと、泣けない奴だから。たぶんな。腹が空いたら、戻ってくるさ」
留三郎がそう言って、遠くを眺めるような目をするのを、伊作は横目で見つめていた。
「……そういうもの?」
「まぁ、そろそろ、のパターンが読めてきたというか」
「大丈夫かな」
「大丈夫だろ。あいつは、……くの一だ」
「うん、まぁ、そうか……そうだね」
口ではそう言うが、伊作はまだ納得いかなさそうな口調をわずかに残し、そう結んだ。
休日のはずが、留三郎はなんとなくいつもの制服を着て、なんとなく鍛錬を始めていた。
誰もがなんとなくなのだろうが、留三郎と同様に忍装束姿で、彼の目に見える位置にいてそれぞれになにかをやっている。
小平太が抱えてきたバレーボールを数人がつき始め、
そのうち最初の穏やかさなど見るかげもないレシーブ・トス・アタックの応酬になっていく。
留三郎はその一団から少し離れた位置に立って、それをぼんやり眺めた。
いつもどおりだ、あまりにも。
本来なら授業中である時間に遊び呆けているに等しい今、
昨日の朝に感じたのと同じような、悪いことをしているような気分がこみ上げる。
忍犬が鐘をついたのが聞こえ、学舎を取りまいていた緊張感がわっと緩んだのが感じられた。
下級生達がちらちらと窓から見下ろしてくるが、天下の六年生にはそんな視線など気を散らすには力不足というものだ。
文次郎と長次と小平太は相変わらずの様子でバレーボールを操りつつ暴れまわり、
仙蔵はすました顔でそれを眺めるに徹し、伊作はそのそばにいて傍観の格好をしているが時折不本意に巻き込まれては、
小平太が思いきり打ったアタックの餌食になっている。
平和だ、あとは、が戻ってくれば、俺の日常に違いない。
そう思ったとき、下級生達がちらほらと寄越していた視線が、留三郎の背後のほうへとふいに動いた。
暴れまわっていた級友達もそれに気付く。
留三郎が気づき、肩越しに振り返ると、門のほうからが歩いてくるのが見えた。
任務をともにしたほかの五人が、思わずほっとしたらしいのが感じ取れた。
任務あけそのままのぼろぼろの格好に泣きはらした目、乱れた髪を風に遊ばせ、
はそれでもしっかりとした足取りで留三郎のほうへ迷いなく歩いてきた。
なにも言わず、留三郎はに向き直る。
も一言すら言わず、倒れ込むように留三郎に抱きついた。
すっかり疲弊したらしい様子のを見て、けれど留三郎はあえてなにも聞かなかった。
いつもどおりの、何事もなかったかのような口調で、言った。
「おかえり。どうした」
お前にしちゃあ珍しい格好だなと言うと、は顔も上げないままぼそりと呟いた。
「……おなかすいちゃった」
「食堂行くか?」
「ええ」
でもその前にお風呂、とは続けて呟いた。
「湯船で寝そうよ」
「はは」
荒く髪を撫でてやると、はやっと離れて彼を見上げた。
「……なにも言わないの」
「なにが」
この一晩の失踪のことを言っているのだろうが、留三郎はなんのことだかわからない、というような顔をした。
この恋人ほどではないが、留三郎にも必要とあらば多少演じてみせるくらいの心づもりはある。
は辛抱強く留三郎の言葉を待っていたようだが、やがてそのまま表情をチラとも崩さずに口を開いた。
「ありがとう」
「ん? だから、なにが」
「……別に、特別なにということは、ないけれど」
の口調も、言葉運びも、なにもかもが以前のままにすっかり戻ってしまっていた。
演じていたときの少女らしい、表情のよく動く娘も確かに愛らしいとは思ったが、
この頑なで不器用な様子のがそばにいることに、留三郎はいちばん安心を感じるのだと自覚した。
「風呂行って来いよ、このへんにいるから。今日一日いっぱいまでは休暇だぞ」
「ええ」
は留三郎から離れ、ふらふらした足取りで歩き出した。
頼りねぇなぁと苦笑する。
ほかの五人もその様子を眺めながら、しかしが無事で戻ってきたことに明らかに安心したようだった。
ふわふわと浮いたような、地に足のつかないような、例えようのない不安感がやっとかき消えた。
現実が現実として、急にはっきりとした輪郭線を描き出す。
手の上にそのすべての存在感が戻ってきた気がした。
青あざを身体中にこしらえつつ、伊作がよろよろと近づいてきた。
「、なんだって?」
「さぁ? 腹が減ったとさ」
「ふぅん? なんだそれ」
伊作は眉をひそめたが、安心のほうが勝るのか、その口元は笑っていた。
「が俺に聞いて欲しいと思うなら、そのうち自分から話してくれるんだろう」
言って、留三郎はぐんと伸びをし、空を見上げた。
あくびがこぼれる。
やっと疲れも眠気も食欲も、一度に追いついてきたようだ。
が戻ってきたら、とりあえず一緒に食堂へ行くだろう。
長屋へ戻ったら途端に倒れ込んで、泥のように眠ってしまうに違いない。
はなにか、俺に話そうとするだろうかと留三郎は考える。
自分から尋ねようとは思わないが、が聞き手を欲しがるなら、耳を貸してやろうと思う。
それまでは──留三郎はまたあくびをひとつ噛み殺した。
それまでは、の想いはだけが隠し持っている秘密なのだ。
この一夜、泣き崩れたか、わめき散らしたか、疲れて眠ってしまったか。
沈黙のうちに見下ろし続けた、それは宵闇だけの知るところである。
宵のみぞ知る 番外 了
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