意外
はきっかり二週間、学園を出て任務に赴いていた。
ある身分ある女性に付き従う仕事で、危険度は低い方だということだけ聞かされていたが、
留三郎はその言葉をそのまま信じての帰りを待っていた。
こういうところで嘘をつく女でははないし、むしろ留三郎を動揺させ、
それがどういう波紋を描くのかを眺めることを好むというほうがよっぽどに当てはまる。
それも、今回はとの間で初めての激しい言い争いの末に彼女が漏らした言葉であったから、
限りなく真実に近いことを告げられたと考えてよさそうだった。
わがままの言い放題ではあったものの、自身も留三郎の心配をちゃんと知っているし、
それを申し訳なく思ってもいるのである。
二週間後の放課後、委員会活動中には学園へ戻ってきた。
いち早くの姿を見つけたのは一年は組のしんべヱと喜三太で、
おいしいものだとかなめくじだとか、彼ら特有の愛おしいものを見つけたときと似たような反応を示し、
投げられたおもちゃに駆け寄る犬の如くにめがけて走っていった。
「せんぱぁい! お帰りなさーい!!」
「怪我しなかった!?」
「ええ、無事よ。あなた達も二週間、変わりがなさそうでなにより」
いい子、と頭を撫でられて、二人はえへへと嬉しそうに笑い合っている。
あひるさんの頭を抱えたまま、留三郎は少し離れた位置からぼんやりとたちの様子を眺めていた。
すぐそばで作業をしていた三年生の富松作兵衛がぼそりと呟いた。
「……先輩、御無事で戻られたんですね」
「みたいだな」
「よかったですね」
「ああ」
しばらくの沈黙。
「……サク、お前、あいつ苦手なんだろう」
「……いえ、そういう……」
「いや、その気持ちもわかるし。別に気ィ使うとこじゃない」
微笑すらたたえて留三郎がそう言うので、作兵衛は調子が狂うなと言いたげにちらと彼から視線をそらした。
「苦手っていうか……」
「ん?」
「……俺らの周りに、ああいう人は、いないんで」
「だろうな」
あれは五・六年のくの一だけが持ってる貫禄だろう、と留三郎は答えた。
言いづらそうにちいさな声で、作兵衛は続ける。
「苦手という言葉で言ったら、そりゃ、そうなんですけど……
でも、なんていうか、あの人には……敵わないなと思わされるんです」
意外な言葉が返ってきたので、
留三郎は端でしゃがみ込んであひるさんのボートの修理を続けている作兵衛に視線を落とした。
三年生ながら信頼のおける奴と評価している後輩は、照れ混じりに苦虫を噛んだような顔をしている。
「……近づいたら火傷しそうで」
留三郎は思わずぷっと吹き出してしまった。
笑うとこじゃないですよと、作兵衛は少し怒ったように言った。
彼は彼なりに真面目なのだが、留三郎はやっぱり笑ってしまった。
作兵衛の言うのが可笑しかったのではなく、その例えがあまりに的確だったから。
「言い得て妙ってやつだな、サク。俺もそう思うよ」
「……先輩は、でも、先輩に一番近いとこで火の粉被ってるんじゃないですか」
「ああ、そうかな……でも、最近ちょっと手懐けるコツがわかってきたとこなんだ」
それがわかれば小さな火傷を負うくらい大したことないさと、留三郎は朗らかに言った。
そりゃあマゾってやつなんじゃあ、と作兵衛はよっぽど聞こうかと思ったが、辛うじて自粛した。
は一年生二人を伴って、しゃなりしゃなりと留三郎のほうへ歩み寄ってきた。
作兵衛が緊張して身を固くしたのがわかったが、気付かなかった振りをしてやる。
「無事みたいだな」
「ええ、お陰様で。確かに平和な仕事だったわ」
あひるさんボートのかげにいる作兵衛には気づき、首を傾げて見せながら、富松くん、こんにちはと囁いた。
きっとこいつには拷問に近いだろうと思いながら、留三郎はでも口を出さずにただ苦笑する。
先輩に声をかけられて無視を決め込むわけにもいかなかったのだろう、
作兵衛は彼なりの精一杯でこんにちは先輩、御無事でなによりでした、と答えた。
はいつもの妖艶な笑みではなく、素直にその顔の印象のまま小さく微笑むと、ありがとうと返す。
予想外の反応だったらしく、作兵衛は一瞬ぽかんと口を開けたままでを見上げていた。
留三郎はまたも笑い出しそうになったが、可愛い後輩のために、男らしく耐えた。
一年生達は遠慮なくに甘えている。
手を繋ぎたがり、任務の内容を臆面なく聞き出そうとする。
学園を通して実習として手がけた任務であったからか、もその内容を掻い摘んで話してやることには躊躇をしない。
学年の特有の反応だろうなと留三郎は彼らを見て冷静に考えた。
一年生くらいでは、の内側にひそむ妖しげな気配や毒々しいくらいの色香には気づけないのだ。
だから、それらが男としての自分たちにどう働きかけてくるのかがわからない。
いずれ破滅に繋がりかねないという危機感がないのである。
だからこうまでもに対して無遠慮で、無邪気で、屈託がない。
これが三年生になると少し違う──留三郎はちらと、居心地悪そうにしている作兵衛を見やった。
これくらいの学年になると、今度は自分が男という性であることを意識するようになってくる。
ただ単に身体の発育とそれに伴う意識の成長というだけで済まないのは、ここが忍者を育てる学校であるがゆえだ。
“そういう”授業が組み込まれるのがちょうど三年生頃なのである。
内からも外からも、自分を含めた男という生き物がどういった性質であるのかを知らしめられ、
それと違う女という生き物に、ときどき後ろめたくなってしまうほどの興味を覚える。
ときどきどころか常にというほど後ろめたいからこそ、意中の相手でもできれば必死でその興味を隠そうとしたりもする。
性別というものを自分と相手とをはかる基準に用い始めるようになると、のような女を相手にしたとき、
まだその意識の芽生え程度のラインに立っている三年忍たまなら簡単に気圧されて負けるだろうし、
その反面・の内側に隠れている刃の切っ先の存在にくらいは気付くのだろう。
だから、三年や四年の忍たまの中には、というくの一をわけもわからず恐がっている者も多いと聞く。
四年くらいになると意外と度胸のついてきた者もいて、
口説き落とす標的にを据えてみるなどという大胆な行動に出たりもするが、
大体は虚勢を張っているのだと留三郎は思っており、が標的になったなどと知らされても特に焦りを覚えることはない。
第一、の負けが想像できない。
(ともあれ)
作兵衛に関して言えば、に少しばかり恐れの感情を抱いているタイプだろうと留三郎は思った。
常に気を張っていないと食われる、というような恐れ。
嫌っているわけではないのだ。
本能が回避せよと命じるから、関わらざるを得ない状況に陥ったときにどう付き合っていいかがわからない。
火傷をせずにすむ距離感を掴みきれないということである。
それが六年ともなれば、が内側に持っているものの輪郭くらいはつかめているし、
正体のあやふやなものを相手にしようと自分が勝つすべもあるのだということがわかり始める。
きれいな花には棘があるなんて気障な言い回しをしたいわけではなかったが、まさにその通りと彼は思ったことがある。
女は力では男に勝つことができないから、男の目を引く裏に刃を隠し持つという手段をとっているのだ。
そこにわざわざ引っかかってみてもいい、
切り傷ひとつくらいで済むなら安いものだと思うようなら相当な酔狂が身に付いた証と言えよう。
よくあんな恐い人を相手にできるものだと、かげで言われていることを留三郎は知っている。
けれどなんのことはないのだ。
も頭のどこかではちゃんと自分が留三郎に敵わないところがあるのだということを知っているし、
留三郎もそれをわかった上で日々わざわざを勝たせてやっているのである。
お互いの力関係をきちんと消化したうえで、お互い居心地のいい距離をとることができる、
それがさすがは六年生といったところか。
六年生に他に恋人のいる忍たまはそうそういなかったが(六年のくの一がしかいないこともあり)、
どいつもこいつも恋人に対しては似たり寄ったりだろうと留三郎は考えていた。
要は、なんだかんだと言いつつ、仲間の女達に対して男どもは優しいのである。
一年生達とがじゃれ合っている間、留三郎はただ黙ってこれだけの分析を頭の中にはじき出していた。
ふと、指の先で子どもたちを遊ばせながら、が留三郎のほうへ視線を投げて寄越したので、
彼も目線で応じた。
はなにか──どうたとえてよいか留三郎にはよくわからなかった──不思議な顔をしている。
なにかを言いたそうにしているのだが、どうも自身がなにを言いたいのかがわからない、というような。
むず痒さを我慢しているような表情に留三郎は怪訝そうな目を向けた。
「どうした?」
「ええ……」
は答えながら、少し言い淀んだ。
ちょうどよく当てはまる言葉が恐らく見つからないのだろう。
しばらく逡巡してから、はおずおずといったように口を開いた。
「……とても、平和なお仕事だったのよ。なんていうか、……こういうこと言ってはなんだけど、とっても暇で」
「ほぉー」
「お給金いただくのが申し訳なくなるような仕事だったのよ」
「図書委員の一年生が飛びつきそうな話だな」
留三郎が言ったのを聞いてしんべヱと喜三太は目を見合わせ、声には出さなかったがそれぞれ同じ友人を思い浮かべた。
仕事の内容を聞くのは忍としては常識外れである。
その基本ルールも踏まえた上、また聞けば聞くほど嫉妬が深まるのも己が滑稽で哀れだったので、
留三郎はなるべくに問わないようにしていた。
ところが今は、が突っ込んで聞いて欲しいというような顔をしているのである。
彼は素直にそれに従った。
「いったいなにをやらされたんだ」
「ええ……それが……まぁ、護衛といったら、一番近いのかしら……」
「ああ、なんか……そんな感じのこと言ってたな」
身分ある女性に付き従うと言われれば、大体はそんなところである。
「けれど、別に敵に心当たりのあるような人じゃなかったの。護衛の必要なんかまったくなくって」
「変わった雇い主だな、金払ってなにしてんだか」
「ええ、まぁ……だから、話し相手をして頂戴なんて、言われて……」
忍たま一同はきょとんと目を丸くした。
は言い訳をするように少し早口になってまくし立てる。
「くの一だって場合によっては忍んでこそだと思うのだけど、構わないからなんて言うのよ。
だから、二週間ものあいだ、私、ただその人の話し相手をして、必要なお世話を焼いて、
食事もお風呂も一緒で、最後の二日間なんて、別れるのがつらいからと同じ寝間に布団をのべられて」
誰も一言も口を挟むことができなかった。
も話しながら困惑気味である。
「……驚いてしまったわ。主人が使用人に対する態度なんかじゃなかったのよ。
まるで……親しい友人にするような、姉妹のような、そんな……」
口ごもったを見て、留三郎はああ、なるほどとぼんやりと思った。
自身は気がついていないのかもしれないが、客観的に見て思い当たるものが彼にはあった。
「同い年の若い娘だったんだろ、その雇い主ってのは」
は合点がいかないと言いたげに、しかし頷いた。
留三郎に雇い主の年齢の話はしていないはずなのである。
「……良かったじゃないか。お前、学園には同年の友人、いないだろ」
くの一教室の現六年生はひとりである。
入学時には何人もいたくのたまたちは、途中で挫折して退学したり、どこかへ嫁いでいったり……
また、厳しい実習で命を落としたりなどして、ひとりふたりと学園を去っていた。
友人達の背を見送って、はたったひとりで学園に残り、卒業試験を控える身となったのである。
留三郎にそう言われて、は初めてそれに気がついたようだった。
わずかに目を見開いて、意外そうに眉根を寄せた。
唇を噛みしめて、なにも言えずに少し俯く。
隣にただ突っ立っていた作兵衛の気配から刺々しい感じが薄れたのを留三郎は感じた。
のこんな姿など見たことがなかったからだろう。
ほら、きれいな花にはなんとやら、こういうことなんだ、サク。
親しい友人がいない、失ってしまった……本当は心許せる同性の友人を欲する気持ちがある、
それはが内心に抱く弱くやわらかい部分のひとつだ。
どんな小さな弱みでも、他人に見せることをはとても嫌がる。
このところその傾向も少し薄れてきてはいるが、まだまだには頑ななところが多い。
だから平気なふりをする──六年生には私しか残っていないけど、女の子の友達なんていないけど、
でもそれがなんだというの、平気よ──そんなふうに。
けれど思わぬところで、のその欲求がわずかばかり、満たされたのである。
「楽しかったんだろ? いい仕事だったじゃないか」
そう言ってやると、はそれでもまだ納得いかなさそうな顔で、いかにも渋々、頷いた。
「ええ……そうなのかしら……そうね……」
「なんだ、はっきりしないな」
煮え切らないの物言いに苦笑いをする。
あひるさんの頭を抱え直し、留三郎は手を伸ばすとぽんぽんとの頭を撫でてやった。
「とりあえず、一段落、お疲れさん」
ゆっくり休めよと続け、留三郎はボートの船首にあひるさんの頭を据え付ける作業に戻った。
それに倣い作兵衛もあたふたと再び修理に取りかかろうとする。
取り残されたはそばに立ちつくしたまましばらく恋人の委員長ぶりをぼぉっと眺めていたが、
留三郎に撫でられたあたりに手を触れて、気まずそうに少し目をそらした。
何気ないやりとりにが照れを覚えるらしいことを留三郎はそろそろ承知している。
照れて赤くなった顔が見てみたくて、
少々意地は悪いかもしれないが人の見ている前でもちょっかいを出してみることがある。
ほんの少しの触れ合いに過ぎない。
髪を撫でるとか、肩を叩くとか、その程度のことだ。
だから今がまたほんのりと頬を赤く染めていることに彼は満足していたが、
思わぬ方向にそれが波及したことにも少し嬉しい気持ちを覚えていた。
自分とのやりとりをそばで見て、作兵衛が少し困ったような目でをちらちらと気にしているのである。
じゃあね、部屋に戻るわと言い残してがくの一の敷地のほうへ去ったあと、
ボートの修理を黙々続けていた作兵衛がぼそりと呟いた。
先輩って、意外と、可愛いとこ、あるんですね。
年下の自分が先輩に対して可愛いなどと口走ることを生意気だったと思ったのか、
作兵衛は少しまずいことを言ったかな、というような顔をしてすぐ口を噤んでしまった。
留三郎はそんな彼の様子を見て、微笑ましくふっと笑った。
「そうだろ? 意外とな」
なんでもないことのように言うと、作兵衛はしばらくぼんやり困った様子を見せたが、
やがて修理をする手元に集中する素振りをしつつ、ですね、と頷いた。
後輩のひたむきそうな様子に留三郎は満足そうにちいさく笑い、ボートの修理に自分も意識を戻していった。
自分にとってはなにひとつも変化のない、平凡な一日だった。
しかし自分の周りに起きたちいさな波紋のひとつひとつが留三郎にはとても愛おしいものに思えた。
委員会が終わったら、また食堂ででもと会って話を聞いてみようと思った。
たった二週間、任務でのことではあるが、から友人の話を聞けるなんてことは滅多にないから。
が照れて気まずそうに、けれどぼそぼそと話をする様子が目に浮かぶ。
平凡な一日だったがしかし、今日はいい日だった、そう思った。
宵のみぞ知る 意外
閉