自然


「そ、それでさぁ〜、……」

医務室でのことだ。

保健委員長である伊作が医務室に詰めているのは不自然な話ではないが、

その語りかけた相手はほとんど医務室と縁のなかった人である。

少々以前のことではあるが、実習任務で怪我を負って学園の門あたりで倒れ運ばれた、それが貴重な例外だ。

いまは、怪我もないのにずずいと医務室に上がり込み、出された茶の馥郁たる香にうっとりとしていた。

この二人の関係を強いて名付けるとするなら、今の時点では茶飲み友達、である。

普段ならば忍たまとくのたま、友人同士、友人の恋人(恋人の友人)といった幾通りかの呼び名もあるが、

このところははよく医務室に入り浸り、伊作とぽつりぽつり話をしながら茶を飲み交わすことが増えていた。

そのことを留三郎は知らない。

伊作とのあいだには人に言えないような後ろめたい事情などみじんこほどもありはしないが、

この茶飲み友達の間柄にはお互いの暗黙の了解により箝口令がしかれた状態となっている。

それまでの話題がふつりと途切れ、やや居心地の悪い間をおいて、

伊作がわざとらしくに問いかけると、やっと本題が始まるのである。

は湯呑みを持つ手をおろし、背にしている廊下側の障子をチラと振り返った。

「大丈夫よ、人の気配はないもの。誰も来ないわ」

「そ、そう……? じゃあ……それでさ……」

声をひそめて伊作が切り出すのは、彼が密かに心ときめかせている相手についての話題である。

学園内の人ではないという。

心根から開き直ることができない伊作は、

忍の世界に関わりのないひとが相手と思って今の今までも一度も声をかけることもできていない。

卒業後の身の振り方を考えるべき頃合い、ただの一度くらい、

互いのあいだを行き交うなにかがあればと、伊作は思い始めたらしい。

視線でも言葉でもいいから、わずかな関わりでもいいからと。

そうして伊作が相談相手に選んだのが、親しい友人達の誰でもなく、というひとりの女子生徒だったのである。

ほんのわずか前までは伊作にとり苦手な人物以外の何ものでもなかっただが、

ここ最近で同じは組の留三郎ととがめでたくやっと恋仲となり、そこから縁は派生した。

自身の性格も少々まるくなり、取っつきにくいと思っていたのが意外に話せる相手と知るや、

伊作以外の誰それもかなり意味深な話をに持ちかけるようになっていた。

留三郎は、自分が親しくしている友人とという取り合わせであるなら、妬くより先に安堵を覚えるそうである。

にはあまり親しい人がいないということを、留三郎は心配していた。

人と関わることがには必要という、大人びた認識でもって彼は恋人を野放しにすることを好んでいる。

留三郎のに対するそういった思いを、同じクラスで学ぶ仲である伊作はとりわけよく知っていたが、

その結果こうしてに留三郎に対する秘密を抱えさせてしまったことは申し訳ないと思う。

けれど、友人達の顔と性格をひととおり想像してみたあとでの存在に思い当たると、

これ以上この話題の聞き役として適任者はないだろうと、そんな結論に至ってしまうのである。

なんだか悪いなぁと思いながら、だから伊作はこの秘密の対話の機会を待ちわびていた。

もそれを承知しているのか、伊作がひとりで医務室にいる時間によく茶を飲みに現れるようになった。

今日もその数度目の機会である。

「……でさぁ。僕なんかそうなったら考え方が下向いて行っちゃうというか……」

「考え過ぎよ」

「そうかなぁ? でも……だってさ、留のことそう考えたりしない?」

「私が? そうね……」

ずっと伊作の話すのを聞くに徹し、必要なところで必要な相槌を打っていただが、

話題が自分のことに向くと少し考え込む素振りを見せる。

「留のどこが好きなのさ? そりゃあ、友人としていいところも悪いところもいろいろ思い当たるけど。

 君の目から見たら、留ってどうなの?」

「どうなの、と言われても」

はわずかに眉根を寄せた。

そこに畳みかけるように伊作が続ける。

「今だから言うけど、留はこのあいだまで絶対とは恋人同士にはなれないつもりでいたんだから。

 それくらい君の態度は男にしてみたらキツかったよ。

 でも、今は君もそれなりに好きでしょ、留のことは?」

「……そうねぇ……」

唸って俯き、はしばらく黙ったままそうして固まっていたが、やがて“答えづらい話になってきたわ”と呟いた。

伊作は聞いて苦笑した。

最近のらしい返答であった。

「……善法寺くん。少し出ましょうか」

「え、でも」

「廊下に人の気配。一年生の子と二年生の子ね、たぶん。お留守を少し、任せましょう」

が言い終わったかどうかというあたりで確かに廊下に人の気配がした。

現れたのは、保健委員のメンバーで二年生の川西左近と、一年生の猪名寺乱太郎のふたりであった。

「あ、あ……先輩。いらしていたんですか」

を見るなり、左近がわかりやすく驚き、一歩後ろへひいた。

「お怪我じゃないですよね?」

乱太郎に問われ、は微笑むと ええ、お茶をいただきに来ていたの、と素直に言った。

「ちょっと外に用事があるの、委員長をお借りするわね」

言うとは立ち上がり、視線で伊作を促した。

なすがままといったふうに伊作も続いて立ち上がると、二人は連れだって医務室をあとにした。

見送りの一年生と二年生ふたりは、六年生二人のうしろで不可解そうに目を見合わせた。



早足で歩くの後ろに、伊作はしばらく困惑した顔で付き従っていた。

「ね、ねぇ、、どこ行くのさ」

「口で説明するのが難しいの。このほうが手っ取り早いのじゃないかしら」

「だから、なにがさ」

「質問の答えよ」

はそれ以上言おうとしなかった。

それで説明をし終えたつもりのようであるが、伊作にはちんぷんかんぷんである。

言葉の少ないこの友人を、しかし伊作は最近可愛いかもしれないと思い始めていた。

さて、辿り着いたのは用具委員会が管理する用具倉庫の並ぶあたりである。

先程の保健委員達がそうであったように、用具委員達も活動を始めてまもなくといったところだろう。

ひとつの倉庫の扉が広く開かれていた。

はそこへは近づかず、そろりと様子を伺うように木陰に隠れ、

伊作を手招くと、ほら、と言って倉庫のほうを指さした。

示された先へ視線をやると、この場が倉庫の中がちょうど見える位置であることが知れた。

時折、開かれた扉の奥を委員達が行ったり来たりする。

後輩達に呼ばれ、留三郎もたまにその区切られた視界の中に登場しては歩き去る。

そうしてしばらくその光景を眺めてしまったあとでやっと、伊作は

はなにを言いたいんだろう)

という疑問に思い当たった。

口に出してそれを問おうとしたとき、が何かに気がついたように一瞬目を見開き、

ああ、ほら、あれよと囁いた。

「なに?」

「座ったわ」

見れば、留三郎が扉の外へと背を向けて座り込み、なにやら作業を始めたところである。

後輩達は指示を仰ぎにときどきやはり彼のそばへ寄ってきては何事かを問うたりもする。

留三郎の手元は彼自身の背に隠れる位置で、いったい何の作業中であるのかはわからない。

ときどき作業の手を休め、肩をほぐしたり伸びをしたりする。

修理中なのか製作中なのか、手の中のなにかを角度を変えながらためつすがめつ眺めてはまた作業へと没頭していく。

留三郎が一度その集中力を発揮すると、それはなかなか乱れることがない。

は退屈する様子も見せず、ただその様子を後ろからじっと眺めているばかりなのであった。

「……?」

「なぁに?」

「どういう意味?」

「……あの感じが」

は留三郎の背を指さした。

「気に入りなの。これが好きということかしらと思ったのよ」

さらりとそう言ったに、伊作は二の句も継げなかった。

視線がぶれることもなく、はひたすら留三郎の背に見入っている。

背を向けて座り込んで作業に没頭し、ときどき後輩の面倒を見る、それを遠くから眺めるというだけのこと。

「なんで?」

「さぁ、でも、こうしているとなんだか退屈もしないのだもの」

自分でもこれに気がついたときはちょっと不思議だったのよと、は伊作を見もしないで言った。

伊作は言いづらそうに続ける。

「でも、さぁ……あそこには君自身がいないじゃないか」

「そうね、蚊帳の外ね」

それは確かにと呟き、はしばし考えるような間をおいて、口を開く。

「でも、あの人、きっと私といるときもああなのよ、ね?」

真摯でいいわ、そういうのは好きよ。

言葉を選びながらそう言うと、はやっと伊作に視線を返した。

悪戯っぽく笑みを向けられ、不覚にも、伊作は少々動揺した。

ああ、なんてこと、僕ってこういう役回りなのか。

伊作は思って項垂れたが、口に出すことはしなかった。

しかし、あのが惚気話を披露したのを聞いたとあれば、稀少価値は高そうである。

話題になるという点しか利はないが。

確かにの言うとおり、留三郎はに対しては実に真摯で誠実であろうとする。

それは彼がそうあろうと努力している結果ではなく、彼自身の自然体なのだ。

愛おしいものを大切にすることについて、留三郎は惜しむということをしない。

実はやさしい奴だなぁと、伊作はこれまでの長い付き合いでも何度となく思わされてきたのだ。

「なんだか、あの背中が、やさしい感じが、しない?」

思ったことを見透かしたかのようにがそう言ったので、伊作は思いきりぎくりとしてしまった。

いけないと思ったときには、留三郎が気配に気付いて振り返っていた。

木陰からこっそりと覗き見ると伊作という組み合わせに、留三郎はしばらく訝しげに目を細めていたが、

なにやってるんだ、お前ら、と言うだけでそれ以上怪しむ様子は見せなかった。

見つかった二人はチラと視線を交わし、仕方ないかというように、

倉庫から出てきた留三郎のほうへと歩みよっていった。

が一年生の用具委員達とじゃれているあいだに、留三郎が小声で、なにしてたんだ、あんなところでと問うてきた。

伊作は少し困って、背の高い友人を見上げていたが、やがて困り顔のまま、いいや、なんでもないよと答える。

「なんだよ、気になるだろ」

「強いて言うなら、留、君、結構愛されてるね」

「は?」

「見てるだけで幸せだって」

意味ありげに薄く笑う伊作に、留三郎はわかったような、わからんような、と不思議そうな顔である。

友人の不可解そうな様子に伊作は満足そうに笑った。

「幸せの渦中にいる人には、その幸せがわからない、ってね」

贅沢な奴。

言い置いて医務室へ戻っていく伊作を見送りながら、留三郎はひとり、抱えた謎に頭を悩ませるのであった。





宵のみぞ知る  自然





後日