後日


からりと晴れた休校日、伊作は保健委員の業務でひとりで町へ出てきていた。

本心のところは逆であり、意中の人の姿を一目見たくて学園を飛び出すため、口実に仕事を見繕っておいたに過ぎない。

こんなところでばかり僕って計画的なんだからと、少しばかり萎れ気味ではある。

しかしこの晴天、この日和、気にかかる少女の笑顔は眩しいだろう。

伊作の歩調はこのうえなくうきうきしていた。

真面目な目的は薬品や薬草の補充である。

ややよこしまな目的は、行き先の医師宅や本屋のある界隈の茶屋に勤める少女だ。

名前も知らないが、目を細めて微笑む顔が実に柔和で愛らしい。

恋するゆえか、その笑顔はいつも伊作の目には輝いて見えて、霞がかって思えるほどだ。

笑うときにそのふっくらした唇に指を当てる仕草も、なんと言おうか、よく似合う。

長い髪をいつも裾まで編んでいて、それがくるくるとよく立ち働くあいだに生き物のように揺れるのは、

なんだか見ていて飽きることがない。

(あ……そういうことなのか)

が留三郎の背を見ているだけでも退屈しないのだと言っていたその意味を、伊作は今まさに実感した。

なるほどなるほど、そういうことか。

それはまさに、“好き”だよなぁ、

用事を済ませるあいだも内心はそわそわとし続けながら、

伊作は帰りに彼女の勤めている茶屋へ寄ろうとずっと念じ続けていた。

用事がすべて済んだ頃には両の手に抱えて余りそうになるほど荷が増えるであろうし、

結局どこかで足を休めたくなるのは目に見えているのだ。

それだったら、より好ましい場を選びたい。

伊作は想像通りの大荷物を抱えて、茶屋へと向かった。

どうか今日くらいは、運に見離されずにいたいものだ。

伊作には決心があった。

せめて一言なりと、話をするきっかけを求めようと。

名前が知れたらもっといい。

通りに出されている茶屋の長椅子が見えたとき、同時にあの少女のお下げ髪が見えた。

あ、と思った瞬間、男に迫られ困り顔で立ちつくしている現状を飲み込む。

念が通じたのか、ベッタベタではあるがヒーローになれるチャンスである。

けれど伊作はそのような打算などいっさい持たず、いけない、と思って早足になる。

大荷物のため視界のきかない足元、出した右足が、転げていた小石を思いきり踏んだ。

足首がぐきりと嫌な音を立てたのが聞こえた気がした。

「うっ わ ああああ!」

盛大な叫び声とともに伊作は前のめりに転倒しかけ、手を離れ宙に浮いた荷物達がことごとく、

少女に迫っていた男の頭を直撃した。

普段なら不運の一言で自他共に済ませてしまう事態、しかし。

「あ、ありがとうございます……!」

伸びてしまった男を後目に、少女は感謝と熱のこもった目で、伊作を見上げたのだった。

……君は幸運の女神様だ!)

いつか仙蔵が“返り血の女神”などと物騒なたとえをしたものだったが、とんでもないことだと伊作は思った。

茶屋での休息のあいだじゅう、彼女は甲斐甲斐しく伊作に給仕をしてくれた。

話の合間に名乗り合うこともでき、伊作はすでに充分満足していたが、帰り際に彼女が頬を淡く染め、

いつもこのあたりを通られますね、またいらっしゃることがあれば、ぜひ寄ってお顔を見せてくださいねと

付け加えてくれたことで、天にも舞い上がる心地になった。

帰ったらすぐ、にお礼を言わなくちゃ。

大荷物もなんのそのこれしきと、伊作は興奮まかせに学園までの道を全力疾走したのであった。



「好き……嫌い……好き……嫌い……好き……嫌い……あ」

「ん?」

「見て」

「花占いか? お前もそういうの、好きなのか」

「私じゃないわ。善法寺くんが、好きだという彼女、彼のことどう思っているかしらって」

「ほー。……つか、それ、俺初耳なんだけどな」

「本当は内緒話だったのだけど、朗報が聞けそうな気がしたものだから……」

が“嫌い”と花弁を引きちぎったところでストップしている占い花は、

あと一枚のささやかな花びらを残した姿であった。

は“好き”とその花びらをつまみ、風に流した。

その行方を目で追いながら、留三郎はぼそりと呟いた。

「休校日に学園の用事で外出とかいったわりには、浮ついていると思った」

「お茶屋さんにご勤務の方ですって」

「……どうかな?」

「さぁ? でも、彼、運が悪いとよく言われるみたいだけれど、

 結果的に美味しいところをさらっていく要領のいいタイプだと思うのよ。

 彼自身が嫌な人じゃないもの、よっぽどのことがない限り、いきなり嫌われたりはしないわよ」

「そうか」

留三郎はふっと笑った。

もなかなか、面倒見のいいところがあるのだ。

話が途切れてややしばらく、留三郎は少しわざとらしく、

「……自分の占いはいいのか?」

問うと、は口元に苦笑を浮かべた。

「占うまでもないのじゃない? 違う?」

占いに頼りたくなるほど不安にさせられたことはないわと、はきっぱり言った。

自惚れではなく、自信なのだ。

ほかでもない留三郎本人が、にその自信を抱かせるほどにベタ惚れな己を自覚している。

「まったくだ」

お前にはお手上げだよと、留三郎は苦笑した。

きれいに微笑んだの横顔を、夕日が赤に染めていく。

以前は近寄りがたい美貌と思っていたが、このところは人間らしい美しさに変化したような気がした。

がなんの警戒もせずに隣に座っているその隙に、留三郎は一瞬、その唇を奪った。

「伊作の報告を待つとするか。食堂行くぞ」

何事もなかったかのように立ち上がる留三郎に、は不機嫌そうな顔を向ける。

怒ってみせるのは照れ隠し。

知れているので、留三郎は臆することなく、招くようにに手を差し出した。

しぶしぶといった様子で手を預けてくるを立ち上がらせ、留三郎はの手をとったまま歩き出した。

「……一緒に町に出たことはないよな」

「そうね」

「それも面白いかもな」

「……そうね」

「じゃ、次の休校日だ」

「ええ」

約束は、あっさり呆気なく結ぶ。

を照れのあまり茹で上がらせるのも意地が悪いし、可哀相だから。

いつの間にか身に付いた独自の気遣いに、留三郎は口元で小さく笑った。

町に出れば、周りの目にはごく普通の恋人同士や、若夫婦に見えたりするのだろうか。

──俺も大概、夢見がちなことだ。

ひとり笑いを噛み殺す留三郎を、手を引かれたままのは一歩うしろから不思議そうに見つめていた。

留三郎の視界に今自分が映っていなくても、それをも幸福と思えることがある──

見つめるばかりの恋を続けてきた伊作にはわかってもらえるのではないかと思っていた。

それが、きっと今日で少し進展するだろう。

彼のみやげ話を楽しみに、はわずかに俯いた。

自分の手を大切そうに握る留三郎の手を見つめ、またひとつ小さな幸せを見つけた気分になった。





宵のみぞ知る  後日





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