最初に気がついた変化は、花だった。

教室の隅っこに、花が飾ってある。

学園中そこかしこに、冬以外はほとんどいつも咲いてる花で、

たまに職員室の誰かの机とか、食堂とか、山田先生と土井先生の使ってる部屋なんかでも見たことがある気がする。

でも教室……それも、六年忍たまの教室だぜ。

誰かが摘んで飾るとしても……うーん、柄じゃねぇよなぁ。

一体誰だ? 先生か?

まさか、んな乙女ちっくな。

土井先生が夢見る独身男を脱せずとうとう三十路に達したけど、そりゃないよな。



教室の隅に真新しい水が汲まれた一輪挿しが置かれ、花がさしてある。

いつも見る風景に起きるにしても大した変化ではない。

そのせいか、誰もその花に目を留めることはなかった。

いつ見ても枯れずしおれず、そんな花があるわけがないのだから、

誰かが水を替えたり新しい花をさしたりしているのには違いないだろう。

けれど、それが誰なのかは皆目見当がつかない。

最初に気がついたのはきり丸だった。

あれ、教室に花なんて飾ってたっけ、そう思った。

その授業を担当してくれていた先生(誰だったかは忘れた)には悪いがきり丸には退屈な授業で、

彼はその小さな花を教科書に隠れるようにぼんやりと眺めながらヘムヘムの鳴らす鐘の音を待っていた。

級友の一人ひとりが花を摘んで教室に飾る図を想像してみたが、どうもしっくりこない。

そしてきり丸自身にも覚えがないとすれば、一体誰のしたことであろう。

担任の先生方にそんな趣味や暇があるようには思えず。

だとしたら、よそのクラスの教室にそういう世話を焼いている生徒がいるということだ。

しつこいようだが六年忍たまの教室だぞ、ときり丸はまた思う。

プロの任務ばりの実習、厳しさを増す実技、難解な教科、自主鍛錬の日々の中で

そんなところに気を回す奴が六年の教室のどこを探したら見つかるのか。

頭の中できり丸は、実際に六年の教室を探し回り、思い当たった人物が花を飾る図を想像したが、納得できなかった。

まさか後輩じゃあるまい。

日常のちょっとした謎だ。

気になり始めると解決するまで頭から離れない。

よし、今日は図書委員の当番も外れてるし、ときり丸は放課後の予定をさっと思い返す。

日常的に教室に出入りする自分たちが、誰かが花を飾るのを見かけていないのだから、

時間帯は放課後から夜、日を跨ぎ朝までのいつかということになるだろう。

花一輪とは麗しい犯行声明ではないか。

よっしゃ、現場をつかんでやる、ときり丸はひとり捜査計画を立ち上げた。

金にもならないし、タネを知ったところで何の特もない。

そんな小さな謎解きにそれほど気をとられた理由を、

きり丸は後々になってもよくわからない勢いだったとしか言うことができなかった。



放課後、乱太郎達やしんべヱ、委員会の後輩を誤魔化して振り切り、きり丸は無人になった頃合いを見て教室へ戻った。

なんとなく、深い理由はないが、姿は隠しておいたほうがいいかなと思い当たり、天井裏に身を潜める。

落ちこぼれ一年は成長して落ちこぼれ六年になったわけではない。

本能のままの獣よろしくきり丸はその気配をできうる限り絶った。

先程それとなく他の教室も覗いてきたが、どの教室にも花は飾っていなかった。

六年は組の教室にだけひっそりと飾られているらしい。

毎日起こっている変化ではないかもしれない。

今日は期待はずれかもしれないが、数日張っていれば犯人が誰かくらいは分かるだろう。

それを突き止めたところで何もないが、

誰もが知らないうちにそっと日常の風景へ入り込んで色を付けた誰かに思い馳せ、

わくわくとしながらその訪れを待つことにした。

六年は組の図書委員をつとめながら図書室に詰めることも多いきり丸だが、

天井裏の閉鎖的な暗い空間と図書室の区切りの多い空間はなんとなく似ているような気がした。

視界が狭められやすく窮屈だが、物言わぬものたちが押し迫ってくるような圧倒的な静寂の存在感、

空気がぴたりと肌に貼り付いてくるような感覚は彼は嫌いじゃなかった。

きり丸の一年生時代に図書委員長をつとめていた先輩を思い出す──彼の気持ちもこんなんだったんじゃないだろうかと、

きり丸は懐かしく思い出してふっと笑った。

タイプの違う先輩と自分ではあるが、好むところには類似があるのかもしれない。

顔に似合わずと言えば失礼も甚だしいだろうが、彼は動物や植物を愛でる優しいところのある先輩だったのだ。

対して自分は好きこのんで自然に目を向ける人間ではないが、教室の隅に誰にも知られず精一杯咲いている花に

いっときの心安らかさを見出しているあたり、人のことは言えない。

今日は不発かなと思いながらまた覗き穴に視線を落としたとき、廊下の床板がきしむ音が聞こえた。

きり丸は思わず身構える。

教室に戻ってくるクラスメイトがいてもおかしくはないし、先生かもしれないし、

もしかしたらきり丸自身を探しに来た図書委員の後輩かもしれない、

可能性はいくつもあるぞときり丸は浮き立つ心を落ち着かせようとする。

こんなに小さな謎にこれだけ期待をかけてしまったら、

その正体が思いも寄らない相手だったときに反動で起きる失望も相当深いよなと、少々のマイナス思考も混じりつつ。

廊下をやって来た足音から察するに、あまり大柄でない……むしろ小柄で、身軽な人物。

忍び足ではないものの、ねこのような慎重な足取りだ。

しかしその歩調は軽快。

楽しいことでもあるんだろうか、と思わず勘ぐりたくなる。

その足音は、六年は組の教室の前へやって来た。

一瞬どきんと心拍数が上がり、きり丸はいけねぇこれじゃ、と気を引き締めた。

最上級生ともあろう俺が、気配を悟られるようじゃやってらんねぇぜ。

息を潜めて様子を伺う。

足音のあるじは何の疑いもなくスッと戸を開けは組の教室へ入ってきた。

その相手は彼の予想に反していた──しかしきり丸は失望はしなかった。

なんとやって来たのは、もも色の忍装束を身につけた少女であった。

小さな手桶に水を張り、そこに教室に飾られているのと同じ花を一輪浮かべている。

(く……くの一かよ! うわ 予想だにしなかった! しかも……)

しかも。

きり丸は参ったと言わんばかりに額を抑える。

知った顔だった。

(あいつ……か……)

飾られている一輪挿しを引き寄せて、窓の外に誰もいないのを確認してから水を捨て、新しい水を手桶から汲む。

花をさし替え、彼女は満足そうに立ち上がった。

口元に笑みを描いて、ひとり嬉しそうに花を見つめるのは、くの一教室の六年生、

忍たまがくの一教室を訪れると手ひどくいたぶるというあの伝統に、このもしっかり従ったひとりだ。

五年前の春、きり丸たちがこの忍術学園へ入学してからまもなくの頃。

たちも新入生のひとりであるはずなのに、くの一教室への溶け込み具合、

悪巧みでの先輩との結託具合は忍たまたちの比ではまるでなかった。

に引っかけられた級友達は決まって、顔は可愛いのに性格は最悪だ、小悪魔だと口を揃えて訴えた。

そう、顔は可愛いのだ、しかし。

最初の印象とはやたらと強く残るものらしく、えげつないくの一教室の訓練で六年間を生き残った彼女らは、

のことも含めて今現在も六年は組の面々からすればじゅうぶんな畏怖の対象なのである。

力業で負けるはずなどもうなかろうが、

くの一と聞くだけで顔をしかめて遠慮したいと申し出るような六年生に彼らは育ってしまった。

しかしそれは弱さの象徴というより不要な紳士的性格であるのが実状で、教員方も苦笑いというのが本当のところである。

「……誰?」

がはっと顔を上げた。

「そこにいる?」

視線の先が明らかにきり丸が覗いている覗き穴に向いている。

あちゃ、ばれた、ときり丸はばつの悪い思いで教室へ降り立った。

「きり丸。潔いのね」

「なにがだよ?」

「ほんとに降りてくるとは思わなかったの」

は肩をすくめた。

会うたびに色艶を増す同学年くの一たちの中でも、の麗しさはずば抜けている。

一挙一動のすべてが計算され尽くしたかのように美しい。

に誘惑の意図があってかどうかはわからないが、今きり丸の目の前で少し首を傾げてみせるその仕草も艶めかしく、

直視するのは女性に対して失礼なのではと古風な遠慮をしたくなる有様だった。

「何をしていたの? 天井裏で?」

「……や、……花、誰が飾ってんのかなって」

「……これ? それだけ?」

は花を示して、他に目的はないのかと問うた。

ない、ときり丸はきっぱり頷いた。

「なんでお前、わざわざこっちに来てまで花なんか」

きり丸はもっともな疑問を口にした。

誰も気付いてねぇのによ、と、言いかけて彼は口をつぐんだ。

お前のやってることは無駄だぞと、そういう意味に聞こえる気がした。

「ふふ。秘密」

は色っぽく唇を笑みのかたちにゆがめ、上目遣いにきり丸をひたと見つめた。

秘密、ときたもんだ。

は女がある種の言葉を口にするときに自然と生まれる色気をちゃんと心得て試しているに違いない。

きり丸はしてやられまいとわざとらしく嫌そうな顔をして、ため息をついて感情を一緒に外へ逃がした。

「きり丸、気がついていたのね」

「なにが」

「お花。誰も気付かないと思って、やってたことだったのに」

あんたが気付くようじゃ、バレバレかしらねとは窓の外へ視線を泳がせた。

何だその言い方、と反論してやろうと思ったきり丸の勢いは、のその表情のせいで削がれてしまった。

ここまでの話の流れで生まれるとは思えない、寂しそうな目をしていた。

「……気付かれないで、私だけひとりで勝手に……それでよかったのに」

「んだよ、見てる奴がいるほうが花だって嬉しいだろ」

言ったあとで自分らしくない物言いだときり丸はひとり苦虫を噛んだような顔で黙り込んだが、

は彼を気にかけずに自分の思考の世界にばかり飛んでしまっているようだった。

の意識を取り戻せるような言葉など吐けそうもなく、きり丸は仕方なく大声で気を引く単純戦法に出る。

「だから、なぁ! お前だってもうちょっと、そんな地味に隅っこででなくてさ!

 もちょっと目立つようにやりゃあいいのによ」

「……目立っちゃだめよ。これくらいがちょうどいいわ」

往生際が悪いわよねとは少し俯き加減に静かに笑った。

「本当は、何もしないで済むならいちばんいいわ」

「はー? 言ってる意味、わかんねぇ」

「わかんなくていいわよ。……花だって気付いてくれなくてもよかったのよ」

「気付いたのが悪いみてぇな言い方」

「そういうわけじゃないけど……」

はまたあの寂しそうな目で、下を向いてしまった。

なんだか様子がおかしいじゃないか、ときり丸は少し心配になるが、そこは過去の因縁が邪魔をする。

目の前でしょげ返って見えるのは、くの一だ。

今となっては最上級生、くの一戦法を隅から隅まで拾得している六年生。

侮ってかかるわけにはいかない。

落ち込んでいるところに同情しようものなら、そこに付け入られてどんな目に遭わされるかわからない。

きり丸は慎重に対応を考えた挙げ句、話を逸らすという結論を出した。

「あー、しかしこれで謎が解けたな! 気になってたんだよな」

は答えなかった。

間の悪い静寂があたりを取り囲むのに、空気を作りだした自分自身が居たたまれなく、

きり丸はひとりでまくし立てるように必死で喋った。

「は組の奴らなんてそんな柄じゃないし、先生でもなさそうだしさ」

は静かにきり丸へ視線を寄越す。

何か言いたそうにその目が一瞬不思議にきらめいたが、きり丸にはその真意は読めなかった。

女ほど表も裏も予想のつかないものはない。

そこに演技まで混じるから紛らわしい。

その点、銭は表裏も何もわかりやすいところが愛おしい。

はまだ何も言わない。

オイ、何か言いたいなら口で言えよ、きり丸はほんのわずか、遠回しなに苛ついた。

仕返しに、視線にはそのまま無視を決め込むことにする。

「よそのクラスの奴がやるわけもねぇし、後輩ってセンもなさそうだし。

 でも、くの一の誰かとは考えもしなかったな」

「柄じゃないものね」

揚げ足を取るようには言い、涼しい顔で手桶を抱えてきり丸に背を向けた。

「ばっ……お前、ひねくれ者! そういう言い方しかできねーのかよッ」

「あんた達がそういう目で私たちを見るからよ」

廊下に一歩出てから、はまたくるりときり丸へ向き直った。

「私たちを女だと思っていないのはあんた達くらいよ」

奇妙な笑みを浮かべてそう言い捨て、さっさと立ち去ったを呆然と見送り、

数瞬遅れてきり丸はの残した言葉の意味を考えた。

そりゃ、そうだ、とてもじゃないけど女じゃねぇよ。

可愛い顔して毒は盛るわ寝首も掻くわ。

それがくの一の強みだとは知ってるが、性別を盾に取るのは男にしてみれば本当は卑怯だ。

そこまで考えてきり丸は気がついた。

自分たちはくの一教室の面々を、女というよりくの一として見ているらしい。

その技能技術のみならず、己の身体も性別も武器にして戦う、いわば特殊な兵士だ。

きり丸は無人の教室をかえりみた。

窓枠の水平上、太陽が顔を隠そうとしている。

その日臨終の光を浴びて、飾られたちいさな花は凛と上を向いて咲いている。

そうか。

あいつも、こんなとこがあるんだよな、教室に人知れず花なんか飾っちゃうような可愛いとこが。

無骨でどこか汗くさい感の抜けない男子生徒ばかりの教室には、放っておいたら起きなさそうな変化だ。

目を留めるものがひとりいるかどうか。

そして自分も教室を出る前に、きり丸はふとそのことに気がついた。

はどうしてわざわざ、学舎の違う忍たまの教室、それも六年は組にだけ花を飾りに来ているんだろう。

バレバレかしらねという言葉の真意は何だろう。

ばれている……誰に?

身体の芯を虫が這うような嫌な感覚がきり丸の全身を走った。

秘密。

気付かないほうがよかったかもしれない秘密の一端を、きり丸はつかんでしまったのかもしれなかった。

は誰のために、この教室に花を飾りに来ているのだろう。



片恋の花  一



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