毎日待ち伏せをするようになった。
放課後の教室に、手桶に水、花を浮かべてやってくるくの一。
隠れて気配を絶ってみてもはあれで結構優秀らしいし、気付かれない日はない。
だからそのうち、隠れるのもやめるようになった。
相変わらずは組の他の奴らは花の存在に気付いていないらしい。
気付いていても気にかけないようじゃ、存在しないも同じことだろ?
くの一の連中が花を飾るようなところもある“女”だと知ってても、
根っこのところではそうは思っていないようにさ。
ほんの数分、一緒に話したりしているだけで、俺とはずいぶん親しくなった。
それでも俺は、それは誰のための花なんだとは、まだ聞けずにいる。
は毎日、人がいなくなった頃を見計らって六年は組の教室を訪れた。
は最初の頃はきり丸が教室に潜んでいることにあまりいい顔をしなかったが、
彼がの犯行現場をおさえる気まぐれな遊びをやめようとしないので、そのうち諦めてしまった。
花一輪の犯行声明に、気付いたのはいまだきり丸ひとりのようである。
「退屈しない? ほんの数分、花を替えるのを見ているだけ」
「んー。なんでだろうなー」
きり丸自身、心底わけがわからないのだった。
この捜査には金儲けの色はまったくないし、話し相手ができる以外の特もない。
時間ばかりを食って、きり丸にしてみれば本当は遠慮したいところのはずであろうとには思えた。
「図書委員の当番はないの?」
「……サボってんだよなー。そろそろ行かないとさすがに後輩も怒るだろ」
「連れに来るでしょう」
「ああ」
「他の人には見られたくない」
花を飾るところを。
は時折、花の存在になど気付かれたくはないと言うようなことを口にする。
最初にきり丸がを見つけたときも彼女はそのようなことを言ったし、
それ以降もたびたび似たようなセリフをきり丸は聞いていた。
じゃあなんでやってんだよ、無駄みてーじゃんと彼は一度はっきりと言ってしまったのだが、
はそうよね、無駄なのよねとさらりと答えた。
付け加えてわかっているのよ、と呟いたの顔は、相変わらずの寂しそうな表情を浮かべていた。
その表情の意味は、きり丸にはわからない。
誰か、は組に想い人でもい……るわけがないか、ときり丸はいつも自答を却下する。
くの一の残酷極まる嫌がらせに、忍たまたちも負けじと相当な仕返しをしてきている。
そうして六年、応酬の中身の激しさは度を増すばかりであったが、さすがに頻度は落ちてきた。
誰もがいちばん自分のことを気にかけるべき学年になり、
そして、多少なりと精神的に成長したこともその要因なのだろう。
ともあれ、自分たちがくの一を恐れたり嫌がったりと遠ざけたがるのと同様に、
くの一たちもこちらに曇りなき好意だけを持っているということなどなさそうであった。
通りすがる際のくの一たちの理由のない冷ややかな視線はいつも、
同年代の男の子ってどうしてこうもガキくさいのかしらと見下し気味に言わんばかりである。
例外としておシゲちゃんのしんべヱ様に対する愛ばかりは今でも健在であって、
特に恋人のいるわけでもないその他大勢たる自分たちは見ていられないと目をそらすか、
冷ややかな白い目線を流すかのどちらかだ。
は組最初の彼女持ちはしんべヱだったかと、担任二人は今もときどき他の生徒達をからかう意味で笑いを漏らす。
もっとも、三十路に突入しても教育一筋、いまだ独り者の土井師範はそのあと手痛い反撃を食らう。
忍者を育てる教員ながら、彼らは生徒達の恋愛事情に寛大な様子であった。
が今日は終わりと手桶を持ち上げたのを機に、きり丸も図書委員のつとめをそろそろ果たすかと重い腰を上げる。
なんだかんだで図書委員会とは腐れ縁のようだった。
「雪がなくなって、外もあったかくなってきたしな。
どっこの学年も実習増えるから、図書室閑古鳥なんだけどなー。何しに行くんだか、俺」
これがバイトなら楽でいいんだけど、と呟くのを聞いて、は横でちいさくクスリと笑った。
お、笑ったじゃん、ときり丸は意外そうにを横目で見やった。
嫌味に笑ったり、口元だけで微笑むことはにもあったが、
目元まで楽しそうに笑うところはあまり見なかったときり丸は今更気がついた。
子どもの頃、転じて低学年頃ならば、も他のくの一たちも顔中で感情表現ができたのに。
色気を纏いそれを振るい、誘惑の視線を流すようになる高学年のくの一たちは、
確かに子ども時代から脱皮したように目を瞠る勢いで美しく成長していくのだが、
なんだか人形のような貼り付いたきれいさだなと思わないでもない。
切っても血など出ないのではないかと思わされるような彼女らも、
こうして笑ったりしてみれば当たり前に人間らしくあるのだということに改めて気がつく。
割と近しい位置に暮らしながら、自分たちは彼女たちのことを何も知らないらしい。
と会うようになって数日、きり丸は彼女の一挙一動から気付かされたことが多すぎた。
逆を言えば、自分たち忍たまも間違った目で見られているのかもしれないなとも思う。
それが歯がゆいと思ってしまうのは、なぜだろうか。
きり丸は自分の思考回路が部分的に理解できずに少々混乱した。
翌日、きり丸は捜査に一段落をつけると内心で宣言した。
花を飾っていくのが誰なのかも判明し、目的は果たしたわけだ。
と話をするのはまぁ楽しかったのだが、毎日必要なこととも思えない。
それに、がきり丸の存在をうるさそうにしていたのは目に明らかであった。
そろそろ図書委員会の雷も落ちそうかなと判断し、
きり丸はその日の放課後は教室に戻らずまっすぐ図書室の当番へ出向いた。
実習と自主トレーニングに熱心な生徒がやはり多いようで、
授業に必要な文献を探しに来たりする生徒や、たまには教員もいたりするのだが、
日が暮れる頃には図書室はがらんと無人になってしまった。
この無駄な時間を有効に使うには、
しまった、内職の仕事持ってくるべきだったときり丸は本気でがっくりと肩を落とす。
ここ数日は捜査に気をとられがちなことはあったが、およそ自分らしくないミスである。
本気で泣きそうになりながら、明日からはこんな失敗はすまいと肝に銘じたとき、
その決心を破るような他人の気配が廊下に感じられた。
スッと戸が開いて、遠慮がちに入ってきたのはくの一の生徒だった。
「……きり丸。ここにいたの」
である。
きり丸は不意打ちを受けたとばかりに目を丸くし、立ち上がりかける。
「。どした」
「今日は教室で会わなかったから」
はすべるように図書室へ入り、手桶を片腕に抱えたまま、器用にもう一方の手で戸を閉めた。
「……誰もいないのね」
「ああ、やっぱ皆、外だわ」
退屈そうに定位置へ座り込むきり丸のそばへ、はおずおずと近づいてきた。
は組の教室へ行った帰りなのだろう。
「ねぇ、ここ、花瓶、ある」
「は?」
「一輪挿しみたいなもの」
辺りを見回して何か探すから視線を手桶に移すと、そこにまだ一輪の花が浮いている。
は目ざとく、放置された用具棚らしき一部から小さな花瓶を拾い上げた。
一輪挿しというには少しふとって丸いかたちだが、は構わずほこりを落として水を入れ、花をさした。
「……お前、好きだね、あっちこっち飾るの」
「別に」
きり丸がいうほどあっちこっちに飾りはしないわよと言いながら、はチラとも彼をかえりみない。
しばらく飾った花を見つめながら、は何か考え事をしている様子だった。
の横顔を見つめながら、読む本もそばになく内職の仕事もなくて手持ち無沙汰のきり丸は、
なんとなく居心地の悪い思いでから目をそらした。
途端耳に入る静かな声。
「……誰にも気付かれたくないっていうのは、本音なの。嘘ではないんだけど……」
やっと居たたまれ無さを脱し、きり丸は視線だけに戻す。
「でも、きり丸が気がついてくれたのは、それはそれで嬉しかったのよ」
矛盾するようだけどと、は言い訳のようにちいさく付け足した。
「……あ、そ……そりゃ、どうも」
どう答えていいかわからずきり丸は、やや無愛想気味にそう返した。
は苦笑いを浮かべ、立ち上がった。
「じゃ、またね」
「え、あ、……ああ」
手桶を持って図書室から出ていってしまったを、引き留め損ねた手が行き場なく膝に落ちた。
なんだ、俺、なにを引き留めようとしてるんだか。
「わっけわっかんねー……」
自分を誤魔化すかのように独り言を呟き、きり丸はひとりでいながら気まずい空気をかき混ぜた。
なにか調子が狂い始めた気がした。
その証拠か、退屈はどこかへ消えた。
の指がさしていった花が視界に映る、それだけで時間は飛ぶように過ぎる。
誰も見ていなくても俺が見てる。
誰も気付かなくても、俺が。
「うぁー、コレ、まずくねー?」
忙しい教室の中で、誰の目にも留まらないようなちいさな花だ。
それなのにそこに気がついてからこれまで、膨らみ続けるその存在感たるや。
力など必要とせずに指で挟めば折れるような細い茎、水にさしても長くはもたない儚い花。
誰かのために、いっそ気付かれずに過ぎることを望みながら、それでも願いをかけては花を飾り続けているのだろう。
誰も気付かなくても、私は、ここにいます。
「……誰だ?」
恐らく、の片想いの相手。
くそ、してやられた、こんなの俺じゃねぇと呟きながら、きり丸は赤くなった顔を隠すように手で額をおさえた。
生涯愛するのは銭ばかりと本気で言えたのに、今、なんだかそれがばかばかしい。
少なくとも、がそうして己の気持ちばかりでもそばに置いてと願った花は、
きり丸のために活けられたものではないだろう。
「……最初ッから可能性ゼロかよ……」
あまりいろいろな感情が一度に去来しすぎて、きり丸は混乱を投げ捨てるようにわっと机に伏した。
待て。待て。落ち着け。
感情を少し撫でつけてやって、きり丸は出来る限り冷静に、今日の自分を思い返した。
前日の放課後、自分が見ている前でが差し替えた花を眺めながら、教科の授業は過ごした。
授業が上の空だったわけではないが、何かの折につけその花へ目が行くのがまるで習慣のようで、
目を休め気持ちを落ち着けるようなちいさな要素とそこにまつわる秘密を自分だけが持っていることが楽しかった。
今日の放課後は残らなくてもいいやと思ったとき、少し後ろ髪を引かれる思いがあったような気はする。
全面的に認めるのは悔しいような、自分があほらしいような。
図書室にが顔を出したときに、一瞬鼓動がばくんと跳ね上がった気がするのは、どうだ、どうなんだ、俺。
意外だったからだろうと結論づけようとしたが、納得のいかない違和感が残った。
取り違えて他人の着物に袖を通したときのような妙な感覚。
自分を誤魔化さずに素直になれよと、思うことは思ってもそう簡単にはいかない。
はーっと盛大にため息をついて、きり丸は机に伏したままで、そばに置かれている花瓶を見上げた。
……の想う相手は少なくとも自分じゃないらしい。
きり丸はそこは素直に認めた。
けれど、この図書室へ飾られているこの一輪は、他の誰でもなく、きり丸のために活けられたものだ。
それがどういう感情のもとに発端をみた行為なのかは、きり丸にはわからないが。
この花はの存在の証だ。
それを、教室にいても図書室にいても、俺だけはちゃんと知ってる。
伝えるのは、無理にしてもだ。
顔は可愛いのに小悪魔だよは、と昔誰かが言ったのを思いだした。
本当にな、始末悪いぜ、アレ天然だぞ。
きり丸はしつこくため息をついた。
「いっちばん始末悪いのは、わかっててそこにハマっちまった、俺なんだけどな……」
わかってるよ、とひとりごちて、きり丸は脳裏にの姿を思い描いた。
感情豊かに顔いっぱいに笑う表情を思い返せないことだけが、きり丸が悔やむところだった。
片恋の花 二
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