僕じゃないよ。
私でもないよ。
俺じゃねぇよ。
誰だよ。謝りに行けよ。
誰もその声には従わなかった。
謝ったほうがいいよ。
傷つけちゃったじゃないか。
誰も答えることができなかった。
本当のところ、誰の投げた手裏剣がの頬を切ったのかがわからない、という者がほとんどだったのだ。
けれどひとりだけ、自分のせいだと心の奥底で自覚している者がいた。
(やっぱ、謝りに行ったほうが、いいんだよな……でも、だしな……)
いつも偉そうにして、口を開けばこ憎たらしい言葉をばかすか吐くようなくのたま。
顔は可愛いのに……でもその顔に傷を付けたのは、自分が打った手裏剣だ。
会えば必ず、やれテストの点がどう、実習の結果がどう、土井先生の胃炎がどうと延々言いやがるから、
ちょっと……見返してやれるかと思ったんだ。
俺らだってやればできるんだってことを、目の前で見せたら少し変わるんじゃないかと思った。
ふぅん、頑張ればそこそこなんだ。
その程度でもいいから、認めさせたかった。
思いの丈を込めた手裏剣は、的のど真ん中めがけて鮮やかに飛んでいった。
なのに、乱舞する他の手裏剣にぶちあたり、あろうことかそれが……のほうへ軌道修正してしまった。
そんなふうに仕返しをしてやろうなんてつもりはなかったのに。
やばいと思った瞬間には、ぱっと赤い血が飛んでいた。
はぎゅっと目をつぶって、きゃあ、なんて悲鳴を上げて、しりもちをついた。
そんなところ、見たことがなかった。
が悲鳴? ありえねぇ。
でも目の前で見て、この耳で聞いたのだ。
(そうだよな……くの一って、顔も大事だっていうし。それに、だって……一応、女だもんな……)
土井師範が慌ててをかついで医務室へ走ってから、山田師範も心配そうにそのあとを見つめ、
今日の補習はこれで切り上げる、続けたいものは各自適当にと宣言して去ってしまっていた。
片づけを終えて三々五々と解散になる場のどさくさにまぎれ、彼はこっそり医務室へと向かった。
もうすぐ辿り着くかというところでしかし、彼は戻ってきた土井師範と出くわした。
「きり丸。なんだ、様子見に来たのか?」
「え、あ……」
彼はしゅんと項垂れた。
級友達の目には誰の手裏剣がの頬を裂いたのかは見えなかったかもしれないが、
忍術師範がそれを見切れないわけがない。
彼が落ち込んでいるのを察してか、土井師範は彼を安心させるようににっこりと笑った。
「なら大丈夫だよ。傷はごく浅かったし、あれならあとも残らないですぐ治る」
「俺……謝ったほうがいいのかな……」
「うん、まぁ、偶然の事故だからな。わざとじゃないんだから、そんなに落ち込まなくてもいいんだぞ。
でも、仲直りはしておいたほうがいいかもしれないな」
アクシデントがなければあの手裏剣は的の真ん中に当たっていたろうになどと言いながら、
土井師範は何か思いだしたようにクスリと笑う。
「なに、どしたの、先生」
「いや……お前達、大人になったなぁと思ってね」
「はぁ?」
「くの一たちに何か言われたら、その分聞くに耐えない罵詈雑言で応戦していたのに。
みんな、実力で見返してやろうとしたじゃないか? あれにはちょっと、山田先生と二人で感動してしまったよ」
そんなアイ・コンタクトがあったらしい。
思いがけないことで土井師範が嬉しそうに笑っているのに、彼は呆気にとられてしまった。
そんな彼に気づきもしない様子で、土井師範は愉快そうに続ける。
「もきっと、何か思うところはあっただろう。
もうお前達もやられてばかりじゃないんだってことも、わかってるはずだよ」
「そぉッスかねぇ……だって、あいつら、実際実力者揃いだし。返り討ちにあうのが落ちだよ。情けないけどさ」
「……そう思うかもしれないけどな。よく考えて御覧、きり丸……あの子は、女の子なんだよ」
彼は目をぱちくりとさせた。
教え諭すように土井師範は言った。
「そのうち、どうしたってあの子たちはお前達に勝てなくなるんだ。
お前達はこれからまだ成長して、身体も大きくなるし力もつくだろう、けれど女の子達は同じようにはいかないよ。
力わざでは男には敵わなくなる……それを彼女らが嫌がってもね、それは仕方のないことなんだ」
だからくの一の戦法は力に頼らないものが多いんだよと、
本当は授業でも何度か話していることを土井師範は繰り返した。
これが別の場面なら胃がしくしくと痛んだかもしれないが、今度は状況が違った。
今こうして落ち込んでいる彼は、思いがけない相手を思いも寄らないタイミングで初めて、女であると認識したのだ。
彼の様子がただ沈んでいるだけでなく、そこになにか複雑な……照れのような感情が交じっていることを、
土井師範はちゃんと見抜いていた。
「くの一は、必要なら顔も身体も性別も武器にしなければならない。
気持ちが強くなければとてもつとまらない厳しい役目だ。
これからは、お前達があの子たちに気遣わなければならなくなるぞ、健全な喧嘩をしようと思ったらね」
「なんスか、健全な喧嘩って……」
「力任せに迫れば傷つけてしまう。遠慮と手加減が必要になってくるってことだよ」
「……よくわかんねッス」
「女の子は大事にねって話だ、要約すれば」
「なんか昔の授業みたいッスね……」
簡単に言うとスッポンタケがチャミダレアミタケをもみじ狩りでゴー、そんなセリフが脳裏をよぎる。
土井師範は苦笑した。
「お前にもそのうち、大事な人ができるのかなぁ……」
感慨深そうに呟いた土井師範を見上げ、その前に先生の嫁さん探さないと、と相変わらずの余計な一言が返る。
どこからともなく現れた出席簿が、彼の頭の上でぱかんといい音を立てた。
思い出したのは、昔の記憶だ。
きり丸が投げた手裏剣が、事故でに小さな怪我を負わせたことがあったのだ。
あのときは、とうとう謝れずじまいだった。
次にとすれ違ったときは、傷は確かにきれいに癒えていた。
自身が気にしている様子もなかったから、そのままなんとなく、きり丸はそのことを忘れた。
謝ったほうがいいよ。
傷つけちゃったじゃないか。
誰が言ったんだったっけか、ときり丸は思い返そうとするが、記憶はすでに沈みかけている。
声変わりが辛うじて済んだ、あの頃の誰かの声が、今またきり丸に語りかける。
謝ったほうがいいよ。
彼は走った。
くの一教室の敷地にははいないらしかった。
必死で走ってきたきり丸を見て、くの一たちは何かを悟ったらしかった。
対応は怖気が走るほど冷たくぶっきらぼうで、を含めた彼女らの粘っこいほどの結束が伺える。
がどこに行ったか心当たりがないかと聞いても、彼女らは何も答えてはくれなかった。
けれど、謝らなきゃならないことがあるんだと、そう言ったとき、
彼女らは何か思案げに目配せをし、ひとりになれるところに行ったのよ、と教えてくれた。
もしかしたらあんただけは追ってきてくれるかもしれないところ。
他の誰も知らないところよ。
なんでって? 鈍感!
そういうものなのよ。
きり丸の瞼の裏に、鮮やかによみがえったのは咲き始めの夜桜の光景だった。
礼を言うのもそこそこに、きり丸は学園の塀のほうへ走った。
あの夜が隠れていた木から塀の上へ飛び上がる。
どこからかぎつけたのか、小松田が走ってきてきり丸くん、出門票! と叫ぶが、構ってやる余裕がなかった。
学園の外へ飛び出し、今は花もすべて散ってしまっただろうそこへ向かった。
ひとりになれる場所。
誰も知らない、きり丸だけが追っていける場所。
他の誰も、今を迎えに行ってやることなどできないのだ。
低学年頃はよく授業で往来した道を、きり丸はただがむしゃらに走った。
まっすぐとに続いている、たったひとつのしるべだ。
すでに濃い緑のむれと化した桜の梢が見えたのと同時に、誰かの微弱な気配をそこから感じた。
きり丸の意識がその気配に、に集中したそのとき、きっとそれが悟られたのだろう。
一瞬その気配が揺らいだと思えば、幻のようにかき消えた。
きり丸ははっとして、走っていたペースをゆるめてしまった。
逢いたくないと言われてしまったような気がした。
お前の顔なんか見たくもないと、そう言ってしまったのはきり丸のほうだった。
それを今更逢いたいというのは、きっとわがままなのだろう。
けれど、それでも……きり丸は己の感情に抗うことができなかった。
少し躊躇ってから、彼はまた、走り出した。
のぼり道を全力疾走してくれば、さすがに息も切れる。
あの夜訪れたその場所に、きり丸はやっと辿り着いた。
そばにいるのは明らかなのに、がどこに隠れてしまったのかはわからない。
しょうがねぇ、あいつ、野生のねこみたいだから。
視線を巡らせる。
「……俺だよ。いるんだろ」
呼びかけて出てくるような飼い慣らされたねこではない。
あまり期待はしていなかった。
手の中ににぎってきた紅色の紐をちらと見下ろす。
恋仲と定められたものたちを結ぶ赤い糸。
たとえば、きり丸の指に結ぶその糸が、もしもへと繋がっているのなら。
夢見がちな話だと、土井師範も言っていた。
いい年をした大人が言うには確かに少し気恥ずかしい。
そんなわけがないか──自嘲気味に思ったそのとき、ふいに目の前の木の上で何かが身じろぎをした。
そんなわけがあった、のだ。
見上げると、泣いて泣いて、赤い目をしたが、木々の葉に隠れるようにしてそこにいた。
唇をきゅっと噛みしめて、なにかあふれ出してしまいそうな感情をこらえているように。
「……」
本人を前に、その名を呼べたのがずいぶん久しく思われた。
絡んだ視線をそのままに、彼はただを見上げた。
もただ、何も言わないままできり丸を見下ろしている。
そのままどれくらい時間が経ったのか、きり丸にはわからなかった。
喧嘩をして別れたあとで、ひどく言いづらいけれど言わなければならないことを抱えて、
本当なら合わせる顔もないところ──けれどその黙ったままの時間を、きり丸は居心地がいいと感じた。
求めていたもので身体中が満たされた充足感が彼にはあった。
あの夜もそうだったと、きり丸は思い返す。
不安と不信が、見下ろしてくるのその目に宿っていた。
あのときはそれを払うことができたけれど、今はどうしたらいい。
考えあぐねた末に行動を起こすなどという回りくどいことをしている余裕は、今のきり丸にはなかった。
咄嗟に、彼は木の上にいるに両の手をのべた。
あと少し。
あと少しで、届くのだ。
「……来いよ」
は問うように目を瞬かせた。
その唇がわずか、なにかを言いたそうに震え、またおずおずと閉じられた。
「ちゃんと受け止めるから、来いよ。落っことしたり、手ェ離したりはしねぇ。心配するな」
は泣きそうに顔をゆがめた。
頼りないその風情を見上げながら、きり丸はあの夜も思ったことをまた思った。
木に登ってみたはいいけど、ひとりじゃ降りられねぇねこだ、まるで。
か細い声でも助けを呼べばいいのに、今はその声すら泣きすぎて枯れてしまったのか。
じゃあ、俺が受け止めてやるよ。
迎えに来たんだ。
降りてこいよ。
一緒に帰ろう。
言葉は何一つ発さなかった。
黙ったままなにも言わず、見交わされた視線だけ……けれどきり丸の言いたいことがにはちゃんと伝わったのだろう。
「ひとりでも、降りられるわ」
「この間も気にすんなっつったろ。やってみたいんだよ。受け止めるっての」
虚を突かれたかのように、は一瞬目を見開いた。
躊躇うように俯き、目を伏せる。
まるで焦らされているようにきり丸には思われた。
けれど、これはが飛び降りる覚悟を決めるまでの時間だ。
待たなければならないと彼は思った。
黙ったまま、促しもせずにきり丸はただに手をのばし続けた。
は時折、思いを言葉にしてみようとして口を開いたが、結局なにも言えずにまた口を閉ざした。
何度かそんなことを繰り返す。
きり丸はただそれを見守った。
待たなければと思ったが、本当はが自分の言葉を待っているのかもしれないと、ふと別のことに思い当たる。
どんな言葉を選んだら、は俺を見てくれるんだろう。
気のきいたセリフなどひとつも言えはしない。
また躊躇ってなにも言えなかったを見つめ、きり丸はぽつりと呟いた。
「……言えよ。ちゃんと聞くからさ」
の視線が、きり丸に向けられた。
決して幸福な状況ではない。
けれどきり丸は胸の内になにか打ち震えるような思いが生まれたことを感じた。
この瞬間を、ずっと待ち望んでいた。
やっと、が望んでいた言葉を、必要な瞬間に言うことができた。
の目を自分に向けることに、今とうとう成功したのだ。
まだ躊躇う様子を見せながら、それでもは小さな声で、囁くように言った。
「……受け止めてくれる?」
見ているほうが切なくなるくらい弱々しい声で、はきり丸に聞き返した。
なにが夢見がちな話だ、土井先生。
糸はちゃんと繋がってる。
たぐり寄せることだって、やろうと思えばできるんだ。
の求めていることに、俺はちゃんと応えられる──きり丸は力強く、頷いた。
もう躊躇うことも、迷うこともせず、はきり丸が広げた腕の中に、飛び降りた。
きり丸は受け止めたそのまま、きつくの身体を抱きしめた。
もう自分だけが求めているわけではないことを知った。
決心することができたのは、待っている腕があったからこそだったかもしれないが。
けれどは自分から、きり丸の腕の中へ飛び込んだのだ。
もうたやすく手放しはしない。
しがみついてくるのほそい指を愛おしく思った。
やっとが、自分のところへ帰ってきた。
がお帰りと言って迎えてくれるのと同じように、
自分もをお帰りと迎えてやれるのだということにきり丸は今初めて気がついた。
耳元でごめん、と囁いた。
はただ、何度も頷いた。
抱きしめられたままで、がまた泣き出したことに彼は気がついていた。
きっと、返事をしたら嗚咽が止まらなくなってしまうから。
だからはなにも言えずにいるのだろう──なんだ、可愛い奴。
お互いのあいだを隔て続けていた距離が、やっとすべて埋まったことをひしひしと感じる。
身体中を満たす幸せな気持ちを自覚して、大概俺も単純に出来てるもんだと、きり丸はくっくと笑った。
なにを笑っているのかと、が不思議そうな仕草で顔をきり丸のほうへ向けようとする。
涙は少しおさまったようだ。
きり丸はを抱きしめていた腕を少しだけゆるめ、まだ雫に潤んでいる目元に軽く口づけた。
そのまま唇もと思ったら、はなんだか今更、恥ずかしそうに彼の胸元に顔を埋めて隠れてしまう。
ああ、くそ、ほんと可愛い奴。
実習で離れてた分と喧嘩でお預けになった分、覚悟しとけよと冗談のように考える。
は俯いたままきり丸の肩のあたりに寄り添っていたが、
やがて聞き取れないほどちいさな声で、ごめんねと呟いた。
「……全部話すから、聞いてね」
「ん」
なにを言われても大丈夫だというように、きり丸はよしよしとの頭を撫でた。
ちいさな子どもが甘えるように、はしばらく心地よさそうに目を閉じていた。
やっと恋人同士みたいだなと、きり丸が少しぶっきらぼうな声で言った。
ああ、俺、照れてるのかと、自分の声を自分で聞いて、きり丸は少しばつの悪い思いをした。
にもそれがわかったのだろう。
クスリとちいさく笑いが漏れたのが聞こえた。
「……小松田さんが怒ってるだろうなぁ」
照れ隠しに、きり丸は話題を変える。
「見つかったの」
「見つかった」
「どじ」
「……悪かったな」
拗ねたような口調で言うと、はまた笑いながら、やっと顔を上げた。
「……いっしょに怒られてあげる」
帰ろう、と言われ、きり丸は一拍おいて、ああ、と答えた。
山を下っていく道を、一歩前を歩くに手を引かれ、きり丸はゆっくりと歩いた。
沈黙を心地よく感じて、学園の門が見えてこなければいいのにとさえ思った。
繋がれた手の先を見下ろしてみる。
この指と指のあいだに赤い糸が絡んでいるのかもしれないと思ったが、目に見えはしない。
見えはしないけれど、でも、ここに大切ななにかがあると自分は知っているから、もう大丈夫だ。
肩越しに、きり丸はあの赤い紐をに返した。
「先生、あの花に気付いてたんだぜ。……よかったな」
は気まずそうな顔で振り返りなにかを言いかけたが、
まるで言わせまいとするように──きり丸は繋いだ手を引き寄せると、のその唇を唐突に奪った。
あまりいきなりの出来事で、は直前までの話題を一瞬忘れたようだった。
「いいんだ。今は俺のだ」
にかっと笑うきり丸に、は呆気にとられてなにも言い返すことができなかった。
その頬が見る間に赤く染まるのを認めて、きり丸はいっそう満足そうに笑った。
「さ、怒られに行くか!」
「……ばか」
走り出したきり丸に手を引かれたまま、も仕方なさそうな仕草で走り始めたが、
諦めたのか、それとも……やがて口元にちいさく笑みを浮かべた。
門の奥で、今か今かと違反者の帰りを待っていたらしい忠実なる門番が、ほうきを振り上げたのが見える。
学園へ走り着いた二人は早々にお小言を食らったが、
怒られながら楽しそうに笑っているのでかえって気味悪がられてしまった。
もういいよ、食堂に行ってと放免されて、きり丸とはまた手に手をとって歩き出す。
熱を孕み、すでに夏を思わせる風が、ふぅわりとその足元を吹きすぎた。
花びらを閉じて眠りに落ちた片恋の花を、わずかな風が儚げに揺らしていった。
片恋の花 十五 了
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