“もう、お前の顔なんか、見たくもねェ!”
あんなふうに言われたことなんか、一度もなかったのに──
けれどそれも仕方のないことと、心の中では諦めの色も濃かった。
それなのに、もうお終いとどこかでは強く思っているのに、どうして涙が止まらないのだろう。
感情は身体の内で痛みに成り代わるほど暴れまわり、思考の限り制御をしているはずがまったく言うことを聞かない。
生きてきた一生のあいだでいちばん素直な時間が今かもしれないと、は思った。
どうして、大切な人の前で、なんの後ろめたさも持たずにいることができないのか。
思い返すほどに、が自分を責めたくなる気持ちは深まるばかりであった。
きり丸が花を見つけてくれたあの日から、好きだと言ってくれたあのときから、
はずっときり丸に後ろめたさを抱かずにいられないままでいた。
他の男を好きでもいいからと、そう言ってきたのは彼のほうだったけれど。
不器用ながらもまっすぐにシンプルにを想ってくれるきり丸に、少しずつの気持ちは傾いていった。
心の奥底にくすぶり続けている、苦しかった過去の恋心を、どうしていいかわからずに持て余す。
ふたつの想いを一緒に抱え続けるのをやめようと思ったのだ。
選びがたい選択肢だが、どちらかひとつしか選べない。
だから、選べないほうの想いに決定的なけじめを与えてやるために──
はあの日、土井半助の部屋を訪れたのだった。
戦実習があけたあとで、身体はくたくたに疲れていたものの、鋭敏に研ぎ澄まされた感覚は静まりきっていなかった。
が学園へ戻ったのと時を同じくして、今度はきり丸が丸一日はかかる実習で外へ出てしまっている。
この一日のうちに何もかも終わらせてしまいたい、できればきり丸の知らないうちに思いきってしまいたい。
はそう思った。
湯を浴びたあと、部屋へ戻ってからは髪を梳き、気に入りの柄の着物に袖を通し、薄く化粧をした。
部屋を出ようとして、は一度何気なく室内を振り返る。
ふと、紅色の飾り紐が呼びかけるようにの視線を引いた。
は部屋へもう一度戻り、髪にその飾り紐をきゅっと巻き付けた。
次に部屋を出るときには、はもう振り返ることもしなかった。
くの一教室の敷地を出て、忍たまたちが生活する学舎のほうへ足を向ける。
夜が忍び寄り始めていた。
風にさざめいて、すでに見慣れた小さな花がちらちらと揺れる。
はその一輪を手折った。
祈りを捧げ、願いを込め続けてきたこの花は、今日この日にこそはなにか叶えてくれるだろうか。
手の中にそっとその一輪を包み、は職員棟のほうへと向かった。
こんな夜も遅くに、このあたりを訪ねてきたことが一度ある。
もう三年も前のこと。
数か月後に実習本番を控え、標的と距離を詰める準備期間中のある夜、は土井師範を訪ねた。
同年の忍たまは犬猿の仲と自ら吹聴し、他の忍たまたちも畏怖の対象と言いたげな視線を送ってくる、
そんな学園中で土井師範は初めてを女性扱いしてくれた男の人だった。
きっかけとなった出来事を、は鮮明に覚えている。
ひどく暑い夏の日、休校日だった。
町に出て、髪紐が並べられた店を見つけ、鮮やかな赤無地の紐を見つけてはそれに一目惚れしてしまった。
何か運命の意図するところであったかのようにその紐を買い求め、途中寄った茶屋でそっと髪に巻き付けた。
うきうきとしたいい気分で学園へ帰りつくと、休校日だというのに手裏剣の演習場で熱心に練習をしている人がある。
ちょっと歩み寄ってみれば、熱心との前言を撤回したくなるような体たらくの三年は組、
そして指導にあたっている山田師範と見守っている土井師範である。
この出来の悪い手裏剣の練習は授業の補習で行われているのだろう。
そこまでコントロールを失うのは逆に難しかろうと思われる四方六方八方へ、星形が回転して飛んでいく。
は演習場へ近寄るとしばらく黙ってそれを見ていたが、
あまりに滑稽なその様子、またその滑稽を生み出す彼らの真剣で必死なまなざしのギャップに耐えきれなくなり、
声をあげて盛大に笑ってしまった。
「最悪! 新一年生でももう少しましな投げ方するわ! わざとやってるのと違う?
三年になるまで面倒を見るのに御苦労なさいましたでしょ、先生。お察しします」
さすがには組の生徒もカッチンときたらしかったが、誰もの言うのを否定できない。
腹を立てたはいいが怒りを発散させるすべも今は手裏剣を投げ続けるより他になく、
彼らはぶすっとした仏頂面で練習を再開し始めた。
そのとき、ほんの一瞬の出来事だった。
ムキになった誰かの手ががむしゃらに投げた手裏剣に、別の誰かが投げた手裏剣が突っ込んできたのである。
勢いもそのままにぶつかり的を外れた方向へはじかれたふたつの手裏剣のうちひとつが、の頬を裂いた。
驚いて悲鳴を上げしりもちをついたに、
土井師範は大慌てで駆け寄るとその身体を軽々抱き上げ、即座に医務室へ運んだのだ。
怪我の軽さの割には土井師範は必死そうで、心配と焦りの混じったような表情をしていた。
自分で歩いてこられたし、手当ても自分でできますとは言ったが、
自分の生徒のしたことだからと土井師範は頑として譲らなかった。
「女の子が顔に傷をつくって、いいわけがないじゃないか。せっかく可愛いんだから」
申し訳なさそうにそう言うのが、なんだか先生という立場の人らしからぬように見えた。
去り際も土井師範は、には赤が似合うねと、新しい髪紐を目ざとく見つけてにっこりした。
そして、なにも特別なことを言ったわけではないというように、
土井師範はいつもと変わらない様子で歩いていってしまったのだ。
取り残されて、頬にふつふつとのぼる熱をどうしていいかわからず、ただ立ちつくしたことをは今もよく覚えている。
その想いを恋心だと自覚したのは、それから三か月近くも経った頃。
の視野に、“実習本番”が重みを帯びて見え始めた頃になってやっと、だった。
初めては好きな人がいいんですと、わがままを言って訪れたを、土井師範は帰さずにいてくれた。
普段穏やかな彼が打って変わって乱暴になり、抱かれながらは何度となく恐怖に身をすくめた。
自分を見下ろす彼の目が、の目を見透かしてもっと奥に何か、別のものを求めていることには気付いてしまった。
先生の心の中には、誰か……私でない誰かが、もう住み着いてしまっているんだ。
情けをかけられてであれ想いは叶えられたはずなのに、ひたすら苦しくて。
顔も見ず、声も交わさずに、はその夜彼の部屋を出た──それきり、だった。
それからは土井師範を避けて通るように三年を過ごし続けた。
心の奥底にわだかまった想いは打ち消すことのできないまま、時間ばかりいたずらに過ぎていく。
生徒達のことにばかり土井師範は熱心で、
あの夜に彼がに見せたあの目の印象は間違いだったのだろうかと思わされる。
もしかしたら、先生も叶わない想いを抱いているのかもしれない……などと、勝手な想像を巡らせもした。
きっと、土井師範のその目線の先に自分が立てる日は来ない。
なんとなく、けれど確信に近いくらいはっきりと、はそう感じ取ってしまっていた。
誰にも言わずに秘めたままの想いを、は時折花に託して占った。
好き、嫌い、好き、嫌い……望ましい結果が残るかどうかもわからないうちに、
それを見るのが恐くては花を放り出した。
最上級生に進級した頃、はその花を一輪、彼が教える六年は組の教室に、
たまには土井師範が使う職員室にも飾った。
ときどきは想いを込めるこの花が、せめて彼の目に留まることがあったらいい。
それで報われるものなどなにひとつないとはわかっていた。
けれど、意味がないとわかっていながらそんなことを続けていたを、ある日別のひとりが見つけた。
誰も自分を見てなどくれないと思っていたのに、彼は──きり丸は、を好きだと言ってくれたのだ。
過去と今とのあいだでは板挟みになり、一途に想ってくれているきり丸を傷つけ続ける。
ただそれがには苦しく思われ、精算しなくちゃと、そう思った。
夜の学舎のあいだを抜け、人目を避けるように訪れた職員棟。
土井師範は自室を留守にしているようだったが、これが最後と机の上にそっと摘んできた花を飾る。
ほんのわずかの対峙で、自分の気持ちはわかるはずだから──は天井裏に隠れ、
息を殺し気配を絶って彼の帰りを待った。
やがて機嫌よさそうに戻ってきて部屋の戸を閉めた土井師範の背後に、は瞬時に音もなく降り立った。
「おっと……不覚だよ、気付かなかったな」
首を絞めるように後ろから細い指が巻き付いてきたとき、土井師範はそれでも冷静な声でそう言った。
「? 悪ふざけはよしなさい。授業でわからないことでもあったか?」
「ふざけていません。でも」
三年前と同じ、授業でわからないことでもという問いを、彼はに投げた。
まるっきり子ども扱い、昔と同じ目でしか見られていないことをはそれで悟った。
胸の奥に何か押しつぶされたような痛みを覚える。
これが恋の痛みなのかどうかを、は知りたかった。
「わからないことがあります。教えてほしいんです」
「ほー。テキストの何ページかな」
「教科書には載っていません。学校で教えてくれないことですから」
は彼の首筋から指を離すと、その正面に回り込んだ。
普段の穏やかな様子がかき消えたのは想像したとおりだった。
冷ややかな目に見下ろされながら、それでもは怯まなかった。
先生、くの一はね、こういうふうに成長するの。
もうあなたにこんな目で見られても、たやすく傷ついたりなんかしない。
有無を言わさぬつもりだったが、土井師範はなにも抵抗もしなかった。
の腕に引き寄せられても、唇が合わさっても一言も発さず、動揺の素振りも見せなかった。
お手並みを拝見しようか、そう言われているようで。
望むところよ。
は彼の身体を抱き寄せ、そのまま床へ倒れ込むように導いた。
勢い、紅色の髪紐がゆるんでほどけ、の長い髪が乱れる。
誘われるままに彼はが舌で求めるのに応じ、息を弾ませてがそっぽを向けば、
目の前にあらわになった首筋に唇を寄せた。
優しい顔をして、なんて人、先生。
横を向いたままで、自分の内にあふれ返る透明な感情を何と呼んでいいのかもわからず、は悔しいと思った。
ずっと外に出せず誰にも聞いてもらえず、今すらもやり場ひとつ存在しない感情が涙になってあふれ、の頬を濡らした。
知っているくせに。
私が三年間思いきりきれずにいたことを、知っているくせに。
その想いを真剣に叶えてくれる気なんかないくせに──そうしてわざと、首筋にあとを残すの。
が泣き出したのを知って、彼は起きあがり、から離れた。
最初からその気はなかったと、あっさりを見下ろす彼の素振りはありありと告げていた。
「先生……ごめんなさい」
かすれ声では言った。
「私、好きな人が……できたんです」
彼は何も言わなかった。
あふれ続ける涙を手で隠すように拭いながら、は続けた。
「ずっと先生が好きだったの……でも、私自身の気持ちが、どうしようもなくて、わからなくて……」
沈黙に促されるように、は喋り続けた。
彼のまとう雰囲気には、を急かすような、誘うような……どこかそんなところがいつもある。
「でも、好きな人が、できたの……大事にしてくれるの。私もそれに、応えたいの……」
横たわる静寂の中、彼の視線がをじっと見つめているのを、は痛いほど感じた。
黙ったまま過ぎていく時間に、互いに何もしていないのにまるで静かな攻防を繰り広げるかのよう。
やっと口を開いたのは、今度は土井師範だった。
「……そうか。よかった」
はそっと、泣きながら閉じていた目を開けた。
顔を覆っていた腕をおろし、横たわったままだった身体を起こした。
泣きはらした目で見つめた先で、土井師範はいつものように穏やかに笑っていた。
「私が言えたことじゃないけど……心配、していたよ。よかった。本当に」
彼は手を伸ばし、の乱れた着物をそっと直し、ほつれた髪を指先で掬った。
いつか、頬に怪我を負ったときに手当てをしてくれたときのことを思い出す。
あのときも、怪我の様子を見るのに指先で髪を掬い上げたのだった。
思い出して恥ずかしくなり、は俯き加減に瞼を伏せた。
「……大事にしてくれるというなら、幸せで、何も文句がないじゃないか。
だめだよ、こんなところへこんな時間にひとりで来ては」
「……すみません」
先生に会わなくちゃ、自分の気持ちがはっきりわからないと思ったの。
小さな声で、けれどしっかりとは言い訳をした。
「私に問おうとしたわけか。ねぇ、知っているかい」
は目を上げ、首を傾げた。
「人が誰かに判断を仰ぐとき……どっちがいいかを尋ねるとき。
本当は、その人の中ではすでに答えが決まっているんだそうだよ。
ただね、ひとりの判断でこうだと思いきってしまうには、ちょっと自信がないんだろうね」
は黙って、“先生”の言うことに耳を傾けた。
教え諭すようなこの口調、慈しみにあふれた声音、それは少なくとも恋人に向けられた声ではなかったし、
にもそんなふうには聞こえなかった。
「誰かにあと押ししてほしくて、人は問うんだ。──もう、決めたんだね」
は目を見開いて、土井師範をじっと見返した。
難しい問題がわからない子どものよう──土井師範は苦笑する。
「それじゃあ迷う必要はない。捨てることを迷うということはだ、、固執しているせいだと思わないか?
恋愛に限ったことじゃないけど、感情なんてものは、迷う余裕も持ってないものだと私は思うよ。
だから大丈夫……君は君の、好きになったという人を、まっすぐ大事に想っていけばいい」
彼がに与えた解は、の内心で絡み合い続けていた数式をするりとほどいてしまった。
はしばらく黙ったまま、土井師範の言ったことを反芻していたが、やがて納得した顔で頷いた。
「……仰る意味、よく、わかります」
「うん。悪いね、私ももう根っから先生になっちゃったらしくて、授業みたいな言い方しかできなくてね」
あははと苦笑いをする土井師範に、も口元で少し笑った。
心の奥に罪悪感を持たないで、こんなに素直に笑ったのはどれくらいぶりだったろうと思う。
「……先生らしいです」
少し困ったように笑って言うと、あ、やっぱりと土井師範もまた笑った。
彼の部屋を出、夜の学園をまた横切ってくの一教室の敷地へ戻る。
涼しい風がの首筋をさらうように吹いてゆく。
あまり清々しくことが終わってしまって、は首筋に残された小さなあとのことを失念していた。
ひやりとする風を心地よく感じながら、はふと空を見上げた。
きり丸はきっと、厄介な罠実習で四苦八苦している頃なのだろう。
野営の最中で同じく空を見上げたりしてもいるかもしれない。
同じ空の下、などとロマンティックが過ぎる想像は自分で恥ずかしくなってしまって想像しきれない。
はその考えを捨て、思いを振り切るように自室を目指した。
日が昇ってしばらく、昼過ぎ頃まできり丸は戻ってこないだろう。
帰ってきたら、自分が内側に抱いていたすべての秘密をきり丸に話してしまおうと思った。
正直でいさえすれば、きっとわかってもらえる方法があるはずだ。
何より、ただひたすら、きり丸が恋しかった。
逢いたいと思うそこにそれ以上の意図も思惑もあるわけがなかった。
迷う暇もないようなその感情は、まっすぐに強くきり丸を想っている。
早く逢いたいとただただ願った。
つけていたはずの髪紐が見当たらないことに気がついたのは、夜が明け朝を迎えたあとである。
落とした場所が土井師範の部屋であることはほとんど疑う余地がなかった。
けれど、言い訳をするようにはきり丸の部屋を訪れて、ありもしない紐を探すふりをした。
なにもかも終わって解決したはずなのに、また花を飾るように意味のないことを繰り返している。
が部屋にいるあいだにきり丸は無事に戻ってきた。
焦ってしまったのは後ろめたさがまだ残っていたせいだとはよくわかっていた。
けれど一日ぶりにきり丸に逢い、求められ触れられてしまうと、不安な想いは心の表層から蒸発していってしまう。
自分の持ちうる思考回路のすべてが彼を信頼しきっていることをは自覚して、少し安心できたはずだった。
だから、ちゃんと話せるから、大丈夫だと。
しかし。
学園中に咲いている小さな花を見るのがつらくて、は行く先も定めずにふらふらと歩いていた。
いつの間にか学園の外に出て、きり丸と一緒に桜を見に行ったあの夜のあの場所へ足が向いていた。
花などとうに散り、今や黒々と見えるほどに濃くなった緑の葉が風に揺れるばかり。
あの夜がいちばん恋人らしくて、幸せだったような気がするとは思った。
ほんの数日前のことなのに、遠い昔の記憶のように、甦る光景はおぼろげだ。
そして、もうこの手の内には戻ってきてくれない幸福のように思われる。
今更、何もかも聞いてほしいなどと、言えるわけがない。
そしてそれをまるまる信じてくれて大丈夫だと、そんなことに頷いてくれるわけがない。
持てるすべての愛情を傾けてくれたきり丸を、はあんなにもたやすく、傷つけてしまったのだ。
代償は重い。
どうしていいか、にはわからなかった。
喉元に凝り固まるばかりで苦しい感情を、涙に変えて流してしまう以外に、できることもない。
葉ばかりがぶらさがる木々の梢を、はぼんやりと眺めた。
風がその先々を揺らす。
冷たい空気が、泣いて興奮した身体をさまし静めていく。
どうしたらいいのか。
できることはなにか。
考えればごくシンプルで、単純なことだ。
許してもらえなくても、聞く耳を持ってもらえなくても、ただ一言、謝ること。
いっさいの言い訳も弁明もせず──自分のしたことがきり丸を傷つけたのだと、それを認めることだ。
それから。
それから……ほんのわずかのあいだでも、大切にそばにおいてくれて、嬉しかったと伝えたかった。
(ごめんなさい、ありがとう……)
それだけだった。
本当は、人間にとってごくごくごく、基本的なことのはずだ。
それがどうしてこんなに難しく思われるのだろう。
謝りたい、感謝したい、そこへ辿り着くまでの経緯がとてつもなく長く遠い道に感じられた。
どの面さげてと言われても反論の余地はない。
(合わせる顔なんかない……)
それでも行かなくてはならないのはわかっているし、きっと自分はそうするだろうとは思った。
けれどそれまで、ほんの少し覚悟の時間を……
そう思ったの背後遠くに、誰かが近づいてくる気配がふいに現れた。
走り方の癖、息を切らしているその感じが、愛おしいその人のそれによく似ている。
会いたくない、今は!
は咄嗟に、すぐ横にそびえていた桜の木の上にぱっと飛び上がった。
今は花を落とした木々の葉が、の姿を覆い隠した。
足音と荒い息がのすぐ下へやって来て、少し躊躇うように立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回した。
「……俺だよ。いるんだろ」
あの夜の記憶がの脳裏によみがえる。
を呼ぶその人は、手の中にあの紅色の髪紐を握っている。
きり丸である。
ああ、なにもかも知られてしまったと、は今更観念したように唇を噛んだ。
その動揺が、きっと伝わったのだろう。
彼は、木の上を見上げた。
迷ったような、困ったような目がをとらえた。
「……」
重い感情のかたまりをのどの奥に抱いたまま、木の上と下とで、二人はじっと見つめあった。
時間が止まったかのように、世界中に自分たちしかいないかのように、二人はしばらくそうしていた。
片恋の花 十四・の記憶と一夜、そして今
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