任務の最終目的は、城主の殺害。
そして、その妻を生け捕りにすることであった。
夢醒めやらぬ 一
「ようやった、まことに愉快なことじゃ。
ぬしには前々から目を留めておったのよ、そのうちめざましい働きをするであろうとな」
「は……勿体なき御言葉」
「褒美をとらすぞ。──連れてこい」
跪いて頭を垂れたままであった彼は、彼のあるじが褒美じゃ、受け取れと投げて寄越したものが何であるかを見なかった。
まさしくそれは投げられたというのが相応しく、どさりと重い音とわずかな振動をたて、彼の膝のそばに転がった。
──もとより悪趣味な野郎だと思っていたが、冗談にしても笑えねぇな──
褒美に死体じゃ到底割に合わん。
彼はそれを、死体だと思った。
あるじの命により“連れてこられ”、彼の膝元に投げて寄越され、ぐったりと転がっているのは……人間の女である。
乱れた髪の裾が視界に入る。
しかし、ほどけかけたその髪に辛うじて絡まっている髪紐──見覚えのあるものであった──を見て、彼ははっとした。
「──これは──この方は」
驚き顔を上げた彼を見て、彼のあるじはにぃ、と薄気味の悪い笑みを浮かべた。
投げ出された女は息絶えてはいなかった。
震える腕でどうにか身を起こそうとし、重そうに頭を上げたその女と、彼の目が合った。
「御台様」
「その娘はもはや御台などではない! 軽々しく申すな!!」
「……失礼致しました」
彼はあるじに向き直るが、ことのなりゆきが、あるじの意図がわからなかった。
「これは、いったい、どういうことで……」
「生け捕ったのをワシ自らが嬲り倒し弄んでから殺してやろうかと思っていたのだが、その娘」
しれっとした顔であごをさすりつつ、あるじは続けた。
「声が無うなったのよ。いくら責め立てても悲鳴のひとつも聞こえぬのでは、興醒めよなぁ」
この、ド変態が!
頭の中に急速に渦巻き始めた怒りを、彼は必死で押し殺した。
「だから、ぬしにやろう、その娘。見れば年の頃も釣り合いがとれてちょうどよさそうではないか。
それに……」
あるじは嫌らしく笑ってぺろりと薄く舌なめずりをした。
「考えてもみよ、目の前で己の夫を斬り殺した男に妻として仕えねばならんとは、数奇なことよな?
嬲られてすぐに殺されるよりも長いながぁい責め苦となろう。何と愉快なことか!」
そうは思わぬか、問われて、彼は一瞬答えることができなかった。
あるじは彼の戸惑いを鋭く悟って、面白そうにくっくっとのどの奥で笑った。
「どうじゃ、潮江の。先代城主の妻を賜るとなれば、身に余る光栄であろう? んん?」
彼──潮江文次郎は、チラと娘に視線を投げた。
娘は怯えきって身体の震えを抑えることもできぬ様子であるが、その顔はどこまでも無表情である。
華奢なその姿はまるでどこぞの小動物のよう……などとたとえるのは、状況に対して平和が過ぎて不似合いであろうか。
あるじは調子づいて続けている。
「ワシも気にしておったのよ、ぬしらは任務には忠実で腕も立つがこと色事には関心が薄すぎる!
年頃を過ぎて独り身とはなんとも淋しい話ではないか、忍の者はみなそうなのか?
否、ではワシがなにくれと世話をしてやるのが親切というもの、そう思ったところに、これじゃ」
あるじは娘を示して得意そうに胸を張った。
「どうじゃ、先代城主が手をつけたあとではあるが見目はじゅうぶん満足いくであろ?
受けるのか、拒むか、潮江の!」
彼にとっては苦渋の選択だった。
しばし押し黙り、神妙そうに、彼は低い声で呟いた。
「御厚意、有り難く頂戴致したく──」
町の外れの平屋はひとり住まいには少々広く思われる規模であった。
とても城下の町に住む人には見えない女をひとり連れ、その家のあるじはこの夜久方ぶりに帰宅した。
言うことを聞かぬ引き戸を無理矢理に開けると、ガタガタぎしぎしと嫌な音があがる。
「たかだか城仕えだ、贅沢はさせてやれんぞ」
彼は一歩後ろに黙って控えている女に、入れと示した。
女ははりついたような無表情で俯いたまま、彼を見もしなかった。
「──気の毒なことだが。御台とも姫とももう呼べん」
女はわずか目を伏せる。
彼に背を押され、女はまだ震える足で、その家へ一歩踏み入った。
彼は自分が家に引き取る前に曇った空を見上げると、一雨来そうだな、と誰にともなく呟いた。
濃く厚い雨雲が、月を隠して闇を地に落とす。
彼の名は潮江文次郎という。
忍の術を指南する学園を優秀な成績で卒業し、
雇い主を限らず依頼の中から仕事を選ぶ忍として数年つとめたあと、
今のあるじに舌八丁で言いくるめられてなんとなく雇われることが決まってしまった。
此度の雇い主も今となっては一国一城のあるじであるから、文次郎の立場は城仕えの忍と成りかわった体裁である。
彼の今のあるじは、文次郎がこの任務、その手を下して殺害することとなった城主の実の弟であった。
長子でないがために跡目を継ぐ権利が与えられなかったことを、弟はずっと不満と感じていたのである。
かげに隠して野心を育て、策を練って人を集め、虎視眈々と城主の座を狙い続けて生きた。
小ずるく卑怯な戦法に長け、性格をたとえるなら蛇のような狡猾さである。
目的を達するためには手段も問わず、それがどれほど残忍な手口であろうとも躊躇いを見せない。
そうして此度、文次郎の活躍により、弟は兄から城主の座を奪い取ることに成功したのである。
文次郎ほか召し抱えられた忍たちに任ぜられた命は城主を確実に殺害すること、
そしてその妻は殺さずに生かしたままで捕らえること、この二点であった。
標的が実の兄であること、その妻はまだやっと娘時代を抜けた若さであることなど、
弟が命令を躊躇う理由になど到底なりはしなかった。
そうしてその野望は実の兄の血を流し、その妻を苦界に貶めることで叶えられた。
城主の座を乗っ取ったのちの栄華はここからの話なのである、だがしかし。
文次郎は、部屋の隅に座ってぴくりとも動かず押し黙り、
けれど全神経を研ぎ澄まし文次郎の言動に集中し、警戒し続けている女に目をやった。
この女のことを彼はよく知っている。
標的の妻として調べ上げた相手である。
ことを運びやすくするために、文次郎は標的たる男が治める城へと雇われるふりをし、潜入していた。
半年以上もの時間をかけて調べ上げた城主とその妻の関係は、まるで睦まじい父と娘のようだった。
城主はすでに年老いて、攻撃をしかけなくともそのうちくたばるのではないかと思われる年輩者であった。
その妻は今やっと二十に手が届いた若い娘。
父と娘どころか、下手をすれば祖父と孫娘くらいに年の離れた夫婦であったが、それも珍しいご時世ではない。
身分の高いもの同士の婚姻であれば政略的な意図のもとに取り決められ、
夫婦の年齢差が開いていることなどざらである。
婚姻とは家と家との結びつきであり、当人同士の感情や相性や年齢やは問題になどされなかった。
文次郎が監視し続けたこの夫婦も例に漏れず、政略婚で結ばれた関係である。
武家の台頭により立場を失いかけていた公家の姫、名は。
傾きかけた家の存続をかけて進めた縁談で、は一城のあるじから寵愛を受ける身となった。
政略婚の割には夫婦仲は良好で、周囲の者にも微笑ましい目で見守られていたという印象を文次郎はよく覚えている。
「家の姫君だったな。名は。年は……十九か? 二十か?」
は何か言おうとして口を開きかけ、何も言えずに口を閉じ、俯いた。
声が無くなったと聞いたのは嘘ではなかったのかと、文次郎は思い返す。
「二十か? そうか。ならば俺と同じだ」
聞かずとも知っていることを文次郎はわざわざ問い、自答する。
は何も答えず、表情もチラとも変わりはしなかった。
美しいのその横顔を眺めながら、文次郎は苦い記憶をたぐり寄せていた。
一年近くもそばで監視していたが、城主は本当に人のよい男であったし、年寄りながら聡明であった。
その妻のは父親に甘えるようにいつも夫のそばに控えており、にこにことよくその世話をして立ち働いた。
見るからに微笑ましい夫婦に一方的な親近感を抱く反面、悪魔的俗物の己の雇い主には嫌悪の念ばかりが募っていく。
これが実の兄弟だとはまったくもって信じられんと、文次郎は何度思ったか知れない。
けれど彼は割り切った──昨夜だったか、その前の夜だったか、記憶にブレが生じている。
混乱していたのかもしれない。
刀を城主の首根に振り下ろした。
薄暗い中に鈍い感触、金属を通して手に伝わってくる何らかの応え。
急に顔に生ぬるさを覚えれば、それが返り血と一瞬あとで思い当たる。
ひゅっと息をのむ音が聞こえ、振り返ると、涙も出ない目をいっぱいに見開いて、身動きのとれなくなっている女がいた。
まだ若い娘と呼んでもおかしくないような年の頃。
女は殺人者の顔をしかとその目に焼き付けていたのだろう。
己の目の前で夫を斬り殺した男が、刀を持ったまま自分のほうへ向き直っても、微動だにしなかった。
その恐怖、衝撃、いかほどばかりの感情の波を受けたことか。
声を失ってしまっても仕方のないことだ。
そればかりか、今度はその殺人者の妻として長い責め苦を味わえと言い渡された。
地位身分は剥奪され、慣れぬ土地で慣れぬ暮らしに悩まされる。
屈辱だろう──文次郎は諦め気味にふっと息をついた。
我があるじの思惑には反吐が出そうだ。
どうせくれてやるのなら、夫を殺した男を相手にするのが一番苦しかろう。
その男が、年が近いとはいえ目の下にくまを作って始終周囲を睨み付けているような無愛想であるなら尚のこと愉快。
おおよそそんなところだろうとは文次郎にも想像がついた。
今のところは、その思惑どおりの影響を目の前の女は受けている。
まったく、正義の味方と思って忍をやってるわけじゃあないが。
こうあからさまな悪役には誰も望んでなりたくはない。
文次郎は億劫そうに身を起こした。
「姫さん。俺は潮江文次郎という。……あんたにはここで暮らすことに慣れてもらわなきゃならん。
不本意だろうが立場は俺の嫁だ。何か言うことはあるか」
は文次郎を不安そうに見据え、頷きも首を横に振りもせず、ただまた俯いた。
仕方ないことだと文次郎は息をつき、に構わず続ける。
「──今度から名で呼ぶぞ──いいな」
は俯いたままでまだ何も言わない。
文次郎は次第に焦り始めた。
時間を稼ぎたいと、そう思っていた。
思いも寄らない顛末で娶ることとなった妻が、声を失っていることは承知であるが。
せめてなにか会話が成立すればこれ以上の救いはないとすら文次郎は思った。
これは単なる私生活ではない。
他人を痛めつけることに関してはおぞましいほどの想像力を発揮するあるじに
文次郎はこれ以上ないほどの嫌悪をおぼえた。
声がないことを面白がって、あの男が自らを痛めつけることにならなかったのは奇跡としかいいようがない。
「──知っているだろうが──俺は忍だ。本来は城勤めの立場ではない。
舞い込んだ依頼から自分で仕事を選ぶのが本当だが……この一年は、あの男に付き合わされる羽目になった。
折を見て抜ける気ではいるがな」
の表情は凍りついたように変わらない。
その無表情が黙ったままで己を責めているように文次郎には思われた。
あなたは自ら、私の夫を殺し、私をこのような苦しい目に遭わせる仕事をお選びになったのですか。
その無垢な目が自分を射ることのない今をわずか、救いと思った。
無言の責めほど迫ってくるものはない。
「……お前がこのあとをどう生きようがそれは俺の関知したことではない。
ここを出たければ出るがいい。留まることを選ぶのなら、それもいいだろう」
どちらでも構わんと文次郎は呟いた。
の反応を言葉のあいだにただ待つが、いまだ何も返っては来ない。
諦め半分に文次郎は続けた。
「もしここへ居続けて、形式上俺の妻を演じるつもりでいるなら、言っておくが……
俺は任務でこの家を離れることが多い。長いときは数か月留守にする。
……夫の仇と四六時中顔を合わせているのもつらかろうが、俺が帰宅したときだけ耐えてくれればいい。
あとは好きにしろ──記憶が癒えれば、他に男をつくるのもいいだろうな」
ぴく、とが反応した。
それがよい反応でないことは文次郎もよくわかっている。
は唇をきゅっと噛みしめ、精一杯文次郎を睨み付けた。
「……俺の命を狙うも自由だ。復讐がしたいのなら」
言いながら、文次郎は襲い来る空虚をふいに自覚した。
俺は一体なにを言っているんだ。
何もかも失ってすがるものもないこの女に何をしているというのだ。
自分を納得させられる答えを見つけられなかった。
ただ少し、を慰める言葉のひとつもさっぱり思いつかないことは口惜しく思われた。
にとっては災厄の元凶たる己が、なにを言おうと癒しになどならないことは百も承知ではあるが。
けれど文次郎は思った。
己には任務に関わった話しかできもしない。
忍の世界など塵ほども知らぬ美しい娘を前にして、命を狙うだの、復讐がどうのだの、そのような話しか。
不甲斐ないものだ──文次郎は任務以外のところで初めてそんなことを思った。
そしてこれ以上は、この殺伐とした話題ですら続けていくことは困難である。
文次郎は諦めて渋々立ち上がり、を肩越しに見下ろすとついてこいとぶっきらぼうに言い捨てた。
はゆっくりと彼を仰ぎ見、まだ警戒しつつも大人しく立ち上がると招かれるままに隣り合う部屋へと踏み入った。
その刹那、さらわれるように身体を抱き寄せられ、唇を塞がれては驚き目を見開いた。
つい先程、悪夢のような成りゆきで夫となった男の腕が、を捕まえていた。
文次郎は少し離れると、忌々しそうに目をそらして、言った。
「……任務絡みじゃなけりゃあ、抵抗もままならんような女に狼藉をはたらく気など起こさんがな」
わけのわからないまま震え出し、目を見開いてただ文次郎を見つめるしかすべのないを、
文次郎はやすやすと抱え上げた。
敷いたままの布団の上にその身体を横たえ、そばに膝をついて妻を見下ろした。
この期に及んでも涙すら浮かばない目は、まるで絶望のような色をしている。
これ以上、この娘に俺はどれほどの苦しみを与えようというのか。
思うと吐き気もこみ上げそうだった。
「大人しくしていてくれ。すぐ済む」
彼はそれ以上なにも言わず、の首筋に口付け、舌を這わせた。
手慣れた様子で着物を脱がせ、玉のように磨かれたの肌を惜しげもなく暴いていく。
薄暗い中、男の視線が己の肌の上を這っていると知るや、は怯えて身体を起こして逃げようとする。
恐れて着物を掻き合わせようとするの腕をなんの苦もなく制すると、その膝を割って身体を滑り込ませた。
夜の闇の中、先日は目の前で夫を殺され、また今はその手を下した男に陵辱されようとしている、
この数日のあいだにそれだけの目に遭えば、この娘の精神が死んでしまうのではないか?
文次郎はそれを少し心配した。
けれどやめることはできない──これこそが文次郎のあるじの思惑なのだ。
任務絡みでさえなければ、にこのうえ苦しみも痛みも屈辱も与えようなどと文次郎は思わない。
あの男は今頃、酒の肴に下卑た想像をしては嫌らしくにたりと笑っていることだろう。
気まぐれな命令ひとつで美しい娘を一人地獄に落とし、その藻掻き苦しむさまを高みより見物する。
まったく反吐のでそうな娯楽である。
嫌々と首を振り震えるのその身体を押さえつけ、流れ続ける涙に口付ける。
やさしく気遣ってやるよりも、まるで儀式的な意味を持つ最初の一度をさっさと済ませてしまいたくて、
文次郎の行為は自然荒々しくなる。
その細い身体の芯を貫こうという瞬間、の耳元にすまないと謝罪の言葉を落とした。
身体に走る苦痛には暴れだそうとするが、簡単にそれを押さえ込める己の力に文次郎は複雑な思いを抱く。
はどんなにか理不尽な思いでいることか。
冷静にそんなことを思ってなどいられる状況ではないだろうが。
荒い呼吸が悲鳴の代わりに文次郎を責め立てる。
奥まで押し入ろうと力を込めた瞬間、弾けたように、ののどが鳴いた。
「い、い、……嫌ぁあっ!」
はっとして、文次郎はぴたりと動くのをやめた。
に声が戻ったのだ。
こんなことで、恐怖のために。
に情け深い言葉もかけてやれない己がただ口惜しかった先程を思い返す。
思いやりに満ちた言葉をなにかかけてやることができていたら、あるいは?
思っても無駄なことだ──文次郎は浮かび上がりかけていた思考を捨てた。
「。落ち着け」
「嫌……嫌……、い、痛い……」
やめてくださいと、蚊の鳴くような声では訴えた。
訝しく思い、文次郎はからいったん身体を離した。
薄暗闇の中に白く浮き上がって見える、太股のあたりから布団に流れ落ち染みを作る赤が目に入る。
「は…… は……? おまえ、は、初めてかよ!?」
何年人妻やってたんだ、と文次郎は思わず場違いな突っ込みを入れた。
涙に濡れた目が見上げてくるばかりで、答えは返らなかった。
「い、言えよ、そういうことは……」
わかったとたんに気が萎えてしまった。
文次郎はさっさとに背を向けると、脱ぎかかっていた着物を着直した。
ぐす、と後ろでがしゃくり上げるのが聞こえ、振り返る。
が起きあがり、震える手でどうにか着物を整えようとしているのが見えた。
ほっそりした肩に長い黒髪が流れる。
華奢なその身体を不必要に痛めつけてしまったことを、目の当たりにして文次郎は今更後悔した。
しかしまさか、もう何年も人の妻で居続けてきたこの娘が、男を知らないとは思わなかったのだ。
文次郎ははぁ、と聞こえよがしにため息をつき、しぶしぶといったようにのほうを向いた。
「……悪かった」
嫌がるをどうにか己のほうへと向き直らせ、乱した着物をちゃんと着せてやると床へ横たえ、布団をかけてやる。
「……疲れているはずだ。少し寝るといい。
俺が言っても何の慰めにもならんが、……朝までこの部屋へは戻らんから、安心して眠っていいぞ」
泣きやまない妻の髪を撫でようとすると、はびくりと大袈裟なほどに身体を震わせた。
怯えられて当たり前なだけのことを文次郎はにしてきている。
こんな反応をされても仕方がないとわかっていても、文次郎は少し、の様子に傷ついた。
何も言わずに顔を背け、文次郎は腰を上げると部屋を出た。
ショック療法でに声が一瞬戻ったのはよかったと言うべきか、否か。
手柄を手にしてこんなにも憂鬱な思いを抱いたのは初めてだった。
(……最初に聞いた声が悲鳴だなんてな)
彼を拒否する言葉だった。
耳の奥にベッタリと貼り付いたようにその響きが残り、彼の脳裏を走り抜けて締めつける。
こんなはずではなかった。
悪夢はの身の上にだけ降ったのではなかった──彼はこの一年間に思いを巡らせ始めた。
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