実力を見込んでの頼みだと、あの手この手で迫られて気が傾いた。
二・三か月どころの話ではない長期の仕事になると、把握したのはずいぶん後になってからだ。
文次郎は最初にその気になってしまったことを軽薄の極みであったと後悔した。
けれどたったひとつ──最も欲していて、決して手に入らないだろうと思っていたものを、
文次郎は手に入れることになった。
夢醒めやらぬ 二
ある城のあるじを最終的には殺害すること。
これが最初から言い渡されていたこの任務の達成目標であった。
言い方を変えればひとつの城の乗っ取り行為である。
ことを確実に、スムーズに運ぶため時間をかけて慎重でありたいと、文次郎を雇った男はそう言った。
此度の彼のあるじは、標的である城主の実の弟である。
長子でないがゆえに跡継ぎとは認められず、自身の祝言を機に書類上は分家しているものの、
政においてはその発言が重要視されるだけの立場を今なお持っていることには違いない。
金持ちの考えることはわからんと、文次郎は内心でそんなことを思った。
現状で満足せずあくまで上を目指し続ける。
場合によっては聞こえもよかろうが──過去在籍したあの学園では己がそうであったのだし──
この任務を文次郎ほか部下達が達成することとなれば、この男は実の兄を殺すことになるのだ。
血で血を洗うこの時代、騙し合いに殺し合い、戦とて珍しいことではないとはいえ、
地位と金、そういったものにしか価値を感じることのできない類の人間では文次郎はなかった。
明らかに仕える相手を間違えた。
普段なら滅多にしないだろうミスに文次郎は舌打ちする。
かつての同級たちが知ったら哀れそうに笑うことだろう失態、否定のできない文次郎にはこの上ない屈辱である。
それも一年近くの長きに渡ると予想されるとんでもない仕事だ。
気が進まない──標的の人となり、取り巻く人々や環境、そんなものを偵察するために城へ潜り込むまで、
文次郎は往生際悪く煮え切らぬ態度を隠せずにいた。
しばらくの仮の立場は、武士・潮江文次郎である。
出仕したての若武者がいきなり城主の側仕えになどなれるはずもないが、城内を探るには都合がよい。
任務でたびたびの活躍を果たした忍刀は今度ばかりは使えない。
刀と脇差を腰に吊し、どことなく慣れぬ風貌の武士姿を仕立て上げ、文次郎の新たな任務は幕開けとなったのである。
いざ出仕が始まれば、城主暗殺の隠された企て以外には不穏な空気を持たない城であった。
あまり平和なその城内に、文次郎は拍子抜けしてしまった。
使用人達も仲がよく、一瞬見たところでは近寄りがたい雰囲気を持つはずの文次郎にも誰もが気軽そうに声をかける。
情報収集には思ってもないほど好都合である。
まずは表向き差し障りのない程度、周囲の口に上る大小さまざまな話から集めることを試みた。
偏りのないようと同じ勤めを持つ男達にも話を振ってはみるが、厨などに勤める女達のほうがよほど口が軽い。
腹が減ったから何かつまみ食いをさせろと厨に出入りをするようになってしばらく、
文次郎は最初の具体的な情報を得ることになる。
厨の女達は食べ盛りの武士の青年をおおむね可愛がっている様子で、調理台の隅に隠すように座らせてやり、
握り飯など与えると聞き手のなかった新しい噂話をここぞとばかりに畳みかける。
“きかない顔をしてるけど話のわかるいい子よね”などと、子呼ばわりされて少々ムッとはするが、
情報として噂話も貴重ではあるから大人しく耳を傾けるのは当然のことである。
その日は厨の中でも女達のまとめ役を果たしているらしいひとりの女が文次郎の話の相手であった。
厨の中がいつになく雑然とした空気であることに文次郎は気がつき、問うた。
女がああ、そういえばねと答える。
「今日は午前中に御台様が厨にいらしていたのよ」
「御台様って……」
「お館様の奥方様よ」
「な・なんでそんなお偉い女人が厨なんかに出入りするんだ? 変わった城とは思っていたがあんまりだぞ」
「そうよねぇ、普通はねぇ。でも、それがお館様の教育方針なのよ」
文次郎はうっかりと食べかけの握り飯を取り落としそうになって慌てた。
妻に厨で教育とはどういうことだ?
文次郎が不思議そうに眉をひそめたのを見やり、女は可笑しそうに続ける。
「お館様はねぇ、こういうこと言っちゃあ何だけど、もうお年を召していらっしゃるから。
御台様はまだ二十にもならないお若い方でね、お館様は御台様の先を案じていらっしゃるのよ。
自分が先に逝くことは確かなのだから、御台様がお一人残されたときに困らないよう、
立場に甘んじずになんでもできるようになっておきなさいってね」
「……それで厨で煮炊きを仕込むってわけか」
「そういうこと」
夫婦というより父と娘のようなのよねと女は苦笑した。
まったくその通りだと文次郎は思った。
また仕事へ戻っていった女の背を見送り、自分は残った握り飯にかじりついた。
確かに、城主の年齢を考えれば、御台の先行きはもっともな心配である。
文次郎たちが懐に抱く殺害の計画が実行されれば、それも無駄な心配になってしまうはずだが。
天寿より早く、城主には人の手によって死がもたらされる。
そして彼の心配よりも早く、若き御台はひとり残される。
文次郎の雇い主は性格が汚く、殺した城主の妻をわざわざ生かしておこうなどとは思わないだろう。
結果がどうあれ、御台の行く末も不幸に満ちているとしか考えられなかった。
つまみ食いを終え、ごちそうさんと声をかけてから厨をあとにする。
興味がわいた。
本職に一度戻ることにするかと文次郎は考える。
城主と御台の様子を盗み見に、文次郎は忍の任務へと思考を切り替えていった。
城主の寝間ともなれば、忍んで行くには相当骨の折れるところに位置していた。
当然のことであるが道々人目は多く、やっと天井裏あたりへ行き着いて御台らしき娘の弾むような声が聞こえたとき、
文次郎は安堵してやっと張りつめっぱなしだった気を取り直すことができた。
油断ならぬのはこのあとである。
勝って兜の緒を締めよ、もとい、現状なれば忍び込みに成功してなお警戒を怠るな。
物言わぬ天井板にでもなったつもりで、文次郎はわずかな隙間から夫婦の様子を見下ろした。
「……せっかく上手にできたのに、旦那様ったら酷い」
「これはすまんかったな、。しかしワシとて不本意な急用だったのだ、許してくれ」
「いいえ、は怒りました。日持ちしない菓子でしたもの、旦那様の分は取ってございません」
「これこれ」
老人が若い娘に謝り倒す図が文次郎の目に飛び込んできた。
これが夫婦か?
目を疑ってしまった。
続く会話から察するに、午前中に厨で作ったという菓子を御台が夫に振る舞おうとしたら、
当の夫は城主としての仕事であろうか、唐突な用事が入り妻に構う暇が無くなってしまった。
御台はそれで拗ねて、夫の分の菓子を残さずに全部食べてしまったと、そういう喧嘩である。
ほのぼのこの上なかった。
「では旦那様、明日は刺繍を教えていただきますの。旦那様の扇袋をお貸し与えくださいませ」
「あれはワシが大事に使っている品だぞ、上手く施せるかの?」
「やってみせます!」
「よしよし、わかったわかった」
まるで子をあやす父親というたとえはまさに言い得て妙であった。
耳をすましつつ、文次郎は子細二人を観察した。
城主のほうはいかにも人のよい老人で、髷はまっ白、齢は六十を過ぎようか。
見守るように目を細めて御台を見つめており、そのおだやかな表情には慈愛が宿る。
正直なところ、凶悪な顔をした雇い主の実の兄とは思えぬほどの柔和な顔立ちである。
一方の御台は顔立ちが幼なづくりなのか、まだ少女のような印象が拭いきれない。
己のことを名でと呼び、拗ねたりわがままを言ったりしてみる様は子どもとしか言いようがないが、
それが女が“特権”とずるい呼び名をつけて駆使するわざであるから始末の悪いことだ。
深窓の令嬢たる御台がくの一のように小狡いわざに長けるはずが無かろうから、これは天然である。
よく通る声は耳に心地よく、鈴を転がすようなという例えはこのためにあろうと思わせる。
長い髪はよく手入れさせているのだろうが美しく濡れたように黒く輝き、髪紐一本でただまとめてあるだけである。
城主の寵愛を一身に受ける身であるはずが、その身なりは意外に素朴で、
もう少しその質を落とせば町娘で通じてしまうのではと周囲が困るような出で立ちである。
いくらなんでも城主の妻がそれでいいはずがないが、これも一種独特な教育方針の結果なのだろうか。
変わり者らしい城主と甘えたがってみせる御台との最初の印象をとりあえず今日の収穫として、
一度に深入りはせずに文次郎はその場を去ることに決めた。
慎重に時間をかけよと雇い主は仰せだ。
それからというもの、彼は夜毎忍び装束に身を包んでは城主と御台の身辺を探るようになった。
見れば見るほど拍子抜ける不思議な夫婦である。
城主は妻を娘か孫娘かのように可愛がり、わがままを聞いてやり甘やかしているが、
ときどきは親が子にそうするように御台を叱ったりして泣かれて困る姿も見受けられた。
二人の一挙手一投足に文次郎は呆れたり笑いをこらえたりイライラさせられたり、
とにかく見ていて飽きの来ない標的であった。
いざ殺せと命令の下る日が来なければいいと、思わず願ってしまうほどの微笑ましい光景。
帰りを待ってくれくだらない話に笑いあえる妻など己には無いから実感はわかないが。
その気持ちを羨みと知るまで、文次郎はしばし考えにふける羽目になった。
出仕し始めてから半年近くも経った頃、
さすがに慣れた顔として城の中のどこを歩いていても見咎められることがなくなった。
文次郎は少しずつ少しずつ、行動範囲を中枢へと向けて伸ばしていった。
城主が午後に茶を飲みながら庭を眺める習慣を持っていることは、それまでの調査の成果でわかっていた。
その庭が、表立って偵察に入ることのできる範囲の中ではいちばん奥まったところと思われた。
それ以上奥へ行こうとするとさすがに怪しまれるはずだ。
日々、何気なく歩く様子で、文次郎はその庭の周囲をうろついた。
花の生け垣の向こうに城主と御台の姿が見えるばかりで、さすがに会話は聞こえぬ距離である。
幾度もそれを繰り返した結果、やはりそのあたりに文次郎の姿を見ても誰も怪しむということをしなくなった。
そもそもが他人に対する警戒の薄い城である。
よその土地の動向には敏感であるが、身内に敵などいないと思いこんでいる節がある。
平和というより平和ボケ、その体質に文次郎自身は危機感を持つが、
しょせんは任務を終えれば他人事だと彼は思いを切り捨てた。
危ういところに立っているのは自分のほうである。
野望を叶えんとどす黒い陰謀を抱く雇い主よりも、仲睦まじい様子の城主と御台のほうに心はとうに傾いている。
ことに、己と同じ年とわかった御台にはことあるごとに目を奪われる。
ばかな、この俺がと文次郎は何度もその考えを打ち消そうとしたが、
そのたびに想いは膨れ上がり彼の内で存在感を増すばかりである。
下手をすればこの手で殺すことにもなりかねない女に懸想するなど、愚か以外の何ものでもない。
それをわかっていて断ち切りきれぬとは落ちたものだと文次郎は自嘲するばかりであった。
忘れてしまえ、そう肝に銘じ、文次郎はこれが最後と庭への偵察に出かけた。
来なければよかったと思わされた。
城主にしなだれかかり、抱きしめられている御台の姿が目に入った。
それまで彼の見た限りでは、二人は一度も夫婦らしいふれあいを持っていなかった。
妻の髪を愛おしそうに撫でる仕草は愛情に満ち満ちていて、それを受ける自身も幸せそうな顔をしている。
二人がお互いを大切に思いやっていることが嫌というほど文次郎にはわかった。
城主が何か話しかけているが、それを聞いてのほうは顔を曇らせる。
これまでも時折城主は妻に、自分が死んだらお前は、というような話を聞かせていた。
はその話をいつも嫌がり、そんなことを言わないでくれと悲しそうに頼むのだ。
きっとまたその話が始まったのだろうと文次郎は思った。
は嫌々とかぶりを振っている。
なだめるように城主はまたその髪を撫でてやり、何事かを囁く。
が悲しそうに伏せた目が、唐突に、なんの前触れもなく──文次郎をまっすぐに見つめた。
その一瞬で鼓動が跳ね上がる。
時間が止まったかと錯覚をした次の瞬間には、の目は老いた夫を見つめていた。
半年以上ものあいだ、かげに隠れ一方的に見つめ続けてきただけの自分の姿が、初めての視界に映し出された。
おさまりきらない鼓動を無理矢理にでも沈めたくて、文次郎は踵を返すとその場を去った。
それからまもなくである。
城主殺害の詳細な計画が、部下達に密やかに通達された。
任務は任務である。
こなすだけだ。
プロの忍として数年を生き延びてきた文次郎は、任務のために非情であるということを改めて学んでいた。
城主の命を奪い、その妻は殺さずに捕らえること。
文次郎は完璧なまでの手際でその任務を遂行したが、己の中のなにかを標的と一緒に殺してしまった。
己の手にかかり、刃に裂かれて失われたもの──のうつろな目が返り血に濡れた文次郎の姿を見つめたとき、
彼はその欠落にやっと気がついた。
己を押し殺して任務にだけ集中していた意識がぱっと散乱した。
暗闇の中に動揺が走る。
殺人者たる彼こそがに恐れられて然りであろうに、の目が恐いと思ったのは文次郎自身のほうだった。
心ひそかに想いを寄せた女が、なんという目で己を見つめているのか。
恐れながら、それでも文次郎はそれでいいと思った。
愛した女から大切なものを奪ったのは自分自身である。
憎まれることが罰ならば甘んじて受けてやる──文次郎はそう、心に決めた。
だから彼は、そのまま忍の任務に忠実な態度で臨み続けた。
御台は殺さずにあるじに差し出した。
若く美しい娘を、これからどのような運命が待ち受けるか。
考えたくもなかった。
一年かかると覚悟していた仕事は、実質七か月ほどで終わりを見た。
しかし。
うとうととしていたのに気がつき、文次郎はふと顔を上げた。
常に気を張っているはずがうたた寝など、普段ならば考えられない抜けようである。
よほど疲れていたのだろう。
気がつけばもう朝方である。
──今は夢にも思わぬ成りゆきで己の妻となった娘のことを考える。
の眠っている部屋のほうをちらと見やった。
気配は時折ぐらぐらと揺らぎ、また静まっていく。
安心して眠れとは言ったが、無理な話だろうと文次郎もわかってはいる。
今は城主の座についたあの男に嬲られ殺されるのと、
目の前で夫を殺した男に娶られるのと、どちらが残酷な運命だというのか。
どちらであってもには苦しみが迫る。
ひそかにではあるが想っていた娘だ。
せめて──せめて。
己で気の回る程度などたかが知れているが、せめて、何事ものよいように取りはからってやりたい。
が触れるなと言うのなら、名目上ばかりの夫婦となろうとも構いはしない。
無骨者の己にはどれほども心細やかな扱いなどできはしなかろう。
のぼる朝日が少しずつ彼の視界を晴らしていく。
明るさの中にしだいに存在感を増していく、彼を取り巻く全てのものが、彼を拒否しているように見えた。
文次郎は自嘲気味に息を吐いた。
そんな妄想に取り憑かれるのも、息苦しさを感じるのも、任務に対して初めて抱いた罪悪感のため。
俺もまだまだ修行が足らん。
諦めたつもりでも、心の奥底に凝る何ものかは、彼を責めることをやめはしない。
愛した女から遠く憎まれ続けることが罰だと思っていた。
手の届く距離で、夫婦という名の関係を結びながら、その憎しみを始終身に受けることになるなど、
文次郎は想像もしていなかった。
のそばに己がいることで、なおいっそうを苦しめ、悪夢のような出来事を思い起こさせる。
憎まれ続けることよりも重い責め苦を彼は知り、己の無力にただ──声もなかった。
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