昨夜の酔っぱらい一同は、翌朝には酒の抜けてすっきりとした顔で食堂に現れた。

すでに厨房にやってきていたは皆に茶をいれてやりながら、

おはようございますといつも生徒にするような朗らかな挨拶を彼らへ向けた。

ちゃん、文次郎は?」

「はい、鍛錬ではないでしょうか、起きたときから姿が見えませんでしたから」

小平太の問いにいつものことですものと答えて、は苦笑する。

一方の彼らは、の答えから昨夜文次郎ととのあいだにあったであろうあれやこれやを思って

ややしらー、としてしまったが、がどことなく晴々とした様子であるのを見て、

やっとうまくいったらしいのならまあ良かったかと、視線を見交わしては含み笑いを漏らすばかりであった。





夢醒めやらぬ 二十四





朝餉の支度がやっと整おうかという頃、文次郎は厨房の勝手口へ顔を出した。

「おはようございます。お帰りなさいませ。

 せっかく任務からお戻りになったのですから、ゆっくりなさればよろしかったのに」

「そうも言っておられん……ひと月怪我で伏せていたからな」

積もった雪もとけない程度には寒い朝であったが、文次郎は手ぬぐいを取り出して汗を拭った。

「風邪をお召しになりますよ」

「ああ、先に湯を浴びてくる」

「学園はもう年末年始のお休みですから、朝に湯殿の支度はされていません。

 こちらに湯を用意してありますから、これをお使いになってください」

文次郎は眉をひそめ、改めてを見た。

早朝に鍛錬に出たのはいつもの癖というやつであったが、

がそれを察し・湯殿が閉まっていることまで考慮に入れて、

汗を拭うための湯をわざわざ用意しているとは文次郎は夢にも思わなかった。

ありがたく湯をもらい受けることにしたがしかし、使うのは食堂の外でと追い払われることになる。

桶に湯を移すを文次郎はじっと、感慨深い思いで見下ろしていた。

昨夜のすべてを、まるで何事もなかったかのように互いにふるまっているが、

時折絡む視線や格段に明るくなった表情、仕草のひとつひとつが甘く匂い立って感じられることなど、

の姿の端々からは幸福な感情がにじみ出ているのが感じられた。

向かい合って立っているとそれを四六時中肌に受け続けているようで、

なにも言わずともお互いに自然と受け入れ合うことができたのがわかった。

文次郎が心底から満ち足りているのは言うまでもなかったが、

も同じであることが容易く見て取れて、それで文次郎はまた更に満足を覚え、安心する。

はい、どうぞと身を起こしたとまた目が合ったが、なにやら照れも焦りも感じることがなく、

ふたりはふと当たり前のように微笑み合った。

「朝餉のお支度を整えておきますから」

「ああ」

桶を抱えかけて、文次郎はふと思い出し、懐に手を突っ込んだ。

は不思議そうに首を傾げる。

「土産だ」

軽く握り込んだ拳を差し出され、はその中を察せられぬままで両の手を差し出した。

ぽん、と無造作に文次郎は手の中のものをの両手のひらの上に置き、

さっさと桶を抱えると勝手口から出ていった。

はぽかんとその背を見送っていたが、ややあって手の中に置かれた土産とやらを見下ろした。

「……まあ」

手の上に乗っていたのは、名前も知らぬようなちいさな花である。

雪のあいだに咲いていたのか、鍛錬のさなかに文次郎はそれに目を留め、妻を想って一輪を摘み取ったのだろう。

「……この花の一節のうちに百種の言ぞ隠れるおほろかにすな」

万葉の恋の歌を思い返して呟き、胸の内が疼いてしかたのないようで、は思わずふふと笑った。

そこへ、

「この花の一節のうちは百種の言待ちかねて折らえけらずや」

涼やかな声で反歌が返り、は大慌てで振り返った。

実に愉快そうな笑みを浮かべたくの一が、おはよう、さんと言って寄越す。

「お、おはようございます、いつからそこへ」

「あら、食堂にはずっとおりましたけれど? 厨房は食堂からはほとんど隠れていませんのよ」

御存知でしょうとわざとらしく問われ、は背筋に冷や汗をかいた。

女の身ながらくの一の口調に圧倒されている自分に気づいて少々ショックを受けはする。

留三郎が言っていた、このくの一の声には重力でもあるのではないかという言は実に的を射ていたと思わされた。

先程、勝手口の近くに立ったままだった文次郎はほとんど食堂にいる一同を気にかけようとしなかったらしいが、

恋の叶った翌朝のふたりを見逃すまいと、彼らはふたりに気づかれぬように注目していたわけである。

「潮江くんも気のきいたことのできるようになったものね? ねぇ、聞いたでしょう、立花くん?」

くの一はわざわざ仙蔵に話を振った。

一方の仙蔵は考える人といった格好でうんと唸って、

「少し待て。今の私は冷静ではない。思考回路がビジー状態だ」

先程のひと光景を反芻しているらしかった。

ややあって、汗を拭い着替えを済ませた文次郎が食堂へ戻ってきたが、

一同はなにやらもの言いたげな様子を隠しきることがどうしてもできず、

文次郎にじろと睨み付けられて黙るよりほかのない状態に陥ってしまった。

ただひとり、は焼き物の椀に水を張り花を浮かべ、

にこにこと嬉しそうに一同の給仕に立ち働いた。



朝餉を済ませ、片づけもすべて終わらせて、は文次郎に連れられて学園からいちばん近い町へ出かけた。

くの一教室の生徒たちと一緒に買い物に訪れたことはあり、なにとはなしに見覚えのある場所である。

なにか御用事がとがなにげなく問うと、文次郎は家を探すと素っ気なく答えた。

「……家ですか?」

「学園から近いとなにかと助かるのではと思ってな」

文次郎の言うことをぼんやりと飲み込んで、は黙ってその意味を考え始めた。

「……私と? あなたの?」

「ほかになにがある。

 お前も希望があるなら言え、そこで大半の時間を過ごすのはお前のほうだぞ」

「……はい」

思ってもみなかったがよく考えれば当然のことを言われ、はまたぼんやり返事をする。

文次郎が足を止め、怪訝そうな顔での視線を遮って覗き込んでくる。

「どうした」

「いえ、どうもしません……そうですね、前の家には戻れませんものね」

「ああ」

あまりいい思い出がないだろうと文次郎は言いかけたが、

余計なことを思い出させるかもしれないのがいやで、口をつぐんでしまった。

ごまかすように別の話題を振る。

「……学園にいつまでも甘えるわけにはいかん。

 もともと図々しい頼み事だったしな……俺が帰るまでというのは当然のことだ。

 学園長先生がお戻りになるまでは留守番役で滞在するが、それまでには決めておきたい」

はうんと頷いた。

文次郎が忍の仕事を退くことは恐らくないだろうから、

そこでは大半の時間を“ひとりで”過ごすことになるはずである。

どのような家と言われて希望があるわけではなかったが、

またひとりで待ち呆けるのかと思うと少しばかり寂しい思いがよぎるのは事実であった。

「……希望は、特にはありません……

 この町ならばまわりのことも少しは知っておりますし、大丈夫ですから……

 あなたがお帰りになるのに、都合のよろしいようになさってください」

考え考え、は言った。

文次郎も数瞬考え込むような仕草を見せる。

一歩後ろを歩くを肩越しに振り返った。

「……俺はいい。お前が暮らしやすければそれでいい。

 どのみちお前のいるところに俺は帰るんだ、それがどこだろうが」

はぽかんと彼を見上げた。

しばらく離れて、再会を果たして、やっと結ばれて……ある一線を越えてしまうと、

文次郎はさらりとを照れさせるようなことも言ったりやったりしてのける。

あの“土産”もそうだ。

「文次郎様……なんだか変わられました?」

「あ?」

「……お気持ちをうかがえるのは、嬉しいですけれど」

が困ったように笑ったのを見つめてしばらく、

文次郎は己の発言の意味との問いの意味とを改めて思い知ったようで、

いきなり無愛想な声でばかたれと呟いてぷいと前を向いてしまった。

くすくすと笑いながら、はそのあとに続く。

このような幸せな時間の訪れを、ずっと待ちわびていたのだ。

文次郎がまた任務へ復帰すれば、この平穏は破られてしまうが。

せめてそれまでのあいだを、できるだけ一緒に過ごしたいとは思った。

「学園長先生には、お前が世話になった礼も申し上げるいとまがなかった。

 なんと仰るだろうな、今の俺を見ては」

「……ときどき、囲碁や将棋のお相手もしましたの、ほとんど私の負け試合ですけれど。

 そのときに私の知る限りのあなたのお話もしました。

 ……楽しそうにしておいででした、と、思いますけれど」

「そうか」

文次郎はおかしそうに笑った。

大抵勝てる相手とわかれば、は頻繁に学園長に呼ばれたことだろう。

五年を経ても様子が変わったとは想像しにくいあの老人を思い返し、懐かしく感じもする。

他愛ない会話を繰り返し、あちらこちらに寄り道をしながら、

ふたりは冬の町をそぞろ歩いて新居を探して回ったのであった。



つつがなく新年を迎え、松が明けた頃には学園にはちらほらと生徒が戻り、

賑やかな空気が立ち上り始めていた。

とりあえず文次郎は、顔見知りである唯一の学年・六年生──とりわけは組一同──に見つかると、

を待たせ過ぎたといってはもれなく罵声を浴びせられ、

あのように想われて幸せ者だとからかいを向けられればバカタレと怒鳴り散らしてあたりを睨み付けた。

教員方の戻りもまちまちであるようで、

かつての委員長達であると知れれば客たちは途端に臨時の講師とばかりに教えを請われた。

一方の彼らも五年間勤めあげた中で得たもの、

培ったものを後輩たちにあまさず伝えてやろうと熱心に応えた。

学園長が学園へ戻ったのは、ちょうどそんな光景も盛んに繰り広げられるようになった頃であった。

学園の中が無事であることを確かめ、宿直にあたったかつての生徒たちを労い、

おもむろに話があるんじゃがと切り出した。

庵に六人全員で並ぶことになり、学生時代に悪さをしでかしたときのような緊張感でもって、

彼らはそこに座して学園長の言葉を待った。

「潮江文次郎、無事で戻ったようじゃの。さんはなんと言っておった」

「は……いや」

とても夜毎の睦言を繰り返す気にはならず、文次郎はたちまち言葉に窮した。

とはいえ、この二・三日でくの一教室にも戻ってきた生徒が数人いたため

文次郎はくの一教室から出なければならず、

と夜を過ごすについては強制的におあずけを食らっている格好だ。

聞いている悪友五人は気の毒そうに・またなにか言いたげにくくと笑ったが、

それに怒ってみせるのもなにやらしゃくで、文次郎はとりあえずだんまりを決め込んだ。

学園長は特に気にかけた風ではなく、ふぉふぉ、と笑って切り出した。

「皆も緊張するでない、不穏な話じゃありゃせんからの。

 久々の学園生活はどうじゃった、後輩指導もなかなか面白いじゃろ。

 お前達は皆委員会の委員長をつとめておったし、教え役には慣れておるじゃろうがな」

一同は目を上げ、不思議そうに学園長をひたと見つめた。

ちいさな老人は六対の視線に不躾なほど見つめられてもチラとも動じることをせず、

茶をすすってから言葉を続ける。

「で、本題じゃが。

 来年度から、教職を退かれる予定の先生が何名かおるのじゃが」

わざとらしくそこで言葉を切り、学園長は六人を見渡した。

五年の歳月を経た彼らに何か思うところがあったのだろうか、目を細めて深く頷いた。

「……卒業以降今まで、無事で忍の任務を勤めあげてきた、その経験を……

 後輩を指導する役に立ててみる、という気はないかの?」

六人は聞いた瞬間は意味を理解できず、ただ目を見開いた。

やがて仙蔵が静かに口を開いた。

「……それは、我々に、この学園の教壇に立たないか──と?」

「そのとおりじゃ、立花仙蔵。どうじゃ?」

仙蔵はまだ驚いた様子をおさめきれず、わずかに視線を彷徨わせて黙り込んだ。

やがて答える。

「……いま、まだ手がけている仕事があります。

 この休暇のあとで山を迎えると思われます──その結果が出てみないことには。

 猶予はいただけますまいか」

「もちろん、よく考えて決めてくれて構わんぞ。

 五年かけて得た現在というものに、かけがえのない価値も備わっておろうからの。

 ……どうかの、中在家長次?」

長次は数瞬ばかり間をおいただけで、首を横に振った。

「……いまの仕官先で、すべきことが……残っております」

「そうか、そうか。なかなかめざましい活躍と聞く。

 期待しておるぞ、この先もの。──七松小平太?」

小平太はあまり考えずに即答した。

「楽しそうだけど、……私にもまだやりたいことが残っているから。

 もう少し経験積んで──まだ未熟と言われることもあるし、もう少し自分のために時間を使いたい。

 ……後輩は、もう知らない奴のほうが多いけど、みんな可愛いから。

 だから、中途半端なままで教えたいとは、私は思わない、です。

 人に教えられるほどに、ものを修めたら……そのときに力になれるんだったら」

学園長は納得したように頷いた。

「そうか。なかなか成長しおったわい、そのような答えが小平太から聞けようものとはの。

 では──善法寺伊作? 新野先生から先に話があったそうじゃが」

伊作は言いづらそうにゆっくり、口を開いた。

「はい──あの──僕は、忍の道は、退いています……」

学園長は問い返さなかった。

場に訪れた沈黙は、伊作に話の続きを促した。

伊作はひどくつらそうに、言葉を選びながら、言った。

「……家族が、います……彼女らは、僕の裏の稼業を何一つ、知らないのです。

 危険な目に遭わせたくないがため、僕はもうこの道へ戻る気は、ありませんでした。

 でも──迷って、います」

「うむ」

「……少し、時間をください。考えてみたいのです」

「よかろう。食満留三郎は、どうかの? 御妻女と同じ職場というのには抵抗があろうか?」

留三郎は落ち着いた様子を辛うじて崩さずに答えた。

「……抵抗というものは、感じませんが。

 夫婦で教員をつとめることは、生徒らのためにいいかどうか疑問です。

 また逆に……私たちの関係にとっていいかどうかも疑問に思われます。

 あれとは日々会えはしませんが……今くらいの距離感で、ちょうどバランスがとれておりますから。

 それに忍の任務のほかに実家の稼業にも担うところがあります。

 ……お受けできません」

留三郎は深々、頭を下げた。

学園長はまたうむ、と頷き、最後に残った文次郎をひたと見やった。

「……のう、潮江文次郎。

 さんは慣れぬ場で一生懸命、よく働いてくれたものじゃ。

 生徒たちは皆さんを慕い、先生方も親しく思っておったし……おばちゃんもさんを気に入っての。
 
 ずいぶん助かったと言っておるのを何度か耳にしておる。

 学園として、またワシ個人としてもの、さんにこのまま勤めてもらうというのも良いかとは思っておる」

文次郎はじっと、学園長の言葉の続きを待った。

学園長は茶をひとくち含み、ふと息をついてから、じゃが、と続けた。

「じゃが、……さんはずっと、忙しくすることで気を紛らわしながら、お前の帰るのを待っておった。

 いまやっとそれが叶い、幸せになれるというところ……邪魔をするのは無粋というものじゃ。

 さんさえよければ、学園へ居続けてくれても構わんのじゃが、

 ……きっとあの人は、お前と夫婦ふたりでいたいと言うのじゃろうなあ。

 そのことも踏まえてじゃ、潮江文次郎、お前はどう思う」

文次郎は思案げに唇を引き結んだ。

これは任務の依頼だ。

長くかかり、身を拘束されるが──恐らくほかの仕事よりもよっぽど安全な任務。

受ければ、しかしはその内容には安心するだろう。

家に長々・待たせることになったとしても、に襲い来る心配や不安は少ないに違いない。

なにしろ、自身が身を置いて知っている場所である。

文次郎は低い声で答えを絞り出した。

「……即答は、出来かねます。

 魅力的な話ではあります──学園長先生に、己の五年を、わずかなりと認めていただけた証と思えばなお」

学園長はぶふぉ、と笑った。

文次郎は途中時折考え込みながらも、続けた。

「……は、恐らく……ほかの任務へ向かうよりは安心して、送り出してくれるでしょう。

 私ももうそろそろ、次の仕事の算段をつけるべき時期を迎えております。

 お申し出は、折もよしと、言えます」

「ほうほう。それで」

文次郎はまた少し考えた。

思考のたびに言葉を切るが、思い浮かぶのはの幸せそうに微笑む顔ばかり。

そのそばにいて、存分に抱きしめてやれる己のことばかり。

「私も少し、猶予をいただきたく思います。

 ……と、相談をして……決めようと思います」

「そうか。あいわかった」

誰ひとりとして受け入れるという言葉を返しはしなかったが、学園長は満足そうであった。

また一同を見渡し、頷く。

「よかろう!

 皆がそれぞれの道を納得しながら歩んでおることを喜ばしく思う。

 この申し出はしばらくのあいだは有効じゃ。

 いまは断りを告げたものも、考え直してみてくれてもいいからの。

 良い返事を期待しておる」

堂々たる口調で告げて、立ち上がる。

場はそれで解散となった。

先を歩いて食堂のほうへ向かう友人たちのその背を見つめ、

文次郎は先程のやりとりを繰り返し思い出していた。

皆が皆、いまは抱える事情がある。

五年を経て久々に会っても、関係の変わらなかった得難い友人たちは、

それでも少しばかり離れたところを生きているもの同士に成り代わっていた。

(俺も同じだ)

今はがいて、ひとりがあるだけで変わっていくすべてのものに応じる己がいる。

このことを聞けばはなんと言うものだろうかと考えたが、

悪い予感は最初からチラとも浮かんでこなかった。

夜中に食堂のすべての片づけが終わるまで待って、文次郎はに学園長からの申し出の件を相談した。

は終始興味深そうにそれを聞き、話の終わりに静かに微笑んで頷いた。

「……私、忍のお仕事はちゃんとはわかりませんし、

 いまもって……良いこととは思いません、好きにはなれません。でも……」

よいお仕事のように思いますと、は言って控えめな笑みを浮かべた。

その微笑は、文次郎の脳裏にさりげなくとどまって、

と別れてあてがわれた部屋へ戻ったあともちらちらと眼前をかすめていくように思われた。

そしてそれが、最後の最後に文次郎の迷いを醒まし、背を押すこととなったのであった。



翌日の朝、元委員長一同ととは、学園を出てそれぞれの生活へと戻ることとなっていた。

すっかり学園に馴染み受け入れられていたはあちこちで名残を惜しまれ、

いつでも遊びに来いと幾重にも招きを受けた。

文次郎と友人たちともまたの再会を約しあい、各々の向かうほうへと歩き出す。

卒業の頃を再び演じたかのような別れはあっさりとしていたが、

互いのあいだに揺るぎない絆が横たわってあることが改めて感ぜられて、不安や寂しさのようなものはなかった。

かつてと違うことがあるとすれば、傍らにあるの存在である。

「文次郎様、学園長先生にはなんとお返事申し上げたのです」

「ああ、……まだ少し間があるからな、決定したつもりで返事をしたわけではないが。

 春になれば、俺はまたここへ戻ることになるだろう」

「……左様でございますか」

「それまで三月ほどあるか。その間は……ともに過ごせるだろう」

はまた左様でございますかと繰り返し、微笑んだ。

「文次郎様、お願いがございます」

文次郎は不思議そうにを振り返った。

は少しばかり緊張気味に言った。

「……いつでもよいのです、御都合の着く頃で構いませんから、両親と、……城の皆を訪ねたいのです。

 もしよろしければ、文次郎様も御一緒に」

あまり乗り気ではないだろうと気遣って、の口調は終始控えめであったが、

文次郎はそう気にしたふうでもなくああ、わかったと答えた。

「それから? ほかにはなにをする。時間はまだまだあるぞ」

「はい」

「なんだっていい。どんな些細なことでも。思いついた端から全部」

はくすくすと笑みをこぼした。

明るい日差しが薄く積もった雪に乱反射して、視界はまるで光にあふれている。

そのなかでの笑顔は、このうえなく明るく愛らしく、文次郎の目に映った。

やっとなんの不安もなくそばにあり、見つめていられるそのことが、この時間が、

到底信じられぬというほど純粋に愛おしくてならない。

文次郎はの細いゆびを引いた。

手を繋ぎ、肩を並べて歩き、くだらない他愛のない話に笑い、

時折思い出したようにお互い目を合わせては言葉も交わさず微笑みあう。

このうえもない幸いの心地を噛みしめるように、

まだ誰も踏み入っていない真新しい雪の上を、ふたりは町へ向かって歩いていった。

繋がれたゆびさきを行き交うあたたかさは、醒めやらぬ夢に微睡むようにまろやかだった。





夢醒めやらぬ  了





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