文次郎の帰還後・ほとんど時をおかずに客は次々訪れた。

留三郎に続いて、文次郎とともにやってきた長次、小平太、

伊作と仙蔵はふたり連れだって食堂へ顔を出し、

文次郎の姿があるのを見てはなにやらもの言いたげにニヤリといやらしい笑みを浮かべた。

一応はまなびやである学園に自由になる酒などあるわけがなく、

手に手に持ち寄った酒をテーブルにどんと並べて彼らは満足そうであった。





夢醒めやらぬ 二十三





「どこかで見た光景だわ」

昔、とくの一が呟いた。

夫婦の再会が二組分もあったというのに男どもは気のきかないことで、

昔話と近況とに花を咲かせながら六人で酒を酌み交わしている。

食事の給仕を終えた女ふたりは、少し離れた位置でそれでも少しばかりの酒を舐めていた。

「嬉しいわ」

言われて意味が掴みきれず、は首を傾げた。

本当に舐める程度しか酒に触れたことのなかったは、おそるおそる杯を干す。

のどが灼けるように熱くなる、というたとえをそうして初めて実感した。

「昔はね、あの男臭いあいだに私ひとりが混じっていたの。……女同士なんて」

ふたりはふふっと含んだような笑いを漏らして微笑んだ。

夜はそうして静かに過ぎていく。

女ふたりは早々に飲み飽きて片づけをしに厨房に引き取った。

男たちは変わらずの大騒ぎで飲み散らかしていたが途中からひとりふたりとダウンし始め、

たちが片づけと翌朝の食事の支度までをすべて終えた頃には全員がうとうとと寝入ってしまっていた。

その光景には呆れて声も出なかった。

後ろから覗き込んだくの一もため息をつく。

「まったく、仕方のない人たち」

はくすくすと笑った。

「潮江くんは特に珍しい気がするわ、昔なら忍にはあるまじき油断だとでも言いそうね。

 ……懐かしい場所で、あなたがそばにいて、きっと安心したのよ」

「お酒が入ってからはほとんど話もしていませんのに」

「でも同じ空間にいるわ。振り返ったら見えるところに」

ただそれだけのことが文次郎の緊張をといたのだろうと言われ、は頬を赤く染めながらも首を傾げた。

たとえその通りだとしても、いつもいつも、文次郎はそんな素振りなど少しも見せてくれない。

先程までもただの一度もを振り返りはしなかった。

しかし文次郎が戻ってから、己の内にあった心許ない思いがかき消えているのも事実である。

文次郎がただ帰ってきて目に留まる位置にいるということだけで、

自分も無意識のうちに安心しているのかもしれないと思う。

客たちの泊まる部屋を整えてくると言い置いて、くの一は食堂を出た。

手伝おうとあとに従いかけると、あなたは旦那様の介抱をねと微笑まれ、は中途半端に立ち止まる。

文次郎はテーブルに伏してうつらうつら、眠っている様子だ。

しばらくその姿を見つめたあとで、はいま思いだしたとでもいうように顔を上げ、

食堂で立ち働くあいだにもいつもかたわらに置いてあった針仕事の道具を持ち出した。

やっと仕上がった着物を広げて文次郎の肩にかけてやり、

自分はその隣に座して縫い始めてあった綿入れの仕事の続きに取りかかる。

無心に針を動かしてしばらく、ふと目を休めて視線を手元から離したそのとき、

文次郎が格好だけは眠った状態のままですでにぱっちりと目を覚まし、じっとを見つめていたことに気がついた。

「あ、……起きていらしたのですか」

「ああ」

「いつから?」

文次郎は無言で、肩にかけられた着物に視線をやった。

は少しばかり拗ねた口調で返す。

「……悪趣味です」

「すまん」

気怠そうな仕草で文次郎は身を起こした。

「……皆落ちたか」

「もうずっと眠っていらっしゃいます」

「あいつは」

「皆様のお部屋のお支度に」

ふん、と相槌のような呻きのような返事を文次郎は寄越す。

改まってふたり向かい合うとうまく言葉を継ぐことができなくて、は静かに焦り始めた。

反して文次郎は落ち着いている様子で、テーブルに頬杖をついてまたじっとを見やっている。

視線に肌を刺されるようで、は居心地悪そうにわずか、身じろぎした。

「……どうだ、学園での生活は」

「はい……皆様、とてもよくしてくださいましたので……すぐに馴染みました」

「そうか。なによりだ」

頷き返したきり、はまたなにも言えなくなった。

の焦りに気づいているのかどうか、文次郎は気にかけるふうではなく続ける。

「旅のあいだはどうだった。……危なかったのだろうな」

「皆様が助けてくださいましたから。こうして無事でいます」

「ああ。よかった」

なによりだと、文次郎はまた繰り返した。

はふと、小さな違和感を覚えて俯きがちだった目線を上げる。

文次郎の様子は変わらないように見えたが、同じ言葉しか返事として出てこない程度には平静さを欠いているらしい。

自分ばかりが訪れた幸福の予感にふるえているわけではないと知るや、は逆に少し落ち着くことができた。

気にかかっていたことをおずおず、問いかける。

「……お怪我をなさったと、うかがいましたけれど」

「、誰だ」

文次郎はちっと舌打ちをした。

「口止めをしてあったものを」

「私がわがままを言ったのです。……あまりにも、お知らせの少ないことが恐ろしくて」

聞いて、文次郎は気まずそうに顔をしかめた。

「……もう、お前は触れぬほうがいい世界だと、思っているからな」

「無茶を仰らないでください、あなたが夫でどうして切り離されましょうか」

きっぱりと言い返されたのがよほど意外だったのか、文次郎は目を丸くした。

その顔のままで不自然に彼は問う。

「迎えが来ただろう」

「お迎え?」

「城と、お前の実家から」

ああ、とはあのふたりの使者を思い出した。

「はい、あのお二方とは久しぶりにお会いしました」

「……着いていかなかったのだな」

「あなたが待っていろと仰ったのです、ここで、帰るまで。

 私もおうかがいしたいのです、文次郎様、なぜ城へ、の家へいらしたのですか。

 私を迎えにいくものがあるかもしれぬとあなたは思いながらそうなさったのですね」

「……そうするのがいいと思った」

「なぜ」

「……俺とお前はまだ赤の他人だ。

 忍としての仕事でもあったが、お前の前の夫のもとと両親のもととを一度訪ねたかっただけだ」

は不満そうに眉根を寄せる。

人を待たせておきながら余計なことばかりを重ねてと視線で訴える。

言うまでもなく通じたようで、文次郎はその視線から逃げようと苦しそうにそっぽを向いた。

表情ははっきりとうかがえないながら、その頬は見るからに赤い。

そのままの格好で、ぼそりと低く呟いた。

「……まさか元婚約者とか、出てくるとは思わんだろうが」

予想外の事態に多少は文次郎も焦ったらしい。

その焦りと逡巡が恐らくその足を迷わせ、使者達が学園を訪れるよりも文次郎の帰還を遅らせた。

先に回ろうという魂胆よりも、が使者に着いていくことを選ぶかもしれないという考えのほうを重く見てしまったのだ。

はまだ怒り混じりの声で言う。

「それで躊躇っていらしたというのですか、ずっと、今日まで?

 お気持ちがあるのなら、さらわれても奪い返すくらいの度胸を見せてくださってもいいのに!」

「……お前、くの一連中になにか吹き込まれたろ」

「いいえ! 私は私自身の怒りでもって申し上げているのです。誤魔化さないで」

ぴしゃりと言い放たれて、とうとう文次郎が言い負けた。

彼は口をつぐみ、ぷいと視線をそらし、ひどく言いづらそうにすまんと呟いた。

強気になってものを言ったおかげで、の感情は高ぶり始めていた。

のどに集まっていた熱が頬へのぼり、やがて涙が浮かぶ。

視線を戻して文次郎は、が泣きそうになっていることに気づいてはっとした。

「もう、……もうなにも申し上げることなどありません」

かたく告げるその声も震える。

「もう、いいではありませんか。なにもかも。もう」

すべては過去で、今は今である。

ぽつりと、の目から涙がこぼれ落ちた。

文次郎はゆっくりとまた身を起こし、のほうへ手を伸ばした。

そっと髪を撫でてから、ぎこちなく腕の中にを抱き寄せる。

「わかった」

文次郎が抱きしめるその腕に力を込めようとすると、気づいたが身じろぎをする。

「あ……針が」

「置けそんなもん」

もうなにもかもいいと言ったのはのほうだ。

構わずに唇を合わせようとして、その一瞬まえに文次郎はぴたりと動きを止めた。

覚悟をしかけていたは不思議そうに、不安そうに文次郎を見上げる。

文次郎は苦虫を噛みつぶしたような顔をし、

バカタレがと呟くと素っ気ないほどさっさとから離れて席を立ち上がる。

、お前いまどこに暮らしてる」

「え、……くの一教室の、敷地の奥です」

「……行くぞ」

文次郎はを見もせずにひとりで食堂を出ようとする。

は慌てて針仕事を片付け、それらを抱えて立ち上がるが、寝入る男たちを躊躇いながら振り返る。

「でも、……皆様を置いては」

「いい、放っておけ。馬鹿は風邪なぞ引かんと言うだろ」

野暮な野郎も同様だと、文次郎が付け加えた呟きの意味には気づけない。

「まあ、そんな言い方」

「あのな、

「せっかくお力を貸してくださって、それで……」



の言うのを、文次郎は呼んで強く遮った。

それで初めて、は文次郎がじっとこちらを見つめて待っていることに気がついた。

「……いいから」

静かに絞り出されたそのたった一言だけに、は説得されてしまった。

困ったように視線を彷徨わせてしばらく、

は結局・裁縫箱と二枚の着物を抱えたままで文次郎について食堂を出た。

ふたりが去ったあとの食堂で、五人はしんと眠った格好のまま固まっていたが、やがてぼそぼそ、話し出す。

「……起きるタイミングってなー……」

「せめてさんにはばれずにすんだよな……」

それ以降はそれぞれなりに考えるところがあったのか、言葉なくため息がこもるばかりであった。



冷え切った廊下を、ふたりは黙ったままで歩いた。

一歩先を歩く文次郎をは時折ちらと見上げたが、彼が振り返ることはやはりない。

くの一教室の敷地の前までやって来てやっと、この先はわからんと彼は足を止めた。

忍たまの敷地とのあいだを遮っている門をくぐって、は中へ文次郎を招き入れた。

「山本先生も、生徒さん達も、年明けまではお留守です。

 本当は殿方をお招きしてはいけないと言われているのですけれど」

「ああ、俺も数えるほどしか入ったことがない」

珍しそうに一歩踏み入った文次郎の後ろで門を閉め、は眉をひそめた。

「入っていらしたことがおありなの?」

「昔。数度」

苦い記憶もよぎったが、口に出すことはしなかった。

「……それはお風呂の事件のとき? 屋根に穴を開けた事件のとき?」

「……お前は俺にいったいなんの罪を着せたいんだ」

濡れ衣だと呟いて文次郎は苦い顔をしてみせるが、

の言う事件とやらのおぞましさは過去あった他人事の話でありながらも鮮明に記憶していた。

今も昔も、くの一の強いことには変わりがないらしい。

「あら……どうしましょう、雪で埋もれて」

いまもなおちらちらと降り続けている雪が、門の奥に続く地面のすべてを隠してしまっていた。

「……仕掛けや罠が目一杯あるってことだな」

「はい、あの、お屋敷や教室を囲む部分にだけ。詳しくは申し上げられませんけれど」

「……お前もすっかりここの一員なんだな……」

ややしてやられた感に項垂れつつ、文次郎は呟いた。

「最低限どのあたりを踏めば無事でいられる」

「あの、踏み石の上でしたら」

「それなら判別がつく」

雪に覆われてその凹凸もわずかにしかわからないうえ、夜の闇に沈んでいるそこを判別できるとはと、

は初めて文次郎の忍らしい性質を見たような心地がした。

よし、と文次郎は言うと唐突にを抱き上げた。

きゃ、とは小さく悲鳴を上げる。

「すぐだ。しがみついていろ」

おかしそうに文次郎は言い、がおずおずと胸元の着物を掴むのを待ってから、

軽々・ひょいひょいと庭を横切り始めた。

一方のは罠のあるなし・文次郎の足元にハラハラさせられることよりも、

文次郎に抱きかかえられている己の現状にばかり意識を絡め取られて混乱気味であった。

視線のすぐ先にはもう文次郎の鼻先があるわけで、

少し身じろぎでもしようものなら唇の触れそうな距離である。

はぎゅっと目を瞑った。

触れ合っている部分がきつく熱を帯びる。

この時間がもっともっと長く続いてくれればいいのにと願わずにいられなかったが、

罠のない安全地帯へはあっと言う間にたどり着き、ここならいいかと降ろされてしまう。

途端に生まれるわずかな距離、あいだに割り込む寒気をはついつい恨みたい気分になった。

ろくな会話もできないままで、ふたりはの部屋へと辿り着いた。

見慣れぬせいかどうか、文次郎は外廊下に立って板戸を引き、

雪の降る向こうに月まで浮かんでいる光景に見入っている。

は黙ってあかりの火を灯し、火桶にも火を入れて室内をあたためた。

ふと、抱えてきた針仕事の道具一式に目を留めた。

縫い上がった着物を取り上げる。

「文次郎様」

文次郎は返事はせずにただ振り返った。

「こちらへいらしてくださいませ」

文次郎はまたなにも言わなかった。

開いていた板戸をぴたりと閉めて、途端に濃度を増した闇を分けて部屋へ踏み入る。

さりげなく見回した室内は寂しく思われるほどものが少なかった。

ほぼ身ひとつでやって来たにはほとんど持ち物と呼べるものはなく、

もともと学園のものであったらしい文机や行李などがすみに置かれている程度である。

よそに気をとられている文次郎の肩に、は仕上がった着物をかけた。

「……団蔵くんに背を貸していただいて、寸法をあわせたのです。

 よかった、肩はちょうどよいくらいですね」

文次郎は問うように瞬いた。

はその目に気づかなかったように、続ける。

「綿入れは、まだ縫い始めたばかりで……仕上がるまではもう少しかかりそうです。

 丈も大丈夫そうですね。袖を通してみていただけますか」

文次郎は少しばかり戸惑いつつ、言われたとおりに着物に袖を通した。

衿を引いて着物を着せかけながら、はまだ呟くように続ける。

その目は一向に文次郎を見上げて見つめようとはしていない。

「文次郎様もお手荷物は以前のあの家にほとんど置いていらしたのでしょう。

 いくらかお着替えがあったほうがと……拙い仕事ですけれど」

またも文次郎から返事のないことに、は少しずつ不安をつのらせた。

着せかけた着物の端を握りしめたまま、は俯いて唇を噛んだ。

肩がふるえたのを文次郎は見下ろして、また泣いているのかと不安に思う。

、と呼びかけたとき、遮るようには文次郎の胸にしがみつき、すり寄った。

「……御無事で、元気なお姿でお戻りになって、……本当に」

「……ああ」

もう躊躇わずに、文次郎はの髪を撫でた。

それだけでの肩からすっと力が抜けていく。

が安心して安定しているということが、己をも落ち着かせるということを文次郎は知った。

あの任務の夜、そのさなかに、の声がまぼろしを告げたことを思い出す。

文次郎のその手にもまだ慈しみは残っているのだとあの声は言った。

とても己で信じられることではなかった。

だからせめて精一杯やさしくあるようにと、文次郎は気をつけながらの細い身体ごと抱きしめた。

耳元に低く囁く。

「……しばらくは、ここにいられる」

次の仕事の予定もとりあえずは入れていなかった。

「お前の話も……恨み言だろうが罵詈雑言だろうが、全部聞いてやる。

 やりたいことがあるなら、それに付き合ってもいい」

はふるふると、首を横に振った。

腕の中から文次郎を見上げたのその頬に、──彼はまたまぼろしだろうかとぼんやり考えた──

あんなにも焦がれた、花のほころぶような微笑みが浮かんでいた。

「……いいのです。帰ってきてくださったのですもの、……それだけで」

充分報われましたと、は言って文次郎の肩に頭をあずけた。

その唇に消えずに残っている笑みを見て、やはり夢のまどろみのなかかと文次郎は一瞬疑ってしまった。

胸の内から全身に巡っていく甘い感情の名を、

恋だとか愛だとかと呼んでしまうのは己には似合わないようで気恥ずかしく思われる。

声で呼んでもいないのに、は目を上げて文次郎を見つめた。

これまでに一度も覚えのないというほど、心臓が急いで脈打ち始める。

どうかこの胸の内の戸惑いやわずかの怯えや不安が、に伝わらないようにと祈る。

ひくりと指先がふるえた。

文次郎はまだ躊躇っていたが、の視線は願うように文次郎になにものかを訴えていた。

見つめてくる目が、その奥に宿る想いや熱がただ愛おしい。

が頬を赤く染めながら、躊躇うように目を閉じたのをゆっくりと追うように見たとき、

文次郎はそれ以上考えることをやめてしまった。

のその唇のうえに、文次郎はかすかに触れるような口付けを落とした。

わずかに触れては離れるのをしばらく遊ぶように繰り返したあとでやさしく吸うと、

熱を帯びてふるえながらもはそれにおずおずと応じた。

閉じられたままのの目からやがて静かに涙がこぼれたが、

それが苦しみのためにうまれたものではないと知っていた。

お互いのあいだを行き交う想いのあたたかさは幸福の持つそれだった。

頭の中まで熱に支配されたように、文次郎はただいとしい女を腕の中に感じていた。

文次郎に着物を着せかけたまま、辛うじてその衿につかまっていたの指が、すとんと力なく落ちる。

少し我にかえって、文次郎はわずかにから離れると薄く目を開けた。

もつられるようにまぶたを上げる。

とんでもない至近距離で目が合って、ふたりは同時にふっと笑ってしまった。

「……なんだか、おかしいです」

「そうか」

「なぜでしょう」

「……さあな」

答える間もそろそろ惜しまれて、文次郎はまた少し強引に唇を合わせると、の髪をまさぐった。

指先に触れた髪紐を引くと、するりと美しい髪が肩に背に流れ落ちる。

「あ、」

はたじろいだ。

「……あの紐か」

頷いたをよそに、そのほどけた髪の一筋をとって文次郎は恭しく口付けた。

「ちゃんと、あなたを、守ってくださいました」

「俺をじゃない、お前をだ」

「……あなたを。守って、私の元へ返してくださいました、願いは通じるものなのですね」

「……そうかもな」

会話の途切れるのがたびたびの合図のように、ふたりはそうして何度も何度も口付けを繰り返した。

少しずつ息が弾み、ののどからはあまい声が時折漏れ聞こえてくる。

はその身をもうほとんど文次郎にまかせきりにするようにあずけ委ねてしまっていた。

時折思い出したように、指先が文次郎の着物の袖口を引く。

嫌がることも、屈辱に涙することも、逃げようと身をよじることもしない。

じわじわと背筋に広がる痺れしみいるような感覚に酔う前に、文次郎は脳裏に少し冷静さを取り戻した。

も気づいて目を上げる。

その頬はすでに上気してほんのりと赤い。

視線が絡み、ふたりはそのまましばらくまっすぐに見つめあった。

ただ見つめるだけで凍りついたように動かなかったしばらくの己らを思ってか、はくすくすと笑い出した。

「……お布団、のべましょうか?」

聞いて文次郎の意識はたっぷり数瞬ほどは飛んでいた。

は身軽そうにくるりと文次郎に背を向け、部屋の隅に寄せてあった布団を引きずり出してこようとする。

本当に真面目にこれは夢かと文次郎は思って握り拳の中に爪を立てると、まあ、言うなれば、痛かった。

彼はなんだか呆然とせざるを得なかった。

「……なんの冗談だ」

「冗談なんて」

もしかし照れているのか、肩をすくめたのはわかったが文次郎を振り返ろうとはしない。

「……それとも、あなたが冗談を仰っているの?」

「……いや」

背を向けたままひざをついて布団を整えているの、文次郎はそばまで寄った。

うしろから抱きしめると、はじゃれつかれたかのようにおかしそうに笑った。

「……ね、笑わないでくださいませね。震えが止まらないのです」

「……恐いんじゃねぇかよ」

「いいえ、そうは思いません、なのに」

が微笑んだのを文次郎は後ろからちらと見たが、少し寂しそうな顔だと思った。

出逢って共に暮らし始めてから、の意に添わぬことも時には強いたことがあった。

もうそのような接し方はしたくはないし、する必要もない。

「拒否するなら今のうちだ」

「拒否なんてしません」



「はい」

「抱くぞ、いいんだな」

はさすがに返事に窮した。

身体の震えをごまかすためか、明るくふるまい続けていたその糸がどこかでふつりと切れたようだった。

声もなく躊躇いがちに視線を彷徨わせ、はただ俯いた。

それ以上もう目も上げられず、文次郎の視線から必死で隠れようとするのそのこめかみに、頬に、口付ける。

震えが止まらないという手を取って指先にまた口付けを落とす。

は呼ばれたように肩越しに彼を振り返り、あの愛らしい笑みを惜しげもなく文次郎に向けた。

思考も思想も信念もすべてを越えたどこかで、思いが結ぶことがあるのだと文次郎はそのとき痛いほど思い知った。

以前ならせいぜい漠然としか思いつくことができなかっただろうことを、文次郎は本気で思った。

身体を張っても、命をかけても、この女だけは守りたい。

長かったですね、と、は呟いた。

「やっとほんとに、夫婦になれますね」

答えるかわりに、文次郎は想いを込めてを抱きしめた。

また何度も口付けを繰り返し、の細い身体を、やわらかな肌を、神経質なほどやさしく愛撫する。

その指や舌にが反応してか細い声をあげるたびに、文次郎の胸の内にはむず痒い衝動がわき上がる。

耐え切れなくなったかのように文次郎はの身体を横たえた。

は抗うことはしなかったが、不安げに文次郎ののどもとに触れた。

その細いゆびがいたわるように文次郎の頬を撫で、目元にかかる髪をやさしく拭うように払う。

まだ少し躊躇っているようなその仕草が愛おしく、

文次郎はがそうしてくれるあいだ、目を閉じてじっと感じ入っていた。

そっとでも触れてくれるのを心地よく受けながら、

最後の最後まで脳裏に凝り固まっていた頑なな思いが溶けてゆくのを感じた。

「……ずっとこうしたかった」

囁いた声はほとんど音にならなかった。

閉じていたまぶたを上げると、不思議そうに見上げてくるとまっすぐに視線が絡む。

文次郎が続きを言葉にするのをただ待っているに、彼は少し困ったような笑みを向けた。

「こうまで迷うことは滅多にないんだが」

言って、不思議そうに瞬いたにまた口付ける。

の細い腕が、おずおずと文次郎の背にしがみついた。

口付けを交わしながらまた少しずつ呼吸が乱れ始めたが、

恥じらいがあるのか、はなかなか素直に応じても感じてもくれない。

自分ばかりが急いているような気がすれば、文次郎は我に返ったように己を押し留めようとした。

のゆびさきは時折、思い出したようにかすかに震える。

怖くないかと、問おうとして文次郎はやめてしまった。

ともに暮らし始めた最初の夜を思い返させることはないと思った。

耳朶を甘く噛み、首筋に口付ける。

はくすぐったそうに身をよじった。

その唇から吐息混じりに笑う声が聞こえて、

文次郎はやや意外に思いながらも答えるように勢い、の身体を掻き抱いた。

じゃれついて遊んでいるようで、はまだくすくすと笑っている。

そのゆびからは震えが消えていた。

、と名を呼ぶと、は笑いながら薄く目を開けた。

「わたしも、」

の声も囁きに近かった。

唇は笑みのかたちを描いたまま、文次郎がそこに目を奪われている一瞬のあいだに、

は自分から文次郎に口付けた。

呆気に取られている隙にはきつく文次郎の首に抱きついた。

「わたしも、ずっと、待ち望んでおりました、……こうしておそばにいられることを」

のその背を抱きしめ返して、文次郎はの肩でうんと頷いた。

首筋から肩へ点々と口付けを落とし、その先をゆくようにゆびを這わせ、

とうにゆるんでいた着物の衿を開いての肩から落とした。

肌があらわになるとさすがにもおびえたように身をすくめたが、

それでも逃げようとはしなかった。

あたたかくやわらかなその肌にゆびが埋もれる。

内から輝くばかりの真白い肌に、美しい黒髪が実によく映えていた。

このまま己のものとしてよい美しさとはどうも信じがたかったが、

文次郎はもう考えるのをやめることにした。

まるい胸のふくらみを手のひらになぞると、はひくりと震えた。

うっすらと湿った肌をそうして丹念に愛撫し、口付けて舌を這わせれば、

その白い肌はじわじわと熱を帯びて薄赤く染まっていった。

文次郎の手で少しずつが昂ぶってゆくさまはこの上なく扇情的に映り、

見つめているだけで文次郎自身も熱くなるのがわかった。

はじっと、身体が反応して震えるのを堪え、唇を噛み締めて声を殺している。

そのゆびが必死で敷布を握り締めているのを見ると文次郎は、

意地の悪いようにも思えるがもっと奔放に乱れさせてみたいような心地がした。

頑なに閉じられたままの膝を割るのは難しそうだったが、

腿を行ったり来たり、焦らすように撫で上げながらゆっくりとゆびさきで分け入っていくと、

は あ、と声をあげて肩を跳ね上げた。

助けを求めるような視線が向けられたのがわかったが、文次郎は怯まなかった。

もかすかに抵抗するように身じろぎをしたが、すぐに力が抜けてしまったようで、

文次郎のすることを少しずつ受け入れた。

ここで聞いたら底意地が悪すぎるなと思いながら、口でしようかと問うてみる。

は最初意味がわからなかったらしく、横たわったままで不思議そうに首をかしげた。

答えのかわりにぺろりと舌を出して見せると、はかあっと赤くなり、

泣きそうな目できれぎれに、しかし即座にやめてくださいと懇願した。

冗談だと言って笑ってみせるが、はぷいとそっぽを向いてしまう。

機嫌を取るように文次郎は一度離れて、の唇に軽く口付けた。

「冗談だと言ったろう、泣くな」

「……あなたが意地悪を仰るから」

「すまん」

謝ってみるが、本気で躊躇っている様子が可愛らしくてならなくて、

その言葉には笑い声が混じってしまう。

はもういやですと文次郎の肩を押しのけた。

「すまん、もう言わない」

「いやですったら」

は文次郎の身体の下で、逃げ道を求めるように向きを変えた。

文次郎はまた謝りつつ、を背中から抱きしめる。

肌がじかに触れ合って生まれる濃密な熱を、わずかばかりも逃がすまいと腕に力をこめた。

誠意を込めて謝ったつもりだが口元はどうしても笑ってしまう。

肩越しにも文次郎の表情などうかがえないはずのは、

それでも敏感にそれを悟ってますます拗ねた様子を見せた。

「離してくださいませ」

「いやだ」

「私がいやだと申し上げているのに」

「悪かった」

「文次郎様」

「すまん、許せ。愛してる」

はぴたりと抗うのをやめた。

「愛してる。嘘じゃない。だから」

答えられずに、が口をつぐんだのが文次郎にもわかった。

もうを向き直らせても拒否はされないだろうと思ったが、文次郎はとりあえずの答えを待った。

はたっぷりの間をおいて、かろうじて一言、呟いた。

「……ずるいです」

「すまん。わかってる」

の一言ひとことに、文次郎はなんだかちいさく笑わずにいられなかった。

「何がそうおかしいのですか」

「……いや」

言い訳をするように呟いて、文次郎は少し身を起こした。

がやっと、自分で向き直ってくれる。

その目はまだ少し怒って、拗ねていて、文次郎は努力の甲斐なく笑ってしまう。

「また」

の責めに、もっともだと頷きながら、文次郎は言った。

「──嬉しいんだ」

穏やかに笑っている文次郎を見上げて、は言葉を失った。

そのまましばらく、ふたりは黙って見つめあっていたが、

やがてどちらからともなく抱きしめあい、唇を合わせた。

とてつもなく遠く思われた距離がいまは消え失せたことを確かめるように、

ながく時間をかけて触れ合い慈しみあいながら、ふたりはやっと契りを結んだ。

の内には痛みも恐怖もあるだろうと文次郎は思っていたが、

それをは決して訴えることをしなかった。

か細い声がただ何度も文次郎を呼び求め、

そのたびに文次郎は応えての唇を吸い、細い腰を抱き寄せてやった。

やっと想いを遂げ、身体に残るのは心地よく幸福な疲れだった。

くたりと眠ってしまったを腕に掻き抱き、文次郎は心身・底から満たされて横たわっていた。

やがて夜明けが訪れるまではそれほどの間もなさそうだったが、

うっすらと意識が覚醒したときに腕の中にが眠っているだろう、

それに気づくと文次郎はしばらく身動きをとることもできず、ただじっとの寝顔を見つめた。

いまは伏せられたそのまぶたの上に、起こさぬようにそっと口付けを落とす。

最も欲していて、決して手に入らないだろうと思っていた、そのすべてがいまや彼の腕の中にあった。

この先々・のことを思えばあまり危険な任務は選べなくなる──などと一度考えてしまってから、

文次郎は呆気なくその考えを放り出した。

考えなければいけないときはどうせそのうちやってくるのだから、今はいい。

ただ身の内にあふれ返る感情だけをたよりに、己の抱える事情のすべてはとりあえず忘れることにした。

そうして文次郎の手に残るのは、への想いばかりであった。

奪うことばかり繰り返してきた己の手がかけがえのないものを取り戻したと知って、文次郎は震えた。

その手でそっと、の髪を撫でた。

文次郎の腕の中にしっかりと守られ、は安心しきって眠っている。

朝が訪れるまで、愛おしいこの時間を己も眠ってしまうのは惜しいような気もして、

文次郎はこのまま起きて見守っていようかと考えた。

夜が明ければ、は奇跡のように目を覚ます。

起きて最初に目が合ったそのとき、なんと声をかけようか。

他愛のない想像を巡らせながらゆびさきにの髪を遊ばせる。

愛おしいぬくもりを腕の中に感じて、文次郎もまた安心を覚えていた。

──ひとりになどしない。

──これからはずっと一緒だ。

やっと約束は果たすことができた。

これからはただ誠実に、愛おしいものを守りつづける。

甘くむず痒い思いに満ち足りて、心から安堵して──やがて文次郎も眠りに落ちていった。




*      *