海境奇聞  〇一 「昔話」





昔、昔。

とても美しい若い娘がいたそうな。

海の近くの集落にその娘は生まれ、海の青と浜の白を見て育った。

成長した娘の美しさは天下に響かんばかりの評判となり、遠く大名家からも嫁に請う人があるほどじゃった。

周りはみな選び切れぬほどの縁談に大喜びをし、やがて湾を挟んで向こう側の国のお殿様への嫁入りが決まったが、

娘はひとり浮かない顔をしておった。

そのお殿様の国は戦好きの悪い国で、気持ちのやさしい娘は嫁入りを嫌がったのじゃが、

嬉しそうなみなの顔を見ると嫌だと言い出すこともできなかった。

とうとうおとずれた嫁入りの前の夜、娘は婚礼のために誂えた晴れ着をまとい、迎えの船に乗り海へ出た。

するとたちまち空に雲が立ちこめ、風が吹いて海が大荒れに荒れ始めた。

ひときわ強い風が吹き、大きな波がざんぶと船に押し寄せると、娘のからだは船の外へ投げ出された。

暗く渦を巻く海に娘は飲み込まれ、あっと言う間に沈んで見えなくなってしまったのじゃ。

娘が海に投げ出されると、あんなにも荒れていた海は鏡のおもてのように静まり返ってしもうた。

祝いに集まっていた人々は慌てて娘をさがしたが、三日三晩が過ぎても娘のからだは上がらなかった。

きっと望まぬ嫁入りを嘆いた娘を、海神様があわれに思って娶ってくださったのじゃろうとみなは噂した。

お殿様はそれで機嫌を損ねて、戦に出て殺した人の死んだからだを海に投げ込み、海神様を侮辱したのじゃ。

きっといつか祟りがあるじゃろうと人々は恐れたが、その通りになってしもうての。

風のない、いい月の晩じゃった。

それまで小さな波ばかり立てていた海が急に荒れ狂って、大きな津波が起こったそうな。

その津波はお殿様の国に襲いかかり、城も町もめちゃくちゃに崩してしまったのじゃ。

それから三月も経ったある夜、なんとあの娘がひょっこり海から帰ってきたのじゃ。

海の水に濡れた姿じゃったが、しっかりした足どりで浜へ上がってきたのを、人々はおっかなびっくり出迎えた。

娘は腹にやや子を宿しておった。

月満ちて生まれたやや子は娘によく似た女の子じゃったが、みなは海神様の御子じゃと言って大切に育てたという。

やや子が生まれた日、その浜には食べきれないほどの魚が押し寄せて大騒ぎになった。

そのあとも漁師が漁に出れば波は大人しくなり、魚も貝も面白いようにとれるようになった。

海神様が娘とやや子とにくだされたお恵みじゃろうと、人々はみなで感謝をささげたのじゃ。

よいか、こりゃあその昔、このあたりで本当にあった話なのじゃよ。

心やさしい娘には海神様もおやさしくしてくださったのじゃろうが、

人を傷つけてばかりいたお殿様にはお怒りになって、激しい津波で襲いかかったのじゃ。

海神様はいつもわしらの暮らしを見つめていらっしゃる。

悪さをする子は波がさらいに来るぞ。

言いつけはよく守ることじゃ。

夜になって人間が寝静まると、海神様は波の上に出てきて月を眺め、娘とやや子を思って浜を眺めるとも言われておる。

夜の海へ行って海神様の御機嫌を損ねるような真似をするでないぞ。

いつこのあたりに大津波がくるかもわかったもんじゃあないからのう。

わかったか、子どもたちよ、わかったものは手を挙げて。

おお、いい子たちじゃの……





「……って、町でご老人が子どもたちに教えていたんですよ」

海に近いところにいる僕たちが聞いたことないなんて、と網問が不思議そうに呟いた。

「聞いたこと、ないの、網問?」

「ないです」

彼は目の前の娘にそう語りかけ、問うように目を見開いて続けた。

さんは、聞いたことある?」

「知ってるわ」

気怠そうな声でそう答えた娘──を、網問は不躾でない程度にまじまじと見つめた。

は水軍館で暮らしている女のひとりである。

年は十九──館で生まれて育った、生粋の海賊の血を引く娘だ。

父親は本人も知らないと言い、母親は館に仕えていた女のひとりだったというが、すでに亡くなっているらしい。

この漠然とした情報だけが、の素性について彼の知っているすべてだった。

親や家族がないという話はここにいれば珍しくもない。

また、いるにはいるがそれが誰なのかがわからないというのも無理もない話なのである。

海を統治し平安を守る、瀬戸内の海に名を轟かすは兵庫水軍の一味である。

治める海の一帯を渡る船を相手どり、護衛や水先案内を引き受ける代償に通行料を徴収することを商売とし、

海上通運や船の往来、海の治安に広く目をきかせるのが彼らの立場である。

主に海へ出てこれらの仕事をこなしているのは水軍の男衆で、

総大将の兵庫第三協栄丸を筆頭にすぐれた能力を持つ人材が集まって活気ある仕事ぶりを見せている。

彼らの仕事は基本的には海の上、船の上が舞台であるが、海辺の陸には水軍館と呼ばれる大屋敷があり、

ここには海に出ている男衆の家族、また水軍に仕える女たちも暮らしている。

はその女達の中でも幼子達を除いていちばん若く、また男衆からの扱いが一種特別である娘であった。

水軍の若手男衆とは年齢が近く、特に幼い頃からの馴染みという幾人かとが親しいのは当然のことであるが、

今となっては少しその親しさの事情も変わってきたらしい。

水軍の男衆の中には既婚者もおり、水軍の本拠と少し離れた位置に妻と家庭を持っていることもないわけではない。

しかし荒々しい海の男達が大雑把によしとした巡り合わせなのであろうが、

この水軍館には普通の暮らしをしているものたちには少々飲み込み難いであろう家庭の図があった。

そも、家庭と呼ぶことが相応しからぬのである。

館に暮らす女達の中には、すでに子を授かった母もいる。

しかしその父親となると、子が成長して誰かに似てきたという時点までははっきりわからないことが多い。

一夫と一妻のつながりももちろん尊ばれるべきものであろうという考えを踏まえた上で、

しかし多くの子どもが生まれる可能性のほうをこそこの館のものたちは重視したのである。

男も女も相手を誰ひとりと限ることで子を授かる可能性を低くするのではなく、

その日そのときで相手を変え、授かった子どもは皆の子どもとして育てるという、

曖昧極まる風習がこの館には当たり前のように根付いていた。

そしても大人の女と呼べるまでに成長した今は、そういった女達のひとりとして扱われるようになった。

相手の男は専ら水軍の若い衆で、は求められるままにあっけらかんと身体を許してやっているようであるが、

求める側の男達といえば子を残すというよりその場の衝動や好奇心が先だっているということは言うまでもない。

まだそこまではとの距離が詰まっていないのは若手の中でも自分くらいじゃないかと網問は思っている。

今のところ、網問自身はについてそういった意味での興味を持てそうもなかった。

そのせいか、も弟でも可愛がるかのように網問と接しているし、彼はその距離感を心地よく思っていたので、

今のままで全然構わないやと、割と満足もしているのであった。

「なぁに。そんなにまじまじと見て」

「あ、なんでもないです」

いつの間にか不躾にならぬ程度、を越してしまっていたようである。

ごめんなさいと網問はにこっと笑った。

そう、と呟き、も少し微笑んだ。

海賊の娘として生まれ、屈強の海の男達に囲まれて育ったというのに、にはそんな荒々しさのかけらもない。

肌は白々と、貝の内肌のようになめらかで、熱を帯びた頬や唇が淡く色づいているのがいやに艶めかしく見える。

濡れたようにしっとりした髪は、座していればその裾が床に這うほど長い。

は髪を結うのをあまり好かないようで、

素っ気のない紐で裾をくるりと巻く程度以上にはあまり手をかけない様子だが、

素朴さのあまり逆にその美しさが映えるようであった。

口数は多くなく表情にも乏しいが、心根はやさしく時折気の強さも覗かせる娘であることは誰もがよく知っていることだ。

は大抵、静かに館から海を眺め、日がな一日繕い物の仕事や厨の手伝い、

館へ帰ってきた男衆の世話などして過ごしている。

若く美しい娘、もとからこの館で生まれた生粋の海賊の娘、それ以外にだけを語る要素があるとするなら、

男衆がにだけ課しているひとつの規則、これを除いて他にない。

「私も行きたかったわ。市が立っていたのでしょ」

「はい。いろんな店があって、面白かったです。これ、おみやげ」

網問はずっと傍らに置いたきり存在を忘れていた菓子をに差し出した。

「ありがとう。賑やかだった? 珍しいものは見られた?」

「はい、とっても。次にまた市が立ったときには、さんも一緒に行きましょう?」

「そうね……町に出るというなら、お頭も許してくれるかもしれないわ」

「僕もお願いしてみます!」

網問が力を込めてそう言うと、はまたふっと薄く笑みを浮かべて、ありがとうと繰り返した。

他のものたちとがこのような話をしているとするなら、こんなふうに話題は結びを見ないだろう。

ひとり事情を知らされていないらしい網問は、

物知り顔で、しかし気まずそうに話をはぐらかすばかりの兄貴分たちに不満を持っている。

は水軍館からの外出を厳しく規制されている。

その根拠を網問は知らない。

特に厳禁とされているのは、船に乗ること、そして沖に出ること。

浜辺で足を濡らすくらいなら渋々大目に見てもらえるようだったが、

それすらも年長のものたちはあまりいい顔をしない。

はある程度は忠実に、この決まりを黙って守っている。

けれど海に生きるものたちのあいだに生まれた娘が、海から遠ざかれと言われてただ従うことはできないのだろう。

ときどきがひとりで、つまらなさそうに浜辺を歩いているのを見ると、

網問はなんだか居たたまれない気持ちになってしまうのだ。

浜辺で女手でもできる仕事を、だからは手伝うことを許されていない。

館にこもって、館の中でできる仕事ばかりをし、男達の相手をする、それだけである。

のような生まれの事情をもつ娘こそ、海にもっと近い仕事をしたらいいと網問は思っており、

他の兄貴分たちも少なからずそう考えていることもわかっていたが、誰もそれを口に出して言うことはしない。

の存在自体がまるで、兵庫水軍の男衆が抱えるなにがしかの秘密のようであった。

確かに、まるで──この世のものとは思えないような。

そんな美しさを目の前に見てしまったら、秘密などと名付けて、館の奥に閉じこめて大切に愛でておきたくもなるだろう。

わかるような、わからないような、どっちつかずの感情を消化できず、

菓子を広げてお茶をいれるというを丁重に断ると、網問は己を誤魔化すようにの部屋を出た。

ひとりで菓子をつまみ、窓の外に広がる海のきらきらかがやく面を見つめていたに、

背後からふいに聞き慣れた声がかかった。

「網問はやっと戻ったか」

「ええ、おみやげをね、わざわざ」

「長居をするから俺が出遅れた」

「照れることないのに」

照れじゃない、と声は無愛想を装って言い、どすどすと足音も荒くの横を通り過ぎるとどっかと正面に座った。

「ねぇ、ミヨ」

呼ばれた男は、面倒くさそうにに視線を巡らせた。

「網問は知らないのね?」

「ああ、たぶん、あいつと……重と航……? 間切もか。あのあたりは、多分知らないんだろうな」

「なんだか私のこと、水軍の禁忌のようになってきていない?」

「そう思うなら、そうなんだろ」

彼は明らかな冗談を冗談に聞こえない声で言い、無造作にポイとに向けてなにかを放り投げた。

「それも土産だ」

は黙って、投げつけられたそれを両の指先でつまみ、目の前に広げた。

柄のないのが素っ気ないが、色は鮮やかな髪紐である。

「覚えていたの?」

「お前がなにか欲しがるのは珍しいから」

「望んでいることならいつでもあるのだけど」

は思わせぶりにそう言い、控えめに微笑んだ。

喜んでいる意思表示にしては相当うっすらしているのだが、にしては笑った方だと彼は納得する。

長い付き合いでこれくらいはわかる、ということである。

「ありがとう、舳丸。嬉しい」

「忍術学園……だったか。くの一の生徒といってもまだ十かそこらの子どもだってのに、結構色気づいているもんだな」

「だって、女忍者には装いも武器になるときいたもの。髪の飾りくらいじゃ大人しいほうでしょうよ」

プロ意識ね、とは言いながら髪をとき、いつものようにさっさとではあるが、さっそく髪紐を巻き付けた。

「また臨海学校へ来るかしらね? 妹が増えたようで楽しかったのよ」

「しばらくはいい。まともに相手する俺らは結構疲れるんだ」

「いいじゃないの、たまには」

「だから、たまにでいい」

舳丸はあぐらをかいた膝に器用に頬杖をつき、不機嫌そうにから視線をそらした。

本当に機嫌を損ねているわけではなくても、彼はよくこんな素振りをの前で見せる。

より四つ年上の二十三で、若手の中では年長と数えられるほうである。

彼の生まれも水軍館で、幼い頃からの面倒も見ていたという話を、

総大将以下四功たちなど年長の者はよくに聞かせてくれた。

彼は兵庫水軍の一同の中でも水練の者と呼ばれる立場にある。

泳ぎに優れており、水中探索などを特に任される者がそう呼ばれる。

兵庫水軍の精鋭の中で水練の者とされているのは、この舳丸と先程彼が名を口にした重の二人である。

海へ出ることを許されていないは時折水練の者たちに

羨ましいといったような言葉を遠回しにぶつけて憂さを晴らしているようだった。

あしらいに慣れた舳丸は適当にはぐらかして話を終わらせてしまうが、

より年下でまだ女の扱いにも慣れていない重は、

の物言いから続く話題を回避するのに相当苦労しているという。

「町ではまるでお伽話──本当はそんな夢のある話じゃないというのに」

網問が言っていた、町の老人の話を彼女は思い返していた。

舳丸は黙ってのほうへ、視線だけ戻した。

昔々、というほど以前の話ではない。

今からせいぜい二十年ほど前のことである。

水軍館に仕えていたの母親は、天下に鳴り響く評判というのも過言でないほどの美貌の娘であったが、

気が強くいたずら心に満ちた性格をしており、水軍の男達はずいぶん扱いに手を焼いたという。

今のと同様に、その当時の母も水軍館での仕事をこなし、男達を相手し、

そのうち子を授かり産み育てるのだろうと思われていた。

と違うのは、母は海へ出ることを禁じられていなかったという点であろう。

その美貌に惚れ込んでか、若かりし頃のの母へは身分ある男達からの求婚も途絶えのない有様であった。

ある評判の悪い城のあるじが何度断ってもしつこく言い寄ってくるのをいい加減退けようと、

母は勝ち気な性格にまかせ、やって来た相手方の船へ自ら乗り込んだのだという。

そこでなにがあったのか、詳細はも舳丸も知るところではないが、

の母は船から海へ落ち、当時の水練の者たちが海底までさらって探索をしたものの見つからず、

とうとう行方が知れなくなってしまったのだ。

それが、しばらくしてから海からひょっこりと、何事もなかったかのように、彼女は水軍館へ帰ってきた。

時間が経つうちにその腹はふくれ、子を身ごもっていることが知れる。

そうして月満ちて生まれたのがだったというわけだ。

が物心つく前にその母は亡くなり、母の美貌を受け継いだ娘がひとり、残された。

父親は知れない。

「どのみち、海の神はいるさ。だから、お前がその娘かもしれないと言われても、疑えはしねぇな」

「……どうかしらね」

は大抵、そんな話題を振られたときも、否定はしない。

少し黙ってみたあとで、舳丸はに聞きづらいことを聞いた。

「……親が誰か、知りたいと思うことはないのか」

「あんまり、そういう欲求は、ないみたい」

「家族が欲しいと思うことは」

「これ以上? いいのよ。この館の皆が私の家族だわ。私、みんなを心から愛しているの。

 本当よ。あなたのこともね、ミヨ、愛してるわ」

「……悪い冗談だな」

今度こそ不機嫌そうに言った舳丸を無視して、は続けた。

「本当よ。本当にそう感じているけど、でも、私の心のいちばん奥にある欲求は──海を求めているの──

 あの青の底へ沈んでいくことを」

それを思えば、海の神の娘とたとえられることを、本心から否定することができない……

の表情はわずかばかり、苦しそうであった。

「ねぇ。どうして私は、海へ出てはいけないのかしら」

「……神の娘だからだろ」

納得のいかない顔をしているをよそに、舳丸はそれ以上答えず立ち上がった。

兄妹のように育ってきた娘に、彼はそれでも言えないことをいくつも抱えている。

「また夜に来てくれる?」

「先約は?」

「ない」

「……わかった」

問答の合間にも振り返らず、まだ向けられる不満そうな視線に気付かない振りをして、舳丸はの部屋を出た。

海にも神は存在する──それを、海で生き、その懐深くまで潜り込むことを生業としている彼だからこそ、

真実感じることがある。

それは大抵、恐怖とともにやってくる。

どれほど泳ぎに長けていようとも、あの青く暗い圧倒的な水の存在感の中に取り込まれてしまえば、

己など取るに足らないものであるということを嫌でも思い知ることになる。

生きて水面へ顔を出したときに戻ってくる安堵感。

恐怖ばかりを海に抱いているわけではもちろんない。

けれど何度、どんなに恐ろしい思いを海にさせられることがあろうとも、

彼はそこから離れて生きていくことなどできるわけがないのである。

海に生きて、海で死んでいく──それが自分の生き方のすべてであると、彼は今すでに自覚していた。

きっと、同じ環境で育ったにも、似たような思いはあるに違いない。

だから、浜辺の波打ち際までしか近づくことを許されていないことを、身体の奥でむず痒く思っていることだろう。

それを裏打ちするような出来事に、彼は数年前に出会っていた。

まだは十五かそこら、当然舳丸も二十歳になるかならないかという頃である。

幼い頃からの馴染みであるは、その頃常に舳丸の気にかかって仕方のない存在だった。

館の女達がなにとはなしに話していたことを、水軍の男衆もなんとなく聞きつけてしまっていたのである。

なんだか毎月、一週間くらいずつ寝込むようになったなと心配していれば、

初潮を迎えて毎度毎度慣れぬことに体調を崩しているのだとわかって、一気にのぼせかかったことを彼はよく覚えている。

ガキども、とひとまとめにされて数えられていた頃とは確実になにかが変わったのである。

ほっそりして骨っぽかったの身体は急に肉が付いて女らしくふっくらとし、どことなく丸みを帯びた印象になった。

着物の衿が緩んでいると咄嗟に目をそらし、裾が短いと目のやり場に困るはめになった。

それでいて自身の彼らに対する態度はそれほど変わらぬのだからますます困る。

舳丸自身はさりげなくと距離をとるようになったものの、

好奇心を素直に表に出してしまう弟分たちを放っておくのも気に食わなくて、

その頃の彼はやたらめったらムシャクシャとばかりしていた。

そんな折の、ある月のない夜のことだ。

館に据えられた見張りの高台に、舳丸は先の当直であった者と代わってのぼったところであった。

朝までは見張りの番をしながらひとりでこの場所で過ごすのである。

館は静まり返り、誰もが眠りについている。

海の波も穏やかで、遠くさざめくような音を繰り返し繰り返し響かせていた。

舳丸はこの風景を好いていた。

昼の明るく青い海も美しく、殊に水中から日を見上げ、

空気の泡が水晶のごとくきらめくさまを眺めればただそれだけのことだというのに胸が躍る。

けれど、物言わぬ夜の海、暗く空と溶け合う果てのなさをただ吸い込まれるかのように眺めているのも、

時間を忘れてしまうほどに好ましく思われる。

月はないが星々がちかちかと光る夜の空、音だけが存在を知らしめる海のおもてにただじっと見入り、

舳丸はひたすら黙って座していた。

ふと、そこへ、浜辺を小走りでゆく人影を彼は辛うじて認めた。

館から走り出てそっと海へ出ていく、暗い中でも彼にはそれが誰なのかがよくわかった。

夜中にこっそりと、禁を破ってが海へ出ようとしているのである。

波打ち際近くまで来ると、は歩調をゆるめた。

手には何も持っておらず、船やボートを出そうという気配もない。

ただ眠れずに足でも濡らしに来たかと一瞬舳丸は思ったが、どうもそれにしては様子がおかしく思われた。

瞬間、舳丸は目を疑った。

は海へ歩み寄りながら、寝間着の帯を解き始めたのである。

一体何事かと彼は身を起こしかけたが、が警戒してか、

着物を肌から落としてしまう前にくるりと館のほうを振り返ったので、反射的に舳丸は姿を隠す。

また恐る恐る、海のほうを覗いてみれば、

は一糸も纏わぬ姿で、長い髪を背にさらし、海へと入っていくところであった。

人の見ていた前ではくるぶしまでを濡らすのがせいぜいだったというのに、

は見る間に膝まで、腰まで海に浸かり、そのあたりでしゃがみ込んで肩までを水に浸かった。

そして、そのまま何をするでもなく、風呂に浸かってでもいるかのようにじっとしている。

舳丸はただ、身動きもできず、の姿をじっと見つめていた。

星々のわずかな光に照らされ、海のさざ波を肌に受けるその光景は神々しいほど美しく見えた。

たっぷり数分はそうしていただろう。

彼ははっと我にかえり、が禁を破っているという事実に思い当たった。

見張り台から舳丸は駆け降り、のいる浜辺へと走った。

!」

がはっと、顔を上げた。

「なにしてる!」

ゆっくりと振り返るの顔には、驚きもなければ恐れも恥じらいもなかった。

ただ、いつもの表情に乏しいあの顔が、追ってきた舳丸を見つめ返すだけである。

なにを考えているのかは知れなかったが、はそして、立ち上がった。

まだ成熟した女の身体とは言えないが、やわらかな曲線を描いているその身体を、ところどころ濡れた髪が這う。

は黙ったままなにも言えない舳丸のほうへ、ゆっくりと歩いて戻ってきた。

「……怒ってる、ミヨ兄さん」

は呟くようにそう聞いた。

舳丸は何も答えなかった。

足元に落ちていたの着物を拾い上げ、その肩にかけてやった。

自分でその衿を胸元にかき合わせ、切なそうに唇を噛んで目を伏せたが、舳丸の目に初めて女として映った。

と手を繋いで館へ戻り、お互いになにも言わなかったがは見張り台に戻る彼にそのまま着いてきた。

海に浸かりすっかり冷えたの身体を、舳丸はその腕に抱き寄せた。

そのままどちらともなく唇を合わせ、思考も追いつかない欲の求めるままにまかせて身体を重ねた。

苦痛混じりの快楽に必死で耐え、顔を歪ませて声を殺そうとするを見下ろしながら、

舳丸はのこの夜の行為のわけをなんとなく悟った。

身体の奥に凝るいいようのない熱と疼きを昇華させてしまいたくて、が選んだ相手が──海だったのだろう。

その中に身を沈め、寄せてはかえす波が肌を撫でていくのに、はひとり感じ入っていたのだ。

やわらかく焦らすようなその愛撫に身をまかせ、身体の奥から波がこの熱までもさらってくれはしないかと期待して。

心の底から狂おしいほど愛おしんでいるというのに、近寄ることを許されない海──

押し殺し続けていた海を求める気持ちと、身体の欲求とが重なって、は真夜中に館から走り出たのだ。

誰かが追跡してくることを、想像などしていなかっただろう。

けれど、後悔しているか、などと、ことの終わったあとにに聞けるほど、彼は冷静ではいられなかった。

と己のあいだにある種の線が引かれてしまったそのときから、

己がに対して抱き続けてきた曖昧な感情、彼はこの期に及んでやっとその存在を認めた。

追うように身体の奥からこみ上げる衝動を押さえ込むこともままならず、

まだわずかに幼さも香るの身体を気遣うこともしてやれぬまま、

舳丸はただ本能の赴くままに求め、奪い続けた。

それが始まりだったのである。

思い返すたびに複雑な心境に舳丸は陥っている。

毎日同じ繰り返しのように、太陽が海に落ち、夜が空を覆う。

館中が寝静まるのを待って、昼間訪れたの部屋にまた足を運ぶ。

こうしてこの部屋へを訪ねてくるのは自分だけではないし、

も誰が来ようとそれを拒まないということも舳丸はよく知っている。

あの夜からの何度もの逢瀬を思い返しても、

今自分の下で喘いでいるがいちばん女という生き物に見える。

他の奴らにもこんな顔を見せているのかと思っても、それを嫉妬とは彼は思わなかった。

は皆に愛され皆を等しく愛している、

自分がそのうちのひとりであるだけであっても、なんら文句も不満もない。

は兵庫水軍の女で、自分の女ではないのだ。

妹の面倒を見るように幼い頃から手を貸して、成長すれば身体の奥に持て余す熱をお互いで解消しようとする。

子が授かるというならそれはそれだけの話で、自分の子であって欲しいと願うわけでもない。

決して恋人同士の甘さ漂う関係ではないと舳丸は自覚していたし、それは恐らくも同じだろう。

強いていうなら組織のあり方通りに関わっただけ、なりゆき──それだけだ。

夜によっては今の自分と同じようにを抱いている他の若い衆も、

特別恋慕の情などもってと接しているわけではないはずである。

この場所、ここにおいては、男女の間柄はこういうものだ。

(海の神の娘──まったくだ)

細い声が舳丸の名を呼ぶが彼はそれに答えず、ただ日陰でばかり過ごすの白い肌に唇を寄せて軽く吸う。

口づけるたび、ゆびで触れるたびにいちいち小さく反応を返すがいじらしく思えた。

今も昔も、意味合いは少し変わるかもしれないが、この娘を可愛いと思うことには違いない。

海の外にいながらにして、飲み込まれ溺れるという感覚を舳丸は感じていた。

他の何事にも考えが及ばない──思考回路のすべてをに絡め取られていく。

髪をそっと撫でると、は眠りから覚めたように薄くまぶたを上げ、潤んだ目で彼を見上げた。

目が合うとなんだか微笑んでやりたくなる。

ははにかんだように、けれど幸せそうに微笑み返した。

昼間髪紐を渡したときの微笑みとは比べものにもならないような笑顔だ。

そのまま誘われるように唇を合わせ、舌を絡めて吸い上げる。

身体中のあちこちで、甘酸っぱいような感覚がはじけていく。

海の神の娘。

は海の神の遣わした生きた恵みだ。

皆がこの娘に愛情のやりどころを見出している。

けれど人間は愚かな生き物だから、恵みがあるのが当たり前になってくると感謝をする心も忘れてしまう。

海の神に愛されてその子を宿したと噂にまでなったの母は、水にまかれて死んだのだ。

当時は幼かった舳丸だが、その日の騒ぎのことははっきり記憶にとどめていた。

の母は子を産み落とすために陸へ戻ってきて、また神のもとへ戻ったのだろうと人々の口は騒ぎ立てた。

だから、水軍の男達は恐れている。

海の神はいつか、娘をも手元に置いて愛でたいと望み、を連れに来るのではないかと。

愛すべき娘を陸に遣わした海の神に、彼らは感謝するより先に畏怖も抱くようになってしまった。

いくら海の神の娘と騒ぎ信じたところで、自身は人間の身体を持っている。

水にまかれて死ぬは苦しかろう──海に生きる男達は海の恐ろしさも身をもって知っている。

彼らはを、人として天寿を全うするまで生かしてやることを願っている。

だから規律をつくり、ひとりにそれを課し、無理矢理海から遠ざけた。

多くの人は迷信であろうと笑うかもしれぬ。

けれどそうまでしても、彼らはを失いたくなかった。

かつて同じように男達が愛したの母親を、海から救えなかったと悔いていることも理由の一端ではある。

その苦い過去が彼らの内心に更に拍車をかけているのである。

この娘だけは、今度こそは、守らなければならないと。

舳丸も知りうる限りの事情のすべてに頷けるわけではない。

しかし、幼い頃から一緒に育ち、妹のように思って面倒を見、今はこうして身体を重ねて抱き合いもする──

そんな家族のような娘を、仲間のひとりを、誰が失いたいと思うだろうか。

誰もが同じ願いを持って、を大切に守ろうとしているのだ。

自身が海へと向かう気持ちを抱き続けていることを痛いほどよく知っていながら、

だから舳丸もを海へ近づけようとは心の底からは思えなかった。

海で生きて海で死ぬ。

己の覚悟はできている。

(海の神の怒りに触れることになるのかもしれない──それで俺が海で命を落とすとしても)

それでも今は、まだしばらくは、この娘を手放す気はない。

(……望むところだ)

だから今は、まだしばらくは。

襲い来る快楽の波にのまれ、溺れかけるに舳丸は口付けた。

「しがみついてろ、

すぐに浮かしてやるから。

がその内側で、ひときわきつく彼を締めつけたのがわかる。

海のおもてはすぐそこだ。

のぼりつめる瞬間はいつも、

海の深くから青をかきわけ、眩しい日の光をめがけて海面に浮かび上がるあの光景が脳裏に浮かぶ。

ほら、、お前がいつも望んでいる海が、見えはしないか。

は悲鳴のような声をあげ、背をそらしのけ反った。

熱を吐き出し、頭の中がまっ白になり、果てるその瞬間……海の底から見上げた白い太陽を、掴んだ気がした。

まだ、を海の深くへ沈めなどしない。

秘密と名付けて、海の神には見つからぬように、館の奥深くへ閉じこめてしまえ。

は求めているかもしれないが、すぐにイカせては駆け引きも成り立ちはしない。

いいぞ、

そのまま溺れて気を失って、忘れて眠りにつけばいい。

背に爪を立てて好き勝手刻むがいい。

そうすれば俺は忘れられなくなるだろう、そうしてお前の代わりに責めも痛みも負ってやる。

だから、忘れろ──おまえはここの娘だ。

沈むのも溺れるのも俺だ。

おまえは海になど帰るな。

自分勝手? 上等だ。

己のエゴで構わない。






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